17本目
一面に広がる白い壁、ツンと鼻をつく消毒の匂い、忙しなく動く看護師、不安気に順番を待つ待合室の患者。
病院というのはどこもかしこも独特の空気に包まれている。常に〝死〟という未知の世界と隣り合わせだからだろうか。何度訪れても慣れやしない。
「ここよ」
キーラ様に案内されて辿り着いたのは、完全個室が並んだ特別病棟だった。俺たちは入口から三番目の個室の前に立ち、無機質な白いドアをじっと見つめる。
「まずはわたくしから入るわ。いきなり二人が現れたら姉は驚くでしょうから」
そう言って控えめにノックをすると、キーラ様は白いドアをゆっくりと開けた。
「こんにちはお姉様。体調はどう?」
「まぁ。キーラったらまた来たの? 侯爵夫人なんだから忙しいでしょうに……無理して来なくてもいいのよ?」
「いつも会えないお姉様が王都にいるんですもの! 来るのは当たり前ですわ! 夫もちゃんと理解してくれてますし、無理なんてしてないので心配はいりません」
チラリと見えた室内には、ベッドの上で体を半分ほど起こした美しい女性が居た。キーラ様と同じ、プラチナブロンドの髪に青い目をした線の細い女性だ。おそらく彼女がサラ嬢の母君なのだろう。
「お姉様にお見舞いの品ですわ。体調が良い時にでも食べて」
「サンドラのバタークッキーじゃない! これ、王都で人気なんでしょう? 一度食べてみたかったのよ。嬉しいわ、ありがとう!」
女性の声が弾む。やはり親子と言うべきか、気になっているものもそれに対するリアクションもサラ嬢とそっくりだった。
「……あら?」
嬉しそうに箱を受け取っていた女性と、俺の目がパチリと合った。彼女はにこにこと人懐こい笑みを浮かべて口を開く。
「もしかして貴方もお見舞いに来て下さったの? でも私にこんなカッコいい男の子の知り合いなんていたかし…………え?」
彼女はサラ嬢に似た猫目を丸く開いたまま固まった。その視線はただ一点のみに注がれている。おそらく、俺の後ろに立っているサラ・クラーク嬢に。
「え? あ……え?」
戸惑ったような声を漏らし、助けを求めるようにキョロキョロと首を動かす。長いプラチナブロンドがさらりと揺れた。
「さぁ、二人とも入って」
キーラ様に促され、俺達は室内に足を踏み入れる。女性三人に囲まれているせいか少しばかり居心地が悪い。もちろんそれだけが理由ではないのだけれど。俺は二人の邪魔にならないよう存在感を消して端の方に立った。キーラ様も同様だ。室内は驚くほどの静けさに包まれている。
痛いほどの沈黙を破ったのは、サラ嬢の母君だった。
「…………サラ、よね?」
その問いに、彼女をじっと見ていたサラ嬢は小さく頷いた。ベッドの上からひゅと息を呑む音が聞こえる。
「あ……突然のことに驚いてしまって、どうしましょう。言葉が出ないわ」
俺たちが今日来ることを事前に知らされていなかったのだろう。サラ嬢の母君、レイラ様は驚いたせいかゴホゴホと咳き込んだ。すかさずキーラ様が背中をさする。
「お姉様大丈夫?」
「ええ、平気よ」
水を飲んで落ち着きを取り戻したレイラ様は存在感を消していた俺に視線を向けた。
「そちらの男性はサラの恋人かしら?」
「違うわ」
その問いにサラ嬢は即答の全否定だった。相変わらず否定するスピードが早すぎる。もう慣れたけど。まぁいい。ちょうど俺の話が出たので挨拶させてもらおう。
「初めまして。ロンバート伯爵家次男、アレックス・ロンバートと申します。サラ・クラーク嬢とは学園の同級生で仲良くさせて頂いております。本日は先触れもなく突然来てしまって大変申し訳ございません」
「まぁ、ロンバート家の」
「こちら細やかですが、良かったらどうぞ」
俺は先ほど買ってきた二つの花束を手渡す。花束の一つは本来サラ嬢が渡すべきなのだが、あろうことか彼女はここに来る直前になって「これ貴方が渡して」と無理やり俺にその役目を押し付けてきたのだ。「君がやるべきだ」「嫌よ」という押し問答の末仕方なくこちらが折れたのだが、こういうのはやはり娘から貰った方が嬉しいんじゃないだろうか。
「サラの…………いえ、レイラ・クラークですわ。綺麗な花束をありがとう。とても嬉しいわ」
不自然な所で切られた言葉。その後に続くのはおそらく〝母です〟だったのだろう。普通ならすんなりと言えるその言葉。彼女はそのたった一言を躊躇ったのだ。心の距離、確執というものを間近で感じて胸が痛くなった。
「わたくし、花瓶の水を換えてくるわね」
キーラ様は嬉しそうに花束を眺めているレイラ様に告げると、花瓶を持って部屋を出ていった。室内に残ったのは俺達三人。
………………しまった。
今俺もキーラ様と一緒に出ていけばよかった。トム並みに空気が読めていないじゃないか。
「……良かったら座って?」
