松村優太 2
翌日以降、松村家は生活が一変した。澄美子は美々の入院手続きや中学校への休学手続きなどを行い、優太はコーチから借りていた車を返すために合宿所へと戻り、その場で駅伝部退部の意向を示した。強化合宿に穴を開けてしまった以上、冬の大会には出場できない。挽回はおそらく不可能だろう。高校時代から七年間頑張ってきたが、仲間より一足早く引退するとなると寂しさが残った。
他の部員たちから美々を気遣う言葉がかけられた。優太は謝りながら礼を言い、大急ぎで荷物をまとめて新幹線で自宅へと戻ると、そこにはマスコミと思われる集団が十人ほど待ち構えていた。
「近所の迷惑になるので止めてくれませんか」と言い、優太がいくら追い払おうとしても、しつこくマイクを突きつけ質問してくる。
テレビカメラで家を撮影している者までいた。カメラの横には大手テレビ局の局名が書かれている。
疲労で疲れていたことが、逆に優太を冷静にさせた。おふくろは病院にカンヅメ。健二は極度に人前に出ることを苦手にしている。S区役所の水野は事故に対して逃げ腰だ。マスコミに真摯に対応して少しでも恩を着せておけば、後々大会運営側の情報でも流してもらえるかもしれないと、優太は計算した。
「ちょっとだけですよ」
家の前でしばらくの間記者に付き合い、不躾な質問に耐え忍びつつ、当たり障りの無い被害者家族を演じた。記者が写真を希望してきたので、家にあるアルバムの中から、美々がとびきり可愛らしく写っている一枚をコピーして渡した。
「すげえな、兄貴」
優太がインタビューを終え家の中に入ると、玄関で健二が声をかけてきた。言い方からして、褒め言葉ではなく、こんな時によくインタビューなんか受けていられるよなといった感じの、皮肉を含んだ言い方だった。
「うるせえな。おまえが……」適当にあしらって追っ払えば良かったのによ。と、優太は言いそうになり、モゴモゴと口を止めた。
健二はニートだ。高校にも行かなかったし、二十歳だが就職もしていない。十八歳の時、自動車免許を取得するために学校へ通ったが、免許を取得して以降はドライブしたりすることも無く、家から滅多に出ない生活を送っている。
健二は優太以上に体を鍛えなくても筋肉がつく体質であり、小学生の頃までは怪力という理由だけで、体育の授業において重要なポジションを任され続けていた。野球では四番。サッカーではキーパー。
だが気質は臆病で優しく無口で、闘争心が全く無い。いや、昔は無かった。
中学の頃、男女交えたドッジボールの授業。コートの内野が健二と敵チームの女子一人だけとなり、ボールを受け取った健二に外野の味方が当てろと騒いだ。投げると一番球が速いのは健二だから当然だろう。ところが、健二はボールを持ったまま引き攣って固まってしまった。味方だけではなく敵の外野からも野次を飛ばされ、健二はパニックに陥った。ボールをその場に放り投げると、コートから外に向かって駆け出した。その時外野にいた女子と接触した。その女子は吹き飛び転倒し、手の骨にヒビが入った。
自分の投げるボールで女子を怪我させる事が嫌で逃げたら、更なる大事を起こしてしまったのだ。
その日以来、健二は学校に行けなくなってしまった。そのまま五年近く経つ。その一件以降、気弱で優しかった健二は、周囲に対して常にイライラするように変わっていった。
そんな健二がインタビューなんて受けたら、何をしでかすか分かったもんじゃない。記者達に悪いイメージを持たせてしまいかねないと、優太は恐れた。そのため、優太がマスコミの取材を丁寧に受けたのは、健二に刺激を与えない意図もあったのだ。
「親父は?」優太は健二に尋ねた。
「明日の夜に着くってさ」
「そうか。おふくろはしばらく病院通いだろうから、メシは出前で済ませよう」
ああ、なのか、うん、なのか。くぐもった返事をして健二は二階へ向かった。着古してゴムの部分が緩んだジャージが尻の真ん中までずり落ち、トランクスの一部が見えている。
「せめてヒゲだけでも剃っておけよ。何度か病院に行くこともあるんだから」たくましい背中に声をかけたが、健二から返事は無かった。
夜。松村家の兄弟二人が居間でピザを頬張っている時、ブルブルと音が聞こえた。優太は音の出どころを探していると、台所の椅子の上のそれに気付いた。猫のストラップがついた携帯電話が透明なふくろに入れられていた。
