それでもただ、青空だった
キャンバスに向かうと、白百合の香りがした。卓上におかれた花たちは、しおれかけて項垂れている。もう三日も前に買ってきた花だ。しかも、大学の購買にあったものだから、鮮度も低い。その落ちこぼれた感じに親和性を持って買ってきたが、もうダメかもしれない、とため息をつく。
白百合の花は、謝罪するようにいっそう萎れた。
「君のせいじゃないよ」
早朝の広いアトリエで、窓から差し込む朝陽を感じながら、俺はそう呟く。
「本当に、誰のせいでもないんだ」
キャンバスのなかには、白百合の花。まだ元気だったころの模写だから、いまとはずいぶん様子が違う。花弁も生き生きと天を向いているし、花びらの香しさはこちらまで匂ってくるようだ。ブルーの布が、白百合の美しさを、より引き立てている。
その元気さは、まだ、自分も父親のようになれると思っていた小学生のころを思い出させた。
「ため息ばかりだなあ」
そんな声に振り向くと、無精ひげをたくわえた壮年の男が入って来た。白髪まじりの髪をオールバックにまとめて、最近つけ始めたという老眼鏡はわずかに曇っている。起き抜けだからだろうか。普段着のうえに絵具避けで着ている白衣もシワだらけだった。
「親父……」
「うん。いい絵じゃないか」
そう言ってキャンバスを覗き込む親父――そしてこの大学の教授――の目は、鋭かった。父親の顔から、一気に学生の絵を論じる「センセイ」の顔になったのだ。
「白百合の儚さが、よく出ているよ。ただ、影の作り方が、まだ甘いな」
「影?」
「生き物には、かならず影がある。その影の濃さが、花や人や動物たちの美しさを決めるんだ」
「……親父には、そんな影なさそうだけれどな」
思わず、そう呟いてしまった。少年時代から神童と呼ばれ、美術学校在学中に新人賞をとり、そのまま画壇デビューした親父に、凡才の苦悩が分かるだろうか。年齢を重ねるごとに実績を重ねて、今では週に一回、余暇を教授として教鞭をふるっている人間に、俺のような何をしてもうまくいかない人間の気持ちが分かるだろうか?
「まあ、みんなそれなりの苦労はしているものさ」
と親父は答えたが、その苦労は、俺のものとは質が違うだろう。
求める絵が描けない天才の苦しみと、求める絵さえ分からない凡才の苦痛は、一緒にしてはいけない。どちらが辛いとか競争することに意味はないが、天才に「俺も辛いんだ」と言われてしまうと、僻んだ気持ちも生まれてしまうのだ。
「それより、今度の展覧会は何を出すんだ?」
「なにって。この白百合を出そうと思っているけれど」
「でも、半年も時間があるんだぞ。他の絵を出してもいいじゃないか」
親父の言葉に、俺は声を喪った。
親父は速筆だ。一作一作高い評価をうける作品を描くにも関わらず、三か月に一作は小作でもいいから仕上げている。
反面、俺は遅筆だった。一作を作り上げるのに一年かかることもざらにある。
――沢山描くんだ、龍彦。そうすれば、自分の特徴が見えてくる。その特徴を長所とすれば、お前はもっと輝けるんだ。
そう言われても、遅い筆を早くする方法が分からない。細部にまでこだわるなと言われても、親父のほうが細かいところまで書き込んでいるのだから。
「……まあ、なにか考えておくよ」
「早めに決めろよ。若い時期は短い。いつまでも時間があると思っていたら大間違いだからな」
「別にそんな風に思っちゃいないけれど」
「そうか? どんな人間も、どこかで甘えがある。明日死ぬと思って描くんだ。そうすれば、一筆ずつに、うまくなるから」
親父はそう言って、アトリエを去った。目の前のキャンバスを粉々に砕いてやりたくなった。美しい白百合を、絵具でズタズタに引き裂いてやりたくなった。
どこまでもストイックな親父と、その天才を羨むことしかできない自分の対比が、ただただ、恨めしかった。俺も、生まれながらの天才になりたかった、と心から思った。
でも……世の中ってのは、どう転ぶか分からないものだ。
俺が余命宣告を受けたのは、それからわずか十日後のことだった。
「半年、ですか」
眼鏡をかけた白衣の医師は、申し訳なさそうな顔をしていた。
大学の健康診断でひっかかった項目があって、その再検査に行った九月のことだった。雨がしとしとと降る一日で、傘をさすのが億劫で今日は行くのをやめようと思ったほどだ。どうせまだ若いんだし、大したことはないだろう、と。だが……。
「肝臓がんっていうのは、気づかないうちに進行しているんです」
「でも、去年はなんともなかったんですよ」
「若いから、進行が速いんですよ。たしか、美大でしたよね?」
「ええ……」
「受験期にストレスで病気になり、大学の健康診断で病気が発覚するのは、珍しいことではないんです。これからは治療に専念していくことになりますがーー」
そのあとの言葉は耳に届かなかった。
――どうして俺が?
