糸屑:2本目
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レイラとの結婚生活は上手くいっていた。なんというか、彼女の側はひどく居心地が良かった。一見冷たい印象の彼女が僕を見ると頬を染めて笑う姿は可愛らしく、こちらも自然と笑顔が浮かんだ。……僕はアンナが好きなのに。少しでも揺れ動いてしまった心に自己嫌悪する日々。
結婚して二年目には子供が産まれた。レイラに似たプラチナブロンドの髪に、赤い瞳を持った可愛らしい女の子。喜びも束の間、レイラは娘の赤い瞳を見た瞬間驚いたようにハッと息を呑んだ。それからバタバタと周囲が慌ただしくなり、僕はなんだか置いてけぼりにされた気分だった。
それから数日後、クラーク家の力について伯爵から話をされた。東の国の巫女様の血を引いていること、生まれた娘がその力の一部を継承したこと、しかし今はまだどんな力があるか分からないこと、この話は絶対に口外しないこと。聞いたばかりのせいかいまいち信じられなかったが、まぁ、西の国では魔術なるものを使う一族がいると聞くし……と無理やり自分を納得させた。
これと言った変化のないまま数年……ある日サラは言った。みんなの小指に赤い糸が見える、と。
おそらく巫女様の力の一部なのだろう。侍女が慌てて伯爵に報告する。調べると、やはり巫女様の力の一部だった。サラの見えている赤い糸は運命の赤い糸と呼ばれるもので、将来結ばれる男女の小指を繋いでいるものらしい。まるでお伽噺のような力だ。
詳しく調べていくと、その糸は運命とは名ばかりで、実際は自分が好意を持っている相手に向かって伸びていく糸だという事が分かった。巫女様の力を持つ者はその糸を好きに操れるらしく、政略結婚の時なんかは役に立ったそうだ。好きだった相手との糸を切れば未練を残さず結婚できるし、政略の相手と結べば相思相愛になれるからだ。ただし、糸が結ばれた後に本物の〝運命の相手〟になれるかは本人たちの気持ち次第だという。なんだか使えるんだか使えないんだか、よく分からない力だ。
僕は自分の小指をじっと見つめた。僕の赤い糸がどこに繋がっているのかは僕自身がよく知っている。もし……もしこの糸の先にいる彼女のことが、僕の秘めた想いが暴かれたらと考えると怖くなった。その事が原因で娘を避けるようになり、職場である王宮に泊まる事が多くなった。
──そんな時、アンナと再会を果たした。なんと王宮にメイドとして働きに出てきたのだ。まさに運命のような再会で、僕の胸は熱くなる。
アンナの家は没落寸前だが、なんとか男爵家の形を保っていた。長男が色々と頑張っているらしく、借金の返済も終えたと聞く。アンナはまだ結婚しておらず、婚約者もいない。おそらく、借金や年齢のせいで相手が見つからないのだろう。僕はずっと彼女の事を気に掛けていたので、これらの情報は聞かなくても分かっていたが、久々に話す彼女の話に耳を傾けた。自分が結婚してからは一度も会っていなかったが、変わらない笑顔に胸が高鳴る。
毎日アンナに会えると思うと、幸せな気分になった。特にどうこうしようという気はない。ただ顔を見られるだけで幸せなのだ。
だが、その幸せも束の間。
ある日娘のサラに言われたのだ。「お父様の小指にお母様とは違う赤い糸が結ばれてるわ」と。真っ赤な瞳で僕の小指を見ながら、心底不思議そうな顔で。
周りがハッと息を呑むと同時に、全身の血が一気に引いた。恐れていたことが現実となったのだ。妻であるレイラの顔が見られない。情けない事に、奥歯が震えてカチカチと鳴った。怒りをぶつけられるのか、涙を流して責められるのか──とにかく、どんな事を言われても受け止めるしかない。僕は何を言われても仕方ない事を……心の中では、ずっと家族を裏切ってきたのだから。審判を待つ時間がやけに長く感じた。
