松村優太 5
健二と共に美々の元へと向かう時、廊下の手前にある売店の中から「優太」と、声をかけられた。振り向くと、懐かしい顔を見つけた。父親の松村学だ。
「親父。久しぶり」優太とは八ヶ月ぶりの対面だった。
外国に本社のある自動車メーカーの南米にある支店に勤めて長い学は、営業所長の多忙な立場から、日本へと帰国可能な休みは年末年始しか取ることができない。今回のようなアクシデントでの休暇は、長く勤めてきた中でおそらく初めてだろう。
「元気そうだな」
「ああ」
学は手にビニール袋をぶら下げている。優太がじっと見ていると、学は「朝から何も食べていなくてね。おまえも何か食うか?」と、中から梅のおにぎりを取り出した。
「いや。いい」
「そうか」
学は取り出したおにぎりをふくろに入れて、縁の太いメガネを長い指で押し上げた。
優太は学の指の長さや美しさを見て、やはり俺たち兄弟は、妹や親父と似てないなと感じた。学や美々は全てが洗練された空気だ。学から届くオーデコロンの上品な香りを嗅ぎつつ、俺も親父みたいなルックスで生まれたかったと思えた。
「さっきICUから一般病棟に移ったぞ。あっちにエレベーターがある」
学が先導して五階へと着き、後ろを優太と健二が歩く。窓の外には広い駐車場が見えた。そのすぐ奥には優太達三兄妹の通った小学校がある。自分の卒業した学校を高い位置から眺めると、見え方もまた違う。その狭さに驚いた。子供の頃はもっと広く感じたものだが。
スライド式のドアを開けると、眩しい光に一瞬目がくらんだ。うっすらと目を開けると、白く清潔そうなベッドに美々はいた。頭にネット包帯を巻いている以外は痛々しさが無く、顔色も良い。木目調の床とクリーム色の洗面台が光っている。二人掛けのソファーにはやつれた様子の澄美子が座って、ぼんやりと美々の顔を見ていた。
「澄美子。食べ物買ってきたよ」学が声をかけたが、澄美子は「ええ」とうめくような声を出しただけで反応が鈍い。
「一般病棟に移ったってことは、状態良くなったのか?」優太が質問すると、学が振り向いた。
「出血が止まったらしく、安定したそうだ。とはいえ、意識が戻ってしばらく様子を見るまで先は分からないらしい」
ビニール袋を澄美子の横にあるテーブルへ置くと、学はカーテンを少しだけ引いた。美々の顔に当たっていた陽の光が遮られ、部屋が少しだけ暗くなった。
「俺がしばらく見ているからさ、親父とおふくろは休憩室でメシでも食ってきなよ」健二が言った。それぞれ長旅と看病で疲れている二人に気を利かせたのだろう。
特におふくろは疲労が溜まっているようだと優太も思った。事故以降生気が無い。
二人が頷き、部屋から出て行った後、優太もついていくことにした。一般病棟に移ったとはいえ、美々は依然危篤状態であり、家族以外は面会謝絶だ。病室に何人もいては空気も悪くなるし負担になる気がしたのだ。
健二に俺も行くと声をかけ、優太は両親の後を追いかけた。
「少し日焼けしたな」学が優太に言い、眼鏡の奥の目が細まった。
「ああ。親父は顔色悪いな。陶器みたいだ」
「向こうは今、冬だからな。色も白くなるさ」
なるほど。ワイシャツからのぞく二の腕も顔と同じくらい白い。窮屈そうに組む長い脚に履いている黒のスラックスとの対比で際立っている。マントでも付ければ映画で見るドラキュラ伯爵のような感じだ。その隣では、丸い体型のおふくろがモソモソとおにぎりを食べている。
優太の母親嫌いは、子供の頃の授業参観がきっかけだった。その時に澄美子の体型をからかわれて以降、優太は自身のゴツい体を強く意識するようになったのだ。また、性格がやや短気で融通の利かない点も嫌だった。それはつまり、澄美子とよく似た自分自身を嫌っていることにもなるのだが、優太は自身の内面をそこまで洞察したことは無かった。
