聖女選定で落とされ婚約破棄された聖紋修復師、祈れない代わりに偽聖女の祝福紋を見抜きました
「祈れない女を、王太子妃にはできない」
ラウレンツ・グラナート殿下がそう言った。
言われた瞬間、私は膝をついたまま、変なところを見ていた。
選定壇の端。
白銀の縁取りの、ほんの小さな欠け。
今そんなものを見るべきではないと分かっていた。
分かっていたのに、目がそこへ行った。
ひどい癖だと思う。
婚約を破棄された女が、まず見るものではない。
「イレーネ。君との婚約は、ここで破棄する」
殿下の声は、大聖堂によく響いた。
聖都中央大聖堂。
十二年に一度の聖女選定式。
聖職者も、貴族も、騎士も、地方から来た代理人も、今日はみんな正装だった。
その真ん中で、私は膝をついていた。
イレーネ・フォルティア。
フォルティア伯爵家の娘。
聖都中央大聖堂に仕える聖紋修復師。
そして、たった今、王太子殿下の婚約者ではなくなった女。
笑い声が聞こえた気がした。
実際に笑った人がいたのか、私がそう思っただけなのかは分からない。
胸の奥が痛かった。
痛い、というより、何かを雑に引き抜かれたような感じだった。
八年だ。
八年、私はこの人の隣に立つのだと思っていた。
王太子妃になる覚悟をしろと言われた。
聖女候補として恥ずかしくないようにしろと言われた。
祈れないなら、せめて大聖堂の役に立てとも言われた。
全部、真面目に聞いた。
馬鹿みたいに。
なのに終わる時は、こんなに簡単だった。
「ご覧になったでしょう」
殿下は、私ではなく参列者たちへ向かって言った。
「イレーネは長く大聖堂にいた。聖器に触れ、古い聖紋を直し、聖女候補として扱われてきた。だが結果はこれだ。選定壇は、ほとんど応えなかった」
私は選定壇を見た。
確かに、光は弱かった。
ほんの少し。
消えかけの灯みたいな光。
私らしいと言えば、私らしかった。
私は祈りが下手だ。
花を咲かせることもできない。
病を癒やすこともできない。
清水を輝かせることもできない。
昔からそうだった。
その代わり、古い聖紋の線だけは読めた。
どこが欠けたのか。
どこが後から足されたのか。
どの祝福が古くて、どれがただの飾りなのか。
それだけは分かった。
役に立つのかどうか分からない、地味な力だった。
「殿下」
声を出そうとして、失敗した。
喉が引っかかった。
情けなかった。
大聖堂の誰かに見られた気がして、少し嫌になった。
でも、私はもう一度息を吸った。
「婚約破棄については、承りました」
ざわめきが広がった。
泣くと思われていたのかもしれない。
すがると思われていたのかもしれない。
本当は、少しだけ、そうしたかった。
どうしてですか、と言いたかった。
あれは何だったのですか、と聞きたかった。
でも、選定壇の端が震えていた。
いや、震えているように見えた。
たぶん、私にしか分からないくらい小さく。
「ですが、選定式はまだ終わっておりません」
「終わっている」
殿下は冷たく言った。
「君は聖女ではない」
殿下の隣にいた少女が、一歩前へ出た。
フィオナ・レーヴェル侯爵令嬢。
白金色の髪。
淡い菫色の瞳。
雪のような肌。
綺麗な人だった。
嫌になるくらい、今日の大聖堂に似合っていた。
「イレーネ様。どうかお許しください。私、あなたを傷つけるつもりはなかったのです」
声が震えていた。
目には、もう涙が用意されていた。
泣く準備ができている人の顔だ、と思った。
嫌な見方だ。
でも、そう見えたのだから仕方がない。
「フィオナが謝る必要はない」
殿下が彼女の手を取った。
「神聖な選定を、人の情で歪めることはできない」
大司教が重々しく頷く。
「では、フィオナ・レーヴェル嬢。選定壇の前へ」
フィオナ様が膝をついた。
彼女が目を閉じた瞬間、大聖堂の空気が変わった。
香の煙が白く渦を巻く。
選定壇の祝福紋が、眩しいほど光った。
白布の上に、花が咲いた。
一輪。
二輪。
十輪。
白い花が、次々に開いていく。
「奇跡だ……」
「本物の聖女だわ」
