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聖女選定で落とされ婚約破棄された聖紋修復師、祈れない代わりに偽聖女の祝福紋を見抜きました

作者: 神居 朔
掲載日:2026/05/28

「祈れない女を、王太子妃にはできない」


 ラウレンツ・グラナート殿下がそう言った。


 言われた瞬間、私は膝をついたまま、変なところを見ていた。


 選定壇の端。


 白銀の縁取りの、ほんの小さな欠け。


 今そんなものを見るべきではないと分かっていた。

 分かっていたのに、目がそこへ行った。


 ひどい癖だと思う。


 婚約を破棄された女が、まず見るものではない。


「イレーネ。君との婚約は、ここで破棄する」


 殿下の声は、大聖堂によく響いた。


 聖都中央大聖堂。


 十二年に一度の聖女選定式。


 聖職者も、貴族も、騎士も、地方から来た代理人も、今日はみんな正装だった。


 その真ん中で、私は膝をついていた。


 イレーネ・フォルティア。


 フォルティア伯爵家の娘。


 聖都中央大聖堂に仕える聖紋修復師。


 そして、たった今、王太子殿下の婚約者ではなくなった女。


 笑い声が聞こえた気がした。


 実際に笑った人がいたのか、私がそう思っただけなのかは分からない。


 胸の奥が痛かった。


 痛い、というより、何かを雑に引き抜かれたような感じだった。


 八年だ。


 八年、私はこの人の隣に立つのだと思っていた。


 王太子妃になる覚悟をしろと言われた。


 聖女候補として恥ずかしくないようにしろと言われた。


 祈れないなら、せめて大聖堂の役に立てとも言われた。


 全部、真面目に聞いた。


 馬鹿みたいに。


 なのに終わる時は、こんなに簡単だった。


「ご覧になったでしょう」


 殿下は、私ではなく参列者たちへ向かって言った。


「イレーネは長く大聖堂にいた。聖器に触れ、古い聖紋を直し、聖女候補として扱われてきた。だが結果はこれだ。選定壇は、ほとんど応えなかった」


 私は選定壇を見た。


 確かに、光は弱かった。


 ほんの少し。


 消えかけの灯みたいな光。


 私らしいと言えば、私らしかった。


 私は祈りが下手だ。


 花を咲かせることもできない。


 病を癒やすこともできない。


 清水を輝かせることもできない。


 昔からそうだった。


 その代わり、古い聖紋の線だけは読めた。


 どこが欠けたのか。


 どこが後から足されたのか。


 どの祝福が古くて、どれがただの飾りなのか。


 それだけは分かった。


 役に立つのかどうか分からない、地味な力だった。


「殿下」


 声を出そうとして、失敗した。


 喉が引っかかった。


 情けなかった。


 大聖堂の誰かに見られた気がして、少し嫌になった。


 でも、私はもう一度息を吸った。


「婚約破棄については、承りました」


 ざわめきが広がった。


 泣くと思われていたのかもしれない。


 すがると思われていたのかもしれない。


 本当は、少しだけ、そうしたかった。


 どうしてですか、と言いたかった。


 あれは何だったのですか、と聞きたかった。


 でも、選定壇の端が震えていた。


 いや、震えているように見えた。


 たぶん、私にしか分からないくらい小さく。


「ですが、選定式はまだ終わっておりません」


「終わっている」


 殿下は冷たく言った。


「君は聖女ではない」


 殿下の隣にいた少女が、一歩前へ出た。


 フィオナ・レーヴェル侯爵令嬢。


 白金色の髪。

 淡い菫色の瞳。

 雪のような肌。


 綺麗な人だった。


 嫌になるくらい、今日の大聖堂に似合っていた。


「イレーネ様。どうかお許しください。私、あなたを傷つけるつもりはなかったのです」


 声が震えていた。


