駒井元刑事 10
田鳥輝巳の姉、平手真由子を訪ねた日の夜。
駒井は、松村美々の事故死に関連した相関図に、平手真由子から聞いた田鳥の人物像を新しく書きこんでいた。
その仕事が一息ついた所で、駒井は目頭を揉みつつ調査日誌を閉じた。すると、日誌が思いの他厚くなっていたことに駒井自身が驚いた。ここに関係した人物の写真といった資料を挟むと、明らかにS警察署が花火大会の事故を調査した資料よりも分厚くなることだろう。
……。
駒井も元刑事だ。警察の捜査が杜撰である場合もよく知っている。だが、おざなりにならざるを得ない組織の不備にも気付いている。真実はどうであれ、捜査を終えられたらそれで良しという、流れ作業的な欠点がある限り、松村美々の件は真実に辿り着けないだろう。資料を開き、最初からパラパラと捲りながら、駒井は思った。
現時点では、五年前の松村美々の事故死は、菊池翔空が警備員のいない隙に美々を危険地帯に誘い入れたことにより起きた事故、ということで完結している。その根拠となったのが、菊池翔空の憔悴した様子と、携帯電話の遺書。
しかし、当時の警察があと一歩頑張ることにより、田鳥輝巳という男を見つけていたならば、菊池君の自殺も起きなかったかもしれない。というのも、田鳥が菊池君を殺した可能性があるからだ。
あくまで可能性の域を越えない。しかし、駒井の心証としてはクロだ。
だが、現時点で田鳥と菊池君は既に死んでいるので、真実は永遠に闇の中であろう。
また。五年前に真実に迫っていたならば、田鳥が死ぬことも無かったと思われる。
思われるというのは、田鳥が蹴殺された要因に、美々の事故死が関連していると思われるためだ。田鳥殺害事件。現在重要参考人と目されている、松久保玲旺。
松久保は菊池君と年齢が同じ。しかし、居住地は離れていて、接点が無いように見られる。唯一の手掛かりが、永体会病院にあった面会簿に名を連ねていた点。
だが、中心に田鳥を置くと、ジョイントとして松久保と菊池君は完全に繋がる。
田鳥や松久保らが、菊池君の恋のアシストをすることにより、美々が事故死した。後に菊池君も死亡して、五年後の今、松久保が田鳥に対する怒りを爆発させた。
田鳥や松久保らと言ったのは、ここにもう一人、女の協力者と思われる存在がいるためだ。松村兄弟の菊池翔空探し。それを邪魔したと目される女。田鳥と見られる男と行動を共にしていたらしい女は、花火大会の夜にも何等かの手助けをした可能性がある。松村澄美子曰く、ナンパに付いていくとは思えない性格の松村美々を連れ出す手助け。女の協力者がいれば、美々を危険地帯に誘い入れることも可能であったかもしれない。
その女の名は、成川信佳。もしくは前川和美。永体会病院の面会簿の松久保、菊池両名の前後にあった名前だ。
松久保や菊池君、それに田鳥の勤めた小学校の名簿を片っ端から調べれば、女の正体を突き止めるのは容易いかもしれない。ただ、現在は田鳥殺害事件が大詰めを迎えている。駒井が目立ちすぎることにより、犯人の松久保を警戒させたりするわけにもいかない。それに、A警察署の面子を潰すことにもなりかねない。それでは、協力してくれた荒木や舞川といったA警察署の刑事に迷惑をかけるだけではなく、五年前に真相を突き止められなかったS警察署の相馬も批判されるし、駒井に情報を流した橋本も突き上げられる。
あくまで、田鳥事件に横槍を入れすぎないようにしながら、五年前の松村美々の事故を調べて、健二君に不安を残さないように、全容の説明をする。
回りくどいやり方だが、それが当面の駒井の目標だった。
だが。
平手真由子の話を日誌に書きこむと、駒井はある違和感を持つようになった。
重さ、というか、中心点が違う気がしてきたのだ。
平手から聞いた田鳥の人物像。それは、菊池君の恋愛相談に乗るような人物ではなかった。そう。中心点がズレているという表現が正しいだろう。