しかし妻は──レイラは何も言わなかった。恐る恐る視線を向けると、悲しそうな笑顔を浮かべて娘の頭を撫でるレイラの姿が見えた。その仕草には諦めや虚しさのようなものが感じられる。
まさか……まさかレイラは知っていたのか? 僕が他の女性を愛していることを。そんな、まさか。いや、もしそうだとしたらいつからだ? 一体いつからレイラは僕の気持ちを……。思考がぐるぐると回る。
罪悪感や気まずさから、僕はますます邸に帰らなくなった。
王宮で僕の様子がおかしい事に気付いたアンナが心配して声を掛けてくれたので、話を聞いてもらった。赤い糸の事は伏せて事情を話すと、アンナは結婚してもずっと僕の事が好きだったと。諦められなかったのだと言って頬を濡らした。たまらず僕はアンナを抱きしめた。
こうなった以上、もう後戻りは出来ないだろう。僕は全てを捨てる覚悟を決めた。だって、巫女様の力を持つサラも言っていたじゃないか。僕の赤い糸はレイラとは違う人と結ばれているって。僕の運命の相手はアンナ以外にありえない。だから、僕はあの日──
* * *
久しぶりに帰った邸の庭。花壇に咲く花を眺めていた娘に静かに近づく。
「なぁ、サラ」
……このままレイラと一緒に居たって幸せになれない。お互い苦しいだけだ。彼女を僕みたいな最低な男から解放してやろう。その方がお互いにとって良い事なんだから。アンナの家も借金の返済を終えたし、我が領地も復興が進み、最近では税収も見込める。だったらもう……いいじゃないか。心の中で言い聞かせるように何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
娘の真っ赤な瞳を覗き込むように見つめ、小さく口を開いた。
「母様と父様の糸を切ってくれないか? お願いだ。サラの力で僕たちを助けてくれ」
今思うと、なんて残酷な言葉を娘に告げたのだろう。僕は親として、いや、人として最低だ。
僕の言葉を信じたサラは躊躇いながらも糸を切ってくれたらしい。僕には見えないのではっきりとは分からないが、なんだか胸が軽くなった気がした。
当時の僕はサラが糸を切ってくれた事に気分が高揚した。これで自由になれる。これで彼女と幸せになれる。子供の頃からずっと想い続けてきたアンナと。
数日後、僕は一枚の書類を持ってレイラの元に向かった。
「すまないが、僕と別れてほしい」
向かい合ったレイラに向かって言い放った。彼女は海のような青い瞳で僕を真っ直ぐに見据える。
「……そう。そんなに彼女がいいの。幼馴染、だったかしら」
「……やはり知っていたのか」
「ええ。貴方たちは恋人だったそうね。でも、知ったのは結婚した後よ」
彼女は諦めたような笑みを浮かべた。
「私、好きだったの。貴方の事。学園で、貴方は覚えていないかもしれないけど、私の落としたハンカチを届けてくれて〝これからは気を付けてね〟って微笑んでくれた時から……ずっと。弱みにつけ込むように婚約を結んだのは申し訳なかったけど、結婚出来た時は嬉しかったわ。これから二人寄り添って生きていくんだって、胸を躍らせた。でも、すぐに分かったの。貴方の気持ちは私にはないって。だって、彼女を見る目が違うんだもの。それで調べたら、彼女と恋人だったって事が分かって……それでも私、何も言わなかった。今貴方の隣にいるのは私だから。ゆっくり愛を育んでいけばいいのよって、そう言い聞かせて。それからずっと振り向いてもらおうと頑張ったわ。……でも、もう駄目なのね」
「……すまない」
「サラの言葉で決心がついたのかしら?」
「……すまない」
娘の言葉が背中を押してくれたのは事実だ。だってあの子が言ったんだ。巫女様の血を引いたあの子が。だから……レイラの口からはぁ、と溜息が溢れた。
「我が一族が……あの子がこんな力さえ持ってなければ、私は仮初の幸せの中でずっと過ごせたのかしらね」
僕は涙を流すレイラを尻目に、無言で家を出た。