「そういえば、おふくろが病院から美々の荷物受け取ってた」健二が手を洗い、ふくろの中身を取り出しながら言った。美々の安物の携帯電話と一緒に、花火大会の日に着ていった浴衣が折りたたまれて入っていた。
優太が浴衣を広げてみると、灰の焦げた臭いが広がった。浴衣は首の後ろが黒く汚れていて、襟の前側も黒ずんでいる。色や触感が違う。後ろの汚れは花火の玉殻がぶつかった時についたもののようだ。擦ると指に汚れが付いた。襟の部分は黒く光っている。血が固まったものだろう。出血の酷さが垣間見えた。
染みになるとまずい。明日にでもクリーニングに出さなければならないと、優太は思った。美々のお気に入りの浴衣だから、退院した後に汚れたままだったら悲しませてしまう。
「兄貴。この娘達、出てくれないか」
健二が美々の携帯電話を開けたまま、優太に渡してきた。美々の携帯電話は子供の頃から使っている古くて不便な機種だが、安いので機種変更することなく使用している。その代わりに、毎月の小遣いに色を付けるよう澄美子と交渉して成功したと美々は言っていた。以来、美々は優太や健二の中学生時代より多めの小遣いを受け取り、好きな本に消費している。
健二から渡された携帯電話を優太は覗いた。着信履歴には、美々の同級生達の名前が並んでいた。未読メールも数十件溜まっている。今は夏休み中だが、報道や噂で事故が知れ渡ったと思われる。心配した友人たちがかけてきているのだろうと、優太は思った。
優太は健二に対して、おまえが電話に出てやっとけよ。という思いがよぎったが、口に出さなかった。大柄で筋肉質な健二は、美々の同級生から怖がられている。そして健二も美々の同級生を苦手にしている。
放っておくのは可哀想だと思ったが、妹の電話やメールに勝手に返信するのも後ろめたく感じる。優太は結局、メールだけをさらりと流し読みして、緊急性が無さそうだと判断すると、そのままにしておいた。
夕食が終わりぼんやりしていると、優太は事故の事が気になり始めた。
「健二。おまえ、美々が出かける時、家にいた?」
「ああ」
「美々が一緒に花火大会行った奴ってわかる?」
優太の言い方にトゲがある事に気付いた健二は、神妙な顔をした。「いつものメンバーさ。きんちゃんとなっちゃん。玄関先で見たのはその二人だけだったけど、外にも誰かいたみたいだ」健二はわずかに考えた後、答えた。
きんちゃん、なっちゃんは美々の幼馴染だ。家も近所で優太も顔をよく知っている。他にも人がいたというなら、ナミッペとえりりんあたりだろう。ナミッペは歴史研究部の後輩だ。えりりんは中学生になってから知り合った友人で、家が若干遠い。美々が遊ぶ時は大抵この四人の内の誰か、もしくは全員とであった。
「その中の誰かが、美々を立ち入り禁止区域に連れてったのかな」優太は口に出して嫌な気分になった。妹の友人を疑いたくはないが、可能性は高い。
特にきんちゃん、清い海と書いてキヨミちゃんは、いたずらや悪乗りが大好きの問題児である。カエルを捕まえて教卓に隠し、驚いた女性教諭が転んで腰を打った事件は訴訟沙汰になりかけたほどだ。美々はきんちゃんの起こす面倒ごとに時々巻き込まれる。ありえなくはない。
とはいえ、きんちゃんに直接問い詰めるのも気が引ける。彼女とは親同士も付き合いがある。
「ちょっと貸して」健二は手を伸ばし美々の携帯電話を要求した。優太が渡すと、何かを探し始めた。「美々が出かける前にメールでやりとりしていたからさ。残ってるはず」
優太は健二の隣に移動すると、携帯電話の液晶を覗きこんだ。健二の巨大で芋虫のような親指が素早く動いている。第二関節まで毛が生えていた。
「これかな」時刻は花火大会開始の一時間ほど前。
〈なっちゃん〉もうすぐ着くよ
〈美々〉 OK
美々のメールのやり取りには、様々な猫の絵文字が使われている。
優太は見ていて気恥ずかしくなってきた。女と交際したことのない優太は、スマホのやり取りは大概が駅伝部の仲間や男友達であり、こういったかわいいメールを目にしたことがほとんど無い。その気持ちは同じく交際経験の無い健二も同じはずだ。
今更ながら、勝手に妹のメールを覗くことに罪悪感を感じ始めた。だが何があったのか、どうしても事情を知りたい。
「続きを見せてくれ」健二に先を促した。
花火大会開始時刻の四十分ほど前にもメールをやり取りしている。家から会場までは、美々たちの足で遅くても十五分程度。大会の会場に着いた後のやり取りだと思われる。
〈なっちゃん〉最悪。トイレ三十分待ち
〈美々〉 まじでか!
