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頑張っている私が鬱病になるわけない!

作者: 芝井流歌

作中で病気に対しての偏見と誤解される文が含まれていますが、あくまで当時の私の見解ですので事実や一般論と異なる部分はご容赦下さい。

 鬱病を発症するのはいくつかの原因がある。原因は決して一つではない。


 周囲の環境や人間関係等が多いけれどそれらは発祥のきっかけになっただけであって、元々の性格や考え方や生い立ち等にそもそもの種があったと私は思う。


 きっかけは初めて就職したエステ会社での労働環境だった。私より後に入社してきた年上のTさんの指導担当を任されたまではいいが、年上と言っても自分の母親と一つしか変わらない相手だったので初めはそれなりに遠慮しながら教育していた。


 ところがそのTさんは一つの仕事を覚えられないどころか「出来ないのでYさん(私)がやってください」と言い出す始末。私以外の誰がやっても二時間あれば出来る作業を五時間以上かけても仕上げられない程だった。それはたまにある作業ではなく毎日午前中にはまとめなければいけない仕事なので繰り返さないと覚えられない内容ではない。


 それでも母と同じくらいの年齢で入社出来たくらいの女性だし年齢的に覚えが悪くなってしまうのは仕方のないことだと割り切って丁寧に指導したり手伝ったりもした。私だって自分の担当している仕事があるし突発的に入る仕事だってある中「怒ってはいけない、イライラしてはいけない」と言い聞かせて、自分の仕事や昼食を後回しにしてでもなんとかTさんに独り立ちしてもらおうと奮闘した。


 だけど私もそつなくこなす程仕事が出来るわけでもない。まだ三年目のひよっ子だったし成績優秀だったわけでもない。それでも任されたことは責任持って最後までやり遂げるのが社会人としての最低限。「会社の役に立っている=社会の役に立っている」そんな自分が誇らしく思えて頑張る原動力になっていた。


 Tさんにストレスを感じていたのは自覚していたが周りの上司や先輩方がいつも気にかけてくれていたのでたまに愚痴も聞いてもらえていたことが救いだった。Tさんにストレスを覚えているのは私だけではなくうちの部全体に迷惑がかかっていたから愚痴の共感も出来ていたのだ。誰もがTさんの言動に頭を抱えていたのだ。ただ一人、課長を除いては……。


 うちはエステ会社だったので我が営業部もまた女性が九割を閉めていた。上司も当然ほぼ女性。お察しの通り女性だらけの部署の女性上司はとても気が強く言い方もキツい。まぁ大きな会社で上り詰めている人なので仕事が出来るからこそ部下にもキツく言えるのだが。


 その上司は課長と言っても他の会社でいうところの部長に当たる存在で四十人いる営業部を仕切っていた。ペーペーの私なんかから見ても言い方がキツい以外は完璧な人だと思っていた。


 だがTさんの担当を私に任せたのはその課長である。今となればTさんの問題で私とTさんが共倒れするのを計算していたことも課長の思い通りになってしまったのだと理解出来る。


 課長はTさんをどうにもできない私のことも疎ましかったのだ。会社という組織なのだから先輩である私が指導しきれていないのだと評価されても仕方のないことだが、他の誰もが「Tさんは誰が面倒みても変わらないよ。Yさんの実力不足じゃないよ」と言ってくれていたので「私が悪いわけじゃないのに」という課長への不満は消えなかった。


 仕事は仕事、そう割り切って自分に言い聞かせても課長からのキツい言葉での圧力と周りの目を気にしながらのTさんの尻拭い、シワ寄せで溜まった自分の仕事……それらをノンストレスでこなすのは若僧の私には簡単なことではなかった。


 体調がおかしいと思い始めたのはそんな毎日を数か月過ごしていた一月の半ば頃。いつもなら九時過ぎに帰宅して二時までには眠りに落ちていたがベッドにいくら横たわっていても眠れなかった。元々寝つきがいい方ではなかったが疲れているのに二時間以上もうだうだと転がっていたのは初めてだった。


