『On Green Dolphin Street ~ジャズ研 恋物語~』
俺の名は、篠崎優斗。たぶん何かの手違いで吉祥寺の某大学に合格してしまった。高校の担任からは「嘘だろう!?」と言われ、既に指定校推薦で同大学に内定していた成績上位者からは、不思議な目で見られ…。合格してこんなに肩身の狭い思いをするとは思わなかった。
いつ誰がドッキリのボードを出してもおかしくない中、出ないことを祈りながら新入生として生きていた。所属が文学部ということもあり、この時点で就職には難がある。在学中に取れる資格は取って、武器にしたいと思っていた。
そんな中、部活やサークルの勧誘は盛んだった。入学式のその日から、歩いているだけでたくさんの勧誘を受け、たくさんのビラやチラシを受け取りながら、本当にここの人たちは勉強する気があって大学にいるのかどうか訝しんだ。
入学式から向こう数日、そんな日が続いた。
俺は当初の予定どおり、部活・サークルには属さずに資格取得の道を行く。そんなふうに心に誓っていたある日だった。
新緑の桜の下に、その人たちはいた。
最低限のセットのドラムに、ウッドベース。そしてエレピ。ジャズだとすぐに分かった。僕は楽器が出来るわけでないが、父親の影響でジャズはよく聴いて育っていた。
長身のドラマーはスネアの微調整、ウッドベースは大柄な奏者が軽くチューニング、エレピはアンプの調整をしている。俺の歩みはすっかり止まり、何がはじまるのかというソワソワした気持ちに釘を差す。ちょっと待て待て。俺は資格を取るために大学に入ったんだ。
そうして、リード役がそのリズム隊の中央の芝生に入ってきた。
背の高いスラリとした女の人だった。まるでモデルのようだった。俺は吸い寄せられるようにその芝生の一角に出現したステージに近づいていた。美しい長い黒髪に、優しげな表情。女優のような彼女が手にしていたのは、銀色のトランペット。
新緑の中、素直にこの目に映るその全てが、綺麗で実に整っていると思った。
「みなさん、こんにちは! モダンジャズグループでーす!」
彼女の声は、透き通るようによく響き、俺の鼓膜にはビリビリと伝わってくる。気が付けば、俺はその即席の野外ステージの最前列に立っていた。
美しいその人が、リズムセクションに軽く目配せして、頷く。彼女が指を鳴らし始める。
随分早いテンポだが、何をするのだろう。
イントロを聴いて、すぐわかった。これ、グリーンドルフィンだ! 親父のCDで何度も聴いた。だけど、随分テンポが速い。こんなんで大丈夫か!?とも思ったが、あのトランペットの一音でかき消された。ぶわっと一陣の風が吹く。彼女の美しい黒髪とフレアパンツが揺れた。
朗々として力強い歌い出しのロングトーンを聴いて、何も言えなくなった。ハイテンポにも関わらず余裕の笑顔で演奏するこのひとたち、本当に上手いぞ。
演奏を見ながら、とりあえずトランペットの人は別格に上手い。だけど、他のメンバーも楽しそうに演奏しているのが強烈に印象に残る。こんな大学生がいるのか。今の俺の選択ひとつで、いつかはこんなふうになれるのか…熱くなる身体と興奮を、封じ込めるのは俺には無理だった。
演奏後にチラシを配っていた黒髪の美しい女性に近づいた。髪をかき上げて、笑う。
「さっき一番前で聴いててくれたよね。ありがとう! 入部希望者募集中です!」と言って色気もクソもない白黒のチラシを渡してくれた。近くで見ると本当に女優みたいにきれいで可愛くて、僕はチラシを手にしたまま、言った。
「さっきのグリーンドルフィンですよね? あんなテンポのは初めて聴きました」
その女性の動きがはたと止まった。
「えーっ、よく知ってるね。ひょっとして、ジャズ知ってるひと?」と彼女。
「僕、篠崎といいます。楽器経験はありませんが…入部希望です!」
女優は驚いたような顔をして、その後とびきりの笑顔を見せてくれた。
「ようこそMJGへ。ミスマッチがあると嫌だから、しばらくは体験入部扱いでね!」
それが、藤川桜子…後の桜子さんとの僕の出会いだった。
彼女に連れられるまま教室に行くと、「一名ゲットしましたー♪」と彼女が叫んだ。何の話か見当もつかない。
連れていかれた教室は、昼間なのに陰鬱といた空気が漂っていた。「藤川が連れてきた」「どれどれ」と徐々に教室の人たちが集まってくる。何だここはと思っていると、彼女がノートとペンを差し出してきた。
「えっと、篠崎くんだっけ。ここに学部と連絡先と希望楽器を書いてね」
間近で見ると、このひとが本当に綺麗だと分かる。何だよあの黒髪ロング! 反則だ!
書ける部分まで書いて、例の彼女に声をかけた。
「僕、楽器の経験はないんです。ジャズは親父のCD聴くばっかりで…」
彼女はうーん、と悩んで、こう言った。
「ジャズ聴いてるなら、好きなプレイヤーとかいない?」
「えーと…アートペッパーは良く聴きます。あんまりスウィングが深くない感じの」
彼女はふんふんと話を聞いていた。その横合いから細面の銀縁眼鏡の男が顔を出した。後に知ることになるのだが、D年のサックス・遠山先輩だった。
「やあ新入生くん、リコーダーは得意だった?」
「はい、好きでよく吹いてましたし、得意なほうかと」
「…じゃあ、アルトサックスから始めてみるのはどうかな?」
「…でも、楽器がないんです」
困ったように俯く僕に、黒髪の彼女はぱっと明るい声を出した。
「そしたら、部室の余りを使えばいいよ。なあ遠山、たしかストックあったよね? とりあえず、始めてみないとね。それにサックスは嫌い?」
俺は顔をぶんぶんと横に大きく振る。サックスなんて出来たらそれだけでカッコいいに決まってる。だけど、今までそのチャンスに恵まれたことはなかっただけだ。
こうして、僕は資格取得の件も全て忘れて、ジャズの泥沼へと足を踏み入れたのだった。そうして大学生活の4年間を音楽漬けの日々に捧げることになるのだ。このままでいいのか、そう思う僕に、彼女が笑いかける。
「はじめまして、私は藤川桜子。ジャズ、楽しいぞ。どうせだから一緒にやろうぜ!」
何というか、そのパッと咲くような笑顔に、一撃で僕はやられてしまった。
これが、藤川先輩(桜子さん)と僕の出会いだった。
そうして俺は、藤川さんの笑顔に導かれるように、果てのないジャズの世界へと足を踏み入れることになったのだ。