ちいさなこいしのものがたり
――まもなく、八事。お出口は右側です。
大学入学後の初めての試験が終わり、高校時代から恒例の一夜漬け試験勉強の反動のため地下鉄の心地よい振動が眠りをいざない、すっかり熟睡。午後の鶴舞線は座席もまばらで俺が派手に船を漕いでも誰も気に留めない。七月下旬の地下鉄はクーラーが心地いい。
車内アナウンスが耳に入り、重いまぶたを無理やり開ける。地下鉄のガラスの向こうに見慣れた自宅の最寄り駅のホーム。俺は首を軽く回して立ち上がり、車両の扉へ。しかし、なんで降りる駅になると目が覚めるんだろうね。たまに寝過ごすこともあるけど。
人目も気にせずに大きなあくびをしながらホームに降り、体を引きずるように階段を上る。改札を出たところでいつもより少しだけ人が多いことに気づく。興正寺の縁日だと地下鉄におばあちゃんがたくさん乗ってるから〈あー、今日は縁日だね〉と気づくけど、今日は地下鉄でおばあちゃんたちには出会わなかった。どちらかというと視線の先の人だかりの年齢層は若い。近くに大学があるから何かのイベントがあるのかもしれない。暇つぶしに人の流れについて行ってみるか。どうせ今日は遅めの昼飯を食べたあとは寝るくらいしか予定がない。人だかりに女性の姿が多かったからとか、他意はない。1番出口を出ると、今日は少しだけ涼しいとはいえやっぱり七月の日ざしだ。名古屋の夏独特のムッとした重い空気に少しだけ気が滅入る。そして人の流れは大学とは逆方向に向かっていた。あれ? やっぱり興正寺の縁日? 俺は首をかしげながらのんびりと人の流れに身をまかせ。流れはそのまま興正寺へと続いていた。
西山中門、五重塔へと一直線に続く参道。参道の両脇の露店のテント。久しぶりに見るこの構図は俺の中の興正寺の縁日の思い出とは違い、カラフルな彩りが広がっている。俺は自分の思い出が間違っているのか、と立ち止まってきょろきょろと情報を探す。
――興正寺マルシェ。参道の入り口の隅の小さな立て看板にその文字を見つける。マルシェ、って……なんだっけ? 立て看板に貼りつけられた小さなポスターを見ると、どうも新しく作られた縁日の名称らしい。毎月二一日が興正寺マルシェ。あらためて参道の両脇の露店を見ると俺の知っている縁日とは違い、若い人でも楽しめる露店も多い。パンにカフェ、ケーキにアクセサリー。こんな縁日もやっていたんだ。もう一〇年くらい興正寺には来ていなかったな。多くの行き交う人々にまじり、ゆっくりと露店を眺めながら参道を歩いてみる。にぎやかな場所は昔から大好きだ。ほのかな線香の匂いがなつかしい。ばあちゃんと縁日のたびによく来ていたっけ。ばあちゃんはところてんとかラムネとか大好きでおいしそうな笑顔を見せていたな。少しだけ行列が出来ている露店……鬼まんじゅうだ。昔はばあちゃんがよく作ってくれたけど、亡くなってからは全然食べていない。よし、今日の昼はこれにしよう。他の露店も気になるけど、やっぱりなじみのあるものを選んでしまう。すぐに自分の番になり、二つ購入。受け取ったビニール袋からプラスチックの容器越しに匂いを確かめる。この華美じゃないところがいいんだよな。思わず顔がほころぶ。
「わたしもふたつくださーい」
聞き覚えのある声に思わず振り向く。俺と同年代の女性……彼女は視線が合うと俺を認識して〈おう〉と軽いノリで小さく右手を上げる。すぐに視線を店員さんに移し、〈ありがとー〉とお金と交換に受け取る。小学校から高校まで同じ学校だったエナだ。〈おう〉ってすごく軽いノリ……高校卒業以来だから実に四ヶ月ぶりの再会なんだけど……俺なんて間抜けな表情で驚きつつ懐かしさに酔いしれてなんて声をかけようかと思案していたってのに。まさか昼過ぎのお寺の境内で再会するなんて。とはいえ、相変わらずの軽いノリにどこかほっとしている自分に気づく。彼女はいつだってこんな感じだった。
「ひさしぶりだねイッセー。今日、大学は? サボり?」
「エナじゃないんだから。今日で試験終わって、今帰り」
「ねえ、今わたしを不真面目認定した?」
