19本目
何かが起きるのはいつも突然だ。
騎士科の公開訓練。今日は剣の腕を競う試合形式で行われた。何組かのグループに分かれ、総当たり戦で各自の成績、つまりいくつ勝ったかが記録され成績に反映される。結果はもちろん将来に影響するので、みんないつも以上に真剣に取り組むのだ。
そして、この試合を楽しみにしている生徒、特にご令嬢方は多く、訓練場には今日もたくさんのギャラリーが集まっていた。もちろん常連のマリア嬢も来ていて、熱い眼差しでワイルダー隊長を見つめていた。婚約者や恋人が見に来ている奴も居て、彼らは彼女に良いところを見せようと気合いが入っていた。まぁ、俺はそんな奴らをこてんぱんにして見事に勝利をもぎ取ったわけだが、これは訓練に真剣に取り組んだ結果である。決して八つ当たりではない。訓練が終わった今はタオルや飲み物の差し入れを渡され、慰められている姿がチラホラと見えるが……羨ましくなんかない。決して。
「アレックス・ロンバート様」
ご令嬢に囲まれている奴らの姿を睨むように見ていると、この場では絶対に聞くことがないはずの声が俺の名を呼んだ。人前には滅多に現れることのないサラ嬢の登場に周囲はどよめいた。噂のせいもあり、視線が一気に集中する。彼女がこんな場所に来るなんて……どういう風の吹き回しだ?
俺と目が合うとサラ嬢はちょいちょいと手招きをして訓練場の隅へと呼んだ。彼女にしては珍しく、周りの事はあまり気にしていないようだった。
「……どうしたんだ?」
この場にいる全員の視線を背中にひしひしと感じながら、俺は小声で言った。サラ嬢も声を落として続ける。
「……退院が決まったの」
「え?」
「あの人の……お母様の退院が決まったの」
「お? おお!! それは良かった! おめでとう」
サラ嬢はこくりと頷いた。
「伝えてって言われたから。用事はそれだけよ」
「そうか、ありがとう。でもわざわざこんな所に来なくても図書室で言ってくれれば良かったのに。サラ嬢は目立つの嫌いだろう?」
思ったことを素直に言えば、何故かギロリと睨まれた。
「な、なんだ?」
「……別に」
心なしか不機嫌になった気がする。しかし、呆れたように息を吐くとすぐにいつもの表情になった。
「公開訓練には初めて来たけど、なかなか見応えがあって面白かったわ。それに貴方、見かけによらず結構強いのね」
珍しく褒めてくれたかと思えば、一言が余計で素直に喜べない。……いや、まぁ嬉しいけれど。
そんな軽口を叩いていると、背後から突然「キャー!」「おめでとうございます!」「お似合いですわ!」というご令嬢方の黄色い歓声が上がった。何かあったのだろうかと振り向くと、生徒に囲まれたエマ先生とワイルダー隊長の姿があった。二人は照れながらも、幸せそうな笑みを浮かべている。その様子を見てハッとした。もしかして、その時が来てしまったんだろうか。そんな、まさか。
「エマ先生、ワイルダー第三隊長様、ご婚約おめでとうございます!!」
俺の予想を決定付けるご令嬢の甲高い声が響いた。やはり二人の婚約が発表されたらしい。
俺はすぐにマリア嬢の姿を探した。彼女は祝福を述べる輪から外れ、二人を見ながら呆然と立ち尽くしている。顔色は悪く、今にも泣きだしそうなのを必死に我慢していた。声を掛けることも駆け寄ることも憚られ、俺はその様子を見ていることしか出来なかった。
公開訓練は放課後に行われたこともあり、人の波はどんどん引いていった。気がつけば、この場に残っていたのは俺とサラ嬢だけだった。
「マリア様なら裏庭に向かったわよ」
「…………」
「行けば? 傷心してる女の子は優しさに弱いんだから、チャンスなんじゃない?」
「…………」
「ちょっと、聞いてる?」
何も言わない俺に痺れを切らしたのか、いつも以上に眉間に力を入れた険しい顔で語気を強める。
「彼女を一人で泣かせてて良いわけ?」
俺は黙ったまま顔を上げ、サラ嬢と向き合った。お互い相手の目を真っ直ぐ見据えている。そのまま動こうとしない俺が不思議なのか、サラ嬢は首を傾げた。