「なんと美しい祝福だ」
声があちこちから上がった。
分かる。
私だって、何も知らなければそう思ったかもしれない。
フィオナ様が、そっと手袋を外した。
右手の甲に、白銀の紋が浮かんでいた。
祝福紋。
聖女と認められた者だけに現れる印。
殿下が、私を見た。
勝った、という顔だった。
「これで分かっただろう、イレーネ。選ばれたのは君ではない」
私は答えなかった。
フィオナ様の手を見ていた。
美しい紋だった。
綺麗すぎた。
整いすぎていた。
そして、最後の一画が閉じていた。
そこで終わっていた。
外へ逃げていなかった。
「……違う」
声が漏れた。
殿下が眉を寄せる。
「何が違う」
「その祝福紋は、本物ではありません」
言ってから、しまった、と思った。
もっと言い方があった。
確認させてください、とか。
少し不自然です、とか。
そういう穏やかな言い方が。
でも、もう遅かった。
大聖堂の空気が止まった。
フィオナ様の笑みが、一瞬だけ消えた。
本当に一瞬だった。
でも私は見た。
「イレーネ。今、自分が何を言ったか分かっているのか」
「分かっています」
「フィオナの祝福を偽物だと?」
「はい」
非難の声が飛んできた。
「なんてことを」
「負け惜しみだわ」
「婚約を破棄された腹いせでしょう」
「祈れなかった修復師が、本物の聖女を疑うなんて」
痛かった。
慣れているはずなのに、普通に痛かった。
でも、フィオナ様の手から目を離せなかった。
光は強い。
形も美しい。
でも違う。
祈りが外へ流れていない。
全部、自分の中で閉じている。
「イレーネ様」
フィオナ様が、震える声で言った。
「私、あなたに何かしましたか? 殿下が私を選んでくださったからって、神聖な祝福まで疑うなんて……あんまりです」
涙が出た。
ちょうどいい量だった。
うまいな、と思った。
そんなことを思う自分も、嫌だった。
でも、うまかった。
同情は一瞬で彼女に集まった。
ラウレンツ殿下が私を睨む。
「撤回しろ」
「できません」
「これは命令だ。フィオナへの侮辱を撤回しろ」
「侮辱ではありません。紋が違うのです」
「黙れ!」
怒声が響いた。
私は口を閉じた。
怖かったからではない。
いや、怖くなかったと言えば嘘になる。
でも、それだけではなかった。
選定壇の下に刻まれた古い聖紋が、かすかに震えていた。
初代聖女セレスティアの時代から残る聖紋。
長い年月で削れ、誰にも読まれなくなった聖句。
私は何年も前から、それを直したかった。
でも大司教に止められていた。
選定壇に余計な手を入れるな。
そう言われた。
その古い線が、今、震えている。
違う。
そう言っているように見えた。
「大司教猊下」
私は選定壇の方を向いた。
「式を中断してください」
「何を言う」
「選定壇の下部聖紋を確認する必要があります」
「許可できぬ。君はすでに選定から外れた身だ」
また笑われた。
その時だった。
「確認しましょう」
低い声が、大聖堂の後方から響いた。
笑い声が止まった。
黒紺の外套をまとった男が、ゆっくり歩いてくる。
灰色がかった髪。
冷えた青の瞳。
聖印監察官、ノア・リンドホルム。
その名が囁かれた瞬間、空気が変わった。
「ノア・リンドホルム……」
「聖印監察官が、なぜここに」
「あの男が来たなら、式どころではないぞ」
ノア様は誰にも笑わなかった。
私の前まで来ると、選定壇を見て、フィオナ様の手を見て、それから私を見た。
「イレーネ・フォルティア嬢」
「はい」
「君は、フィオナ嬢を妬んでいるのか」
一瞬、息が詰まった。
助けてくれる人ではない。
そう分かった。
この人は、私が間違っていれば私も切る。
「違います」
「では、なぜ疑う」
「紋が違うからです」
「どこが」
「最後の一画です」
私はフィオナ様の手を指さした。
彼女が手を引いた。
「本物の祝福紋は、最後の線が外へ逃げます。自分の内側で閉じません。祈りは、誰かへ流れるものだからです」
自分で言いながら、少し怖かった。
こんな言い方で通じるのか。
