黒ドレスの女 6
スラムを訪れた翌日、派遣教会に墓地を留守にすることを伝え、アンを連れてサイランの街を出た。
向かう先は“呪われた大森林”——そこで、取引の対価となる薬草や木の実を採取するつもりだ。
サイランで借りた馬の脚で一日かけて街道と草原の土道を走破し、“呪われた大森林”の入口へと到着した。ここからは騎乗したまま進むことは難しい、かと言って馬を置き去りにするわけにもいかず、手綱を引いて森の中へと一緒に入っていく。
この大森林の奥深くに俺たちが最初に降り立っ廃都があるのだが、今回はそこまで深く入るつもりはない。
それに、そこがどこにあるのかは俺にも良く判っていない。なんとなく、引き寄せられる引力のようなものを薄っすらと感じるが、“富の神ネーシャ”の神世界フェティスにおける神力が弱いせいか、正確な方向すら曖昧にしか判らない。
「鑑定眼」
ここへ来た目的はお参りでも参拝でもない。ミステル・バリアンローグとの取引に使う薬草と木の実を採取に来たのだ。
さっさと十分な量を採取しなければ、約束の時刻——明日の夕刻すぎには戻っていないと、取引を完遂することは出来ない。
大森林のあらゆる樹々や草花、そして色とりどりの実に価値を示す数字が浮かび上がり、少し離れた位置には移動する数字も見える——それはきっと、大森林に生息する動物たちのものだろう。
俺はこうやって大森林に生息するあらゆる価値あるものを見極めることで、希少な動物の捕獲や、ミステル・バリアンローグが望む薬草や木の実を採取している。
特に精巧な植物図鑑を入手することが難しい辺境のサイランでは、欲しい薬草があってもそれを遠方で間違いなく採取できる人物は殆どいない。
ミステル・バリアンローグも人を使って派遣教会に依頼を出したり、遠方からやって来る商人から仕入れたりしてはいたが、それでは十分な量を仕入れることが難しかった。
そこで出会ったのが俺だ。鑑定眼のことを話したわけではないが、ミステル・バリアンローグの小屋から貴重な薬草類が盗まれたときに、それを前情報乏しい中で全て取り戻したことがあった。
もちろん鑑定眼を使って隠し場所を発見し、一見ただの枯れ草でしかなかった希少な薬草をアンの知識と照らしわせて根こそぎ取り戻したのだが。
それ以来、ミステル・バリアンローグとは何度か取引を行い、今ではこうして薬草採集にまで出向いているというわけだ。
鑑定眼が映し出す価値の下限を意識一つで調整し、より価値ある薬草と木の実のみを表示して採取していく。
貴重な薬となる葉や実、花弁や根っこなど、価値ある部分はそれぞれに違うのだが、より視線の向く先を集中させれば、雑草一つとってもどの部分により高い価値があるのかが判る。
そしてアンが持つ豊富な知識と照らし合わせれば、ミステル・バリアンローグが求める物を間違いなく確保することができる。
この鑑定眼の力はそれほど汎用性が高いとは思えないが、価値を数値化する能力に関してはどこまでも突き詰められる。
そこへアンの知識が加われば、俺に探し出せないものはなかった。
葉を毟り取り、木の実を採取し、花弁を摘んで籠に放り込む。それをアンが持つ知識によって仕分けし、馬に背負わせた荷籠に次々と放り込んでいく流れは随分と手馴れて来た。
手綱を引く馬もこれ幸いにと、好き放題雑草をムシャムシャと食い漁っている。
そんな単純作業が数時間経過して一つ目の籠が一杯となり、反対側の籠も半分ほど埋まった頃、視界の端に見慣れぬ文字列が動くのが見えた。
「来たか——」
「下がります。お気をつけて」
「あぁ、下がっていろ」
俺の呟きに素早くアンが反応し、薬草の仕分けを中断して馬を繋ぐ縄を解いていく。それを視界の隅で確認しながらも、俺は見慣れぬ文字列から視線を外すことはなかった。
その文字列は見慣れやアラビア数字の文字列ではなく、もっと絵的な——まるで象形文字のように見える。