 目には、もう涙が用意されていた。


 泣く準備ができている人の顔だ、と思った。


 嫌な見方だ。


 でも、そう見えたのだから仕方がない。


「フィオナが謝る必要はない」


 殿下が彼女の手を取った。


「神聖な選定を、人の情で歪めることはできない」


 大司教が重々しく頷く。


「では、フィオナ・レーヴェル嬢。選定壇の前へ」


 フィオナ様が膝をついた。


 彼女が目を閉じた瞬間、大聖堂の空気が変わった。


 香の煙が白く渦を巻く。


 選定壇の祝福紋が、眩しいほど光った。


 白布の上に、花が咲いた。


 一輪。


 二輪。


 十輪。


 白い花が、次々に開いていく。


「奇跡だ……」


「本物の聖女だわ」


「なんと美しい祝福だ」


 声があちこちから上がった。


 分かる。


 私だって、何も知らなければそう思ったかもしれない。


 フィオナ様が、そっと手袋を外した。


 右手の甲に、白銀の紋が浮かんでいた。


 祝福紋。


 聖女と認められた者だけに現れる印。


 殿下が、私を見た。


 勝った、という顔だった。


「これで分かっただろう、イレーネ。選ばれたのは君ではない」


 私は答えなかった。


 フィオナ様の手を見ていた。


 美しい紋だった。


 綺麗すぎた。


 整いすぎていた。


 そして、最後の一画が閉じていた。


 そこで終わっていた。


 外へ逃げていなかった。


「……違う」


 声が漏れた。


 殿下が眉を寄せる。


「何が違う」


「その祝福紋は、本物ではありません」


 言ってから、しまった、と思った。


 もっと言い方があった。


 確認させてください、とか。


 少し不自然です、とか。


 そういう穏やかな言い方が。


 でも、もう遅かった。


 大聖堂の空気が止まった。


 フィオナ様の笑みが、一瞬だけ消えた。


 本当に一瞬だった。


 でも私は見た。


「イレーネ。今、自分が何を言ったか分かっているのか」


「分かっています」


「フィオナの祝福を偽物だと?」


「はい」


 非難の声が飛んできた。


「なんてことを」


「負け惜しみだわ」


「婚約を破棄された腹いせでしょう」


「祈れなかった修復師が、本物の聖女を疑うなんて」


 痛かった。


 慣れているはずなのに、普通に痛かった。


 でも、フィオナ様の手から目を離せなかった。


 光は強い。


 形も美しい。


 でも違う。


 祈りが外へ流れていない。


 全部、自分の中で閉じている。


「イレーネ様」


 フィオナ様が、震える声で言った。


「私、あなたに何かしましたか? 殿下が私を選んでくださったからって、神聖な祝福まで疑うなんて……あんまりです」


 涙が出た。


 ちょうどいい量だった。


 うまいな、と思った。


 そんなことを思う自分も、嫌だった。


 でも、うまかった。


 同情は一瞬で彼女に集まった。


 ラウレンツ殿下が私を睨む。


「撤回しろ」


「できません」


「これは命令だ。フィオナへの侮辱を撤回しろ」


「侮辱ではありません。紋が違うのです」


「黙れ!」


 怒声が響いた。


 私は口を閉じた。


 怖かったからではない。


 いや、怖くなかったと言えば嘘になる。


 でも、それだけではなかった。


 選定壇の下に刻まれた古い聖紋が、かすかに震えていた。


 初代聖女セレスティアの時代から残る聖紋。


 長い年月で削れ、誰にも読まれなくなった聖句。


 私は何年も前から、それを直したかった。


 でも大司教に止められていた。


 選定壇に余計な手を入れるな。


 そう言われた。


 その古い線が、今、震えている。


 違う。


 そう言っているように見えた。


「大司教猊下」


 私は選定壇の方を向いた。


「式を中断してください」


