5本目
「聞きまして? ダニエル様とソフィア様、婚約破棄なさったんですって!」
「まぁ! 本当に?」
「正式な書類はまだ揃ってないみたいだけど、両家の間で合意したそうよ」
不本意ながら、破局の魔女が言っていた事は現実となった。
学園内では朝からとある婚約破棄の話で持ちきりである。……言いたくはないが昨日の二人だ。彼らの婚約は広く知られていたらしく、破棄の件は女子生徒を中心に瞬く間に広まった。おかげで聞きたくもないのに色々な情報が耳に入ってくる。生徒たちで溢れる食堂では、特に。
昨日の出来事はあまり思い出したくないのに。話を聞くたび、あの厭な金属音が耳の中で響くのだ。俺はただひたすら昼食のパンを咀嚼する。きっと今の俺はさぞかし仏頂面をしているのだろう。その証拠に、話し掛けてくる奴は誰もいなかった。
「聞いたか? ダニエルとソフィア男爵令嬢の婚約破棄」
……さっきの言葉を訂正しよう。仏頂面の俺に話し掛けてくる奴はいなかった。ただ一人を除いて。
今最も聞きたくない話題を堂々と振ってきたトムを睨むように見上げる。本当に空気の読めない男だ。
「は? 興味ねーよ」
「こわっ! 機嫌ワルッ! どうした? カルシウム不足か? ニーナさんに牛乳頼んどくか?」
冗談ではなく真剣に言ってるのが腹立たしい。不機嫌な俺の態度に臆することなく、トムはトレーを置いて前の席に座った。いやここは空気を読んで立ち去るべきだろう。そんな俺の心中も知らずに、トムは能天気に続ける。
「婚約期間結構長かったのになー。こんな終わり方ってなんか切ないよなぁ」
こうなったのは全部あの女のせいだよ、と口には出さず心の中で文句をぶつける。ああもう、最悪の気分だ。
「でも、さすがのソフィア嬢も我慢の限界だったんだろうなぁ。ダニエルの浮気は本当にひどかったから」
「…………は?」
予想外の内容に思わず声が出る。
「え? まさかお前知らなかったのか?」
トムはそんな俺を驚いたような丸い目で見てきた。悪かったな。俺はそういう情報に疎いんだよ。
「元々あの二人の婚約は政略で結ばれたものだったらしい。それもダニエルの家からの申し出で。でも、たとえ政略だったとしてもソフィア嬢はダニエルを愛してた。……残念ながらダニエルはそうじゃなかったみたいで、婚約者のいる身でありながら複数の女性と関係を持ってたんだ」
そういえば……。昨日の朝、食堂で会った時に見たダニエルの小指にはたくさんの赤い糸が絡まっていた気がする。放課後、図書室から見た時はキャパオーバーだったせいか気付かなかったけれど。
「今まではソフィア嬢がダニエルを愛していたから、親からどんなに破棄をすすめられても断ってたんだ。でも、ようやく目が覚めたのかな? それとも愛想が尽きたのか……まぁそりゃ尽きるよな。学園内で見せつけるように逢瀬を重ねられてたら。俺も何回か見たことあるけど酷いもんでさ、ソフィア嬢はよく我慢してたよ」
話を聞くにつれて、俺の心臓がジクリと痛みだした。何だか胸のあたりがもやもやして不快だ。
「不貞行為を理由に相手有責での婚約破棄だろうから、慰謝料をたっぷり貰ってもっといい婚約者を見つけるといいさ。幸い、事業提携なんかの話には影響がないみたいだし、ソフィア嬢が気に止むことは何もないんだ。最近じゃ貴賤婚や恋愛結婚も多くなってきたし、破棄して傷物扱いされることもなくなってきたしな」
今まで眉尻を下げていたトムが、ふと表情を緩めて言った。
「個人的にはこれで良かったと思うよ。だって、そんな不誠実な男と結婚したってソフィア嬢は幸せになれないから」
トムの言葉が胸に突き刺さった。回らない頭を必死に動かして情報を処理していく。すると、一つの可能性が浮かんできた。……もしかして、彼女はこの事を全部知っていたんじゃないだろうか、と。
*
胸に渦巻いた黒いもやもやは、時間の経過と共にどんどん大きくなっていった。喉に引っ掛かった魚の骨のように、チクチクと胸に何かが突き刺さる。そのせいで、午後の授業はまったく集中出来なかった。
頭の大半を占めるのは、もちろん昨日の出来事である。
……そうだ。よくよく思い出してみれば、ベンチで見たあの二人の糸はかろうじて繋がっている状態だった。所々が弱っていて、いつ切れてもおかしくないほどに細くなっていたし、蝶結びも未完成だった。ああ、自分はなんて馬鹿だったんだろう。いくら余裕がなかったからとはいえ色々見落としすぎだろ。前回の反省がまったく生かされていない。寮へ向かう足取りは鉛のように重苦しい。自己嫌悪で押し潰されそうだった。立ち止まって、俺の心をそのまま映したような曇天を見上げる。
