松村優太 4
翌日午前。親父を迎えに空港へ向かった健二を見送ると、優太は警察署へ行く準備を始めた。時間を見るとまだ午前八時前。少し考え、遠回りになるが美々の事故現場を見てから行くことに決めた。澄美子専用の軽自動車はずっと病院だし、家族用の車は健二が使っている。考えた末、優太は走って行くことに決めた。人前に出るのだから、カジュアルなトレーニングウェアを選ぶ。速乾性の高いグレイのインナーに薄い紫色のソフトシェルパンツ。これなら街中にある警察署や病院でも、目立たず清潔に見えるだろう。ポケットに美々の携帯電話を入れて、優太は家を出た。
外は薄曇りで陽が出ていない。走るには丁度良い感じだった。優太は軽く屈伸すると、花火大会のあった場所へ向かって走り出した。
自宅周辺は道幅も狭く、全力で走ることができない。だが少し離れた首都高の下の道に出ると、急に歩道の幅が広くなる。停めてあるピザ屋のバイクを避けると一気にピッチを上げた。
怒りっぽい性格の優太は、脳に酸素が足りない疲れた状態を好んだ。何も考えなくて済むからだ。ダイエットという女々しい目的で始めたマラソンは、偶然にも優太の体にとって最適な運動だった。
優太もまた、健二と同じく、何もしなくても筋肉がダルマのように付く。おふくろの遺伝子を濃く継いだためだと思われた。澄美子は元柔道選手で、五輪の候補に選ばれた事もあるそうだ。怒りっぽく単純な所も優太とそっくりだった。
優太は丸い体のおふくろが、自分を見ているようで嫌だった。健二も己の頑健な体を嫌っているようだが、おふくろを嫌っている節は無い。健二が自分の体を嫌う理由。それは優太とは違うと思われる。多分、目立つことが嫌いなのだろう。優しくておとなしい健二は、優太以上に人から注目されることを嫌う性格なのかもしれないと、優太は弟を分析していた。
赤信号が青に変わり、河川敷手前の急こう配を一気に駆け上がると、あっという間に花火会場に着いた。
離れた場所で、打ち上げ設備の撤去工事が進んでいる。赤ら顔の中年の男がその光景を写真に撮っていた。優太の横を鉄パイプを積んだトラックが走って行く。
事故現場はどこだろうと見回すと、一目でそれと分かる場所を見つけた。橋の下に、映画やドラマで見かけるような、黄色と黒のテープが張ってある。
近づいてよく見ると、テープがよじれて地面に落ちてしまっている。カラーコーンに巻き付けていたものが、風で倒れてしまったようだ。見張りの警察官は居なかった。
雑すぎやしないか? と、優太は憤りを感じた。美々は今も意識不明の重体だ。そんな大事故が二日前に起きたってのに、その現場がここまで放置されているなんて。
なめてんのか、くそが。
そう考えてから、いや、と自分を戒める。交通死亡事故の現場などは、翌日には事故の痕跡すら残っていない状態になる。これが普通なのかもしれない。
美々のことを考えるとどうにも冷静ではいられなくなってしまう。自制しないと。
優太はテープを跨ぎ、事故の痕跡を探してみた。が、血の跡一つ見つからない。多くの人間が立ち入ったため、踏み荒らされて消えてしまったのか。それとも不吉だからと水で洗い流されたのだろうか。
美々の携帯電話を取り出して、写真を撮った時の位置を探すと、簡単に分かった。撮影ごとに立ち位置が変わり、落ち着きなくうろうろしている。かなりはしゃいでいたのかもしれない。
事故現場を確認した優太は、そのままS警察署へと赴いた。花火大会の会場から歩いて二十分ほどの距離だろうか。走ってきたので十分とかかっていないはずだ。
受付にて事情を説明すると、待合室のような部屋へと通された。しばらく待つと、年配の大柄な女性警察官がやってきた。背は小柄な優太より高い。
「あなたが松村美々ちゃんのお兄さん?」声色は優しいがダミ声だ。喉が潰れている。
「はい。松村優太といいます」
「そう。あのヒゲのお兄さんの上の兄さんね」
「健二と面識があるんですか?」
「ええ。私は交通課の橋本といいます。花火大会の時、交通整理全般を担当してたの。事故が起きて美々ちゃんが救急車に乗せられた時、付き添いのお友達が二人しか乗れなくてね。あぶれちゃった一人を病院まで連れていったのが私。その後、お友達を家に帰す前に健二君とお母様が駆けつけて。その時に少しお話をしたの」