「何を言う」


「選定壇の下部聖紋を確認する必要があります」


「許可できぬ。君はすでに選定から外れた身だ」


 また笑われた。


 その時だった。


「確認しましょう」


 低い声が、大聖堂の後方から響いた。


 笑い声が止まった。


 黒紺の外套をまとった男が、ゆっくり歩いてくる。


 灰色がかった髪。


 冷えた青の瞳。


 聖印監察官、ノア・リンドホルム。


 その名が囁かれた瞬間、空気が変わった。


「ノア・リンドホルム……」


「聖印監察官が、なぜここに」


「あの男が来たなら、式どころではないぞ」


 ノア様は誰にも笑わなかった。


 私の前まで来ると、選定壇を見て、フィオナ様の手を見て、それから私を見た。


「イレーネ・フォルティア嬢」


「はい」


「君は、フィオナ嬢を妬んでいるのか」


 一瞬、息が詰まった。


 助けてくれる人ではない。


 そう分かった。


 この人は、私が間違っていれば私も切る。


「違います」


「では、なぜ疑う」


「紋が違うからです」


「どこが」


「最後の一画です」


 私はフィオナ様の手を指さした。


 彼女が手を引いた。


「本物の祝福紋は、最後の線が外へ逃げます。自分の内側で閉じません。祈りは、誰かへ流れるものだからです」


 自分で言いながら、少し怖かった。


 こんな言い方で通じるのか。


 笑われるだけではないのか。


 でも、ノア様は笑わなかった。


「君は、彼女が嫌いだから偽物だと言っているのではない。紋の形が違うと言っているんだな」


 私は頷いた。


 胸の奥が、少しだけ揺れた。


 初めてだった。


 私の言葉を、嫉妬でも負け惜しみでもなく、仕事の言葉として受け取ってくれた人は。


「根拠は」


「初代聖女セレスティアの壁画。北小礼拝堂の聖印拓本。地下聖廟の銀棺紋」


 息を吸う。


「何度も見ました。何度も直しました。どれも最後の一画は外へ開いています。修復記録もあります」


「どこに」


「聖紋修復室の第三棚。灰色の革表紙です」


 ノア様は大司教を見た。


「取り寄せます」


「監察官殿。この場は聖女選定式である。書き物を漁る場ではない」


「だから記録が必要です」


「神の奇跡を疑うのか」


「神ではなく、管理する人間の方です」


 大司教の顔が強張った。


 殿下が不快そうに言う。


「ノア。婚約を破棄された女の負け惜しみに付き合うつもりか」


「負け惜しみかどうかは、見れば分かります」


「フィオナは花を咲かせた」


「花だけなら、聖器でも咲かせられます」


 フィオナ様の肩が揺れた。


 小さく。


 でも、はっきりと。


 ノア様は聖堂騎士に命じた。


「聖紋修復室から第三棚の記録を。北小礼拝堂の拓本も」


 騎士が走った。


 大聖堂に、嫌な沈黙が落ちた。


 やがて、記録帳が運ばれてきた。


 灰色の革表紙。


 私が何年も書き続けたものだった。


 日付。修復箇所。使った銀泥。聖紋の欠け方。古い聖句の残片。


 地味で、細かくて、誰にも読まれない記録。


 殿下は以前、それを見て笑ったことがある。


 君は本当に、つまらないものばかり見ているな。


 私はその時、笑ってごまかした。


 少し傷ついた。


 でも、傷ついたと言うほどのことではない気もして、黙った。


 そういう小さなことが、何年分もあった。


「ここです」


 私は記録帳を開いた。


「初代聖女セレスティアの壁画。右手の祝福紋。最後の一画は外側へ流れています」


 ノア様が拓本と見比べる。


「北小礼拝堂も同じだな」


「はい。地下聖廟の銀棺紋も同じです。時代も職人も違うのに、ここだけは変わっていません」


「それが祝福紋の本質だと?」


「少なくとも、聖都の聖女紋では」


 私はフィオナ様の手を見た。