 それからも寝つきが悪い日々が続き、このままでは仕事に支障が出てしまうと焦った私は行きつけの内科へ行って状態を話した。食欲はどうか、頭痛はどうかを聞かれ、先生が出した診断名は「自律神経失調症」だった。


 聞いたことある病名だったがいまいちピンとこなかったのは私自身は図太い人間だと思っていたからだ。気弱なわけでもないし人見知りするわけでもない。中高生の頃から演劇をやっていたので舞台度胸もないわけではない。


 そんな私が弱者のなるような病気なわけがない。たまたまの睡眠不足が引き起こしている胃痛と頭痛……とてもじゃないけどその診断名を受け入れることは出来なかった。


 処方されたのは軽い睡眠導入剤と有名な胃薬。先生の説明によると海外旅行へ行く時に時差ボケ防止用にも使ったりする軽い睡眠導入剤だという。元々胃が丈夫ではない私はあまり薬を飲みたがらなかったので睡眠が整えば頭痛も治るかなということで頭痛薬は処方されなかった。


 眠れない時に飲む頓服薬としてもらったはいいが三月くらいには毎日飲まなければ眠れない程悪化していた。診断名を受け入れられなかったのはその頃も変わらなかったが自分の身体が異常なことだけは自覚し始めていた。なかなか病院にも通えなかったので事情を話し一か月分処方してもらい、とりあえず手元に薬があれば安心出来ていた。


 そして五月のゴールデンウィークのさなか、私は会社で意識を失った。よく覚えていないけど何のことなく印刷機で会議書類を印刷していた時だった。何かがあってそうなったわけではない。その日はTさんは公休日だったからストレスでというわけではなかったのだ。


 意識を取り戻したのは三十分後くらいだと聞いた。小会議室にある脱毛研修用のベッドに寝かされており、同僚の制服のジャケットがかかっていた。すぐには状況が把握出来なかったが寝かされていることが非日常なことだけはすぐに理解できた。


 あわてて小会議室を出ると部内のみんなの視線と言葉が私へと向いた。当然課長の目も……。


 今でも覚えている。あの時の課長の疎ましそうな目……。ドラマ等でよくある「意地悪姑」そのものだった。めんどくさそうに近付いてくるとおもむろに一言「帰れば?」と……。


 ゴールデンウィークといえばどの商売でも接客業なら繁忙期。エステ会社もまた繁忙期なので電話も鳴りっぱなしだし仕事だってたくさん残っている。なによりTさんがお休みの日に片付けておかないと自分のことが後回しになってしまうので私にとっても繁忙期だった。


 それを知ってか知らずか「帰れば?」の一言。例え知らなかったとしても原因も分からずに意識を失って起きたばかりの私に「帰れ」先刻はさすがの私でも言葉を返した。「もう少し様子見させて下さい。帰り途中でまた倒れても怖いので」と。


 その時の私は考えが甘かった。目つきと口調すらキツいものの上司の優しさで退社を進めているのだろうと心のどこかで信じたかったのもある。だが課長から出た二言目は「会社でまた倒れられるよりはいいよ。Yさんがいなくても会社は回るから」だった。


 他の社員もいたが私はその場でポロポロとこぼれる涙を止めることが出来なかった。いくら会社の為といえど、会社でなければ社員がどこで倒れていても関係ないのかと、そう言いたいのかと……。


 私は情けなかった。自分は任されていることで会社の役に立っているのだと、社会の、誰かの役に立っているのだとばかり思っていたのだから。それが一気に砕かれた瞬間だった。今まで仕事に捧げてきた自負もプライドも何一つ無駄な物だと知った瞬間でもあった。


 課長はそれ以上何も言わなかったので従うしかなかった。元々会社という組織はどんなに理不尽なことであっても上司の言葉が絶対なのだから、私もそれ以上は交渉することをしなかった。「お言葉に甘えさせて頂きます。ご心配おかけして申し訳ありませんでした。お先に失礼します」と頭を下げて帰った。


