第二王子の苦悩
「――…殿下、また見ておられるのですか?」
暖かい日ざしと涼しい風に包まれる放課後、件の第二王子アレクシスは図書棟に併設されている個室の窓辺に座って、何やら物憂げに窓の外を眺めていた。
「ああ。この季節は特に綺麗に咲くからな」
その視線の先にあるのは、緩やかに揺れる素朴な赤い花の小さな花畑だった。普段は人通りの少なそうな場所にこじんまりと存在するわりには、そこには確かにこまめに人の手入れがされている気配が感ぜられ、顔も知らぬ誰かからの愛情が大きく受け取れた。
「お風邪を召されますよ」
侍従はいつものことなのだけどな、と困った顔をしていつも通りに声をかける。
眼の前のやんごとなきお方が、これしきの風で体調を崩すと本気で思っているわけではないが、ここ数日この方の様子がいつにも増して可怪しいのだ。元々どこか遠くを見る目をよくなさる方ではあったのだが、最近は心ここにあらずというか、隙の多い状態になる頻度が多すぎる。
(そう安々と他人に弱みを見せるべき立場ではないのに…)
侍従は自身の仕える殿下の傍らに立って、心配気な面持ちで横目にアレクシスを盗み見た。
「俺は何を間違えたのだろうか…」
横から、ぽつりと呟く声が聞こえた。それは風に消え入ってしまいそうなほど小さい自問ではあったが、侍従からしてみれば初めて彼の漏れ出たらしき本音を聞くことができたのだ。今を逃してなるものか、とすかさずずっと聞きたかったことを尋ねる。
「先日のご令嬢の件でしょうか?」
アレクシスは明らかに、そのご令嬢と話した日から様子が可怪しい。 主君と他クラスであったことからその現場を目撃していなかったこともあって、人伝に聞くまではいつも通りご婚約者殿と何かがあったのだろうと思っていたのだが、どうやら要因は噂の”初恋のお方”にあったらしい。
侍従はこの殿下に仕えて日が浅いため、光魔法で有名な例の令嬢との関係のことは当時の護衛騎士から少し聞いたことがある程度だった。
「…そんなにわかりやすかったか?」
侍従は小さく頭を振る。
「いえ、日常においては問題なく取り繕っておられました。しかし、今のように普段の貴方様らしくないお時間が増えているようでしたので。…差し出がましく、申し訳ございません」
アレクシスは侍従の方をチラっと一瞬だけ向いて小さく苦笑した。
「謝るな。事実俺は今王族にあるまじき甘ったれた行動を取っている自覚がある」
「そ、そんなことは!」
急いで否定しようとした侍従は、主君の言葉を途中で遮ってしまった不敬に気づき、叫ぶ途中ではたと止めた。すかさず謝ろうとしたところをアレクシスに片手で制される。
「そうだな、では少しだけ聞いてくれるか?」
「仰せの通りに」
侍従は恭しく礼をし、アレクシスが動かした視線を追うようにして窓の外の眇眇たる花畑に目を向けた。
◇ ◇ ◇
何年ほど前だったか。おそらくあれから7、8年は経っていると思うのだが、それくらいの幼少期に、第二王子アレクシスは王族の厳しい教育と、剣と魔法の修行の疲れを癒やすためにと、変装させた護衛を一人伴って市井に遊びに出ていた。
そしてアレクシスが特に気に入っていたのは、高級店の並ぶ一等区域ではなく平民たちの住まいが密集する二等区域だった。といってもお気に入りの理由は別に、民の生活が見えやすいからとか、貴族や商人らから距離を取りたかったからという王族の悩み的なものではなく、一人の少年として、とある少女が気に入ってしまったからであった。
その少女は近隣で評判の、何時でも賑わう小さなパン屋の娘。
彼女は桃色の髪に、珍しい金の瞳を持つ美少女で、近所に住む住民には老若男女問わず愛されていた。
アレクシスかて王族。幼少から周りは眉目秀麗な者に囲まれていたが、その少女ほどの周りを虜にする気性の持ち主には出会ったことがなかった。
最初は己に失礼な態度を取る物珍しい平民として近づいたのだとしても、小動物や草木に愛情を向ける眼差しや海原よりも広い懐、そして間違いを犯した者には立ち向かって正面からきつく叱り、最後には赦して聖母の如き微笑みで包み込む姿に心惹かれるのにそう時間はかからなかった。
『アレックス!』
愛らしい声で自らに向かって別の名前を読んでくる彼女に、アレクシスは何度本当の名前を教えてしまいそうになったことだろうか。だがたとえ違う名だろうと、愛情を向けられることに飢えていたアレクシスにとって彼女との時間は格別大切なものだった。
『ヘレン!久しぶりだな!』
しかしアレクシスも幼かった。ヘレンと出会って丁度1年経つほどだったか、実際に自分が王族だと明かしたことが一度だけある。
『まったくアレックスったら。先週も会ったのに久しぶりだなんて』
その頃王宮内は皇后の病死によって騒がしく、アレクシスも市井に遊びに出ることができる頻度も少なくなっていた。そして、その日を堺に当分の間は王宮の外へ出ることができなくなるのだとも教育係たちから聞かされていたのだ。
『約束の物だ』
そう言ってアレクシスは、素朴な赤い花で彩られた少女の頭サイズの花冠を差し出した。
『わぁ!素敵!最初はあんなに下手っぴだったのに、たくさん練習したのね!』
『…別に、これくらい俺にかかれば容易いことだ』
アレクシスは器用ではない。手先を使うことなど全て使用人がやっていたし、そもそも花冠などという庶民の遊びなどしたことがなかった。