笑われるだけではないのか。
でも、ノア様は笑わなかった。
「君は、彼女が嫌いだから偽物だと言っているのではない。紋の形が違うと言っているんだな」
私は頷いた。
胸の奥が、少しだけ揺れた。
初めてだった。
私の言葉を、嫉妬でも負け惜しみでもなく、仕事の言葉として受け取ってくれた人は。
「根拠は」
「初代聖女セレスティアの壁画。北小礼拝堂の聖印拓本。地下聖廟の銀棺紋」
息を吸う。
「何度も見ました。何度も直しました。どれも最後の一画は外へ開いています。修復記録もあります」
「どこに」
「聖紋修復室の第三棚。灰色の革表紙です」
ノア様は大司教を見た。
「取り寄せます」
「監察官殿。この場は聖女選定式である。書き物を漁る場ではない」
「だから記録が必要です」
「神の奇跡を疑うのか」
「神ではなく、管理する人間の方です」
大司教の顔が強張った。
殿下が不快そうに言う。
「ノア。婚約を破棄された女の負け惜しみに付き合うつもりか」
「負け惜しみかどうかは、見れば分かります」
「フィオナは花を咲かせた」
「花だけなら、聖器でも咲かせられます」
フィオナ様の肩が揺れた。
小さく。
でも、はっきりと。
ノア様は聖堂騎士に命じた。
「聖紋修復室から第三棚の記録を。北小礼拝堂の拓本も」
騎士が走った。
大聖堂に、嫌な沈黙が落ちた。
やがて、記録帳が運ばれてきた。
灰色の革表紙。
私が何年も書き続けたものだった。
日付。修復箇所。使った銀泥。聖紋の欠け方。古い聖句の残片。
地味で、細かくて、誰にも読まれない記録。
殿下は以前、それを見て笑ったことがある。
君は本当に、つまらないものばかり見ているな。
私はその時、笑ってごまかした。
少し傷ついた。
でも、傷ついたと言うほどのことではない気もして、黙った。
そういう小さなことが、何年分もあった。
「ここです」
私は記録帳を開いた。
「初代聖女セレスティアの壁画。右手の祝福紋。最後の一画は外側へ流れています」
ノア様が拓本と見比べる。
「北小礼拝堂も同じだな」
「はい。地下聖廟の銀棺紋も同じです。時代も職人も違うのに、ここだけは変わっていません」
「それが祝福紋の本質だと?」
「少なくとも、聖都の聖女紋では」
私はフィオナ様の手を見た。
「フィオナ様の紋は、美しすぎます。左右対称で、完全に閉じています。飾り紋としては完璧です。でも、祝福紋ではありません」
「ひどい……」
フィオナ様が涙をこぼした。
「私はただ祈っただけなのに。イレーネ様は、そんなに私が憎いのですか?」
「では、手を選定壇に置いてください」
彼女の顔が固まった。
「本物の祝福紋なら、選定壇の下部聖紋と響き合うはずです」
「嫌です」
小さな声だった。
でも、大聖堂には十分だった。
ラウレンツ殿下が前に出る。
「フィオナをこれ以上傷つけることは許さない」
「傷つけるつもりはありません」
「ならば黙れ」
「黙れば、もっと多くの人が傷つきます」
私は選定壇を見た。
「偽の祝福紋で聖都全体に祝福を流せば、力は外へ抜けません。紋の中で循環して、弱い場所に逆流します」
ノア様が聞く。
「弱い場所とは」
「古い礼拝所、施療院、孤児院、外縁区の祈祷場。修復が遅れている聖印から壊れます」
誰かが息を呑んだ。
私は、そういう場所ばかり直してきた。
中央の大聖堂が磨かれるたび、外縁区の祈祷場は後回しにされた。
選定壇の銀紋が飾られるたび、孤児院の守護紋は欠けたままだった。
誰かが祈るしかない場所ほど、たいてい後回しにされる。
だから私は直してきた。
祈れない手で。
「馬鹿げている」
殿下が吐き捨てた。
「君はいつもそうだ。欠けた石だの、古い線だの、誰も気にしないものばかり見ている。今ここで起きている奇跡を、なぜ認められない」
「誰も気にしない場所が壊れるからです」
言ったあと、自分でも驚いた。
少し怒っていた。
私は、たぶん怒っていた。
「奇跡が本物なら、私は謝罪します。婚約破棄も受け入れます。大聖堂からも去ります。でも偽物なら、今日ここで止めなければなりません」
