1本目
自分の小指に真っ赤な細い糸のようなものが巻き付いていると気が付いたのは、朝起きてすぐの事だった。
……この赤い糸は一体なんだ? 俺は昨日こんなものを付けて寝たか? いや、付けてない。小指に巻き付いた糸は空中にピンと張ってあり、ドアの方にまで伸びていた。もしかして誰かの悪戯か? キョロキョロと辺りを見回すが、人の気配はまったくない。
困惑しながらも、とりあえず巻き付いた糸を外そうと試みる。が、それは何かで貼り付けられたように小指から離れなかった。……というより、信じられない事に糸本体に触れない。触ろうと伸ばした手はさっきからスカスカと空振りばかりだ。
嘘だろう? 一体どうなってるんだ?
もしかしたら俺はまだ夢の世界にいるのかもしれない。そう思って、ベタな手段だが頬を強くつねってみた。……普通に痛い。どうやらこれは現実だったらしい。ただのつねり損である。
もう一度小指に手を伸ばすが、その手は気持ちいいぐらいスカッと空を切った。目の前には、しっかりと赤い糸が存在している。
いやいやいやいやちょっと待て。なんだよこれ、どういう事だ? 見えているのに触れない? いや、普通に考えてそんな事はありえない。右手を上げると、ピンと張っていた糸が揺れる。よく見ると、糸はドアの隙間から外に向かって伸びていた。どこかに繋がってるってことか? 俺は慌てて制服に着替えると、糸を辿って外に出た。……余談だが、小指の糸は服や肌に引っ掛かったりしなかったのでスムーズに着替えられた。
赤い糸は真っ直ぐ廊下を通って階段の下に向かって伸びている。それを辿って進んでいくと、何故か食堂の入り口に着いた。
──ハワード王立学園。
王都にある寄宿学校。将来の国を支える優秀な人材を育成するための教育機関である。貴族の子息令嬢はもちろん、優秀な平民や力のある騎士候補者が特待生として通っており、日々切磋琢磨しながら学んでいる。
俺はこの学園の騎士科に通うアレックス・ロンバート、十七才。弱小貴族の端くれ、ロンバート伯爵家の次男だ。
栗色の髪にヘーゼルの瞳というありふれた容姿に加え爵位を継げない次男なのでモテるはずもなく、将来は騎士になって自立出来るようコツコツと剣技を磨いている。弱小貴族だから政略結婚の話もないしな。悲しいがこれが現実だ。まぁ、学園は寮生活なので衣食住には困らないし、身分を弁えて大人しくしていれば高位貴族に目を付けられることもないしで、ここ五年は快適な学園生活を送っている。出来ればこのままなんの問題もなく卒業したいものだ。
食堂を突き進んで更に先へと伸びている赤い糸を見て、俺は顔を顰めた。たぶん友人の誰かが悪戯を仕掛けて赤い糸を結んだとは思うが……どこまで続いてるんだ、これ。さすがにやり過ぎじゃないか? 溜息をつきながら中に入った俺は自分の目を疑った。
食堂の中に居る生徒全員の小指から、自分と同じように赤い糸が伸びていたからだ。それどころか、周囲には垂れ下がった赤い糸が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
な、なんだこれ。ハッキリ言って悪戯の度を越してるぞ。まさか全員グルなのか? だとしたら何を企んでるんだ? 無意識のうちに眉間に力が入った。
食堂のメニューを選ぶふりをして、彼らの様子をこっそり観察してみる。俺の前で朝食を注文しているのは同学年のダニエル・テイラーだった。彼の小指からは数本の赤い糸が絡まるように巻き付いている。あんなに付けて邪魔じゃないのだろうかと疑問が浮かぶが、本人からは気にしている様子は見受けられない。調理場で料理を作っているシェフのベンさんと、生徒から注文を聞いているベンさんの奥さんであるニーナさんからも同じように小指から赤い糸が伸びているが、この二人の糸は俺みたいにぐるぐると絡まっているわけではなかった。綺麗な一本の線になり、お互いの右手と左手の小指に蝶々結びで結ばれているのだ。こちらも糸を気にする様子はまったくない。
…………おかしい。
これは明らかにおかしいぞ。それなのに、何故みんな何も言わないんだ? こんなものが手に巻き付いていたら気になるだろ? 邪魔だろ? みんなどうしてしまったんだ? こんな大掛かりな悪戯するなんて、一体誰の指示だ?