〈美々〉 きんちゃんも行った
〈美々〉 ナミッペと場所とってるから、早く戻ってきて
しばらく間が空き、
〈きんちゃん〉トイレくちゃすぎる
更にその後。既に花火大会は始まっている時刻だ。
〈美々〉 ごめん 先行ってて
〈ナミッペ〉 どうしたんですか先輩?
〈美々〉 イチゴ位置え~ってなった
〈ナミッペ〉 ???
よく分からないメールだ。イチゴ位置え~ってなんだ?
更に二十分ほど後、
〈なっちゃん〉どこにおる!
〈美々〉 そばにおる 今のスターマインすごかったね
美々はなっちゃんへのメールに、写メで撮った画像を添付送信していた。スターマインの写真の上部にコンクリートが見える。
その更に十分後。花火大会は四十分ほどの予定だから、そろそろ終わる時間のはずだ。
〈ナミッペ〉 先輩どこですか?
ナミッペからのメールに、美々は返事をしなかった。
その後きんちゃんからの着信があり、それを最後にしばらくやり取りが無くなった。
「あ、次のこれ、救急隊員からの電話」健二が指で示した。
美々の携帯電話から〈松村澄美子〉への発信履歴がある。
「病院に着いた後、救急隊員が美々の携帯電話を調べて、親族らしい名前に電話をかけたんだってさ。で、おふくろにかかってきた」
「なるほどね」
優太は大体の流れのようなものは分かった。
まず、確実なのは美々とナミッペ、きんちゃんとなっちゃん、えりりんが文面に無いが、いたかどうかは分からない。仮の話として、いないと判断しておこう。
四人が会場に着くとなっちゃんがトイレに行った。その直後にきんちゃんもトイレへと立った。美々とナミッペは二人で四人分の場所をキープして待ち続けたのだろう。時間的に、きんちゃんとなっちゃんは、花火大会が始まる前に、美々とナミッペのキープしている席に戻ってくることができたと思う。そして、花火大会開始後に、今度は美々とナミッペがどこか別の場所に立つ。トイレ、もしくは祭りの出店に何かを買いに向かったか。とにかく、何らかの理由で、二人は会場の席から離れた場所で行動していた。そして、美々が『イチゴ位置え~』となったことにより、ナミッペだけを先に、きんちゃんとなっちゃんの待つ観客席に行かせた。
『イチゴ位置え~』の意味が全くわからない。だが、何らかのトラブルだろうと、優太は考えた。このトラブルにより、美々は立ち入り禁止区域に入り込むことになったのかもしれない。
その後、なっちゃんの「どこにおる!」というメールには、怒っている顔文字が足されている。おそらく、なっちゃんは美々が急に姿を消したことを怒っていたと考えられる。ここで美々はなっちゃんを怒らせてしまったことに気付いただろう。だが、マイペースな美々は、普通に花火の写メを送り返して無事を伝えた、と。
美々はしばらく無事に花火を観覧していたようだが、終了直前に事故に遭った。
「健二、どう思う?」
「ううん。トラブルに巻き込まれたようには思えないな」
「ああ。普通だもんな、やりとり。けど、『イチゴ位置え~』ってなんだよ」
優太の問いかけに、健二は少し考えた後「一期一会の誤変換?」と答えた。
「ああ、そういえばそんな四字熟語あったなあ……」
意味はうろ覚えだった。優太は念を入れて、自分のスマホで一期一会の意味を調べた。
一期一会 一生に一度の大切な出会い とある。
優太と健二は、スマホの一文を見て顔を見合わせた。二人の兄弟は互いに一期一会の意味を理解してなかったが、優秀な美々は間違いなく知っていただろう。
「……昔の友達と会ったとかかな」
「さあ」
「じゃあ、おまえはどう推理するよ」
「……兄貴、電話して聞いたらいいんじゃねえの?」
健二の言葉に、優太はきょとんとしたまま固まった。そりゃそうだと思えた。そこまで考えが及んでなかった。
居間の壁掛け時計を見上げると、夜もまだ浅い時間だった。優太は少し考えて、最も事情を知っていると思われるナミッペに話を聞いてみることにした。