フィオナ様の涙が止まった。
きれいな顔から、少しずつ何かが剥がれていく。
「何よ……」
彼女が呟いた。
「何よ、その言い方。自分だけ正しいみたいに」
唇が歪んだ。
「祈れないくせに。花も咲かせられないくせに。石の傷ばかり見てた女が、どうして私を裁くの?」
大聖堂がざわめく。
フィオナ様は、もう泣く顔を作っていなかった。
「みんな信じたじゃない」
彼女は笑った。
頬にはまだ涙が残っていた。
「綺麗だったでしょう? 私の方が。あなたより、ずっと」
その声は、さっきまでよりずっと本物だった。
「私の方が聖女に見えた。私の方が殿下の隣にふさわしかった。誰だってそう思ったじゃない!」
ノア様が一歩前へ出る。
「フィオナ嬢。手袋を見せてください」
「嫌よ」
「聖器反応を確認します」
「嫌だって言ってるでしょう!」
「拒否する理由は」
フィオナ様は答えなかった。
その代わり、袖口から小さな銀の欠片が落ちた。
床に当たって、澄んだ音がした。
私は血の気が引いた。
「聖女遺晶……」
大司教の顔が青ざめた。
ノア様が欠片を拾い上げる。
「保管庫から持ち出されたものか」
フィオナ様は唇を噛んだ。
それで十分だった。
聖女遺晶。
初代聖女の手袋や銀糸から削り出された欠片。
本来、封印されているはずのもの。
身につければ、一時的に聖女に似た光を出すことはできる。
けれど祈りにはならない。
ただ、光るだけだ。
「大司教猊下」
ノア様の声が冷えた。
「遺晶保管庫の管理責任者は、あなたですね」
大司教は答えない。
額に汗が浮かんでいた。
ラウレンツ殿下がフィオナ様を見る。
「フィオナ……君は、私を騙したのか」
フィオナ様は笑った。
今度は、はっきり醜かった。
「殿下も、分かっていたではありませんか」
殿下が固まった。
「イレーネ様を退ける理由が必要だった。祈れない婚約者では、人々に示しがつかない。だから、分かりやすい聖女が必要だった。そう言ったのは殿下です」
「黙れ」
「私は殿下の望む聖女になろうとしただけです!」
「黙れ!」
殿下の声が裏返った。
それで、大聖堂中に分かってしまった。
王太子が偽聖女を担ぎ上げた。
大司教が聖女遺晶の持ち出しを見逃した。
でも、まだ足りない。
疑惑だけなら、誰か一人に罪をかぶせて終わる。
私は選定壇を見た。
「ノア様」
「何だ」
「選定壇の下部聖紋を修復させてください」
大司教が叫んだ。
「ならぬ!」
「なぜですか」
「式中の選定壇に手を入れるなど、不敬である!」
「不敬なのは、偽の祝福を通そうとすることです」
声は震えていなかった。
不思議だった。
少し前まで、私は声を出すことも失敗したのに。
「私は祈れません。花も咲かせられません。病も癒やせません。でも、欠けた紋を直すことはできます」
私は選定壇の前に膝をついた。
「何年も、それだけをしてきました」
ノア様が短く言った。
「許可する。聖印監察官の権限で、選定壇下部聖紋の緊急確認を行う」
修復道具を受け取った。
小さな銀筆。
聖灰を混ぜた白泥。
欠けた線を浮かび上がらせるための淡い水。
いつもの道具だった。
大したものではない。
華やかでもない。
奇跡も起きない。
ただ、線を見る。
欠けたところを探す。
本来あったはずの流れを、戻す。
古い石に指を添えた。
冷たかった。
指先が少し震えた。
失敗したらどうしよう、と思った。
今さら。
ここまで来て。
でも思った。
失敗したら、私は本当にただの負け惜しみ女になる。
婚約を失って、職も失って、笑われて終わる。
怖かった。
それでも、この線を私は知っている。
私は銀筆を走らせた。
一本。
もう一本。
閉じかけた線を開く。
欠けた曲線をつなぐ。
誰も笑わなかった。
銀筆が石をなぞる音だけがしていた。
最後の線を引いた瞬間。
選定壇が、低く鳴った。
光ではなかった。
花でもなかった。
深い弦のような音が、大聖堂全体に広がる。
下部聖紋から、古い文字が浮かび上がった。
私は読んだ。
「聖女の紋は、閉じてはならない」
