ファッションホテルで茫栗(マンゴスチン)
京都の夏が暑いことは、私は知っていた。
小さい時から京都に憧れて、インターネットで調べ尽くしたからだ。
京都で下宿を始めてから二ヶ月が経ち、新しい生活にも慣れてきた頃だ。私は今、『百聞は一見に如かず』の諺を実感している。初夏とはいえ、京都の暑さは想像していた以上だった。照りつける太陽に、湿度の高い熱風が、なんとも気持ち悪い。
寺町通りを下ったところに、八百屋がある。
かの有名な青年が檸檬を買った八百屋だ。私は京都に引っ越して来てから、この店を贔屓にしている。いつものように、私はその八百屋を訪れた。何か水分を補給できる果物が欲しかったのだ。
店主に「やあ」と挨拶をし、「今日のお勧めは?」と聞く。これこそが、私の毎日の日課だ。二ヶ月ばかし、毎日のように店を訪れると、店主も顔を覚えてくれる。今では私も、立派なお得意様だ。
「今日は茫栗が入っているよ」
と店主は言った。
茫栗は『果物の女王』と呼ばれる南国の果物だ。
店主の目線の先には、直径六センチほどの卵型の果物が置いてある。それは、茶色とも黒とも形容できる独特の色合いをしていた。
私はポケットに入っていた五百円硬貨を店主に渡す。
「これで足りるか」という私の問いに「じゃあ二つ、入れておくよ」と茫栗を二つ、小さな紙袋に入れてくれた。私は紙袋を右手で受け取る。
茫栗は『果物の女王』である。
そして、果物の王様はドリアンだ。
世の中に完璧なものなど存在しない。王様でも欠点を持つ。ドリアンの欠点は驚愕的な異臭だ。しかし、その欠点が故に、王は王たり得ている。容易に食べられないことが、王としての希少価値を担保しているのだ。
王様と同様に、女王も欠点をもつ。
茫栗の皮を剥く時に飛び散る赤い汁が、衣類に付くと取れないことだ。真っ白な服に染み付いた茫栗の汁は、服の服としての生命を終わらせる。
そこで、茫栗を食べる際には、衣服を汚さない方法が必要だ。
私には、考えがある。
衣服を汚さない一番簡単な方法は、衣服を着ないことだ。全裸になれば、茫栗の汁で衣服を汚す恐れがない。
ないものは汚れない。
私は、天才だ。
私は、川端通りを南に下る。
鴨川沿いには、多くのカップルが並んでいる。直射日光が照りつける炎天下、川のせせらぎを楽しんでいるのであろう。『こいつら』は、かの有名な等間隔の法則に従い、一定の距離を保ち、座っている。
私はもちろん、ここには座らない。
お一人様の私には、等間隔に入っていく資格はない。そもそも、ここは、茫栗を食べるのに適していない。
今の私に必要なのは、一人で裸になれ、茫栗を食べられる場所だ。
四条通りにファッションホテルがある。
この周辺のカップル達が利用するファッションホテルに、私は一人で足を踏み入れる。薄暗い入り口で、一番安い部屋のボタンを押した。
ファッションホテルの中は、エロティックな雰囲気が漂っている。
白いテーブルの奥に、真っ白なシーツでメイキングされたベッドがある。私の興味を引いたのは、大きな鏡だ。ベッドのすぐ横に備え付けてある。黒色のサンダルを脱いで、ベッドの上に立った。それでも、身長百六十程度の小柄な私は、全身がすっぽりと入る。
私はベッドの上に立ち、鏡を見つめる。
鏡の前に立っているのは一人の女性。椿が香る艶やかな髪の毛。ほどよく膨らんだ胸を包む、淡いピンクのティーシャツ。そして、ブランドもののクリーム色のプリーツスカートを身につけた、女性だ。
部屋の中には私一人である。裸になることに何も問題は無い。
私は、念のために、一人の空間であることを、もう一度確認した。
やはり一人だ。
そして私は、次々に衣服を脱いでゆく。脱ぎ終えた服を、白いテーブルの上に山積みにしてゆく。その山の頂に、純白のブラジャーと、そしてショーツを乗せた。
部屋には、エアコンを効かせてある。
先ほどまでじんわりと湿っていた脇も、すでに乾いている。京都のうだるような暑さで温められた体も、少しずつ冷まされてゆく。
白色のショーツを頂いた衣服の山の隣に、八百屋の紙袋がある。私はその紙袋を手に取り、中から茫栗を一つ、取り出した。
茫栗を持ち、ベッドの上にもう一度立つ。
鏡の中には全裸の女性が立っている。
絹のような綺麗な白い肌が初夏の日差しで焼かれ仄かに赤くなっている。鏡の前の裸の自分と対峙し、奇妙な興奮が私の心臓の鼓動を早めていた。
右手に持っていた茫栗を両手に持ち直す。
そして、私は、右手の親指にぐいっと力を加えた。茫栗は私の親指を吸い込み、その代わりに赤い汁を飛ばす。赤色の液体が、真っ白なシーツを汚した。まるで純潔を失った令嬢のように、シーツには、赤い点々が直線状に並んでいた。私のお腹の辺りにも赤い汁が飛んだ。それをベッドの枕元に置いてあるティシュで拭う。その白いティシュは血のように赤く染まった。
茫栗の赤黒色をした一センチ程の厚い皮を剥くと、中には白い大蒜のような塊が入っていた。この白い塊が茫栗の実である。指で力を加えると、ポロリと簡単に取れた。
私は、この茫栗の実を一欠片、口に含んだ。
果物の女王と呼ばれるだけのことはある。強い甘味と爽やかな酸味が私の口の中に広がった。果物の女王の美味しさに、私は笑顔になる。
一欠片の白い茫栗の実は、舌の上で、すっと蕩けていった。
私は、二つの茫栗を、どちらも美味しく頂いた。茫栗は、ものによって当たり外れがある。今日の私は運がいい。
満面の笑みを浮かべ、ベッドの上に立ち上がって、大きく伸びをする。
満足だ。
皮を紙袋に入れ、くしゃくしゃに丸め、ゴミ箱に捨てた。そして、そのままシャワー室に入る。
私がシャワーから上がる頃には、エアコンを効かせた部屋の中で、衣服も冷やされていた。真っ白なショーツは、冬山の上を覆う雪のようだ。シャワーで汗を流し、少し火照った足に、ショーツを通す。汗を少し吸って、しっとりとしていたショーツが、ひんやりと気持ちいい。冷やされたブラジャーが私の胸を、ひんやりと包んだ。
部屋には荒れた形跡はない。
ベッドの上のシーツは、綺麗なままだ。この周辺のカップル達は、部屋をもっと荒らして帰って行くだろう。
私は、お上品なお客様だ。
私がここにいた形跡は、真っ白なシーツの上に残った小さな赤い点々だけだ。
ホテルを出ると、私は、現実に戻された。
照りつける太陽と熱風が、私の汗腺を刺激する。私の乾いた肌から、汗が滲み出る。
私は、川端通りを北上した。鴨川沿いには周辺のカップル達が、まだ等間隔に並んでいた。
「ホテルで涼しめばいいのに」
私は、女王様になったように、カップル達を貶んだ。
自己満足な優越感が私の脳を支配していた。
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