コウちゃん
帰り道、頭の中を整理しながら歩いていた。兄ちゃんは、ヤンキーでも金髪でも文学少年でも体育会系でもなく、オタク風な感じの……多分、知的障害とかを抱えてるヒト。
父親と二人で暮らしていると思いきや、ばあちゃんと二人暮らし。よく分かんないけど、全てオレの想像していた様子ではなかった。
「段田くん……」
ビュンと風が吹くみたいな声がした。
振り返ると兄ちゃんが立っていた。
「どうしたの?」
「買い物に……おばあちゃんに頼まれて……」
と、エコバックの中からスーパーのチラシを見せてくれた。麦茶のパックとトイレットペーパーが赤いマジックで囲まれている。
バス停まで、兄ちゃんと並んで歩いた。兄ちゃんは、中二の平均身長よりちょっと低めのオレよりも、身長が高い。猫背じゃなく、ピンと立ったらもっと高いのかもしれない。
駅までのバスは、あと五分ほどで来るようだった。兄ちゃんは買い物に行かなくてはいけない筈なのに、オレと一緒にバスを待っていてくれるみたいだ。誰もいないバス停の前で、何を話すでもなく沈黙が続いた。そうだ、やっぱり気になる事を尋ねよう。
「あのさ、陽一くん……あっ、オレの方が年下だけど、陽一くんって呼んでいい?」
「いいよ」
やっぱり目を合わせない。
「あのさぁ……陽一くんのお父さんって……いないの?」
「いるよ。たまぁーに電話掛ってくる。でもまだ帰って来ないよ」
「えっ……」
「借金取りの人が来るから出て行った」
「借金?」
「だからね、ボクのお母さんも出てったんだよ」
「陽一くんのお母さんって……」
「おばあちゃんが言ってた。もう会えないって」
「えっ?」
「コウちゃんにも……会えないって……」
「コウちゃんって……」
「ボクの弟」
殆ど人の目を見なかった兄ちゃんが、オレの目を見てそう言った。ドキドキッとした。ここでオレがコウちゃんだって言ったらどんな顔をするんだろう。
「あのね、オレは……」
隣りに立つ兄ちゃんの方に向き直って、「オレはコウちゃんなんだ」と言おうとしたけど、バスが来るのが見えた。なぜかホッとした。
「じゃあね」と言ってバスが止まって、扉が開くのを待った。
「ねぇ、また来る?」
やっぱり風のような声だった。答えられないので聞えない振りをしてバスに乗った。でも何か言わなきゃと振り返ったら、どこか寂しそうな顔でオレの肩辺りを見ていた。その時、兄ちゃんは短パンのポケットから何か出し、それをオレのジーパンの右ポケットに入れた。その瞬間、ドアが閉まった。
発車するバスの、一番後ろの空いている席に腰掛け、バス停からバスを見送る兄ちゃんに手を振った。段々小さくなっていく兄ちゃんを見ながら、このままもう会いに来ることは……あるのか、どうなのか、考えた。まだ頭と心と体がチグハグのような感じで、どんな顔をして家に帰ったらいいのか……無意識に溜息が出た。
バス、電車、地下鉄、バス……の順番に乗り、家に着いて、オレは自分の部屋に速効入った。ベッドに横になると、頭の中に兄ちゃんから出た言葉がグルグル回る。
「借金取りの人が来るから出て行った」
驚いた。離婚の原因は、「浮気」とか「性格の不一致」とかじゃなく、「借金」か。父親はそういう人だからついて行けなくなったんだ。でも、何で母さんはそんな人の所に兄ちゃんを残して離婚したんだろう。まさか、障害があるから、面倒だから、これ以上苦労したくないから……そんな理由なんだろうか……。
天井をただ見つめながら、いつの間にか思考停止。気が付いたら寝ていたらしい。ドアのノックの音で目が覚めた。母さんが入って来て、「ごはん」と不機嫌そうに言った。
メニューは、テイクアウトの牛丼にみそ汁に牛蒡サラダだった。
「仕方ないでしょ、引越しの準備で毎日忙しいんだから」
「別に何も文句なんて言ってないし。なぁ、琢磨」
いつもの様に琢磨の横に座った。母さんはオレの向かいに座り、「やることリスト」をチェックしていた。
「ねぇ、ドイツって牛丼屋さんある?」
琢磨が甘えた様な口調で尋ねた。
「あるわよ。お寿司屋さんもラーメン屋さんもあるって」
「ふうん……」
と、牛丼を突っついて食べようとしない。
ちょっと前までは元気に毎日ソーセージが食べたいとか言ってたのに、やっぱり不安なんだろう。そりゃそうだよ。オレも超不安だよ。でも弟にそんな格好悪い事は言えない。
「言葉とか……どうかな……ドイツ語喋れないし」
「お母さんだって喋れないよ。お父さんもあんまり……」
「だったらどうするのー」
琢磨は泣きそうな顔をした。
「余計不安にさせてどうすんだよ」
母さんのこういうところ、呆れる。
「おい、大丈夫だよ。言葉なんてどうにでもなるって。暮らしたら自然に話せるようになるもんらしいからさ」
「本当に?」
「そうね、お兄ちゃんにたくさん勉強してもらって、教えて貰いなさい」
と母さんがオレにプレッシャーをかけた。でも思いっきり無視して、琢磨の横顔を何気なく見たら、どこか兄ちゃんに似てる様な気がした。当たり前か、血が繋がってるんだから。
「牛丼うまっ! 琢磨食べろよ」
「うん……」
「母さんが作るご飯よりうまいよ」
「そんな事いうならもう作らないわよ!」
本気モードで怒ってたけど、母さんは料理が得意じゃない。チャーハンなんて、オレが作った方がまだマシなくらいだ。
母さんに、兄ちゃんと会って来た事を話そうか、どんな顔をするだろう。さっきまで悩んでいたけど、父さんがいない間にコソコソ会いに行ったみたいで、どこか疚しい気がしていた。
ま、取りあえず、今日はやめておこう。