彼女は口をとがらせ、やや不満気な顔。お互い下の名前で呼び合っての会話は少しだけ恥ずかしかったけど、久しぶりに会った彼女から昔と同じように呼ばれたのはちょっとうれしかった。そのまま人の流れに沿って並んでゆっくりと五重塔を目指すように歩きだす。
「わたしそこの大学だからね。ちょっと休憩がてら買い出しに」
〈へー〉と相づちを打ち、彼女がそこの大学の生徒だったのを知らなかったふり。
「せっかくだから、これどこかで一緒に食べようよ。積もる話もお互いあるだろうし……あるよね? ね?」
「いや、まあいいけど……彼氏に怒られない?」
「彼氏がいたら一緒に来てるよ。一人で来たとしても鬼まんじゅう四個買ってるよ」
彼女は苦笑い。四個という基準がよくわからないが……ジャブを打ってみたけど、そうか彼氏はいないのか。高校時代、彼女はバンドでキーボードを担当していた。学校で行なわれた夏祭りのステージでの活き活きとした姿……そんな彼女を見て、少しだけ遠くに感じた。そして彼女はそのバンドの男の子と仲が良かったのを覚えている。まあ単なる俺の思い込みかもしれないけど。彼女とは小中学校では何度か同じクラスになったけど、高校では一度も同じクラスになることはなく話す機会もほとんどなかったけど、学校で偶然会うとさっきみたいに〈おう〉と笑顔でこたえてくれる、それだけの関係だった。
「あっちの公園のベンチとか行く?」
俺は進行方向に向かって左側を指さす。
「子どもたちにせっかく仕入れた鬼まんじゅうが狙われる……こっちだ!」
エナは大げさに鬼まんじゅうの入ったビニール袋を抱きかかえると小走りで駆けだす。相変わらずだな、と苦笑いしながら俺も大げさにビニール袋を抱きかかえエナの後を追う。西山中門をくぐり、五重塔を横目に奥の右手の階段を勢い良く駆け上がる。相変わらず元気だな。俺は肩で息をしているってのに。ああ、運動不足。
「よし、大丈夫」
階段を登り切ると、エナは何事もなかったかのようにのんびりと歩き出す。木々とお墓に挟まれた小道。縁日の喧騒が少しだけ遠くなり、鳥のさえずりも聞こえ、少しだけひんやりとした空気が肌をなでる。しばらく歩くと広場みたいなところに出たっけ。参道から距離があるから人も少ないだろう。縁日の日にゆっくりするにはうってつけかもしれない。
「いつまでも抱きかかえていなくていいよ、鬼まんじゅう」
つっこまれる。なんだよ、せっかくエナにつきあってあげたってのに。
「どお? 大学は。友達できた?」
エナはビニール袋の上から鬼まんじゅうを愛おしそうにのぞき込み、何気なくつぶやく。
「友達って……ばあちゃんみたいなこと言わないでよ」
ばあちゃんも顔を合わせるときっと同じことを言っただろう。
「……あ、ごめん……友達……いないんだね」
「いや、そんな哀れみの目で見ないで。それなりにはいるから。お昼を一緒に食べたり、講義サボって遊んだりしてるダチはいるから」
「なんだ、やっぱりサボってるんだ」
馬鹿なことをしゃべりなが緩やかな坂道を上る。喧騒から離れているのと長い距離のためか、幼いころはこの道を歩く時はいつも不思議な気持ちになった。しかもこの道をよく歩いたのは夜。秋に行なわれる千燈供養会の時だ。道の両脇の足元に並べられた灯籠の明かりが不思議な気持ちにさせた……というよりも正直なところ少しだけ恐怖も感じていた。お寺のお墓のあいだを縫って歩くのだから。ただ、手をつないでくれていたばあちゃんのぬくもりのおかげで、自分はまだ生きているんだとおかしなことを感じながら歩いていたのを覚えている。無論、今では一〇代最後の年の俺はそんなうぶな気持ちは忘れてしまったけど。それに今日はとなりを歩く彼女が手をつないでくれるわけでもなし。