 その日を境に私の身体には新たな症状が出てきた。偏頭痛、それもガンガンとかグワングワンとか擬音語では表わせない痛みだった。脳の中にある神経か血管をものすごい勢いで一本一本引っ張られるような痛み……。実際には脳には痛覚がないので「ような感じ」でしかないのだと先生は言うし、いざMRIを撮っても視覚的な異常は何も見つからなかった。


 不眠症から来る頭痛だとばかり思っていたが尋常ではない症状が怖くて、私は別の病院に行ってもう一度診断名を尋ねた。だが診断名は変わらず「自律神経失調症」だと言われる。信じられなくて、認めたくなくて、小さなクリニックにも大きな病院にも行った。だがどの先生も同じ答えだった。


 原因が分からないものに対しては対処法もない。神経を引っ張られてるような頭痛には薬は出なかった。先程も述べたように私は胃が強くないので鎮痛剤を飲みたくなかったのもあるし、飲んだところで痛みが治まる確証がなかったのもある。


 鎮痛剤を飲まずに堪えているのにも関わらず、今度は常に胃痛がするようになった。これ以上通院はしたくなかったし行く時間もないので、市販の有名な胃薬を買って痛みが激しい時にコッソリ飲んでいた。


 だがそれも課長には不愉快だったらしく、デスクのパーテーションに隠れて胃薬を飲んでいる私を覗き込んで「何? 胃が痛いくらい頑張ってるって言いたいの?」と怒鳴った。私はそんなに「頑張ってますアピール」をしてただろうか? 隠れて飲んでいたことが逆効果だったのだろうか? 堂々としていれば不愉快にさせなかったのだろうか……? それは今でも分からない。


 「きっとストレス性胃炎だろう」と、ちょっとは自分のストレスに気付き始めてはいたが勝手な判断であまり心配はしていなかった。なにせ頭痛が尋常ではなかったので胃痛くらい一般的だと判断していたのだ。


 市販の胃薬ではどうにもならないと降参して消化器科に行ったのは真夏頃だったと思う。胃カメラの結果胃潰瘍も発症していた。幸い潰瘍は小さかったので治療開始から二週間程で痛みはほとんどなくなった。


 秋になる頃には偏頭痛も頻度が少なくなり、おかしな症状は不眠だけになった。自分はこのまま回復する、やっぱり病気なんかではなかったんだと信じていた。最もおかしな症状が出るまでは……。


 それは「動悸」である。初めは「きっかけもなく」だと思っていたが、ある共通点に気付いた。課長の香りだ。課長は輸入物の柔軟剤を使っていた。香りがキツいわけでも嫌いなわけでもなく、むしろいい香りだった。


 どうしてきっかけに気付かなかったかというと、デスクはパーテーションで区切られていたので誰かが覗き込まない限り私の姿は見えない。逆に私からも見えない。だから課長が近くにいるからだとかそんな原因は思いつかなかったのだ。むしろ隣にいるTさんにイライラしていることが原因かもしれないと誤解していた。


 不意に香ってきただけで動悸が激しくなって苦しくなる。デスクにいようが廊下にいようが、柔軟剤のいい香りを嗅ぐだけで苦しくなってしまう。それは課長のいないところでも起きるようになった。公休日に地元で買い物をしてる最中に動悸がして「やっぱり課長だけに反応してるわけではなかったんだ」と思ったが、すれ違った人の残り香が例の柔軟剤の香りだったのだ。今でこそ一般的なネット通販で購入できる柔軟剤だが当時は日本ではあまり売っていないアメリカの品だった。


 「自分はもうダメだ。私の身体はおかしい」やっと認めたのは次の年の夏。そして九月に辞表を出した。課長が用意した退職届には「こう書いて」と言われるがままに書いたことは覚えているが、その内容が私の退職理由とは異なる理不尽で横暴なことだったとまでしか覚えていない。もう今更あがいても何も変わらないのだから、書かされた内容の詳細までは考えないことにしたんだと思う。