その文字列にも意味があるのだろうが、俺に判るのはソレの正体と文字数から厄介さを測るくらいだ。
ゆっくりと距離を縮めて来るソレに対し、馬はまだ気配に気づいていない。ソレに気づけば、馬などの臆病な動物は恐れ戦き逃げ惑うはずだ。
そうなっては困る——上着の内側から常に携帯しているSIG SAUER P226を引き抜き、スライドを引いて初弾をチャンバーに装填する。
表示されている文字数から、ソレが俺の手に収まる範囲だと見当をつける。
アンは馬の手綱を引き、急いで俺の視線とは逆方向に離れていく。
ガサガサと草を掻き分ける音が聞こえ始めた。音に合わせて草木が揺れ、接近する方向を惑わそうとしているのだろうが、鑑定眼によってその価値が表示されている俺からは丸見えだ。
そしてその動きが停止した瞬間、草陰から一気にソレが飛び出して来た。
「見えているぞ」
両手で構えるP226のトリガーを連続で引き、サイレンサーから放たれる鈍い発砲音と共に撃ち放たれた銃弾は、飛び出して来たソレ——悪魔憑きのイノシシもどきの眉間へと吸い込まれて行った。
悪魔憑き、それは邪な神々の加護を受けた者や、神の力に溺れた動植物たちの成れの果て。
自我を失い、信仰を捧げる行為に執着し、命尽き果てるまで暴れ狂う者の総称だ。
動植物にも信仰があるとは驚きだが、生きとし生けるものに神の加護があるならば、逆にあらゆるものが信仰心を持っていても不思議ではない。
この悪魔憑きの存在が、ミステル・バリアンローグが俺に薬草採取を依頼する大きな理由の一つでもある。
“呪われた大森林”と呼ばれる由来は、“富の神ネーシャ”の使徒伝承だけが理由ではない。悪魔憑きが生まれやすい邪な信仰心が淀む地域であり、一度大森林の奥深くに踏み込めば、生きて出てくることは難しい。
だが、俺なら薬草を採取することも、生きて帰還することもできる。それが依頼される大きな理由なのだ。
しかし、悪魔憑きの飛び出した勢いは、眉間に銃弾を喰らってなお、衰えることがなかった。
青白い靄のような揺らめきを身にまとい、小型ながらも体のあちこちから肥大化した体組織が瘤のように飛び出ていた。
眼前に迫る鋭い歯列とヨダレが飛び散る大口を寸前で躱し、そのケツに残りの銃弾を撃ち込む。
だが、これも大して効果があるようには見えなかった。
流血しながらも真っ赤に光る獰猛な眼光をこちらに向ける悪魔憑きは、まだまだ斃れる様子がない。
「これじゃダメか——」
装填された銃弾がゼロになり、スライドが開きっぱなしになるホールドオープン状態になったことで、次の手段へとスムーズに切り替えていく。
トリガーの後方にあるマガジンキャッチボタンを押し、グリップ下部からマガジンが外れて滑り落ちて来るのをキャッチし、空のマガジンの上部に親指を当てて呟く——。
「リロード」
その瞬間、マガジン全体がぼんやりと輝いたかと思うと、指の下には装填された銃弾が敷き詰められていた。
これが俺の神器であるSIG SAUER P226 の基本的な能力の一つ。言葉一つで空のマガジンを再装填することができる。
しかし、その代償として弾薬代800ドラールが俺に所有権がある現金から“富の神ネーシャ”に奉納されて消え失せる。この程度の能力一つに対価を求めてくる辺り、“富の神”とは名ばかりで、実は“強欲の神”なのではないかと真剣に疑ったものだ。
「チャージ、チャージ、チャージ」
そして同じように別の文言を三回呟き、光の瞬きも三回。
これがもう一つの能力。呟くたびに装填された弾薬の威力が上昇し、これまでの経験上——三回呟けば、一発で巨石を粉砕するほどの弾丸が撃ち放たれるのは判っていた。
だが、これも一回呟と1000ドラールがネーシャに奉納される強欲ぶりだ——いや、奴に言わせれば弾丸一発あたりで徴収しないことを感謝しろと言い出しかねない。
