2話 諦めません!
「ネリ。私はそろそろ仕事に戻らないといけないんだけれども……」
母は気まずそうに私に視線をやった。この猛獣じみた王子様の下に私一人を残していくべきか、葛藤しているようだ。
「その娘も一緒に連れて帰れ」
母の顔がさらに弱る。
でも、ここで簡単に引き下がるわけにはいかない。
「いいえ。私は時間が来るまでは絶対にここを離れません」
「なっ……!」
母は私の中に揺らぐことのない決意を認めたのか頷くと、部屋を出ていった。
広いお部屋に、エルシオ様と二人きり。
彼はまさか自分に楯突く者が現れるとは思いもよらなかったのか、二の句も告げられずにぽかんとしている。
うわあ! エルシオ様があどけないお顔で、私のことを見つめていらっしゃる!! 無理! 生身の推しに見つめられるなんて無理無理、呼吸困難になる!!
私が内心では大変に悶える中、彼は、すぐにまた絶対零度の無表情に戻った。そんな表情ですら美しい。流石はエルシオ様、生きる奇跡だ。
たとえ蔑みの視線を向けられても問題はない。彼と紛れもなく同じ空間にいるという事実の方が大事だ。
ついゆるみかけた口元を引き締めて、エルシオ様に声をかける。
「エ、エルシオ様。何をして遊びましょうか?」
彼は、私から顔をそむけて、膝に置いていたらしい読みかけの本を手に取った。
はい、清々しい程の完全スルー!
本当にありがとうございました!!
普通の五歳児だったらこの時点で心が折れそうなものだけど、私は前世の記憶所持者だ。これしきのことはもはや微笑ましくすら思える。
しかも、相手はあのエルシオ様。どんなことをされても、嫌いになるほうが困難だ。
背中を向けて読書している彼の背後に立つ。
無反応。
豪華な調度品が並ぶ部屋に響くのは、彼が本のページを捲る音だけ。
彼の手元の本を見やれば、政治、国家、歴史と厳めしい単語がずらずら並んでいる。遊び時間にすら勉学に励むとは、なんて気高い御心なのだろう。
「何のご本をお読みになっているのですか?」
「…………」
またしてもスルー。
むう……。
予想はしていたけど、口を聞いてもらえるようになるまで中々の長期戦を強いられそうだ。
その後も、折りを見ては声をかけたものの、結果は全敗。
休憩時間が終わるや否や、エルシオ様は剣術の稽古に出かけていった。
彼を迎えにきた侍従から追い出されるようにして帰る。
初めてエルシオ様とお会いしたこの日は、約一時間ほど彼のお部屋に滞在したけれど、一言も口をきいてもらえなかった。
翌日も、翌々日も、似たような日々を繰り返した。
母に連れられてエルシオ様の下へ訪れる。
同じ空間にいながら一言も交わせない超絶ドエムプレイを繰り広げる。私たち二人の様子を傍から見ている大人がいたなら、王子であるにしても、彼のあまりの無愛想を咎めたかもしれない。
それでも、諦めるという選択肢は、頭によぎりすらしなかった。
今は他人に心を閉ざしきりのエルシオ様だけれども、本当の彼は、不器用なだけでお優しい方なのだ。
初めてエルシオハッピーエンドルートをクリアした時の感動は永遠に忘れられない。
ゲーム画面に魂を奪われてしまったかのように頭がぼうっとした。少し経って、一本の長編大作を読み終えたかのような達成感と、ついにクリアしてしまったのだという淋しい気持ちとがない交ぜになって、涙が流れた。
それから、脳が焼き切れるほどに『ときめき★王国物語』を繰り返しプレイした。
素晴らしい物語というのは何度読み返しても胸に迫る感動を与えてくれるもので、私は彼が幸福を掴む様を見届けるたびに、満たされていた。
そんな前世の記憶を持つ身からすると、彼と同じ空気を吸っていられるということ自体が、この身にあまる幸福なのだ。
手酷く無視されようと、苦痛であるどころか、むしろご褒美だった。
そんな私たちの関係は、周りにはさぞ奇妙に映っていたかもしれない。