レイラ様は遠慮がちに近くにあった椅子を指差す。サラ嬢は言われるままに腰を下ろした。すっかり出るタイミングを失ってしまった俺も仕方なく着席する。なるべく邪魔にならないよう、サラ嬢とは少し距離を開けて座った。
ベッドの上でぎこちなく微笑むレイラ様の腕は細くて白い。
そして──彼女の小指にはぼろぼろになった赤い糸が今でもぽつんと残っていた。
色はすっかり汚れていて、赤というよりは焦げ茶色に近い。それでもまだああして小指に残っているということは、出ていった旦那さんのことをまだ思っているのだろう。そう考えるとなんだか切ない。 サラ嬢も見えているのだろうが何も言わなかった。……いや、言えないのだろう。
「……ええと、その。これ、キーラが買ってきてくれたんだけど食べる? サンドラっていうお店のクッキーですって。あ、サンドラって知ってる? 今王都で人気のお店なの。領地にいる頃から話題になっていたから一度は食べてみたかったんだけど、なかなか買いに行く機会がなくて。何時間も並ばなきゃ買えないんですって」
レイラ様の口は不自然なほどぺらぺら回った。初対面だからなんとも言えないけれど、これはおそらく緊張しているせいだろう。きっと、何か話してないと不安なのだ。
「体調はどうなの」
レイラ様の話が一区切りしたところで、サラ嬢がぽつりと言った。
「え、あ、元気よ?」
「……それならどうして入院してるのよ」
サラ嬢のツッコミは正論である。レイラ様は儚げな印象だったが、なかなかユーモアのセンスがある人らしい。
「たくさん検査もしたけど異常はないって。みんな大袈裟なのよ。少し休めばすぐに元気になるわ」
「そう」
「そうよ。それより……貴女がお見舞いに来てくれたことの方が驚いたわ。正直、もう二度と会えない覚悟もしていた、から……」
サラ嬢は椅子に座ったまま微動だにしない。凛とした表情を一切崩さない。
「………………ごめんなさい」
レイラ様の口から、懺悔の言葉がこぼれ落ちた。
「お父様のこと……全部貴女のせいにしてごめんなさい。悪いのはあの人と私なのに、それなのに私は一方的にサラを責めて逃げた。貴女はあの人に言われ、私の事を思って行動した。それだけなのに」
瞳から音もなく流れ落ちた滴は頬を伝い、そのまま布団に小さく滲んでいく。
「私は事実を認める事が怖かったの。あの人に愛されていないという現実と向き合う勇気がなかったの。だから私は愚かにも貴女の力を否定した。巫女様の力が発現して戸惑っていた貴女を突き放してしまった。サラの方が私の何倍も苦しくて傷付いていたのに、その事に気付きもしなかった。最低だわ……母親失格よね。守らなきゃいけない存在を自ら傷付けるなんて。キーラとの関係も悪くさせちゃったし、私と関わりたくないって思われても仕方ないわよね。今さら何言っても許してもらえないだろうけど……それでも、ずっと謝りたかったの」
レイラ様は潤んだ青い目でサラ嬢を見つめる。
「謝らなくてもいいわ。逃げてたのはお互い様だしね。それに……元はと言えば私にこんな力があるのが悪いのよ。問題ばかり起こしてうんざりしちゃうわ」
「いいえ。それは違うわ!」
今までとは違い、力強くレイラ様は言った。
「聞いて、サラ。あなたの力は本当に素晴らしいわ。貴女は赤い糸を切ることで何人もの悩める女性を救ってきたの。私もその一人よ。……今考えれば、どうしてあんな不誠実な男のことが好きだったのか疑問だらけなの。恋は盲目って本当ね。だけど今は。あの人と離れてからは心が落ち着いて、穏やかな気持ちで過ごせるようになったの。好きだっていう気持ちが完全に消えたわけじゃないけど、焦がれるような想いはもうないわ。苦しみから解放されたのね。貴女に背中を押されて一歩を踏み出せた女性はたくさんいるの。みんな貴女に、貴女のその力に感謝してるのよ。だから、だから、自分を悪く言わないで」
「…………っ」
「ごめんなさいっ……本当に。私が弱くて、傷付けてごめんなさい。……許してくれなくてもいいわ。だけどこれだけは信じて。例えサラが私を恨んでいても、嫌っていても、私はサラを愛しているわ。生まれた時から、そしてこれからもずっとね」
静かな涙は次々に布団に染みを残していく。隣のサラ嬢は小さく息を吸うと、震える声で言った。
「別に恨んでなんかないわ…………嫌いでもない。悪いのは無神経だった私。他人の気持ちを考えなかった私なの。だから、私も………………今までごめんなさい」
「サラ……」
サラ嬢は立ち上がり、ベッドに近付く。彼女の瞳にも堪えきれない涙が浮かんでいた。二人はお互いの手にゆっくりと触れる。
「ありがとうサラ。本当にありがとう……ごめんなさい」
室内には二人の泣き声が静かに響いていた。……さて。これ以上の会話は他人の俺が聞いてはいけないな。明らかに場違いな俺は、こっそり病室を抜け出した。