ひたすらそう思い続けた。
――俺は何も悪いことなんかしてこなかった。誰かを傷つけたり、何かを盗んだりもしていない。ただ、毎日自分の絵が、父親より上手くならないことを嘆き、どうやったら父親を越せるか考えている。それだけの毎日だった。
なのに、なぜ。なぜ、俺がこんな目に……。
母は泣き崩れた。
絵以外のことに無関心な夫をもち、一人息子の俺に精いっぱい愛情を注いでくれた人だ。
「私の命を全部あげるわ。お金だっていくらでも払う。だから龍彦だけは……」
そう言いながらこぼれる涙を見ると、俺のほうが心が痛むほどだった。
だが、親父は違った。
「そうか」
と、ただ一言いって、自宅のアトリエに戻ってしまった。
――ふざけるな!
俺は、怒りのあまり拳が震えるのを感じていた。
実の息子がーーそれも一人息子が死ぬというのが分かった時も、絵を優先するのか。
「親父は、昔からそうだ……」
「龍彦?」
「俺の運動会があるときも、進路で悩んでいるときも、約束したって一度も来たことはない。親父にとって、俺ってなんなんだろうな」
「龍彦、あの人は……」
「いいよ、かばわなくても。こんな無能な俺なんて、親父は構っている暇はないだろう」
俺はそう言って、話を続けようとする母を振り切って部屋を出た。
離れの部屋にあるアトリエに向かう。父のアトリエとは、別のものだ。
このアトリエがあるのも、父が絵で稼いでくれたおかげだとは分かっていても、それを感謝するには今の俺には余裕が足りなかった。
「……俺、死ぬんだってさ」
絵具やキャンバスを目の前にして、俺はそう告げた。
目の前には、アポロン像。太陽の神は、月光に照らされて美しかった。
アトリエ全体を照らす月は、今日が満月なのだろうか。部屋を真っ暗にしていても、神々しく小さな部屋を照らす。
「どうして……。どうして……!」
そう言いながら、俺は嗚咽した。凡才という運命にも、死という運命にも逆らえない。ただ翻弄されるだけの人生で、いったいどこに、生きている理由があったのだろうか。
「俺の、生きていた証って、なんなんだ……?」
熱い涙を流しながら、そう呟いた。
答えはかえってこない。ただ、沈黙がキャンバスの上を通り過ぎていった。
翌週から、闘病生活がはじまった。
もちろん、親父は病院には来なかった。病室に飾られた花を見ながら、薬の副作用にのたうち回る日々だ。
「抗がん剤を飲んでも、治らないのに。どうして飲むんですか」
そう聞く俺に、白衣の医師は困ったように首を傾けた。
「寿命をすこしでも伸ばすためだよ」
「伸ばしてどうするんですか。どうせ死ぬんでしょう」
「そうだ。君は死ぬ。でも、やりたいことができるかもしれないじゃないか」
医師の言葉に、思わず、舌打ちした。
――やりたいことなんて、もうないよ。
アトリエには、あの夜以降、行っていない。夜の月光の美しさに引け目を感じて、足が運べなくなったのだ。
「君は、絵を描いていたんじゃないのかい?」
医師は、俺の隣に座って、そう訊いてきた。
「僕は医師だからね。将来に遺せるものは、たくさんの命を救う事しかない」
「十分じゃないですか」
「そうかな? でもね、僕は思うんだ。芸術や文化をのちの世に遺せる人ほど、尊い人もいないと。なんといっても、僕が救った誰かの、生きていく理由になるのが芸術や文化なのだからね」
医師は、真剣な顔でそう言った。
俺を慰めているのかとも思ったが、真実、そう思っているらしかった。
だからこそ、俺も心のうちをさらけ出せるような気がしたのだ。
「……俺は、出来損ないなんです」
「なんだって?」
「親父は、有名な作家なんです。たぶん、先生も名前も知ってる」
「ああ……。看護師たちが噂していたよ。確かに、知っている画家だった」