「フィオナ様の紋は、美しすぎます。左右対称で、完全に閉じています。飾り紋としては完璧です。でも、祝福紋ではありません」


「ひどい……」


 フィオナ様が涙をこぼした。


「私はただ祈っただけなのに。イレーネ様は、そんなに私が憎いのですか?」


「では、手を選定壇に置いてください」


 彼女の顔が固まった。


「本物の祝福紋なら、選定壇の下部聖紋と響き合うはずです」


「嫌です」


 小さな声だった。


 でも、大聖堂には十分だった。


 ラウレンツ殿下が前に出る。


「フィオナをこれ以上傷つけることは許さない」


「傷つけるつもりはありません」


「ならば黙れ」


「黙れば、もっと多くの人が傷つきます」


 私は選定壇を見た。


「偽の祝福紋で聖都全体に祝福を流せば、力は外へ抜けません。紋の中で循環して、弱い場所に逆流します」


 ノア様が聞く。


「弱い場所とは」


「古い礼拝所、施療院、孤児院、外縁区の祈祷場。修復が遅れている聖印から壊れます」


 誰かが息を呑んだ。


 私は、そういう場所ばかり直してきた。


 中央の大聖堂が磨かれるたび、外縁区の祈祷場は後回しにされた。


 選定壇の銀紋が飾られるたび、孤児院の守護紋は欠けたままだった。


 誰かが祈るしかない場所ほど、たいてい後回しにされる。


 だから私は直してきた。


 祈れない手で。


「馬鹿げている」


 殿下が吐き捨てた。


「君はいつもそうだ。欠けた石だの、古い線だの、誰も気にしないものばかり見ている。今ここで起きている奇跡を、なぜ認められない」


「誰も気にしない場所が壊れるからです」


 言ったあと、自分でも驚いた。


 少し怒っていた。


 私は、たぶん怒っていた。


「奇跡が本物なら、私は謝罪します。婚約破棄も受け入れます。大聖堂からも去ります。でも偽物なら、今日ここで止めなければなりません」


 フィオナ様の涙が止まった。


 きれいな顔から、少しずつ何かが剥がれていく。


「何よ……」


 彼女が呟いた。


「何よ、その言い方。自分だけ正しいみたいに」


 唇が歪んだ。


「祈れないくせに。花も咲かせられないくせに。石の傷ばかり見てた女が、どうして私を裁くの?」


 大聖堂がざわめく。


 フィオナ様は、もう泣く顔を作っていなかった。


「みんな信じたじゃない」


 彼女は笑った。


 頬にはまだ涙が残っていた。


「綺麗だったでしょう? 私の方が。あなたより、ずっと」


 その声は、さっきまでよりずっと本物だった。


「私の方が聖女に見えた。私の方が殿下の隣にふさわしかった。誰だってそう思ったじゃない!」


 ノア様が一歩前へ出る。


「フィオナ嬢。手袋を見せてください」


「嫌よ」


「聖器反応を確認します」


「嫌だって言ってるでしょう!」


「拒否する理由は」


 フィオナ様は答えなかった。


 その代わり、袖口から小さな銀の欠片が落ちた。


 床に当たって、澄んだ音がした。


 私は血の気が引いた。


「聖女遺晶……」


 大司教の顔が青ざめた。


 ノア様が欠片を拾い上げる。


「保管庫から持ち出されたものか」


 フィオナ様は唇を噛んだ。


 それで十分だった。


 聖女遺晶。


 初代聖女の手袋や銀糸から削り出された欠片。


 本来、封印されているはずのもの。


 身につければ、一時的に聖女に似た光を出すことはできる。


 けれど祈りにはならない。


 ただ、光るだけだ。


「大司教猊下」


 ノア様の声が冷えた。


「遺晶保管庫の管理責任者は、あなたですね」


 大司教は答えない。


 額に汗が浮かんでいた。


 ラウレンツ殿下がフィオナ様を見る。


「フィオナ……君は、私を騙したのか」


 フィオナ様は笑った。


 今度は、はっきり醜かった。


「殿下も、分かっていたではありませんか」


 殿下が固まった。