口調は砕けているが、女性らしくない風貌と声に、優太は若干萎縮した。怒るととても怖そうな人だ。
「とりあえず、事件を担当する課は違うけど、私が責任持って受け付けておくから。担当する者たちにもちゃんとハッパかけておくから安心してね」
被害届の用紙を受け取り、橋本から指示された箇所を記入していく。慣れているのだろう。彼女の仕事はとても早かった。
「うん。後は、病院の先生から診断書を貰ってきてほしいわね」
「ああ、それなら」健二と親父は既に病院に着いている頃だ。健二に頼み、病院から急いで持ってきてもらうことにした。
健二の番号にかけると十コールほど待っても出なかったが、切った直後に折り返しかかってきた。病院内で着信を受けて、急いで外に出たそうだ。医師から診断書を受け取って、S警察署に持ってきてほしいと頼むと、すぐに持っていくと言って向こうから電話が切れた。
「美々ちゃん、早く良くなるといいわね。頭がすごく良いんですって?」
「ええ。自慢の妹です」
「そう。お父さんに似たのね。目元がそっくり」
橋本の口調には懐かしそうな含みがある。
優太は目を見開き、おでこに皺が寄った。「父をご存知なんですか?」
「若いころ、私も格闘技をやっててね。お父さん、ポルトガル語の通訳やってたでしょ? それでお世話になったことがあるの」
優太は昔、両親の馴れ初めについて聞いたことがある。おふくろの出場する柔道の国際大会選手団に通訳のボランティアとして親父が随行し、敗北して傷心のおふくろを親父が慰めた。そしてお互いが恋に落ち電撃的に結婚したと。その後、親父は国外の自動車メーカーに就職して、海外での単身赴任を繰り返し、現在に至っている。
「お母さんもたしか、私みたいに格闘技やってて頑丈なんでしょ? その娘ならきっと大丈夫。お兄ちゃん達も回復を信じてしっかり支えてあげてね」ゴツゴツした手が優太の両手を包み込む。橋本の真っすぐで力強い優しさを、素直に感謝した。
優太は忘れないうちに、美々の携帯電話にあった写真を警察に渡しておくことにした。
美々が事故の直前、何枚か写真を撮っていたことを話すと、橋本の目つきが鋭く変わった。すぐに別の警察官を呼び、パソコンを持ち込ませて美々の携帯電話とケーブルで繋ぎ、事故のあった日に美々が撮影した七枚の画像をコピーした。
橋本は美々が撮影した写真に写りこんでいた一重瞼の男について優太に質問してきたが、優太は知らないとしか答えられなかった。
この時優太は、橋本が一重瞼の男について詳しく尋ねてきた事に少しだけ違和感を感じた。
この被害届は、花火大会を運営したS区役所に対する業務上過失致死傷罪の被害届だ。運営の責任を警察に追及してもらうための手続きであり、一重瞼の男はどうみても運営側と無関係。この時点で、美々が一重瞼の男にナンパされて危険区域に連れ込まれたと考えた者は、優太くらいしかいないはずだった。それなのに橋本も一重瞼の男に興味を示している。なぜだろう。
優太が違和感を橋本に尋ねようとした時、健二が美々の診断書を手に警察署に着いた。
被害届に添付して、所定の手続きを進めているうちに、再び親父とおふくろの話になり、優太の頭の中にあった違和感は、霧のように消えてしまったのであった。
「ちょいと! ちょいとお兄さん!」
健二が運転席に座り、助手席に優太が乗り、松村家の車がS警察署の駐車場を出てスピードを上げ始めた途端、ゴンゴンゴンと重い音が響いた。車の左側を、赤ら顔の小鬼のような男が、分厚い拳で助手席側の窓ガラスをしきりに叩きながら並走していた。優太は「うわっ」とうめき、健二も「ひっ」と小さな悲鳴をあげ、怯えた顔をした。
健二がハザードランプをつけて車を止め、助手席の窓を開けると、男はニカッと白い歯を見せて笑った。
「すいませんね。お兄さん、さっき川のとこいたでしょ。あたしもいたんですけど。わかる?」軽い関西訛りが混ざった話し方だ。
「え? はあ……」優太は川の光景を思い返した。そういえば、花火大会設備の撤去工事を、写真に撮っていた男がいたような。
「あたしね、ジャーナリストをやっております畑と申します」
男は名刺を取り出すと、優太の手のひらに押し付けた。誰でも知っている有名な週刊誌名の下に、畑宗史と名前が書いてある。その上にハタケムネノリとローマ字でルビがふってあった。