 Tさんはというと、私の有給消化中に異動になり退職の挨拶に行った時にはもういなかった。私の苦労を訴えてからのことなので言えた義理ではないが、私が退職希望を出してからの急な異動届けにTさん本人も責任を感じていたことを呟いていたらしい。私という部下の苦労を黙認していたくせに、私が辞めると言い出した後にあわててTさんを移動させたのは私の後任がいなかったからか、体調を崩した要因を一つもみ消したことにしたのか、あるいは両方かもしれない。


 退職後、実家住まいの私は退職金で少しゆっくりしようと思っていた。体調に変化があってから一年半以上経過していたが、両親も私と同じく「自律神経失調症なんて気の持ちよう」と断言していた口なのであまり体調不良を告げられずにいた。もちろん根底には心配をかけたくないからというのがあるが、それ以上に告げられない理由があった。


 姉の離婚問題である。近所に住んでいたのでちょくちょく帰ってきてはいたが、内容が内容なので私の症状の話など言える空気ではなかった。どんなに体調が悪い時でも「お前に限って」と流されるのもあり、両親にも姉にも相談できず、退職を決めたのも誰にも心配と迷惑をかけたくなくて自分一人で決めた。そんな中で姉と子供たちを守らなくてはならない以上の問題はうちには持ち込めなかった。


 私の退職から二か月後には姉と子供たちが引っ越してきた。私が使っていた日当たりのよくて広い部屋を譲り、以前に両親の寝室だった部屋を私が使うことになった。この些細な環境変化が更なる症状悪化を引き起こすことになるとは夢にも思わず……。


 どうせ寝るだけの部屋なのだから今までより日当たり悪くても構わない、そう思っていたが日当たりというのは健康に重大な影響を及ぼした。意味も理由も原因もなく気分が沈み、不眠とは逆に過眠になり布団から出ることが出来なかった。食欲も沸かず、それでも両親に心配かけまいと少しでも口にしたが嘔吐を繰り返すようになり無理に食べることが出来なくなった。汚い話だが風呂に入る体力もなくなり、必然的に外出すらもできずいわゆる「引きこもり」になった。


 課長のパワハラとTさんというストレスが消えた今、なぜ静養中の自分が悪化しているのか分からず、姉に進められるがまま心療内科に通院した。もうお分かりだろうが診断名は「鬱病」


 不眠期と過眠機がランダムに訪れ、その度に睡眠薬が変わっていく。抗鬱剤を処方されて少しは気分も晴れてきたと思ったらすぐ落ち込み、その度に抗鬱剤が増えていく。ただでさえ拒食気味になっているのに副作用で胸焼けもする。食べていないのに薬を飲まないといけないから胃炎も起こす。便秘にも頻尿にも口渇にもなる。目まいも吐き気も時には発熱も……。


 次々に薬が増えるに連れて副作用も伴う。何種類も飲んでいるとどの薬の副作用なんだか分からない時もあったが、副作用を別の薬で制御するという「不のスパイラル」に陥っていたので「つらさから解放されるなら何錠飲んでも構わない」とまで思う程だった。「これを飲んでいるからこの副作用が出ている」というのは明確な答えがなく、それが本当に副作用なのか病気が引き起こしている症状なのかも先生ですら判断がつかなかった。


 症状はこれといった原因もなく改善することもあった。それでも薬を減らされてまた悪化することが怖いと訴えて減薬することを拒んだ。当時の私が一番望んでいたのは「憂鬱にならない自分」だったので、それ以外の体調不良は我慢できた。食べれないことにも全くと言っていい程抵抗がなく、むしろガリガリに痩せていくことが嬉しいとすら思っていた。家族や友人に痩せすぎて気持ち悪いと言われようが何とも思わない。


 逆に友人と遊びに行けるようになってからの食事の方がつらかった。みんなは楽しくおいしそうに食べているから自分も勢いにつられて食べれるかなと何度も挑戦した。友人は食べられない私に気を使ってあっさりしたメニューもあるお店を選んでくれていたから、その中でも一番あっさりしていて少量っぽい物を注文してみた。結論から言うと毎度泣いて終わった。食べられないことがつらいんではなく「みんなと食べれない」と「気を遣わせてしまった」ことがとてもつらかった。あげく謝りながら泣いている私に「いいよいいよ、うちらで食べていい?」と、私がほぼ一口だけで残した物を食してくれたことに更なる自己嫌悪した。