「イレーネ様を退ける理由が必要だった。祈れない婚約者では、人々に示しがつかない。だから、分かりやすい聖女が必要だった。そう言ったのは殿下です」


「黙れ」


「私は殿下の望む聖女になろうとしただけです!」


「黙れ!」


 殿下の声が裏返った。


 それで、大聖堂中に分かってしまった。


 王太子が偽聖女を担ぎ上げた。


 大司教が聖女遺晶の持ち出しを見逃した。


 でも、まだ足りない。


 疑惑だけなら、誰か一人に罪をかぶせて終わる。


 私は選定壇を見た。


「ノア様」


「何だ」


「選定壇の下部聖紋を修復させてください」


 大司教が叫んだ。


「ならぬ!」


「なぜですか」


「式中の選定壇に手を入れるなど、不敬である!」


「不敬なのは、偽の祝福を通そうとすることです」


 声は震えていなかった。


 不思議だった。


 少し前まで、私は声を出すことも失敗したのに。


「私は祈れません。花も咲かせられません。病も癒やせません。でも、欠けた紋を直すことはできます」


 私は選定壇の前に膝をついた。


「何年も、それだけをしてきました」


 ノア様が短く言った。


「許可する。聖印監察官の権限で、選定壇下部聖紋の緊急確認を行う」


 修復道具を受け取った。


 小さな銀筆。


 聖灰を混ぜた白泥。


 欠けた線を浮かび上がらせるための淡い水。


 いつもの道具だった。


 大したものではない。


 華やかでもない。


 奇跡も起きない。


 ただ、線を見る。


 欠けたところを探す。


 本来あったはずの流れを、戻す。


 古い石に指を添えた。


 冷たかった。


 指先が少し震えた。


 失敗したらどうしよう、と思った。


 今さら。


 ここまで来て。


 でも思った。


 失敗したら、私は本当にただの負け惜しみ女になる。


 婚約を失って、職も失って、笑われて終わる。


 怖かった。


 それでも、この線を私は知っている。


 私は銀筆を走らせた。


 一本。


 もう一本。


 閉じかけた線を開く。


 欠けた曲線をつなぐ。


 誰も笑わなかった。


 銀筆が石をなぞる音だけがしていた。


 最後の線を引いた瞬間。


 選定壇が、低く鳴った。


 光ではなかった。


 花でもなかった。


 深い弦のような音が、大聖堂全体に広がる。


 下部聖紋から、古い文字が浮かび上がった。


 私は読んだ。


「聖女の紋は、閉じてはならない」


 誰も動かなかった。


「祈りは、己を飾るためにあらず。弱き者へ流れ、欠けた場所に届き、見えぬ傷を塞ぐためにある」


 その瞬間、フィオナ様の右手の甲が黒く滲んだ。


「いやっ……!」


 白銀だった祝福紋が、墨を垂らしたように崩れていく。


 選定壇の周囲に咲いた白い花が、音もなくしおれた。


「なんで……」


 フィオナ様が呟いた。


「なんでよ。こんな線一本で……!」


 彼女は私を睨んだ。


「あなたが黙っていればよかったのに! 祈れないくせに、修復師のくせに、どうして最後だけ邪魔するのよ!」


 その言葉で、ようやくみんな分かったのだと思う。


 これは聖女の涙ではない。


 ただの八つ当たりだ。


 ノア様が告げた。


「フィオナ・レーヴェル嬢。禁じられた聖女遺晶の使用、および聖女選定式の偽装容疑で、身柄を預かります」


 フィオナ様は床に崩れた。


 大司教は膝をついた。


 ラウレンツ殿下は青ざめた顔で後ずさる。


「ラウレンツ殿下」


 ノア様が振り返った。


「あなたにも、事情を伺います」


「私に何の罪がある。私は騙されたのだ。フィオナが勝手に――」


「先ほど、フィオナ嬢は『殿下も分かっていた』と証言しました」


「女の戯言だ!」


「では、記録を確認しましょう」


 ノア様は淡々と言った。


「遺晶保管庫への出入り記録。選定式前の聖器準備記録。大司教との面会記録。すべて残っています」