そうこうするうちに開けた場所に出る。この細道の距離、昔は永遠に近いほど長く感じたものだけど、おしゃべりに夢中だとそれほどでもなかったかな。ここは大日堂と呼ばれる建物がある広場。八事の山でもっとも高い場所らしい。そして広場の中央には少しだけ高くなった台座のようなものがある。千燈供養会ではここに丸太が組まれて火が焚かれる。知らない人も多いけど、実は名古屋最大の火祭なのだ。今はその時期ではないので台座だけが広場の中央に陣取っている。やっぱり今日は参道のマルシェがメインイベントというだけあってか、この広場での人影はまばらだ。
「どこで食べる? この台座って腰かけてバチ当たらないかな……ってなんでレジャーシート持参してんの?」
「え? 外でお弁当食べる時便利じゃん。っていうかそっち持ってよ」
うわ。何言ってんの? って顔された。エナと二人でお堂へと続く階段の左にある芝生のところにレジャーシートを広げる。まあ確かに木陰にもなっているし、過ごしやすいとは思うけど。エナはレジャーシートにさっさと腰を下ろし、自分の左どなりのスペースをポンポンとたたく。では遠慮なく……と思いながらもやっぱり遠慮気味にレジャーシートに腰を下ろす。エナは〈はい〉とウェットティシュを渡してくる。どこまで手際がいいのやら……エナは普段からレジャーシートとかウェットティッシュとか持参しているのだろうか。まあ昔からちょっと変わった子ではあったけど。ウェットティッシュでしっかりと手をふいて、ビニール袋からプラスチックのケースを取り出し、中から鬼まんじゅうを取り出す。鼻を近づけて……うん、いい匂いだ。
「いただきますは?」
手に取った鬼まんじゅうを頬ばろうとしてエナににらみつけられる。二人そろって手を合わせて、いただきます。いい年した二人がお寺でレジャーシート広げていただきます、って図は、はたから見たらどうなんだろう。久しぶりの鬼まんじゅうは、月並みな表現だけど優しくてほっとさせられる甘さだ。決して華美じゃないけど、やっぱりおいしい。ピクニック気分な雰囲気も食欲をそそる。ふと、この視線の高さに懐かしさを覚える。レジャーシートに座って食事だなんて、ほんと何年ぶりだろう。青空の下で食事をするのって、やっぱりいいよな。よし、もうひとつも食べちゃおう。
「ここってさ、小学校の時の春の遠足で来たことあるよね? 覚えてる?」
エナはまだ一つめを半分ほどを食べたところ。視線は鬼まんじゅうに落としたまま。
「あー……ああ、来た来た! 二年の時だ。歩いて来たんだっけ?」
俺はその時の風景を思い浮かべる。そうか。このレジャーシートに座った視線に懐かしさを感じたのは、あの時の遠足を思い浮かべていたんだ。この視線、この視界、はっきりと思い出した。あの時も俺はここに座ったんだ。お弁当食べてお菓子食べて、鬼ごっこしたりドロジュンしたり。ああ、木登りもしたなあ……木に登って……。
「……どしたの?」
一瞬ぼうっとしていたのをつっこまれる。
「……ちょっと思い出したことがあって」
今の今まで忘れていた。
俺は残り半分ほどの鬼まんじゅうを無理やり口に詰め込むと、レジャーシートから立ち上がり、後ろにそびえ立つ大木を見上げる。うん、この形。地面から生えた直後すぐに水平方向に曲がり、その先で大きく空に広がるように伸びている枝。やっぱりそうだ。俺は木の向こう側に回りこむと、この登ってくれと言わんばかりの形の木をゆっくりと登る。
「バチあたるよー」
こいつは何を始めたんだ? とでも言いたそうな表情で俺を見上げるエナ。木登りなんて小学校以来だけどそれほど高いところでもない。枝が空に向かって分かれているところのくぼみ……俺は期待をしないで手を伸ばす……まさか……あった。俺はそっとそれをつかみ、ゆっくりと目の前で手のひらを広げる。薄く色のついた透き通った平たい小石……とあの時は思っていたけど、これ多分ラムネの瓶の破片だな。俺は裏返したりして表面を確認。そうか。これがあの時の石だったとしても、一〇年以上経ってるしな。残っているわけないか。俺は苦笑いをすると、地面に飛び降りる。
「なになに?」
エナは興味深そうに俺の手のひらをのぞいてくる。
「石に好きな子の名前書いて隠して、一日経って誰にも見つからなかったら両思いになれるっていうおまじない。小学校の時、女子はみんなやってたよね?」
