第三話:逃げ場なき「婚姻届」と英雄の祝杯
1. 悲劇の英雄の「遺言」
次の日、ジークヴァルトは、昨夜の「号泣」を引きずったまま、やつれた顔でエレオノーラの部屋を訪れた。
「……昨夜の私は、本当に醜かった。君を汚した報いは、生涯をかけて受けよう。この書類は、君の身分と名誉を法的に保証するための……いわば、私の『贖罪状』だ」
穏やかに、紳士的にそう告げて持ってきた書類を彼女の前に出した。
ジークヴァルトが『贖罪状』と言ったのは『婚姻届』だった。
あくまで「君への償い」という体裁を崩さずにいたが、差し出した書類を持つ指先は、喜びと興奮でみしみしと音を立てるほど震えていた。
(そんな。「償い」で、私と婚姻するなんて……)
エレオノーラはペンを握ったものの、署名することを躊躇した。
すると、ジークヴァルトはその背後に回り、震える手をその手に添えた。
「貴女を守る以外の意図はない。……どうか私の贖罪を受け入れてもらえないだろうか」
背後からエレオノーラの体ごと包み込むように手を重ねた。彼女の視界には見えないが、その華奢な項を見つめるジークヴァルトの瞳は、獲物を仕留める直前の獣のように血走り、抑えきれない呼吸は熱かった。
(サインしろ。今すぐに。その名前を書き終えた瞬間、あんたは一生俺の檻の中だ。拒否権なんてない。逃げ道もない。十年前から、この一瞬のために俺は生きてきたんだ……!)
視線を合わせたら殺されそうな眼圧を項に受け、エレオノーラは小さくため息を漏らした。
(ああ、閣下の手がこんなに震えて……。英雄と言われる方が、私のような者のためにこれほどまでに心を痛め、責任を感じていらっしゃるなんて。……私がサインすることで、この方の魂が救われるのであれば!)
エレオノーラは、背後から伝わる彼の熱を「昨夜の罪悪感による怯え」だと完璧に誤解していた。
彼女が意を決してさらさらと優雅な筆致でサインを書き入れる。
書類が完成した瞬間、ジークヴァルトの喉から「くっ……」という、嗚咽とも歓喜の咆哮ともつかない音が漏れるのだった。
2. 怨念の重みと、副官の爆走
エレオノーラのサインが乾くか乾かないかのうちに、ジークヴァルトの「贖罪」という名の仮面が剥がれ落ちた。彼は獲物を奪い取るような手つきで婚姻届をひったくると、廊下で待機していたハンスを怒鳴りつけた。
「ハンスッ!! サインは済んだ。一秒だ。一秒でも早く王宮へ届けろ。受理印が押されるまで死んでも戻ってくるな。邪魔する奴は……たとえ王族だろうと、反逆罪として叩き潰して構わん!」
「……はっ、承知いたしましたよ」
死んだ目をしたハンスは手渡された婚姻届を受け取った瞬間、腕にずっしりとした物理的な負荷がかかるのを感じた。
(は? 重い。なんだこれ。ただの紙一枚のはずなのに、閣下の十年のストーカー執念が凝縮されすぎて、呪いの魔導書より重いぞ……!)
ハンスは公爵家の最速馬を潰す勢いで王宮へと爆走した。
3. 王宮の門番 vs 死に体の副官
早朝の王宮。まだ開門前の正門を、ハンスは馬を乗り捨てて叩き壊さんばかりに叩いた。
「開けろ! 公爵家副官ハンス・ミューラーだ! 国家存亡に関わる緊急事態である!!」
「な、なんだ!? 魔物の大軍でも押し寄せたのか!?」
慌てて出てきた門番に、ハンスは血走った目で婚姻届を突きつけた。
「魔物ならまだマシだ! これを今すぐ、一刻も早く受理させろ。……さもなくば、あの『冷血の英雄』が暴走して、この王宮を物理的に更地にするぞ!!」
文官たちが寝ぼけ眼で出てくるのを、ハンスは胸ぐらを掴まんばかりの勢いで急かした。
「いいから判を押せ! 内容の確認? 必要ない! 閣下の愛が重すぎて、これ以上待たせたら俺の胃に穴が空いて国家の損失になるんだよ!!」
4. 結び:檻の施錠、完了。
太陽が完全に昇り、ハンスがボロボロの姿で公爵邸に戻ったとき。 ジークヴァルトは、昨夜から一歩も動いていないのではないかと思うほど、じっと主寝室でエレオノーラの手を握り続けていた。
「……受理、されました。……これで、法的に……エレオノーラ嬢は、公爵夫人です……」
ハンスが受理印の押された控えを差し出した瞬間。 ジークヴァルトは、これまでの人生で一度も見せたことのない、「極上の詐欺師」のような、眩しすぎる笑みを浮かべた。
「そうか。……ご苦労だったな、ハンス。今日から三日間、屋敷を封鎖する。誰一人、入れるな」
「え……? 閣下、封鎖だなんて……」
戸惑うエレオノーラを、ジークヴァルトは逃がさないように、けれどどこまでも優しく抱きしめる。
「君を守るためだよ、エレオノーラ。……これでようやく、君は私のものだ。……いや、私が君のものになった、と言うべきかな?」
(ああ、閣下……! 私を正式な妻にすることで、ようやく心の平穏を得られたのね……。なんて一途で、不器用な方かしら)
エレオノーラは、自らを閉じ込める檻の鍵が、内側から完璧に施錠されたことにも気づかず、英雄の背中にそっと手を回すのだった。