「ムツゴロウさんのせいで、畑をハタって読んじゃう人が多くてね。あたしのことはハタに毛が生えてハタケって覚えてください。もっとも、こっちのほうに毛は無いんですけどね」禿げ上がった額をベシベシ叩いて一人でガハハと大笑いした。あまりにも声が大きすぎて、周りの通行人がチラチラとこちらを見てくる。S警察署前で警杖を持ち立番をしている警察官が、首をこっちに向けて目線を外そうとしない。
「お兄さん、たしか、花火大会の夜中に永体会病院に来たよね。ひょっとして、松村美々さんのご家族の方じゃない?」
「はあ。まあ、そうですけど」
「これからどこか行くの? ちょっとだけでいいから、お話させてくれない?」
優太よりも先に、健二が口を開いた。「すみません。これから妹のお見舞いに行くので」
「ああ、それなら病院行くまで、車の中でお話させてくれません? ちょっとでいいんですよ。そしたらすぐ帰りますんで」
人付き合いの苦手な健二は明らかに困惑しているが、優太としては望む展開だ。テレビでも流れないようなことを何か知っているかもしれない。
「後ろへどうぞ。健二、俺が話をするよ」優太は助手席から降りると、畑のために後部座席のドアを開けた。畑は礼を言い後ろに乗り込むと、そのまま優太も畑の隣に座った。
「いやはや。昨日も松村さん宅まで行って取材しようとしたんですけどね。あたしが帰ったすぐ後にお兄さん達が帰ってきたみたいで。インタビューしそこなってガッカリしてたんですわ」
後部座席からでは運転席の健二の顔が見えない。
健二は昨日の昼過ぎからは家にいたはずなので、畑は健二が居留守を使ったことを知っててあてつけているのでは? と考えているかもしれない。
「まずはこの度の事故についてご愁傷さまです。これを受け取って下さい」セカンドバックの中から、素早くのし袋を取り出して優太の手のひらに押し付けた。
「あ、どうも」畑の勢いに呑まれ、優太はそのまま受け取ってしまった。表には『お見舞』と書かれている。お札か金券のようだ。事故被害者の親族を常に追いかけまわしているわけでもないだろうに。記者ってのはこういう物を、常に持ち歩いているのだろうか。
「美々さんの一日も早い回復を心から願っています」畑からおちゃらけた雰囲気が消えて、かしこまった感じで優太に頭を下げてきた。
「すみません。ご丁寧に」
車内はすっかり畑の勢いに呑まれた。見舞いの品まで渡されては、いい加減な対応もできない。
「それでね、お兄さん」畑はメモ帳とペンを取り出し、ペンの先をペロッと舐めた。「あたしもまだまだ調べ足りないものでね。花火大会の日に誰と出かけたとか、何か盗まれたとか。何があったのか、一通り教えて頂けないですかね」
優太はきんちゃん達の個人情報は口にしないように気をつけながら、一連の流れを畑に説明した。適当な所で相槌を打ったり質問を挟んできて、聞き上手でとても話しやすい。
「なるほど」話が終わり、畑はメモ帳をパタンと閉じた。「いやしかし、橋本さんを引き当てたのは運が良かったですな。あの人が受け付けたってんなら、S署もそれなりに捜査するはずです」
「それ、どういう意味ですか?」
「普通、こういった事故は、警察は本腰上げて捜査しないんですわ。民事不介入ってやつで。普通に被害届を受け付けただけだったら、ほとんどほったらかしにされたでしょう。けど、橋本さんってのはS署の有名人でね。婦警全体のトップの人なんですわ。あの人がやると言ったのなら、それなりの成果が期待できるはずです」
微妙に優太達を励ますような、含んだ言い方だ。
「本腰上げて捜査しないってどういうことですか? あまりにも無責任すぎるんじゃないですかね」運転席から、健二が怒りのこもった口調で言った。
「ははは。いやはや」健二の迫力に驚いた畑はペン先で頭をコリコリと掻いている。「逆に聞きますけど、お兄さん達。例えばの話ですけどね。明日、美々さんが完全回復して、一週間後には退院したとします。その場合、満足する落としどころってどのあたりですかね」
畑の質問に、優太達は黙り込む。
二人が答える前に畑が続けた。「病院の入院費用と慰謝料。それに花火大会責任者の死刑。そんなところじゃないですか?」
そう言われても、優太達は答えられない。正直、そこまで考えていなかったのだから。