「どうしたの? 早く行きなさいよ」
「……どうして何も言わないんだ?」
俺は静かな声で言った。今度はサラ嬢が黙りこむ番だった。
「確かに俺はマリア嬢に惹かれていた。でもそれはただの憧れで、恋愛感情とは別だったって事に気付いたんだ」
その証拠に、俺の糸は切られてから再び彼女に伸びる事はなかった。つまり、俺の気持ちはその程度の気持ちだったという事だろう。
彼女は運命の相手ではなかったのだ。俺の、俺の赤い糸の先は──。
「見えてるだろう? 俺の糸が」
「………………」
「俺の糸が今誰に向かって伸びてるのか」
サラ嬢は何も答えない。たださっきと同じように首を傾げながら、俺を見ていた。
「俺は……俺は、サラ嬢の事が、」
「早く行かないと誰かに取られちゃうわよ。マリア様は人気のご令嬢だもの」
サラ嬢は俺の言葉を遮るように、抑揚のない声で言った。俺から視線を外して、ゆっくりと下を向く。
「それに」
小さな声で、でもはっきりとした口調で、誰かに言い聞かせるようにサラ嬢は続ける。
「私と居たって、貴方は幸せになれないわ」
「そんな事ない! ……俺はっ!」
「貴方ならわかるでしょう? 一緒に居たら私はまた誰かを……貴方のことを傷付けてしまうわ」
サラ嬢はいつか見たように寂しげに笑うと、制服のポケットからあのハサミを取り出した。
「……サラ嬢?」
一歩、また一歩とサラ嬢は近付いてくる。
「待て、何をする気だ」
「貴方の性格は鬱陶しかったけど、嫌いじゃなかったわ」
俺の声を無視して、サラ嬢は俺から伸びた糸の、ちょうど真ん中あたりを左手の親指と中指で引っ張った。彼女がこれからすることは簡単に予測出来る。見えるだけで触ることの出来ない役立たずの俺は必死に叫んだ。
「サラ嬢! やめろ!」
「今までありがとう。色々な事に付き合わせちゃってごめんなさいね。貴方には本当に感謝してるわ」
「おい! やめろって!」
「貴方は貴方の本当に好きな人と幸せになって」
「話を聞け! サラ嬢!」
「それが私の願いなの。だからどうか、幸せに」
右手に持ったハサミの刃を、引っ張った糸の部分にゆっくりと近付ける。
「……ごめんなさい」
「っ! サラ!!」
〝さようなら。アレックス・ロンバート様〟
あの時と同じように厭な金属音が耳を貫いた。痛みはないはずなのに心臓が引き裂かれたように痛い。うるさかった鼓動の音がしんと静まりかえり、熱かった体が一気に冷えていく。周りの音が聞こえない。呼吸が、苦しい。
サラ嬢の言葉を最後に、俺の視界は真っ暗闇に包まれた。
意識が落ちる寸前、ほんの一瞬だけ見えたサラ嬢の瞳に涙が浮かんでいたように見えたのは俺の願望が見せた錯覚だったのだろうか。
* * *
ふと気が付くと、俺の目の前には小さく肩を震わせて涙を流しているマリア嬢が居た。時々聞こえてくる嗚咽が胸を締め付けるように苦しい。
震える華奢な肩に手を置いて、そっと頭を撫でる。
「ア……レックス……さま」
次から次へと溢れる雫が彼女の頬を濡らす。
俺はマリア嬢の柔らかい頬を傷付けないように、その雫を指でそっと拭った。涙の混じった掠れた声で俺の名前を呼ぶと、自分の肩に置かれた俺の手をぎゅっと握った。小さく力を込めて握り返す。でも──。
なんで俺、今ここに来たんだっけ。
なんで俺、マリア嬢の事慰めてるんだっけ。
なんで俺、こんなに泣きそうになってるんだっけ。
なんだか記憶が曖昧でよく思い出せない。頭に深い霧がかかっているようにぼうっとする。ただ、どうしてだろう。俺は大事な何かを失った気がして仕方ない。こう、心にぽっかりと大穴が開いたような喪失感が押し寄せて、呼吸をするのも苦しいんだ。でも、それを思い出そうとするたび胸の痛みが邪魔をする。
なぁ、誰か教えてくれ。この感情を何て呼んだらいいんだよ。
なぁ、誰でもいいから答えてくれよ。頼むから……。




