第六話:公爵夫人の覚悟と、戦友たちの休息
1. 【不在の試練】凛とした「公爵夫人」の姿
サロンでの出来事からしばらく経っていた。
その日は、ジークヴァルトが視察のため不在であったが、いつもの一日になるはずだった。
まだ陽も天高く登る前にアイゼンベルク公爵家に一台の馬車が訪れる。
「私の愛しい婚約者、ジークヴァルト様は本日いらっしゃるのかしら?」
馬車から派手なドレスを着た令嬢が現れ、高飛車にそう言った。
屋敷の誰もが唖然とし、止める間もないまま、屋敷の中に進み入る。
「ど、どちら様でいらっしゃいますか?」
騒然とする中、慌ててエレオノーラが姿を表した。
「あら、あなたこそ、どなたかしら? 私はジークヴァルト・フォン・アイゼンベルク公爵の婚約者エーレンライヒ侯爵の娘、ベアトリクスよ」
「……なんて悪いタイミングだ」遅れて現れたハンスが頭を抱える。
「エレオノーラ様、あちらは閣下の『自称・婚約者』でいらっしゃいます」
武功を持って一代公爵となったジークヴァルトはその容姿の良さもあって社交界では令嬢たちの羨望の的であった。
中にはこうやって押し掛け女房よろしく屋敷に乗り込んでくる積極的な令嬢も少なからずいたのだ。
しかし――。
「初めてお目にかかります、ベアトリクス嬢。私はエレオノーラと申します。ジークヴァルト・フォン・アイゼンベルク公爵の妻でございます」
「はぁっ!? あなたなんか知らないわ! ジークヴァルト様が結婚したなんて聞いてないわよ!」
婚約式、結婚式をすっとばして、ジークヴァルトがエレオノーラと結婚したことが仇となった。本来、高位貴族たるもの、しきたりを重んじ、伝統的な式典を経て婚姻を結ぶのが常なのだった。
――この場合、エレオノーラに否はなく、ただただジークヴァルトが突っ走った結果ではあったが、そんなことはベアトリクスには通じなさそうだった。
「ジークヴァルト様がいらっしゃらない隙に勝手に居座ってるんじゃないの! あなたみたいな無作法ものがあの方と結婚できるはずがないわ!」
知らないこととはいえ、無作法はどちらを指すのか呆れた言いがかりにハンスがジークヴァルトの執務室にある『婚姻証明書』を取りに行こうとする。
が、しかし、エレオノーラがその足を止めさせた。
「貴女がどのようにおっしゃろうとも、私はジークヴァルト閣下の妻です」
顔を赤くしてまくしたてるベアトリクスを前に一歩も引かず、毅然と顔を上げてエレオノーラは言い切った。
「閣下が誰を愛し、誰を妻としたか。それを疑うことは、閣下への冒涜ですわ。お引き取りを」
動じることなく、深々と頭を下げる。
エレオノーラの中でジークヴァルトを疑う気持ちは欠片も生まれなかった。彼が愛しているのは自分だけだと自然に信じることが出来た。
そして――。
その瞬間、エレオノーラは胸の高鳴りを覚えていた。
(ああ、私は……彼を守りたい。あの脆くて優しい彼を、私が誰よりも近くで支えたいのだわ。私は、あの方が好きなんだわ!)
堂々たる公爵夫人の姿を前にいきり立ち、罵詈雑言をまくしたてるベアトリクスだったが、ハンスが彼女の従者に自らの帯剣をちらつかせ、強引に引き取らせることに成功した。
2. 戦友たちの胃薬会議
ベアトリクスを追い払い、ようやく静まり返った公爵邸の裏庭。ハンスは木の幹に頭を預け、本日何度目かわからない溜息をついていた。
「……死ぬ。今日は本当に、閣下が不在でよかった。もしあの場に閣下がいたら、今頃王都の侯爵家が一つ、物理的に消滅していたぞ……」
そこへ、無表情のままトレイを持った侍女・グレーテルが現れる。
「ミューラー卿。お疲れ様です。……これ、夫人のハーブティーの残りに、私が特注で配合した『強烈な胃痛に効く薬草』を混ぜたものです」
「グレーテル……! 君は相変わらず、この屋敷で唯一の良心だな……」
ハンスはお茶を一口すすり、少しだけ人心地ついた。
「しかし、驚いたな。エレオノーラ様があんなに毅然と振る舞われるとは。閣下が見たら、嬉しさのあまりその場で卒倒していただろうな」
「ええ。ですが、ミューラー卿、私たちの寿命は縮むばかりです。仲が良いのはありがたいことですが、閣下のあの『嘘泣き』と『独占欲』を支えるこちらの身にもなってほしいものですわ」
「全くだ。……グレーテル、今夜はもう、これを食べて寝よう」
ハンスは懐から、先日の夜会で(閣下の殺気を浴びながら)こっそり確保しておいた高級菓子を差し出した。二人は並んで座り、主君たちの異常な愛に振り回される「戦友」として、静かに夜を惜しんだ。
3. 英雄の静かなる激怒
翌日、視察から戻ったジークヴァルトは、ハンスから事の次第を聞くや否や、表情から一切の血の気が引いた。
「……ベアトリクス、と言ったか。その女が、私のエレオノーラを『無作法者』と罵ったのだな?」
「はっ。……閣下、落ち着いてください。エレオノーラ様は立派に追い返されました」
「落ち着いているさ。……ハンス。ベアトリクスの生家である侯爵家が扱っている利権、すべて調査しろ。一週間以内に、彼らが王都でパンの一切れも買えないほどに叩き潰す。……それと、彼女が触れた可能性のある屋敷の調度品はすべて廃棄だ。不潔極まりない」
(出た、経済的ジェノサイド!!)