しかし近所のガキ共にプレゼントされて喜んでいるヘレンの顔を見て、自分も、と初めて挑戦したとき、目も当てられない結果になった。だがそれでも嬉しそうに頭に乗っけて笑ってくれたヘレンに、アレクシスはこれが恋だと気づいたのだ。
それから数ヶ月隠れて練習し、今でさえ所々ヨレてはいるものの、以前の不格好な物よりかは遥かにマシな出来になったと自負している。
『ふふ、ありがとう。…見て、ぴったり!』
そう言ってヘレンはその場でクルリと回った。麻のワンピースの裾がひらりと揺れる。
『お姫様みたいでしょ?』
そう問われてアレクシスは固まった。
姫と言われて真っ先に浮かぶのは自身の妹や姉、隣国の姫たちだ。しかし彼女らは童話の中の存在ほど”お姫様”ではない。アレクシスは早くも女という生き物に辟易としていた。
(お前のほうが、余程…)
しかしそれを口に出せるほど成熟した男ではない。
アレクシスはその問いには答えないまま、口を開いた。
『なぁ、ヘレン』
『なあに?』
ここでは貴族を脱ぎ捨てていい。しかしヘレンの望む”王子様”になろうと、アレクシスは片足を地につけてヘレンの小さな手を取った。
『暫くここには来られなくなるんだ。でも、絶対迎えに来るから、いつか俺のところに嫁にきてくれないか』
『…しばらくって、どのくらい?』
ヘレンは頬を染めて、コテンと首をかしげる。
『わからない。俺の周りが落ち着くまで、俺がお前を守れるようになるまで』
『アレックスの家族の人は悪い人たちなの?』
『…まぁ、そんなところだな』
アレクシスはつい数日前に、自らの教育係の中で最も信頼を置く老紳士に自分の秘めた恋を打ち明けた際に言われた厳しい助言を己の中で反芻する。
"まずその少女は、殿下と婚約又は婚姻なされた場合、半年とせず命を落とされるでしょうな。殿下のいらっしゃる場所はそういう所。強い後ろ楯になるような有力貴族も、今はまだその時ではないと首を振るでしょう。数年後、数十年後になるかもしれませんが、殿下がその少女を真に大切にお思いになられているのならば、この地が落ち着き、しっかりとした根回しと安定した体制が出来上がるまでお待ちになるのがよろしいかと。"
切れ長の目で、しかし確かに孫を見守るような愛情と忠誠心のこもった目で優しく微笑まれた。
アレクシスはヘレンに向かって、詳しく話すことはできないからなと苦笑する。
『でも、お兄さんは良い人でしょう』
そう言ってヘレンはアレクシスの背後に目を向けた。
アレクシスの背後、少し離れた位置に控えるようにして立っているのはアレクシスの護衛だった。
『そうだな。あの兄さんも俺を守ってくれる人の一人だ』
『アレックスが困ってるのなら、私も一緒に守ってあげる!…でもお嫁さんはダメよ』
何となく予想していたその答えに問い返す。
『どうして?』
『私はいつか王子様と結婚するの!もう少ししたら素敵な王子様が私を迎えに来てくれるような、そんな予感がするのよ』
アレクシスはその言葉に思わず立ち上がった。
『…実は、俺この国の王子なんだ。…今はまだ無理だけど、いつか絶対本物のティアラをつけてあげられる。綺麗なドレスを着て、一緒に城で暮らすことができるんだ』
後ろから護衛の静止の声が聞こえるが、アレクシスは必死になってヘレンの両手を握って言った。
ぱちん。
しかしヘレンから返ってきたのは優しいビンタだった。痛さなど微塵もない。包み込むような音だけのビンタ。
『めったなこと言わないの!ふけい罪でアレックスが殺されちゃうわ!』
そう言ってヘレンはポロポロと涙を流しだした。これにはアレクシスもぎょっとする。
変装のため、王族の血筋特有の金髪は茶色に染めてはあるが、ここまで信じてもらえないとは。
『ご、ごめん。でも…』
『でもじゃない!外ではそんなこと言っちゃだめよ!』
『うー…』
好きな子に泣かれては困るので、渋々ながらも頷いた。
その後も数時間ヘレンは聞く耳を持たず、あっという間に城に帰る時間を迎えてしまった。
こんな形で別れるのかと両者ともシュンとしていると、帰り際、小走りでヘレンが駆け寄って来た。
『アレックス!』
ヘレンはアレクシスにぎゅっと抱きつく。
『もしあなたが本当に王子様なら、ぜったいに私を忘れずに、かっこいい王子様になって迎えに来てよね。そのときになったらプロポーズのお返事も考えるわ!』
アレクシスは胸がいっぱいになって抱きしめ返した。
『うん。童話の王子みたいに、綺麗な宝石の指輪を持って、白馬に乗ってくる』
◇ ◇ ◇
「――…で、丁度あの花がその時の花冠と同じのなんだ」
話し終わってアレクシスは、懐かしげにもう一度窓の外を見る。
「長かったか?」
「いえ!とても…大切な方だったのですね」
侍従は言葉を選びながらアレクシスに向き直る。
「そうだな。だが、そう思っていたのは俺だけだったらしい」
あれから、アレクシスには婚約者ができた。事情があるとはいえ、それもヘレンに対する裏切りだろう。
この学園で再会するとは夢にも思っていなかったが、そもそもが今のままでは、まだヘレンとどうこう言っていられる状況ではない。
「きっと思い出されますよ」
約束したのだ。諦めるわけにはいかない。そして、諦めたくない。
「ああ、…そうだといいな」
たとえヘレンが自分を思い出してくれずとも、結果として現在の婚約者クリスティーナ嬢と婚姻を結ぶことになろうとも、自らの心に淡く住み続けるこの心は決して色褪せぬだろうというそんな確信だけが、変わらず心の中をひっそりと占めていた。




