2.絶望の始まり
木や家が燃える臭いと煙にむせ返る。私は村を襲った竜から逃げようと、方向も分からなくなった村の中を、お父さんとお母さんに連れられて走っていた。冬の夜は寒いはずなのに、燃え盛る炎で汗が出る。竜の咆哮が聞こえる度に、体を震わせ耳を塞いだ。
(怖い。怖いよ。なんであんなのがここにいるの?)
竜は突然村にやって来て、炎を吐いた。家の中で寝ていた私をお父さんとお母さんが連れ出してくれなかったら、今頃丸焼けになっていたと思う。そう考えると、ぞっとした。村の人たちは皆泣き叫んで、逃げ惑っている。誰も、どうしたらいいか分からないんだ。
「ヒスイ、森へ逃げるぞ!」
私の手を引いて走るお父さんの緊迫した声。炎はすぐそこまで迫っていて、私は息苦しくなりながらも必死に走った。周りには同じように森へと向かう人たちがいる。
「竜が来るわ!」
後ろを振り向きながら走っていたお母さんが、顔を強張らせて叫んだ。同時に竜の方向が間近で聞こえ、バサリと羽ばたく音がする。怖くて涙が止まらないし、足もすくみそうになる。村の広場が見えて、森まであと少しというところで、頭上を竜が飛んでいった。そして道を塞ぐように、ドスンという地響きと共に竜が降り立って砂煙が上がる。
「駐屯兵に連絡を!」
「それより勇者だ! 近くに勇者がいるはずだ!」
一緒に逃げていた村の男たちは、武器を取って竜を足止めしようと立ち向かう。それを軽々踏みつけて、火を吐く飛竜は大きかった。後ろ足で立つ竜の前足には鋭い爪が生え、しっぽが長くて痛そうな突起がついている。家と同じぐらいの大きさで、怖くて足がすくむ。
「うそ、なにあれ」
「左に走るぞ!」
お父さんに手を引かれて、私たちは方向を変えて走り出す。横目で竜を見たら、男たちが戦っていた。
(これなら、逃げられっ……?)
竜が前足を振り払ったと思ったら、私は地面に転がっていた。一瞬何が起こったのか分からなかった。
(今、背中を押されて……え?)
急いで起き上がれば、目の前は血の海。その真ん中に、両親がいた。
「お父さん! お母さん!」
側に駆け寄ると、二人はゆっくり顔を上げた。生きていることに安心して、涙が溢れる。
「ヒスイ……逃げろ」
「お願い、逃げ、て」
お父さんとお母さんの体には爪で引き裂かれた傷があって、血が流れている。私は手当てをしようにも、何から手を付けていいのかわからなくて、血の海が広がるのが怖くて泣き叫んだ。
「嫌だよ! お父さん、お母さん、起きて! 一緒に逃げようよ!」
竜はすぐそこまで迫っている。お父さんとお母さんの服を引っ張ったけど、二人の体は動かない。
「いいから、お父さんたちは後からいくから、森の奥へ走れ!」
お父さんに手を振り払われ、私は勢い余って尻もちをついた。痛みでさらに涙があふれる。お父さんは今まで見たことのないくらい必死な顔で、お母さんは苦しそうに顔を歪めて私を見ていた。じわじわと恐怖と絶望が足元から這い上がる。
「ヒスイ……いい子だから。走って、私たちは大丈夫。きっと勇者様が来てくれるわ」
私は、その大丈夫が大丈夫だと信じられるほど、子どもじゃない。信じたくても、もう会えないという悲しみで涙が止まらなかった。
「お父さんとお母さんがいなくなるなんて嫌! それなら私もここにいる!」
嫌々と泣き叫んで、首を横に振った。一人で逃げるなんて無理だと思ったし、お父さんたちを置いてなんていけない。……でも、本当は分かってる。お母さんたちはもう助からないって。それでも、一人で残されるのは嫌だった。
「逃げろヒスイ!」
お父さんの怒鳴り声。今まで、声を荒げたことなんてなかったのに。ふと視線を上げればすぐそこまで竜の爪が迫っていて。
(死にたくない!)