ハンスは心の中で叫びながら、無言で敬礼した。
4. 愛の覚悟と、終わらない夜
執務室での冷徹な指示を終え、寝室へ向かったジークヴァルトは、扉を開けた瞬間に「悲劇の英雄」へと切り替わった。
「エレオノーラ……! 怖かった。私がいない隙に、あんな悍ましい女が君を傷つけたなんて……。私は、なんて無力な夫なんだ……」
いつものように縋り付こうとしたジークヴァルトだったが、今日のエレオノーラは違った。彼女は自分からジークヴァルトの首に腕を回し、その胸に顔を埋めたのだ。
「いいえ、ジークヴァルト様。私、決めましたの。あなたに守られてばかりの、か弱い花ではいられません。これからは、あなたの隣で、共に公爵家を背負う『本物の妻』になりますわ」
「え……エレ、オノーラ……?」
「私、あなたのことが大好きですの。だから、もう自分を責めないで……。今夜は、私にあなたを癒やさせてくださいませ」
ジークヴァルトの脳内で、十万人分のファンファーレが鳴り響いた。理性の防波堤が、音を立てて決壊する。
「……君が、俺を誘うのが悪い」
ジークヴァルトは彼女を抱き上げ、荒々しく寝台に押し倒した。 これまでの「傷ついた子犬」のような瞳は消え、そこにあるのは、獲物を食い尽くそうとする捕食者の熱情だけだった。
「……眠ることが出来ると思わないでくれ。君のすべてを、俺への愛だけで塗りつぶしてやる」
告げるのと同時に、ジークヴァルトの身体が覆いかぶさる。
これまでに見たことのない欲望にギラつく目で見つめられ、エレオノーラは背中がぞくりと震えるのを感じた。いつもの優しさは形をひそめ、決して飼いならすことの出来ない野生の獣の荒々しさ。その欲が自分にだけ向けられていることに歓喜している。
「ええ、構いませんわ。旦那様の思うようになさって下さいませ」
熱い吐息の合間の言葉にジークヴァルトはごくりと音を立てて息を飲み込むと、息荒く、エレオノーラと自分の服を脱ぎ捨てる。
ジークヴァルトはエレオノーラに乱暴なほどに情熱的な口づけを落とした。
「……ふっ……あ、んっ!」
唇のみならず、体中に熱く口づけられ、エレオノーラの息は上がり、身悶えする。
しかし、大きな手がエレオノーラの腰を掴み、逃げ出すことを許さない。
「俺の愛は、こんなもんじゃない……すべてを受け入れるまで、逃がさない」
涙に滲んだ視界に映るのは欲望に目を輝かせ舌なめずりする獰猛な獣の顔をした男だった。初めて見るその表情に背中がゾクリと震えた。
「ええ……ジーク、いらして……」
「……ッ、ノーラ」
両手を広げ、艶然とほほ笑みを浮かべる姿に正気を手放すしかなかった。
後はただ本能に従い、愛しい肢体に自らの身体を深く重ねるのだった。
5.愛称ショックと胃薬の増量
ハンスがいつものように、死んだ目で扉の前に立っていると、中から信じられない声が聞こえてきた。
「……ねえ、ジーク。もう朝ですわ。……お仕事に行かなくては」
「……嫌だ、ノーラ。君が俺を名前で呼んでくれるたびに、心臓が止まりそうになるんだ。……あと三日はこのまま、君の声を独占させてくれ……」
(((はぁっ!?――ジーク!? ノーラ!? なんだその、甘い砂糖菓子をさらに煮詰めたような呼び方は!!)))
ハンスは背筋が凍りそうになり震える身体を自分の両手で抱きしめた。
砂を吐く甘い夫婦の睦言はただただ側近を戦慄させるのだった……。
その日の午後、いつもの裏庭で、ハンスはグレーテルから渡された「特濃・胃痛薬」を飲み干した。
「グレーテル……聞いたか。ついに愛称呼びだ。閣下に至っては、名前を呼ばれるたびに『うっ、ノーラ……尊い……』みたいな顔をして動きを止める。仕事どころじゃないぞ」
「ええ、ミューラー卿。私も今朝、夫人の髪を整えている時に閣下が割り込んできて、『ノーラの髪は俺が梳かす、邪魔だ背景』と言われました。……背景って、私、人間なんですけどね」
「背景扱い……。だが、あの夫人の全肯定っぷりからすると、そのうち『ジーク様ったら、照れていらっしゃるのね』とか言って許しちまうんだろうな」
「左様ですね。……ただ、ミューラー卿。閣下が『ノーラ』と呼ぶ時の、あの獲物を逃さないような執念深い目……。あれは、もう完全に理性のリミッターが外れています。今日から数日は、扉は開かないと見ていいでしょう」
「……あー、わかった。王宮への報告書、書き直してくるよ。『閣下が愛の毒による昏睡状態……いや、多幸感による職務不能状態につき』ってな……!!」
ハンスとグレーテルは深くため息を付いた。
主たちが幸せな夫婦生活を送ってくれるのは二人とも大歓迎だったが、こうも予想外の業務が増えるのは勘弁してほしいと心から思ったのだった――。




