18本目
冷たい廊下を歩いていると、花瓶を手に持ったままぼんやりと長椅子に座るキーラ様を見つけた。
「キーラ様」
「……あら。見つかっちゃった」
声をかけるとキーラ様は力なく笑った。
「病室に戻らないんですか」
「……ええ。もう少し二人にしてあげようかと思って」
やはり。あの時キーラ様は気を遣ってわざと病室を出て行ったのだ。俺もついていけば良かった。本当に空気読めてないな俺。キーラ様は花瓶を椅子の上に置くと、すっと立ち上がる。
「どう? あの二人の様子は」
「どうにか和解出来たみたいですよ。今は親子二人で話してると思います」
「……! そう! そうなの! それは良かったわ!」
キーラ様は胸の前で手を合わせると、パッと明るい笑顔になった。
「アレックス様、今日は本当にありがとうございました。サラを連れてきてくれて。貴方には本当に感謝してるわ。この通り」
キーラ様はそう言って深々と頭を下げた。
「いやいやそんな! あ、頭を上げて下さい!」
何度言ってもキーラ様はなかなか顔を上げない。それどころか、その状態から動こうとしなかった。
「…………キーラ様?」
さすがに不思議に思って声を掛けるとキーラ様は両手で口元を覆った。その瞳からはぽろぽろと涙が溢れている。
「よ、かった。サラが、お姉様とまた話をしてくれて」
小さな声がぽつりと響く。
「良かった。サラがわたくし達と会ってくれて。わたくし、本当は怖かったの。このままサラと離れていくことが……だから、チャンスを与えてくださったアレックス様には本当に感謝してるのよ」
「俺は……何もしてないです。だからそんなに感謝されても正直困ってしまいます」
「いいえ、貴方がいなかったらサラはわたくし達に絶対に会ってくれなかった。それどころか話も聞いてくれなかったもの。だから、」
そこまで言って再び涙を溢す。
……女性の涙は苦手だ。泣いている女性をどう扱ったらいいのか全然分からない。もっとスマートに慰められたらいいのだろうけど、あいにくそんな上等スキルは持ち合わせていないのだ。
「……また」
「え?」
「……また、前みたいに話してくれるかしら。叔母様って呼んで一緒にお茶を飲んでくれるかしら」
「それは大丈夫じゃないでしょうか。俺が言うのもアレですけど……クラーク家の皆さんは極度のコミュニケーション不足だと思うので、まずは話し合いから始めた方がいいと思います。呼び方は……叔母の特権を使って強制的に呼ばせてみては? 縦社会の基本ですよ」
「ふふふ、そうね」
キーラ様は笑った。その事に俺は少しほっとする。
「これはわたくしのエゴなのかもしれないけど……焦らずゆっくり、少しずつでも、家族の時間を取り戻せたらなって思ってるの」
「サラ嬢もきっとそう思ってますよ」
「そうかしら? そうだといいわね。……あ、そうだ。お姉様が退院したらみんなで領地に遊びに行きましょう。もちろんサラも誘って」
「そうですね……退院したら、是非」
「ふふっ、約束よ?」
キーラ様はじっと俺を見つめる。
「巫女様の血も引いていない貴方にどうして運命の赤い糸が見えるのかしらと疑問だったのだけれど、なんとなく分かったわ。きっと貴方は選ばれた人なのね」
その言葉に、俺は驚いて目を見開いた。選ばれた人……? 一体誰に?
「じゃあ、そろそろわたくしも病室に戻るわね。早く行かないと花瓶の水換えにいつまでかかってるのって怒られちゃうから」
含み笑いを隠さないキーラ様は花瓶を両手に持つと、静かに立ち上がった。姿勢良く病室の方へ歩き出す。
一人きりになった俺は長椅子の背もたれに寄りかかり天井を見上げた。そこに右手をかざしてみる。
小指から中途半端に伸びた赤い糸は少しずつだが着実にその距離を伸ばしていた。サラ嬢にハサミで切られたあの糸だ。
その先にいる人物は一体誰なのだろう。
知りたいような、知りたくないような。もう知っているような、まだ知らないような。……もう少しだけ、気付かないふりを続けたいような。
よく分からない感情の糸がぐるぐると巻き付いて、身体中を拘束されているような気分だ。
「ちょっと」
聞き慣れた声のする方へ顔を向ける。すると、腕組みをしながら此方を睨むように見ているサラ嬢の姿が目に入った。
「なんで先に行くのよ。おかげで帰るタイミング逃しちゃったじゃない」
「親子の再会に水を差すのも悪いかと思って」
「冗談じゃないわ。あの人泣きっぱなしで大変だったんだから」
そういうサラ嬢の目元も僅かだが赤くなっている。しかし、彼女の顔はどこかスッキリしたような表情だった。
「ちゃんと話せたか?」
「……わからないわ。私……ちゃんと話せたのかしら。言いたいことの半分も言えなかった気がする」
「そうか。でもまぁいいじゃないか。話せる時間はこれからたくさんあるんだから」
「そう……かしら」
「そうだろ。王都にいる間は毎日お見舞いに来ればいいし、退院して領地に戻ったら手紙を書けばいい。今までだって向こうからは届いてたんだろう?」
「まぁ、たまにね」
ふぅ、と息を吐いて組んでいた腕を下ろす。
「私、これでもね。あの頃は本気で糸を切れば母を救えると思ってたの。父から愛が返ってくる事はないって分かっているのに、毎日毎日貼り付けた笑みを浮かべて。一人になると父を思って泣いて。そんな苦しみから解放させてあげたかった。そして、私ならそれが出来ると思ってた」
独り言のように呟いていく言葉を、俺は黙って聞いていた。
「でも、私がやったことは逆効果だった。報われない愛をなくしてもっとツラくなるだなんて思いもしなかったの。子どもだったのね。人の心を理解してなかった。……それは今もだけど」
サラ嬢が俺を見上げる。
「だけど今日、母と話して、あの頃とは違う生き生きとした顔を見て。私のやった事は無駄じゃなかったのかもしれないと思えたわ。……ねぇ、アレックス様」
「なんだ?」
「今日はここに連れてきてくれて……ありがとう」
サラ嬢は照れくさそうに小さな声で言った。俺は驚きの余り息を呑み、返事をするのを忘れてしまった。