誰も動かなかった。
「祈りは、己を飾るためにあらず。弱き者へ流れ、欠けた場所に届き、見えぬ傷を塞ぐためにある」
その瞬間、フィオナ様の右手の甲が黒く滲んだ。
「いやっ……!」
白銀だった祝福紋が、墨を垂らしたように崩れていく。
選定壇の周囲に咲いた白い花が、音もなくしおれた。
「なんで……」
フィオナ様が呟いた。
「なんでよ。こんな線一本で……!」
彼女は私を睨んだ。
「あなたが黙っていればよかったのに! 祈れないくせに、修復師のくせに、どうして最後だけ邪魔するのよ!」
その言葉で、ようやくみんな分かったのだと思う。
これは聖女の涙ではない。
ただの八つ当たりだ。
ノア様が告げた。
「フィオナ・レーヴェル嬢。禁じられた聖女遺晶の使用、および聖女選定式の偽装容疑で、身柄を預かります」
フィオナ様は床に崩れた。
大司教は膝をついた。
ラウレンツ殿下は青ざめた顔で後ずさる。
「ラウレンツ殿下」
ノア様が振り返った。
「あなたにも、事情を伺います」
「私に何の罪がある。私は騙されたのだ。フィオナが勝手に――」
「先ほど、フィオナ嬢は『殿下も分かっていた』と証言しました」
「女の戯言だ!」
「では、記録を確認しましょう」
ノア様は淡々と言った。
「遺晶保管庫への出入り記録。選定式前の聖器準備記録。大司教との面会記録。すべて残っています」
記録。
ここでも、最後に残るのは記録なのだ。
殿下の顔色が変わった。
「私はただ、民に分かりやすい聖女を示そうとしただけだ!」
その声は、大義に聞こえなかった。
逃げている声だった。
「イレーネ」
急に、殿下が私を見た。
声が柔らかくなっていた。
さっきまで私を祈れない女と呼んだ人とは思えないくらい。
「これは誤解だ。私は人々のために、分かりやすい聖女を求めただけだ」
私は何も言わなかった。
「婚約破棄は撤回する。君の力は認める。王太子妃として、これからも私を支えればいい」
大聖堂が静まり返った。
以前の私なら、揺れたかもしれない。
いや、少しは揺れた。
八年だったから。
家の期待もあった。
王太子妃という立場もあった。
それに、私はたぶん、殿下に認められたかった。
認められたかったのだと思う。
でも今は、見えてしまった。
この人は、私を見ているのではない。
私の使い道を見ている。
「お断りします」
言ったあと、胸の奥が痛んだ。
すっきりはしなかった。
その時間を捨てるのは、気持ちよくなんてなかった。
でも、戻る場所ではないことだけは分かった。
「何だと」
「婚約破棄は、先ほど確かに承りました」
「イレーネ、感情的になるな」
「感情ではありません」
私は静かに言った。
「殿下は聖女選定式の場で、私との婚約破棄を宣言されました。聞いていた方は、この大聖堂にいる全員です」
誰かが息を呑んだ。
殿下の顔が赤くなる。
「君は、私に恥をかかせるつもりか」
「いいえ」
私は首を振った。
「殿下の言葉を、そのまま残しているだけです」
殿下は何も言えなかった。
ノア様が聖堂騎士に合図する。
大司教とフィオナ様は、別室へ連れていかれた。
ラウレンツ殿下も、聖印監察局への同行を求められた。
殿下は最後まで私を睨んでいた。
でも、もう怖くなかった。
◇
大聖堂に残ったのは、枯れた白い花と、修復された選定壇だった。
式は中止になった。
聖女は選ばれなかった。
婚約も消えた。
私の立場も、明日からかなり悪くなるかもしれない。
悪くならないはずがない。
王太子に逆らった。
大司教を告発した。
偽聖女を暴いた。
考えれば考えるほど、胃が重くなった。
でも、不思議と後悔はなかった。
私は選定壇の下部聖紋に触れた。
長い間、誰にも読まれなかった線。
欠けたまま、飾りの下に隠されていた祈り。
それが今日、ようやく戻った。
「イレーネ・フォルティア嬢」
ノア様が隣に立った。
「はい」
「正式に証言を求める。修復記録も提出してもらう」
「分かりました」
「それと」
彼は少しだけ間を置いた。
「聖印監察局として、君に新しい職務を打診したい」
