第二話:英雄の懊悩と、副官の受難
1. 目覚めの聖母
「ん……」
エレオノーラが目を覚ますと、そこは自分の客室ではなく、重厚な天蓋付きのベッドだった。身体は清潔で、ジークヴァルトの大きすぎるシャツを纏わされている。
寝台の脇には、エレオノーラの手を握り、跪くジークヴァルトの姿があった。一睡もしていないのか、その目は赤く充血し、目の下にはクマまで出来ていた。
彼はエレオノーラが何か言う前に、悲痛な表情でベッドに突っ伏した。
「……目が覚めたか。気分はどうだ? すまない、エレオノーラ。私は……君を失う恐怖で、騎士としての理性を失った。あんな場所で、無理やり君を汚してしまった自分を殺してやりたい」
(……無理やり? でも最後は私も……)
「あ、あの、ジークヴァルト様……」
「言い訳などしない。私は君の未来を奪った大罪人だ。……今すぐ騎士を辞め、君に一生の償いをする。あるいは、君が望むなら今すぐこの剣で私を――」
足元においてあった愛剣を躊躇いなく抜刀する。ジークヴァルトはその鋭い刃を自らの首に向けた。
(死なないで! 私のせいで英雄が失われるなんて!)
「……いけません、閣下! 私は……私は大丈夫ですわ。ですから、そんなに悲しまないで……」
エレオノーラの言葉にジークヴァルトは持っていた剣を取り落とす。カランと大剣は床に転がり落ち、ジークヴァルトは大声を上げて泣き始めてしまった。
(ああ、なんて繊細で情の深い方……。私が支えて差し上げなくては!)
聖母のような慈愛を瞳に宿すエレオノーラは、この「冷血の英雄」の号泣が、目的を達成した安堵と悦びに満ちた演技であることに気づく由もなかった。
2. 副官の回想:国家存亡の密談
一方、ジークヴァルトの執務室では、副官ハンスが朝日の中で立ち尽くしていた。
「……インクまみれのソファ。引きちぎられたボタン。ひっくり返った椅子。……ううむ、これを『新戦術のシミュレーション中に魔物が暴走した』という報告書で通すのは無理があるよな……」
ハンスは昨夜の絶叫を思い出す。
「お断りだぁぁぁぁぁぁ!!!」
廊下で控えていたハンスは、主君であるジークヴァルトがドレスの裾を掴んで号泣し、彼女をソファに押し倒す光景を目撃した。
(な、なんだ!? 暗殺者か!? ……いや、暗殺者よりタチが悪い!)
駆けつけたメイドたちに、ハンスは脂汗を浮かべながら言い放った。
「来るな! 閣下とエレオノーラ様は、今、国家の存亡に関わる『密談』の最中だ。絶対に近寄るな!」
嘘ではない。もしエレオノーラに拒絶されれば、この英雄は本当に国の一つや二つ焼き払いかねないのだから。
廊下に座り込み、衣擦れの音を聞きながら、ハンスは自分の耳を呪った。
「アンタが三年間、神棚に拝んでまで手に入れた女神様ですよ……。計画してた『バラの花を敷き詰めた初夜』はどうしたんですか。本物の莫迦だ……」
3. 深夜の儀式:清拭
月が天高く昇った頃、ようやく執務室の扉が開いた。 ジークヴァルトが、薄い毛布で包んだエレオノーラを宝物のようにお姫様抱っこして現れる。
「ハンス、すぐにお湯と清潔な布、着替えを私の寝室に持ってこい。――明日朝、この部屋を片付けておけ。絶対に、何も捨てるなよ。……ゴミ一つ、だ」
「……はっ」
寝室へ消えた主を追い、ハンスはお湯を届けた。そこで見たのは、神像を磨く信者のような、ジークヴァルトの異様な姿だった。
ジークヴァルトは、眠るエレオノーラの身体を、震える手で拭っていた。 自分が荒々しく汚してしまった場所。インクが散り、熱く赤く染まった首筋を、何度も、慈しむように。 拭うたびに露わになる所有の痕跡を、彼は暗い悦びに瞳を細めて見つめる。
「……あんたを汚していいのは、俺だけだ」
その執着に満ちた呟きを聞き、ハンスは無言で部屋を辞した。
4. 結び:唯一の常識人
「閣下、ご自分の寝室へお連れするのに、あんなに嬉しそうな顔をするなら、最初からそこでやればよかったじゃないですか……」
朝日の中で、ハンスはジークヴァルトが「記念品」として残せと命じたインクまみれの羽ペンの破片を小箱に詰めた。
「あの女神様は、閣下の大根芝居に騙されてる。閣下は女神を手に入れて悦に浸ってる。……この屋敷に、まともな人間は俺しかいないのか?」
ハンスは盛大に溜息をつき、今日もまた主君の「国家存亡の危機(私情)」を隠蔽するための報告書を書き始めるのだった。