「就職活動はどうしている?」学が優太に尋ねた。
「小さな所から内々定は貰っている。ただ、駅伝の実業団チームを抱えているような大企業には、冬の大会への出場が前提だったんだ。夏休み中はずっと合宿する予定だったんだが、その」優太は少し言いよどむ。自分の不利益を美々のせいにしたくない。「少し予定が狂ったから、そうだな。大学の休みが明けたら、急いで活動を始めるよ」
「そうか。協力できなくてすまないな」
「気にするなよ」
そして優太は、家で済ませた雑用からマスコミへの対応、警察での手続きまで、こなした仕事を順を追って説明した。
「畑宗史ってのは偽名臭いな」
親父に言われてなるほどと思った。たしかに偽名っぽい。
「ジャーナリストの類は、名前や肩書きを何種類も書きこんだ名刺を持っているものだからな。まあ、真剣に付き合おうとするな。話半分で適当な距離を置くくらいが丁度いい」
「分かった」マスコミ関係のあしらいに慣れているのだろう。学の鋭さを優太は素直に関心した。
「優太の言ってる、一重瞼の少年に連れ込まれたって点は無いわね。美々や清海ちゃん、それに名津美ちゃんからも普段の話を聞いてるけど、男の子との浮いた話なんて聞いたことが無いわよ。ナンパされた男に付いて行くなんて、それこそありえない」
「おふくろに知らせてなかっただけじゃないのか。そういう男友達もいるって」
「美々は賢いから、あたしにうまく隠していた可能性もあるけど、それでもそんな相手がいるなら、清海ちゃんは絶対あたしに喋るわ。あの子口が軽いから」
たしかに、と優太も思った。きんちゃんこと清海ちゃんは、おふくろとも仲が良い。なっちゃんこと名津美ちゃんも賢いので誤魔化し通すことができるだろうけど、きんちゃんは美々に口止めされてても、おふくろに話しそうな性格をしている。
「まあ、今は全て警察に任せておきなさい。何か問題があったのならいずれ知らせてくれるだろう」
「そうよ。あんたが頭使ってもそれほど役に立たないでしょ」
二人に言われて、優太もとりあえず頷いておいた。
その時、澄美子がコホコホと咳をした。さっきから声も若干枯れている。
「夏風邪でも引いたんじゃないのか? おふくろ」
「うん。少し体が怠いかな」
「あまり無理するなよ。俺にもしばらく時間はあるし、健二も積極的に色々手伝ってくれている。美々の状態も安定してきたんだから、休んでしっかり体力付けなくちゃ」
事故以降、初めて澄美子が軽く笑顔を見せた。「ありがとう。だけど、母ちゃんにそんな心配は無用だよ」
「優太はすっかり逞しくなったな」学が目を細めている。
「俺なんてまだまださ、ていうか親父も疲れているんじゃないか? 新工場の設置だとかで忙しかったんだろ。飛行機の移動の後だし、無理するな」
「いや。飛行機には慣れているから大丈夫さ」学が口元を片方だけ上げてニヤリと笑った。
「それに、立場ってものもあるだろ。それほど長く休んでもいられないんじゃないか? 外国の企業っていきなり解雇とかあるんだろ?」
「ははは。優太が不安を感じる必要は無いよ」
学は笑っているが、優太は昨年、学の会社が不祥事を起こしたニュースを覚えていた。今もまだごたごたが続いてて、それほど安定しているわけじゃないと知っている。
「親父もおふくろも、あまり気をもみすぎるなよ」無理やり笑みを浮かべて優太は続けた。「駅伝やっててわかったけど、怪我ばかりは焦っても良い事が無い。治るには時間が必要なんだ。大切なのは、怪我が回復した後の立て直しさ。その時のために良い環境を整えておくこと。それがチームってものだろう。家族にも当てはまる考え方じゃないか?」