 記録。


 ここでも、最後に残るのは記録なのだ。


 殿下の顔色が変わった。


「私はただ、民に分かりやすい聖女を示そうとしただけだ!」


 その声は、大義に聞こえなかった。


 逃げている声だった。


「イレーネ」


 急に、殿下が私を見た。


 声が柔らかくなっていた。


 さっきまで私を祈れない女と呼んだ人とは思えないくらい。


「これは誤解だ。私は人々のために、分かりやすい聖女を求めただけだ」


 私は何も言わなかった。


「婚約破棄は撤回する。君の力は認める。王太子妃として、これからも私を支えればいい」


 大聖堂が静まり返った。


 以前の私なら、揺れたかもしれない。


 いや、少しは揺れた。


 八年だったから。


 家の期待もあった。


 王太子妃という立場もあった。


 それに、私はたぶん、殿下に認められたかった。


 認められたかったのだと思う。


 でも今は、見えてしまった。


 この人は、私を見ているのではない。


 私の使い道を見ている。


「お断りします」


 言ったあと、胸の奥が痛んだ。


 すっきりはしなかった。


 その時間を捨てるのは、気持ちよくなんてなかった。


 でも、戻る場所ではないことだけは分かった。


「何だと」


「婚約破棄は、先ほど確かに承りました」


「イレーネ、感情的になるな」


「感情ではありません」


 私は静かに言った。


「殿下は聖女選定式の場で、私との婚約破棄を宣言されました。聞いていた方は、この大聖堂にいる全員です」


 誰かが息を呑んだ。


 殿下の顔が赤くなる。


「君は、私に恥をかかせるつもりか」


「いいえ」


 私は首を振った。


「殿下の言葉を、そのまま残しているだけです」


 殿下は何も言えなかった。


 ノア様が聖堂騎士に合図する。


 大司教とフィオナ様は、別室へ連れていかれた。


 ラウレンツ殿下も、聖印監察局への同行を求められた。


 殿下は最後まで私を睨んでいた。


 でも、もう怖くなかった。


   ◇


 大聖堂に残ったのは、枯れた白い花と、修復された選定壇だった。


 式は中止になった。


 聖女は選ばれなかった。


 婚約も消えた。


 私の立場も、明日からかなり悪くなるかもしれない。


 悪くならないはずがない。


 王太子に逆らった。


 大司教を告発した。


 偽聖女を暴いた。


 考えれば考えるほど、胃が重くなった。


 でも、不思議と後悔はなかった。


 私は選定壇の下部聖紋に触れた。


 長い間、誰にも読まれなかった線。


 欠けたまま、飾りの下に隠されていた祈り。


 それが今日、ようやく戻った。


「イレーネ・フォルティア嬢」


 ノア様が隣に立った。


「はい」


「正式に証言を求める。修復記録も提出してもらう」


「分かりました」


「それと」


 彼は少しだけ間を置いた。


「聖印監察局として、君に新しい職務を打診したい」


「職務、ですか」


「聖紋守」


 聞き慣れない言葉だった。


 でも、古い文献で見たことはある。


 聖女を飾る者ではない。


 聖女の祈りが偽物にならないよう、聖紋と記録を守る役。


 長い年月の中で失われた職務。


「私が……ですか」


「君以外に、今日の紋を見抜けた者はいない」


「私は、聖女ではありません」


「知っている」


 ノア様はあっさり言った。


「君は花を咲かせない。病も癒やさない。人前で奇跡を見せることも得意ではない」


「そこまで言われると、少し傷つきます」


「すまない」


 真面目な顔で謝られた。


 少し笑ってしまった。


 今日初めて笑った気がした。


「だが、君は祈りが嘘になった瞬間を見抜ける」


 ノア様の声は静かだった。


「それは、必要な力だ」


 それだけだった。