「次の方、ご注文は?」
ニコニコと笑顔を浮かべるニーナさんの小指を見ながら、俺は口を開いた。
「……あの。その小指に付いてる赤い糸は一体何なのです?」
「赤い糸?」
ニーナさんはきょとんと首を傾げる。心に余裕のない俺は若干イライラした口調で続けた。
「左手の小指に結んであるそれですよ。邪魔ではないんですか?」
「え?」
ニーナさんは左手を動かしながら何度も確認すると、訝しげな表情で言った。
「私の小指に赤い糸なんてありませんけど……?」
「は? いや、付いますよね? 細くて光沢のある赤い糸みたいなものが!」
「えっと、私には何も見えません、よ?」
ニーナさんはおずおずと答えた。その顔は「何言ってるんだコイツ」という困惑と不信感に染まっているだけで、とても嘘をついているようには見えない。じわり。背中に嫌な汗が浮かんだ。おそらく顔色も悪くなっているだろう。
「大丈夫ですか?」
「……申し訳ありません。今言った事は気にしないで下さい」
俺は注文もせず急いで食堂を出る。……なんだ? これは一体全体どういう事だ? 頭の中はパニックだった。あの糸はニーナさん、いや、みんなには見えていない……のか? まさかそんな! カツカツと足音を立てながら、少し離れた校舎へと向かう。
綺麗に真っ直ぐ繋がった糸、ぐるぐると巻き付いただけの糸、切れかけたボロボロの糸、複数に絡み付いた糸。すれ違う生徒達からはやはり赤い糸が伸びていて、人が多い所では糸の大渋滞が起こっていた。それなのに、誰一人気にせず通り過ぎて行く。
俺も目の前にある赤い糸に手を伸ばしてみたが、その手は虚しく空を切るだけだった。これは……信じられないが、どうやらこの糸は俺にしか見えていないらしい。いやいや、嘘だろ。意味がわからない。それより、俺の小指から伸びてる糸は一体どこに繋がっているんだ。糸の先をぼんやりと見ていると、ある一人の女子生徒が目に入った。
同じ学校の制服に身を包んだ彼女は、左の女子寮の方向から真っ直ぐに歩いてくる。そして、何故か俺の糸の手前でピタリとその歩みを止めた。遠目から見ていると、まるでゴールテープの前に立っているようだった。
彼女は暫く立ち止まっていたが、小さく溜め息をついてジャケットのポケットに手を突っ込んだ。その中からおもむろに取り出したのは銀色に輝く小さなハサミ。
……ん? えっ? ハサミ!?
俺が驚いている間に、彼女はハサミの先端に付いている革のカバーを静かに外す。すると次の瞬間、なんの躊躇いもなく目の前の赤い糸に刃を入れた。まるで糸が見えているかのような無駄のない動きである。
シャキン、という刃物同士が擦れる小さな金属音が聞こえたと同時に、心なしか俺の右手がほんの少し軽くなった気がした。
その原因が糸が切られたからだという事に気付くまで、そう時間はかからなかった。
な、なんだ? 一体何が起きたんだ?
さっきまで何処かに向かって伸びていた小指の赤い糸は、途中から半分に分かれてひらひらと風に舞っていた。
なるほど。やはり俺の赤い糸は途中でぷっつり切られたらしい。
突然現れた、同じ学園に通う一人の女子生徒の手によって。
いやいやいやいやちょっと待て。今のは何だ? 何が起きた? 一体どういう事なんだ?
もしかして、いやもしかしなくとも……あの子もこの糸が見えてる……ということなのか……? しかも俺と違って普通に触れるみたいだし。というより、俺の糸は何故切られたんだ? 理由は? そもそも切る必要があったのか? え? それよりこれって切っていいものなのか? 体に影響とかはないのか? 俺、大丈夫なのか?
突然の出来事に対応しきれず、俺の思考回路は既にめちゃくちゃだ。
一人慌てふためく俺の様子など知りもしない彼女はハサミを元のポケットに戻すと、何事もなかったように歩き始めた。
「あっ! ちょ、ちょっと待ってくれ!」
俺は反射的に走り出していた。競走馬にも負けないスピードで彼女の元まで行くと、その華奢な腕をしっかりと掴む。貴族の紳士としてはあるまじき態度だが、今は緊急事態だ。
驚いたように振り返った彼女の腰まで伸びた艶やかな黒髪が揺れる。ルビーのような赤い瞳とバッチリ視線が交わった。