優太に激励された二人は顔を見合わせ微笑んだ。場の空気が和む。
「優太」澄美子が神妙な顔をして見つめてきた。「私たちから見たら、あんたもまだガキンチョなんだ。家族のことに気を揉んだりしないで、自分のやりたいことやってりゃいいのよ。就職だって焦ることはない。走っていると疲れるけど、歩いたら実を結ぶものだよ」
「うん? どういう意味だよそれ」
隣で学が澄美子を見つめて、目をパチパチしている。「懐かしいな」
澄美子はフフンと鼻から息を漏らして、得意気な顔だ。
優太の前にいる両親の間だけで会話が通じているようだ。
「海外の格言さ」学が答えた。「昔、国外の大会で、澄美子が柔道の試合に負けてな。夜中なのに外へ走りこみに行こうとしたんだ。危ないからやめろって言っても聞かなくてね。それで言ったんだ。走ると疲れるが、歩くと辿りつけるよってね。意味は、焦って急いで進むと失敗するが、ゆっくり進めば成功するってこと。頑張ってばかりいないで、たまには手を抜きなさいってアドバイスだよ」
へえ。優太が初めて聞く話だ。
両親の馴れ初めについてはおおざっぱに聞いたことしか無かったが、なんとなく二人が結ばれるきっかけのようなものを察することができた。心の弱っているおふくろを、親父が慰めた。
「そして、おふくろが恋に落ちたってことか」
「え? 違うわよ」優太の言葉を、おでこに皺を寄せて澄美子が否定した。「あたしはそれでも無視して走りこみに行こうとしたんだけど、この人があまりにもしつこく止めるから、突き飛ばしたら足を捻っちゃってね。仕方なく部屋まで担いであげたら、その」澄美子の顔がみるみる赤くなっていく。
その様子を見た学が不思議な顔をした。「え? おまえまだ、あの時僕が怪我したと思い込んでたの?」
「は?」
「足を捻ったのは演技だったのさ。怪我をしている人に物を頼まれたら断り難いだろ? チャンスだと思ったよ」
学がしれっと言い切ると、澄美子は口を開けたまま固まった。
優太は二人のやり取りで悟った。どうやら、学は元々、澄美子に好意を持っていて、怪我を負わせた罪悪感を利用して一気に口説いたと。したたかな男だ。
「弱みにつけこむってのも酷い男だな」
澄美子を庇った優太の言葉で学がムッとした。「うるさいな。その時におまえが出来たんだから、結果オーライだろ。文句言うなよ」
学は自分で言っておきながら、みるみる顔が赤くなっていく。目線が窓の外に向き、遠くの空を見つめだした。
澄美子の顔も赤いまま、机を見つめて動かない。夏風邪の熱で赤くなっているわけではなさそうだ。
二人とも疲れているせいだろうか。優太に見せたことの無いような一面が覗いている。だが優太は、二人の人間らしさを知る事により、心の距離が半歩ほど近づいたような感覚を体感した。
学は数日ほど日本に滞在することを決めたそうだ。家に尋ねてきた役所の人間と面会したり、マスコミ関係者のインタビューを受けたりと、疲労の溜まった澄美子の手助けをして、空いた時間は病院へと行き、美々に話しかけて時を過ごした。
優太と健二は事故が起こったことにより、家族の絆が強まり続けていくのを感じた。
テレビの続報も無くなり、澄美子の体調も回復すると、学は仕事のため再び海を渡った。去り際に優太と健二の手を取り「美々と澄美子を支えてやってくれ」と言葉をかけられ、「任せてくれ」と返答した健二に優太は驚いた。
事故をきっかけに、健二もまた積極的に家族のため働いてくれている。
少しずつだが、弟もまた立ち直っている。