私は頭を抱えて蹲り、喉が潰れそうになるほど叫んだ。
「いやぁぁぁぁ!」
怖い! 死にたくない! でもお母さんたちと離れたくない! 考えはぐちゃぐちゃで、恐怖に縮こまることしかできない。迫りくる爪を見る勇気はなかった。死ぬのは怖い。でも、少しだけお母さんたちと一緒に死ねるならいいと思った。
そして風を感じた次の瞬間、頭の上でガチンと何かを弾く音がした。
(え、何?)
まるで金属同士がぶつかり合ったような音で、私はまだ生きている。信じられなくて顔を上げると、私の周りには白く輝く半球があった。まるで私を守るように、光の半球が包んでくれている。
「どういうこと?」
理解ができない。呆然と腰が抜けた私の視界に、大口を開けた竜が映り込んだ。それだけで次に何が来るのかを察してしまう。散々見たからだ。その口から炎が吐かれ、村が燃えるのを。
(逃げないと!)
私は竜に背を向け、這ったまま距離を取ろうとした。でも、白い球体にぶつかりそれ以上進むことができない。
「なにこれ! 私を閉じ込めているの!?」
ちょっとやそっと叩いたくらいではビクともしない。私は焦る。だって、ここから出ないと焼け死んでしまう。
「出して! ここから出して!」
叩く拳が痛い。振り返れば竜の喉の奥から炎がせりあがるのが見え、私はもう終わりだと目を瞑った。ギャオォォォと咆哮が聞こえ、一拍遅れて悲鳴があがる。でも、熱さは感じなかった。
(え、熱くない)
信じられない思いで目を開けば、目の前は真っ赤だった。光の半球は炎すら防ぐみたいで、私は無傷だ。そう私は……でもお父さんたちは?
「お父さん! お母さん!」
生きてるってほっとしたのもつかの間、炎の中に人影が見えた。お父さんとお母さんは外にいる。まだ生きているけど、あの傷で炎を避けられたはずがない。さっきの悲鳴はきっとお母さんたちのだ。
「出して! 助けなきゃ!」
私は這うように進んで前の半球を叩く、引きずった膝小僧が痛い。きっと擦り剝けて血が出ている。でもこんなの、心の痛みに比べたらなんでもない。
(お母さんたちの痛みに比べたら、何でもない!)
私は半球に爪を立て、ありったけの声で叫んだ。
「消えろぉぉぉ!」
私の大切なものを守れない壁なんかいらない。その願いが届いたのか、炎が消えた瞬間、半球も弾けとんだ。同時に熱気と激しい臭いに襲われる。
「あ……あぁ」
開けた視界に残ったのは、黒焦げの人だったもの。
「あぁ……うわぁぁぁぁ!」
顔すら分からない。肉の焦げる不快な臭いが鼻を突く。胃から酸っぱいものがせりあがってむせ返った。幸い胃の中には何もなかったようで、口の中に苦みが広がっただけ。あちらこちらから死の臭いがし、まさに地獄だった。
「なんで私たちがこんな目に! なんで勇者は助けてくれないの!」
近くの村に勇者が訪れていると村の人たちが話していた。あんな竜を倒せるのは勇者くらいなのに……。
私は重い体をのろのろと立たせる。どす黒い感情が心の底から沸き起こっていた。悲しい、苦しい、憎い……虚しい。もう立っているのがやっとで、走っただけなのにひどく疲れていた。それでも最後の意地で、逃げずに竜を睨みつける。
(ここで死んでもいい。でも、逃げてみじめに死ぬもんか!)
竜はそんな私を品定めするようにじっと見た後、ついっと遠くへ視線を向けた。まるで何かに気づいたようで、次の瞬間には辺りを真っ黒な闇が覆う。
(え……何?)
その中に藍色の線が見えたところで、私の意識は途切れた。