「今、花火大会責任者の死刑ってのはやりすぎだと思ったでしょ?」畑は二人の様子を観察して続ける。「警察もね、この手の事故は慣れててね。被害届を出してくる方ってのは、怒りに飲まれていたり、後の裁判やら事後処理を有利に進めたいがために被害届を出す人が多いんですよ。で、その圧力を受けた加害者側は、大抵が和解に応じる。そして、被害者側も被害届を取り下げる。つまりは、被害届提出ってのは、被害者側が交渉を有利に進めるための手続きとして利用されることが多いんですわ。これじゃあ、警察もやる気が起こらないわけです。一生懸命捜査しても、ある日いきなり『もうええわ』なんて言われて終わっちゃうわけですから」
畑の説明を聞いて、優太は声を出せず唸る。
今の自分の気持ちは、畑の言う被害者家族とそれほど大差無い。優太は憤りや怒りだけで行動している。美々を非行少女かのように言った相馬刑事や、責任は美々にあるかのような口ぶりだった水野に対する反感。それが優太を動かしている。
「ですけどまあ、今回、早めに警察突っついたのは良かったかもしれませんわ。S区役所のほうも困り果ててるみたいでしたから」
「困り果てている?」
「ええ。話の中にもあったけど、民間警備員が病人の手当てのために規制線から離れたって話、ありましたよね。その確証が無いんですわ」
畑の話に優太は興味をそそられた。「確証が無い?」
「ええ。警備員は子供に『具合の悪そうな人がいる』と声をかけられ、手を引っ張られて連れて行かれたそうです。その点は、大会終了後にしばらく残っていた野次馬数人も証言してくれたそうです。日焼けした中学生くらいの子供だったと。問題はその後です。警備員が連れて行かれた先には、木の根元にしゃがみこむ成人男性がいたそうです。その人に声をかけて体調を聞き取り、応援を呼ぼうとした所、男はすぐに立ち上がって快復した。問題ないと言った後、その場を立ち去ったというんです。で、日焼けした少年も、『大丈夫みたいですね。良かった良かった』と言って、そのまま走り去ったんだとか。警備員曰く『イタズラで誘い出されたとしか思えない』ですって」
畑の話は新しい疑問だった。
警備員の話を信じるとして、その二人が警備員を誘い出した目的はなんだろう。言葉通りにイタズラでは済まされないと、優太は思えた。警備員が消えていた間に、美々は立ち入り禁止区域に入り込んでしまったのだから。
イタズラじゃなかったとしたら目的は何か。
そんなの決まっている。警備員がいない間に、立ち入り禁止区域に入りこむことくらいしか思い浮かばない。
日焼けした少年と成人男性っていうのがおとりになり、他に立ち入り禁止区域に入りたがっている者をアシストした。例えば、美々の携帯電話に写っていた、一重瞼の少年みたいな者。
日焼けした少年ってのが警備員を連れ出した後に走って戻り、立ち入り禁止区域に入りこんだっていうのは無理がある。さすがに警備員も気付くのではないだろうか。
「さらに、もう一つあるんです。事故が起きて助けを呼びに来た少年ってのが、花火大会終了直後の混乱で、そのまま消えちゃったんです。これはまあ、巻き込まれるのが嫌だっただけかもしれませんけど。役所の人も美々ちゃん助けなきゃいけないんで、少年を捕まえている余裕が無かったんでしょうね」
優太は酷く困惑した。それはようするに、事故の重要な関係者が全員見つかっていないってことだ。何十万人が訪れている花火大会中の事故とはいえ、さすがに酷い。
そこでようやく、さっき感じた違和感の理由が分かった。橋本が優太の提供した七枚の画像を真剣に見ていたのは、事故を目撃した可能性が極めて高い、一重瞼の少年を特定する唯一の手掛かりだからだ。
車はとっくに病院へと着いていて、駐車場に駐車されていた。優太は話に集中していて気付かなかった。そこそこの時間、畑と話し込んでしまっていたようだ。
畑は立ち去り際「困った事あったら言いや。いつでも力になるで」と言い、しっかりせいやと、二人の背中をバシンと叩き去っていった。
「生命力の塊みたいなおっちゃんだな」
「ああ……」
健二の言葉に相槌を打ちつつ、優太はメディアの人間と話をしておいて良かったと思っていた。警察や役所からでは聞き出せそうにない類の話だったはず。