 私小説「私がレズビアンだった訳」に登場する友人たちなのだが、失った原因さえなければとても良い友人たちだったなと寂しく思う。こんな私を誘い出し、あれこれと楽しませる企画を立てて励ましてくれていたのだから。


 失ったものは戻らない。過ぎた昨日には戻れない。前を向いて歩いて行くしかない。だけど前に進めない時だってある。「どうして悪い風にばかり考えるのか」と聞かれても私が聞き返したい。「どうしたら悪い風に考えないようにできるのか」と……。


 今でこそ回復はしたものの、一時期は「躁鬱病」だった頃もある。鬱病も躁鬱病も簡単に完治するわけではないが「緩快」はする。少しの努力と勇気がいるが、決してつらいことばかりではない。だって、私もそうだったから。もう一生笑うことなんて出来ないと、自分は生きていてもゴミですらないと思っていた私も、ドン底を何年も過ごしていたけど「今、こうして生きている」という実感を持てている。


 私は今、フルタイムで会社に勤めているわけではない。まだ体力が戻っていないからというのもあるが、正直なところ自分が会社という組織に向いていないんではないかと思っている。なにも正社員だけが生きる道ではない。自分の出来ること、やれることを少しずつ見つけて生きている。決してお金にならない舞台も小説も誰かの心に止まれば誰かに感動をあげられるかもしれないし、何かの役にたつかもしれない。家事だって誰かの役には立っているはず。そう思えるようになるにはとても時間がかかったけれど、迷った時や落ち込んだ時にこういう考えが出来ていた時もあったなと、いつかこれを読んで思い出せたらいいなと思う。


 そして、この拙い文字の羅列に目を通してくれる相手がいることに感謝します。ここにアクセスしたきっかけが何であれ、どう感じたかはどうであれ、これもまた一つの「私の生きた証」であり、「あなたの生きている証」でもあります。


 甘いかつらいかは個々の考え方次第。好評も不評も人それぞれ。みんな違う個体なのだから違って当たり前。


 でも、これだけは同じだと思う。「頑張ってるからつらいんだよ」


 頑張っていなければつらさなんて感じないと私は思う。誰だって頑張っている。ふんずり返っている大富豪も、税金の無駄遣いしている議員も、スキャンダルを起こすタレントも、みんなどこかで頑張っていたから今がある。倫理に反さなければ誰かが認めてくれる。間違った方向に頑張っていなければ絶対に誰か一人でも拍手をくれるはず。その一人が自分の頑張りを認めてくれた、それだけで少し気持ちは軽くなるはず。


 どう思いますか? 自分の方がつらいと思う人にも、自分の方が幸せだと思う人にも、一瞬でも「頑張っているからつらい」という響きが伝わっていればいいなと思います。


 そして最後に、私の伏せていた日々が誰かの支えになりますように……。




最後までお読み頂きましてありがとうございました。


みなさんの精神衛生が健やかでありますように。


作中に出てきました私小説「私がレズビアンだった訳」は殴り書き状態でお見苦しい限りですが、ご興味ございましたら見苦しいのを覚悟の上いらして下さい(笑)


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― 新着の感想 ―
[良い点] パワハラ、そして自律神経失調症は辛いですよね... 自身もこの病になってから、鬱は決して甘えなどではないと感じました。 私の場合は、鬱に片足を突っ込んだ状態で踏みとどまることが出来ました…
[一言] だいたい上司の無茶振りで欝になることが多いですよね。 お客さんのクレームとかでは、会社の人間のフォローが入るので、あんまり辛くなかったと思います。 私も新人指導で休日も取れず20日間ぶっつづ…
[一言] 鬱になる環境と自分の性質、条件が重なると、追い詰められてしまいますよね。人間って弱いんだなぁ、と自分の体験でも思いました。 真面目にキッチリ!とか思わずに、やりながら経験を深め、人の話をよく…
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