……何も分かっていないのは、俺の方だったんだな。
赤い糸の事、ソフィア嬢の事、ダニエルの事、人の気持ち。そして──サラ・クラーク嬢の事。
あの時、彼女は一体どんな気持ちで俺の怒声を浴びていたんだろう。怒りもせず、反論もせず、一体どんな気持ちで…………。
ああああああもう!! ぐしゃぐしゃと頭を掻き回す。こんな所で悩んでいたって仕方ない。男は度胸。行動あるのみだ! 両手で頬を叩いてしっかりと気合いを入れると、くるりと踵を返す。俺は第二図書室に向かって歩き出した。
*
キィ、と小さな音をたててドアを開く。中の空気は昨日と変わらずひんやりと冷たい。まるで俺の来訪を迷惑がっているようだった。ずんずんと突き進むと、活字に目を落としているサラ嬢の横顔が目に入った。俺は思わず立ち止まる。
しかし、気配を感じたのかサラ嬢は静かに顔を上げた。猫のような大きなつり目と目が合う。俺と彼女の間には張りつめた空気が漂っていた。息苦しい程の静寂に包まれ、見つめ合ったまま動けなくなる。
そのままの状態でどれくらいの時間が経ったのだろう。実際にはほんの数分、いや数秒だったのかもしれないが、俺にはやけに長く感じた。
「何か?」
静寂を破ったのは、彼女の凛とした声だった。
「……あ、ああ。いや、その、」
「用がないなら帰ってくれる? 読書の邪魔だから」
彼女の態度は昨日とまったく変わらない、上から目線の高圧的なものだった。その事に何故か少し安堵して、俺はゆっくりと口を開く。
「……知ってたのか?」
「は? 何の話?」
俺はしどろもどろになりながら続ける。
「その……昨日の。ダニエルが他の女と浮気していた事やソフィア嬢が悩んでいた事とか、色々」
サラ嬢は一旦俺から視線をそらして溜め息をついた。
「知らないわ。あの時、たまたまベンチに座っている二人を見付けた。だから切った。ただそれだけ。貴方の思っているような理由はないわ」
ハッキリと言われるも、俺は気付いてしまった。彼女の白く小さな細い手が、読みかけの本のページがよれるほど強く握りしめられていることに。それを見て、何故か俺の胸が痛んだ。
「……昨日言った事は全て撤回する」
「え?」
「悪かった。酷いことをたくさん言って、最低だなんて怒鳴って……本当に申し訳ない」
謝罪の言葉を述べると、俺は深く頭を下げた。口では気まぐれだの邪魔だからだのと屁理屈を言っているけど、彼女は彼女なりの考えがあって行動しているのだ。
頭上から、深い溜息を吐く音がした。
「顔、上げて」
その声に、俺はゆっくり顔を戻す。サラ嬢は俺から目を逸らさずに言った。
「謝る必要はないわ。貴方は事実を言っただけなんだから」
「違う! そうじゃない! 何も知らなかったのは俺の方だったのに。噂を鵜呑みにして、サラ嬢のことを傷付けた」
「……別に私は傷付いてないわ。怒ってもないし、貴方が謝る必要は本当にないのよ」
「でもそれじゃ俺の気が済まない!」
サラ嬢は再び溜息をついた。
「……じゃあ、一つ言うこと聞いてくれる?」
「ああ。俺が出来ることならなんでも聞こう」
「そう。なら、サンドラってお店のバタークッキーを買ってきて。いつでもいいから」
「は?」
どんな無理難題が来るのかと身構えていた俺の体からは力が抜けた。
「あの店のクッキー気に入ってるのよ。悪い?」
「いや、別に悪くないが……そんな事でいいのか?」
「あら。あそこは人気店だから並ばないと買えないのよ。客層は女性が多いし、男性には居心地が悪いんじゃないかしら?」
しばらくポカンと口を開けている俺を怪訝そうな顔で見やる。
「……なによ」
「いや、随分可愛らしいお願いだと思って」
素直な感想を言えば機嫌が悪そうに眉間にシワが寄った。
「で? 買ってきてくれるの? くれないの?」
「そりゃ買ってくるけど……本当にいいのか? 焼き菓子一つで許してくれるなんて……」
「許すも何も別に私は怒ってないもの。ただ、せっかくの貴方の厚意を無駄にするのは勿体ないと思ったからお願いしただけ」
サラ嬢はふい、と顔を横に向けて校舎の外を見る。まさか照れているのだろうか。
「ふはっ……なんというか、サラ嬢は素直じゃないんだな」
思わず漏れた笑い声に気を悪くしたのか、彼女の眉間のシワがぐっと深くなった。それから諦めたように小さく息を吐く。
「……もう近付いてこないと思ってたのに。貴方って変わった人ね」
そう言って、サラ嬢は薄く微笑んだ。それは俺が初めて見た彼女の笑顔だった。なんだ、普通に笑えるんじゃないか。その笑顔を見て、何故かくすぐったい気持ちになった。