駒井は、一連の出来事について、一番年上の田鳥が中心にいると勝手に思い込んでいた。ところが、平手の話により、田鳥は中学二年生の男子の恋愛成就に協力するような人物に思えなくなったのだ。
駒井は調査日誌の最後のページに作っている相関図をもう一度遠くから眺めた。すると、やはりバランスの悪さが目立った。
中心が台風の目のような空白になっている。そんな気がしてならない……。
まあ、いい。明日は人と会う約束もある。その前に確かめたいこともあるし、早めに寝ておくとするか……。
「ああ、そうだ。忘れないうちに」
駒井はこっそりと居宅の玄関から出て、すぐ隣にある『駒井洋裁教室』の看板がかかったドアを開けた。二世帯住宅の片側にある家をしばらく前に教室として改築した部分だ。
玄関ホールを抜けて、二十畳ほどあるフローリングの大部屋に入ると、明かりをつけて色とりどりの布が並べ置いてある棚に向かった。その中から一つを選び、肌触りや質感を調べると、洋裁鋏を使って五十センチほどの長さに切り、折りたたんでパーカーのポケットに入れた。
「あなた、何してるのよ」
突然、広い教室に低い声が響き、駒井は悪寒が走った。同時に今日が月曜日だったことを思い出す。
しくじった。悪い夕子が出てきやすい日だった。
振り返ると、寝間着を着た妻の夕子が、据わった目で頬についた肉を小刻みに引き攣らせながら足を開いて立っている。
「夜中にこそこそと。何やってるのよ。あたしの教室で」
「ああ、いやすまん。眼鏡をどこかに忘れてしまってな。探していたんだ」駒井は咄嗟に嘘をついた。
「眼鏡? なんであんたの眼鏡があたしの教室にあるのよ」
「ほら。前の時に私が生徒の皆さんにコーヒーを持ってきただろう。あの時にここに置いた気がするんだよ。見たことが無いか?」
「無いわよ。あったら気付くわよそのくらい」夕子はそこで、駒井のそばに出してある洋裁鋏に気付いた。近づいて手に取り、まじまじと見ている。
背中に冷たいものが流れ、生唾を飲み込んだ。悪い夕子は以前、包丁を投げつけてきたこともある。
だが、駒井の不安は杞憂に終わった。夕子は鋏を部屋の奥にある小物入れにしまうと、出口へと向かった。
「あんたがそんな調子でボケてるから、隼士が出て行くのよ」吐き捨てるように言うと、玄関から出て行った。ホッと一息つき、側にある木製の椅子に座った。
次男の隼士は出て行ったというよりも、駒井が出て行かせたのだ。
長男は結婚して子供もできて、義理の娘の実家の近くにある社宅で幸せに暮らしている。長女も結婚して娘婿の実家に同居しながら子育てをしている。だが三十歳を超えて独身の隼士は、実家に住み仕事に通う道を望んだ。しかし、結婚を考えている恋人がいる以上、不安定な妻の状態をできるだけ知られたくない。結局、隼士は駒井の提案を受け、仕事場近くのマンションで一人暮らしを始めた。
駒井は給湯室へ行き、ヤカンに水を汲みコンロにかけると、棚から茶葉を取り出し急須に入れた。熱いほうじ茶を淹れてテーブルに置き、口をつけて一息つく。
綺麗に布が整えられた棚と、マネキンに飾られた夕子が作った昔の作品を見ながら、ぼんやりと考え込んだ。
どうすれば夕子が壊れずに済んだのか。それは駒井にも分からない。
発端は駒井が関わったI区の事件だが、その事件では更にI署長にも悲しい思いをさせてしまっている。
駒井がもう少し手を抜いていれば、妻が事故に遭うことも無かっただけではなく、I署長の息子の遺体は暴力団員に隠され、永遠に見つからなかったかもしれない。
それがI署長にとって良い事とは思えないが、I署長の心の内は今の駒井には分からない。はっきりと遺体が見つかるよりは、ずっと行方不明のまま希望を持ち続けるほうが幸せだったかもしれない。
I署長は優秀だった。彼が退官しなければ、もっとたくさんの犯罪者を検挙していたかもしれない。
全力を尽くすことが、最善につながるとは限らないのでは。この難題を、駒井はおそらく墓の中でも考え続けることになるだろう。