これは銃弾以外でもチャージすることができるのだが、金額が一律でないのも嫌らしいし、重ねがけをすると奉納金が跳ね上がる。その金額決定の法則はまだ判っていないが、調べるにも金が掛かるから行なっていないのだ。
こちらの準備をご丁寧に待っていたわけではないだろうが、再装填されたマガジンをセットし、グリップ上部のスライドストップを解除して初弾をチャンバーに送り込むのと同時に、悪魔憑きが再び突撃を開始した。
馬鹿の一つ覚え——悪魔憑きの闇雲な突撃を何度も躱し、森の樹々に激突させたり、躱しぎわにケツを蹴り飛ばしたりと、少しずつ馬から引き離していく。
三度もチャージを重ね掛けした銃弾の威力は強大だ。繋いだ馬を巻き込んでは、せっかく採取した薬草含めて損失が大きすぎるのだ。
悪魔憑きも思うように行かない苛立ちに激昂し、けたたましい咆哮をあげて渾身の突撃を見せた——それを直上へジャンプすることで躱す。
ネーシャの使徒となったことで、俺の身体能力はまるでスーパーマンか改造人間のように向上し、飛び上がった高さは周囲の木々をはるかに超えていた。
中空で振り返りながら木々を薙ぎ倒していく悪魔憑きを見下ろし、P226を構え——その行く先を狙い撃った。
通常弾と変わりのない発砲音とは打って変わり、着弾点にはいくつもの爆炎が膨れ上がり、飛び散る木々と土石は爆音と共にその威力の凄まじさを周囲に押し広げていった。
地表に着地すると、大森林の地表にはいくつもの抉り取られたような爆発跡が残っていた。残り火などは見当たらず、大森林が燃える心配はなさそうだ。
そして標的の悪魔憑きだが、周囲に飛び散った肉片や体液の飛散状況を見るに、原型を留めずに爆散したようだ。
「ふぅ……リロード」
またいつ悪魔憑きや野生動物に襲われるとも限らない。マガジンに弾薬を再装填した。
しかし、神器の能力を使って比較的容易に悪魔憑きを排除できたが、誰しもが同じように排除できるわけではない。
悪魔憑きとなった人や動植物は、普通の人間では手に余る相手だ。俺のような使徒として身体能力を強化され、神具を超える神器なくして悪魔払いを完遂することは難しい。
むしろ悪魔憑きを相手にするのは、それの討伐を奉納として捧げることを信仰としている祓魔師という集団の役目だ。
基本的に使徒のみが祓魔師を名乗ることが許されており、使徒以外で祓魔師を名乗っても相手にされることはない。
俺は祓魔師を名乗ってはいないし、使徒であることも公言していないが、祓魔師の多くが信仰する神の名を悪魔憑きとの対決を有利に進めるために伏せており、一部の住人からは俺も隠れ祓魔師だと認識されている。
だからこそ物騒な仕事の依頼が舞い込んできたりするのだが、それ即ち美味しい金儲けに繋がるので、俺も一々訂正したり否定したりしてはいない。
ミステル・バリアンローグもその一人で、悪魔憑きが跋扈する“呪われた大森林”での薬草採取を俺に気軽に頼む根拠ともなっていた。
「ゼ〜ン! 大丈夫ですか〜?!」
大森林が静かになったことで、アンが俺を探しに戻って来たようだ。悪魔憑きを処理するのも一度や二度ではない、俺の使徒としての能力も神器の威力もアンは十分に理解しており、万に一つも俺が悪魔憑きに負けるとは思っていない。
俺はそこまで傲慢でも楽観視もしていないが、暴走するだけの動物に遅れをとるつもりもなかった。
「あぁ、俺は問題ない。馬とアンはどうだ?」
「はい、こっちも大丈夫です! 馬さんが怯えちゃって元気がないですけど、森が静かになって少し落ち着いたようなのです」
「よし、ならもう少し採取していくか。ミステルには二倍用意すると言ってあるしな」
「は〜い、です!」
そうして悪魔憑きを排除後、もう数時間ほど採取作業を続け、取引に必要な量が確保できたところで直ぐにサイランへと戻った。