5話 「それは、無理です」
『あら! この前テストで一位を取ったかと思ったら、今度は運動会のリレーの選手に選ばれたの?』
『えへへ。お父さんも絶対に見に来てね!』
『もちろんだ。――は俺たちの自慢の娘だ』
寄せ鍋からわきたつ湯気の向こうで微笑んでいる、お母さんとお父さん。
これは、前世の夢だ。
両親の瞳にはいつも、私の隣に座り、ころころと笑う愛らしい私の妹しか映っていなかった。
『本当に、――は勉強だけじゃなくて、運動までできるなんて天才だ』
お父さんとお母さんは、期待に満ちた眼差しで、妹だけを見つめている。妹はそんな彼らの熱を含んだ視線を受け止めて、また愛らしく笑うのだ。
こういう時の私はいつも空気みたいだった。
胸の奥を鋭い爪でザリッとひっかかれたみたいな気持ちになる。嫌な汗が、背中から滑り落ちた。
悪いことをしたわけではないのに、なんだか息苦しい。
でも、これは仕方のないことだった。
妹は愛されるべくして生まれてきたような子だったから。
それに比べて私は――。
*
脳に、鈍い痛みが走る。
頭を起こしたとき、まなじりに涙が浮かんでいてぎょっとた。
あれ。
今、私はどこに……?
そうだ。思いがけなくミルラ様と出会ってしまって、生意気な口をきいたがために、薄暗い倉庫に放りこまれて……そこまで思い至った時、顔から血の気が引いた。
結局出られないまま、寝落ちしちゃったんだ……!
今はいったい何時なんだろう。
窓のない倉庫は常に薄暗く、時間間隔が掴めない。
先ほどまでと何ら変わりのない光景を見て、胸が薄ら寒くなる。
空腹まで感じてきて、いよいよ心細くなってきた、その時。
「ネリ!!」
耳を疑った。
これは、幻聴か何か?
だって、ありえない。
天地が引っくり返るくらいにありえない。私にとって都合のよすぎる展開だ。
でも。
そのお声を、他でもないこの私が聞き違えるはずもなくて。
だから、私はその尊いお名前を、半ば夢見心地でつぶやいた。
「エル、シオ様……?」
私のぼやきが引き金となったかのように、扉が勢いよく開かれて。
座りこんだまま、物置の外から溢れてくる光を背負ったエルシオ様を見上げる。
淡い金の髪、白い滑らかな肌、しなやかで細身の身体、純白の絹の服、全てがいつものエルシオ様だった。
だけど。
そのビスクドールのように美しいお顔には今、間違いなく、感情というものが浮かんでいた。
彼が肩で息をしながら私の方へ歩み寄ってくるのを、遠い夢の世界の出来事でも見ているかのような心地で、呆然と眺めた。
近づいてきたエルシオ様が屈みこんで、垂れ下がった金の髪が私の頬をかすめるくらいに顔の距離が近づて……って、えええええええっ!?
何これ! 心臓吐き出しそう!
ぞっとするほどに美しいあのご尊顔が、今、少し顔を傾ければ触れてしまいそうなほどに近くにある。えっえっ、何事!?
昨日まで、まともに会話すらできなかったのに!!
一瞬にして寒さも眠気も空腹も恐れも不安もすべて吹き飛び、世界が、目の前にいるエルシオ様だけになる。
彼は、何も言わない。
その真紅の瞳で、私を射抜くように見つめている。
あっ……。ええと、心臓を爆発させそうになっている場合じゃなかった。
このお方に、真っ先にお伝えせねばならないことがあるじゃないか。
「申し訳、ございません。約束、破ってしまいました」
「…………ああ。お前は、嘘吐きだ」
「うぐっ……ごめんなさい」
覚えていてくださったんだ。
そう思うと、憎まれ口ですら愛おしい。
「エルシオ様……約束のこと、覚えていてくださったんですね」
エルシオ様はハッと目を見開き、すぐにきつく眉根を寄せた。油断したら今にも泣いてしまいそうな、弱りきった目で。
その、次の瞬間。
「…………お前はっ……罵られようと、蹴られようと、殴られようと私の傍にいると言った」
今まで胸の内に溜め込んできた彼の熱い思いが、堰を切ったように溢れだしてきて。
「それでもっ……無視しつづけていれば……いづれは諦めて、私の元を去ると思っていた。でも……お前は、私の予想をはるかに上回っていて、ものすごく諦めが悪くてっ。離れていくどころか、むしろ……その逆でっ」
エルシオ様の涙混じりの声は酷く震えていて、聞いている私の方まで喉が押し塞がるようで。目頭が、熱くなっていく。
「何故、あんなに無視されてまで、私にかまうっ……。挙句の果てには、私の傍にいたがためにミルラに目を付けられてこんなところに一人きりで閉じ込められたというのに……何故、お前は、私を憎まないっ! わけが分からない!」
強く肩を掴まれた時、びくりと身体が震えた。
その身に秘めていた火のように激しい思いが、肩に食い込む指からも伝わってくるようで。
目の前の紅蓮の瞳には、私ごと焼いてしまうかのような、強く激しい感情が揺らめいていた。
「どうすればお前は……私を、嫌いになってくれるんだ」
そんなの、最初から答えは一つに決まっている。
「それは、無理です」