「あー、あったね、そんなの。男子ってば、馬鹿にしてなかったっけ?」
「馬鹿にしてても裏でこっそりとやるのが男の子ってもんだよ」
「ふーん。で、これはイッセーが小学校の時にやってたおまじないの石、ってこと?」
「……うん、まあそーゆーこと。誰の名前書いたか覚えてなくってさ。さすがに書いた名前は消えてたね。しかしまさかまだあったとは、ね」
水性のフェルトペンで書いた記憶。一〇年以上も風雪にさらされ、文字は消えて当然だろう。はっきりとは思い出せないけど、この石に書いた女の子の名前は、多分……。
「隠したあと次の日に取り戻さなくちゃいけないんじゃなかったっけ? なのに遠足の目的地で隠すあたり、イッセーらしいよね」
「純真だった俺の思い出を……」
エナは俺の手から石を取り上げる。
「へえ……」
石を自分の手の平で転がしてみたり目の前に持ってきたりしたあと、エナは何気なく青空にかざす。
「……へえ……」
陽の光に透かした石がきれいだったのか、子供のようにエナは頬を緩める。
「……気づかなかったな」
「俺は今でも純真だっての。気づいてよ」
エナは俺に振り返ると二秒ほどじっと見つめ、また笑う。そして黙って俺の手のひらに石をそっと落とす。
「のど乾いた。お茶でもしようよ」
エナは残りの鬼まんじゅうをバッグにしまうとレジャーシートをたたみだす。
「近くに自販機あったっけ?」
俺も慌てて手伝う。
「女の子がお茶しようよ、って言ってるのに喫茶店とかせめてファミレスとかって発想はないの?」
ああ、そうか。それが普通だよな。
「んじゃ、わたしのお気に入りのところがちょっと歩いたところにあるから、そこ行こ」
エナは小さく折りたたんだレジャーシートをバッグにしまうと軽い足取りで歩き出す。さっきはそこの大学から〈ちょっと休憩がてら〉なんて言ってなかったっけ? なんてやぼなことは言わない。先を歩くエナの後をのんびりとついていく。そんなにきれいだったのかな、と何気なく手の中の石をエナのまねをして青空にかざす。
一瞬心臓が止まるかと思った。逆に、今は心臓が元気に動きすぎ、鼓動が耳にまで届く。石に書かれた文字は消えていたけど、陽の光に透かすとうっすらと文字が読み取れた。子供らしいヘタな字で〈エナ〉とカタカナの輪郭が目に入る。この筆跡は絶対に俺の字だ。これか。さっきエナが〈気づかなかったな〉と言った理由は。エナをちら見すると足元に手を伸ばして何かを拾い上げる。
「わたしも、久しぶりに石に名前書いてみようかなー」
エナは手にした石をしばらく見つめ、羽織っていた夏用のカーディガンのポケットにそっと入れる。石に誰の名前を書くのか、なんて訊けない。小学校の時のルールでは書いた名前を人に見られてはだめなのだ。名前を書いた石を隠し、誰にも見つからずに一日経てば恋が成就する。そしてその石をお守り代わりにずっと持っておく。だから隠した石をあとでこそっと見て俺の知らない名前が書いてあればその願いは成就しない。けど万が一、俺の名前が書いてあったら、それを見てしまったからには当然その願いも成就しない。結局どうすることも出来ないのだ。いや、そもそも俺はエナがまだ好きだってことになってるな。もちろん嫌いではないんだけど……なんて淡い期待はよそう。だってもう一〇年近くほったらかしていたおまじないなんだから。俺は手のひらの石をもう一度見つめ、そして一〇年間この石が隠されていた大木を見つめる。一〇年後、俺は誰と過ごしているんだろう。今日の出来事が笑い話になっているだろうか。笑い話ができる相手がいるだろうか。
……とそこまで考えてから目先の心配事に気づいた。今からエナと二人きりでお茶をするのだ。こんな状況で、さてどんな会話をすればいいのか……少しだけ気が重い。
俺には今が精いっぱいだ。一〇年後のことなんかいちいち気にしていられない。一〇年後のことは一〇年後の俺、がんばってくれ。
俺は意を決して数歩先を行くエナに駆け寄り、遠慮気味にとなりに並んだ。
Fine