第八話:聖域の汚濁と「魔法のリボン」
1. 賊の乱入と「聖遺物」の破壊
窓からの侵入者によりエレオノーラの追憶が中断された。
主不在の屋敷に刺客たちがなだれ込む。
彼らが侵入した場所が「救国の英雄」の隠し部屋であり、彼の命より大切なお宝部屋とは思いもしなかった。
「ちっ、金目のものはないのか! 英雄様は狂人かよ!」
一人の賊が、苛立ち紛れに剣の柄で中央のクリスタルケースを叩き割り、中のリボンを床に叩き落とした。
「こんな汚い布きれ、何の価値もねえな!」
「駄目っ――!」
賊がそれを踏みつけようとした瞬間、エレオノーラが叫びながら床に這いつくばり、汚される直前のリボンを両手で包み込むように握りしめる。
2. 握りしめられた「証」
賊に乱暴に引きずられながらも、エレオノーラは掌の中にある感触だけを信じていた。
(これだけは、これだけは離さない……!)
猿轡をされ、自由を奪われた恐怖よりも、彼女の心を占めていたのはジークヴァルトへの想いだった。 彼が十年間、自分でも忘れていたような小さなリボンを、あのように神聖なものとして守り続けていた。その真実を知った今、エレオノーラにとってこの薄汚れた布切れは、何物にも代えがたい「愛の証」となっていた。
賊たちは彼女を異空間転移の魔導具へと放り込む。
「公爵の女にしちゃあ、妙な根性のある女だ。捕まってもその手を離さねえとはな」
「まあいい、これさえあれば、あの英雄を思い通りに動かせる」
賊たちの下卑た笑い声が遠ざかる中、エレオノーラは暗闇の中でリボンをぎゅっと胸に押し当てた。
(ジーク……。私、信じていますわ。あなたが、私を見つけてくださることを)
4. ジークヴァルトの帰還と「静かなる終焉」
王宮での退屈な公務を終えたジークヴァルトは、かつてないほど上機嫌で屋敷の門を潜った。 懐には、ノーラに贈るための新しい髪飾りが忍ばせてある。
「ハンス、エレオノーラはどこだ? また庭にいるのか、それとも……」
問いかけようとして、ジークヴァルトは足を止めた。 屋敷の空気が、異常に冷え切っている。
「……閣下」
廊下の向こうから現れたハンスは、幽霊のように青ざめていた。隣に立つグレーテルもまた、唇を噛み締め、震えを隠せていない。 ハンスの右手には、見覚えのある「地下室の鍵」が握られていた。
ジークヴァルトは何も言わず、ハンスの横を通り過ぎて地下へ向かった。
開け放たれた「聖域」の扉。 砕け散ったクリスタルケース。 空になった台座。 そして、床に残された、賊の泥靴の足跡。
「…………」
ジークヴァルトは絶叫もしなければ、泣きもしなかった。 ただ、その場に立ち尽くした。
「……閣下。私の、私の失策です。夫人に不用意に鍵を渡し、賊の侵入を許してしまいました。どのような処罰も受ける覚悟です。ですから、どうか……」
ハンスの謝罪は、途中で凍りついた。 ジークヴァルトの周囲から、物理的な「重圧」が広がり始めたからだ。
バキバキと音を立てて、地下室の石床に亀裂が入る。 これまでは夫人の前で「演技」として見せていた震えではない。 それは、彼がかつて戦場で、数万の敵を一人で殲滅した時に纏っていた――「死」そのものの波動だった。
ジークヴァルトは、床に落ちていたクリスタルケースの破片を一つ、静かに拾い上げた。指先から血が流れるが、彼はそれを気にする様子もない。
「……ハンス、グレーテル」
呼ばれた二人は、その声の「色」のなさに総毛立った。 そこには怒りも、悲しみも、執着すら感じられない。ただ、絶対的な虚無だけがあった。
「……案内しろ。この国から、『敵』という概念を消し去る必要があるようだ」
ジークヴァルトが顔を上げた。 銀色の髪の下から覗く瞳から光が消え、底なしの暗淵がハンスたちを射抜く。
「……そうか。あいつらは、死ぬより酷い目に遭いたいらしいな」
英雄の「仮面」が剥がれ落ちたのではない。 彼の中に巣食っていた「化け物」が、愛する者を奪われたことで、ついに檻を食い破って現れたのだ。
ハンスは確信した。 救国の英雄でも、愛に狂ったストーカーでもない。 今、目の前にいるのは――世界で最も美しい狂気を纏った破壊の化身であると。