「職務、ですか」
「聖紋守」
聞き慣れない言葉だった。
でも、古い文献で見たことはある。
聖女を飾る者ではない。
聖女の祈りが偽物にならないよう、聖紋と記録を守る役。
長い年月の中で失われた職務。
「私が……ですか」
「君以外に、今日の紋を見抜けた者はいない」
「私は、聖女ではありません」
「知っている」
ノア様はあっさり言った。
「君は花を咲かせない。病も癒やさない。人前で奇跡を見せることも得意ではない」
「そこまで言われると、少し傷つきます」
「すまない」
真面目な顔で謝られた。
少し笑ってしまった。
今日初めて笑った気がした。
「だが、君は祈りが嘘になった瞬間を見抜ける」
ノア様の声は静かだった。
「それは、必要な力だ」
それだけだった。
派手な褒め言葉ではなかった。
でも、私には十分だった。
私はずっと、祈れない自分を恥じていた。
大聖堂にいるのに、誰も癒やせない。
聖女候補と呼ばれるのに、奇跡を起こせない。
だから、せめて壊れたものを直そうと思った。
誰にも見られない場所で。
誰にも褒められない線を。
意味があったのだろうか。
そう思う日は、何度もあった。
今日、少しだけ、あったのかもしれないと思えた。
「ノア様」
「何だ」
「私は、本当に祈れないのだと思っていました」
ノア様は選定壇を見た。
「君は祈れないんじゃない」
私は顔を上げた。
「祈りが嘘にならないよう、残してきたんだ」
少しだけ、泣きそうになった。
泣かなかった。
泣かなかったけれど、たぶん顔には出ていた。
ノア様は何も言わなかった。
それがありがたかった。
「では、まず何をすればよろしいでしょうか」
「休め」
「え」
「顔色が悪い」
「でも、記録の整理が」
「明日でいい」
「選定壇の再確認も」
「明日だ」
「外縁区への逆流確認は」
「それは今すぐ手配する」
ノア様は、少し困ったように私を見た。
「君は、放っておくと倒れるまで線を見ていそうだな」
「倒れたことはありません」
「本当に?」
「……三度ほど」
「それは、あると言う」
私は返事に詰まった。
ノア様は小さく息をついた。
「証言者を倒れさせるわけにはいかない。送る」
「一人で歩けます」
「知っている。だが今日は送る」
その言い方が妙に当然だったので、逆らうタイミングを失った。
大聖堂の外へ出ると、朝の光が眩しかった。
同じ朝の光なのに、少し違って見えた。
遠くで鐘が鳴っている。
聖女誕生を祝う鐘ではない。
選定式の中止と、聖印監察の開始を知らせる鐘。
きっと聖都は騒がしくなる。
王太子の婚約破棄。
偽聖女。
聖女遺晶の不正使用。
大司教の責任。
明日には、私の名前も噂になるだろう。
祈れない聖紋修復師。
婚約破棄された令嬢。
偽聖女を告発した女。
どれも、たぶん間違っていない。
でも、どれも私の全部ではない。
階段を下りる途中、ノア様が足を止めた。
「イレーネ」
「はい」
「君が最初に言った言葉を、私は記録に残す」
「最初に言った言葉?」
「その祝福紋は、本物ではありません」
私は顔をしかめた。
「もっと穏やかな言い方にすればよかったかもしれません」
「いや」
ノア様は真面目な顔で言った。
「あれでいい。あの場で誰かが言わなければ、聖都中に偽の祝福が流れていた」
風が吹いた。
大聖堂前の白い花壇が揺れた。
選定壇に咲いた偽物の花ではない。
庭師が土を耕し、下働きの子どもたちが水をやり、毎朝誰かが世話をしている花だった。
少し地味だった。
でも、きちんと生きていた。
「ノア様」
「何だ」
「本物の花は、意外と地味ですね」
「そうだな」
「でも、こちらの方が好きです」
ノア様は、花壇を見たまま言った。
「私もだ」
花の話だけではないように聞こえた。
気のせいかもしれない。
そういうことにしておいた。
遠くの鐘が、もう一度鳴った。
さっきより、少しだけ澄んだ音に聞こえた。
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