「でも、一人息子の俺は、親父みたいな天才じゃないんです。『お父さんみたいになれるといいね』『お父さんみたいに頑張りなさい』そう言われても、無理なんです。俺は、親父みたいにうまく描くことはできない」
「龍彦君……」
「親父も、俺みたいな出来損ないじゃなくて、天才の子どもが生まれたらよかったのに、って思ってるはずですよ……」
医師は、それ以上何も言わなかった。
「親はどんな子どもでも愛しているよ」とか、「お父さんも君を誇りに思っているよ」とか、見知らぬ他人に言われ続けた俺にとっては、医師の沈黙はありがたかった。
俺と親父のことを何も知らないのに口を出されることほど、悲しいことはない。
医師は「趣味は、大事だよ。生きる理由になるからね」とボソリと呟いてから、病室を去っていった。俺はベッドに背中をあずけて、窓の外を見る。
闘病をはじめてから、見えるのはこの窓の外の景色ばかりだ。
母のおかげで、個室を借りられたのはありがたいことだったと思う。毎日窓の外をぼんやり見つめていても、誰にも心配されないのは気が楽だった。
「絵を、描く、か……」
俺は窓の外を見つめる。見えるのは、青空ばかりだ。ただただ空高く、突き抜けるように青い空だけ。
「一体、何を描けばいいんだ……? 俺は、なにを描きたかったんだ?」
そう自分に問うてから、目の奥がツンと痛むのが分かった。今はただ、泣きたかった。死んでしまう悲しみを、父親に顧みられない悔しさを、ただ、大声をあげて叫びたかった。
病院の個室にキャンバスが運ばれてきたのは、それから二日後だった。
絵を描くつもりなんてなかった。でも、医師の言葉が気になっていたのだ。
――生きる理由になるから、趣味を持つといい。
たしかに、あと半年、ただ誰かを恨んで生きていくのは辛い。どうせ死ぬのならば、最後に何か遺したい。
――たとえ誰の目に留まらなくても。
油絵の匂いが外に出ないように細心の注意を払いながら、俺は描いた。描き続けた。
白、青、黒、黄色、赤……。
沢山の色を作って、絵を描き続けた。俺は窓の外を見上げる。そこにあるのは、いつも通りの青空だった。
「あの青い、突き抜けるように高い空を描こう」
そう決めたのが、なぜだったかは分からない。
病室から見えるのが、青空だけだったからかもしれない。あるいは、いつも辛い時に、見上げていた空に何かを思い出したのかもしれない。
運動会のかけっこでビリだったときに見あげた青空。
絵がうまくいかなくて落ち込んでいた時に、見上げた青空。
人生の様々な瞬間に、人は空を見上げるだろう。そこには、神様や仏様がいるわけでもないのに。救いを求めるように、空を見つめるのだ。
「俺の絵で、誰かが救われたらいい」
なんて、崇高なことを考えたわけじゃない。ただ、手が勝手に動いたのだ。色を作り、色を塗り、副作用に苦しみ、また色を生み出す日々。それは確かに、充実した、楽しい日々だった。
親父は、あの時、言った。
『若い時期は短い。いつまでも時間があると思っていたら大間違いだ』
『どんな人間も、どこかで甘えがある。明日死ぬと思って描くんだ。そうすれば、一筆ずつに、うまくなる』
あの言葉を馬鹿にしていたけれど、真実だった。
副作用の苦しさに、いつ急変するか分からないなかで描く青空は、たしかにどんどん美しく、繊細になっていった。
『生き物には、かならず影がある。その影の濃さが、花や人や動物たちの美しさを決めるんだ』
青空を描くには、一番作りこまなくてはいけないのは影だ。その影を、いまならいくらでも生み出せる気がしていた。だって、俺の体は、レントゲンで撮ったら影だらけだ。体のなかの影を、キャンバスの上にひねりだす作業は、とても簡単なことに思えた。
「……あと二枚……」
一枚目が終わった時には、そう思っていた。