 派手な褒め言葉ではなかった。


 でも、私には十分だった。


 私はずっと、祈れない自分を恥じていた。


 大聖堂にいるのに、誰も癒やせない。


 聖女候補と呼ばれるのに、奇跡を起こせない。


 だから、せめて壊れたものを直そうと思った。


 誰にも見られない場所で。


 誰にも褒められない線を。


 意味があったのだろうか。


 そう思う日は、何度もあった。


 今日、少しだけ、あったのかもしれないと思えた。


「ノア様」


「何だ」


「私は、本当に祈れないのだと思っていました」


 ノア様は選定壇を見た。


「君は祈れないんじゃない」


 私は顔を上げた。


「祈りが嘘にならないよう、残してきたんだ」


 少しだけ、泣きそうになった。


 泣かなかった。


 泣かなかったけれど、たぶん顔には出ていた。


 ノア様は何も言わなかった。


 それがありがたかった。


「では、まず何をすればよろしいでしょうか」


「休め」


「え」


「顔色が悪い」


「でも、記録の整理が」


「明日でいい」


「選定壇の再確認も」


「明日だ」


「外縁区への逆流確認は」


「それは今すぐ手配する」


 ノア様は、少し困ったように私を見た。


「君は、放っておくと倒れるまで線を見ていそうだな」


「倒れたことはありません」


「本当に?」


「……三度ほど」


「それは、あると言う」


 私は返事に詰まった。


 ノア様は小さく息をついた。


「証言者を倒れさせるわけにはいかない。送る」


「一人で歩けます」


「知っている。だが今日は送る」


 その言い方が妙に当然だったので、逆らうタイミングを失った。


 大聖堂の外へ出ると、朝の光が眩しかった。


 同じ朝の光なのに、少し違って見えた。


 遠くで鐘が鳴っている。


 聖女誕生を祝う鐘ではない。


 選定式の中止と、聖印監察の開始を知らせる鐘。


 きっと聖都は騒がしくなる。


 王太子の婚約破棄。


 偽聖女。


 聖女遺晶の不正使用。


 大司教の責任。


 明日には、私の名前も噂になるだろう。


 祈れない聖紋修復師。


 婚約破棄された令嬢。


 偽聖女を告発した女。


 どれも、たぶん間違っていない。


 でも、どれも私の全部ではない。


 階段を下りる途中、ノア様が足を止めた。


「イレーネ」


「はい」


「君が最初に言った言葉を、私は記録に残す」


「最初に言った言葉?」


「その祝福紋は、本物ではありません」


 私は顔をしかめた。


「もっと穏やかな言い方にすればよかったかもしれません」


「いや」


 ノア様は真面目な顔で言った。


「あれでいい。あの場で誰かが言わなければ、聖都中に偽の祝福が流れていた」


 風が吹いた。


 大聖堂前の白い花壇が揺れた。


 選定壇に咲いた偽物の花ではない。


 庭師が土を耕し、下働きの子どもたちが水をやり、毎朝誰かが世話をしている花だった。


 少し地味だった。


 でも、きちんと生きていた。


「ノア様」


「何だ」


「本物の花は、意外と地味ですね」


「そうだな」


「でも、こちらの方が好きです」


 ノア様は、花壇を見たまま言った。


「私もだ」


 花の話だけではないように聞こえた。


 気のせいかもしれない。


 そういうことにしておいた。


 遠くの鐘が、もう一度鳴った。


 さっきより、少しだけ澄んだ音に聞こえた。


最後までお読みいただきありがとうございました。

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面白い話でした。 ただ、途中で何処まで読んだか迷ってしまいました。
話としては面白かったですが何か少し読みにくく感じました
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