「あと五枚……」
三枚目が終わった時には、そう思っていた。
「あと二十五枚……」
五枚目が終わった時には、最後の時間までに作れる絵を、そう目算した。
あきらかに、俺の筆は早くなっていたのだ。俺の病室には、たくさんの青空が咲いていた。たくさんの形の雲、たくさんの色の太陽光、たくさんのキャンバス……。
すべての青空に、願いをこめた。この青空が、誰かの心を明るく晴らしてくれますように、と。俺が親父を憎んだように、人間ならば、誰もが怒りや憎しみを持っている。それは自分自身の心を焼き焦がすほどに痛烈だろう。
その真っ暗な感情を、明るく晴らしてくれないか。俺の青空が、誰かの心に届いたらいいーー。
そう思って、描き続けた。展覧会が近づいている。親父は、俺の絵も出品すると言っていた。好きにしてくれていい。俺は天才でもない、凡才でもない。「俺」だ。
誰に評価されても、されなくても、俺は俺として青空を描いた。それでいいんだ。それだけが、俺に必要なことだったんだーーと、そう思えたから。
そうして、最期の日が来た。
俺は、体中を管でつながれながら、病室のまんなかで母に見守られていた。
医師や看護師が、俺のモニターを見ながら何かを言っている。
俺の意識はもうほとんどなくて……。
ああ、しぬ、んだな……と、他人事のよう、に思っていた。
この思考回路、も、そのうち途切れるんだろう。
「もうすこし。もうすこし、もたせてください」
母が懇願する声が聞こえてくる。
「あの人が、夫が来ているんです。夫は必ず間に合いますから、どうか……」
いいよ、母さん。そんな無理をしなくても……。
そう口に出そうと思っても、体は何も動かない。俺は本当に死ぬんだな、という気持ちだけが残った。だが、その時……。
「龍彦!」
息を切らせた父が、そう言って病室の扉を開けた。
「龍彦、これを見ろ。ようやく仕上がった!」
「お父さん、落ち着いて……」
こんなに動揺している父を見るのは初めてだった。看護師がとめるが、父は気づいていないかのようにしゃべり続ける。
「見ろ。小さなころからのお前の絵だ。一年ごとに書き続けていたお前だよ。俺は、ダメな父親だ。描くことしか能がない。でも学芸会にも運動会にも、本当はいつも行っていたんだ。お前の姿をみて、すぐに帰ってしまった。お前が頑張っている姿を、未来に遺したくて……」
そういった父からは、油絵の強いにおいがした。
俺の意識が覚醒し始める。まるで何かに導かれるように、目がひらいた。
「龍彦! お母さんよ、わかる!?」
「龍彦! 見てくれ、これは全部、お前だよ!」
母と父が、そう告げる。そして父のそばにあったものはーー。
俺の、赤ん坊時代からの一年ごとの油絵だった。
両手両足を父に向けて微笑む赤子の俺。保育園で泣く俺。運動会で走る俺。そして最後の十八枚目は、病室でキャンバスに向かう俺――。
ああ。まったく、なんなんだ。
と、俺は笑った。親父は天才かもしれない。俺は凡才かもしれない。
でも、結局同じなんだ。描くことでしか愛を伝えられない。描くことでしか、未来の人に今の気持ちを伝えられない。
「龍彦……」
親父が、俺の手をつかむ。俺の喉は、もう声を出すことはできない。
だから、精いっぱい、口の端を上げた。どうか、笑っているように見えますようにと願って。
そして大きく一度、頷いた。俺が描いた三十枚の青空の絵。そして俺が生きていた記録が詰まった十八枚の親父の絵。そのすべてを見て、俺は、満足して目を閉じた。
俺が生きていた意味はあった。ここに、あったのだ、と思いながら。
目をつむると、そこには、青空があったような気がした。青空のしたで、小さな俺をだきあげる、親父の姿があったような気がしたのだった……。
(了)