駒井元刑事 7
その日の朝方は、時々雷が鳴り響くほどの大雨だった。台風による大荒れの天気。予報では昼過ぎから徐々に晴れるらしい。普通なら外出したくはならないが、駒井は愛用の自家用車を慎重に運転して目的地を目指した。
A区は部首『几』の形をしている。机を表す『キ』だ。
記者の大西から得た情報によると、菊池翔空の家はA区南西部にあり、彼の通う中学校は南東部にあった。直線で七キロほどの距離を自転車通学していたそうだ。
通学の途中、大部分を『几』の下側で接しているS区を通る。松村美々がバス通学するバス停と菊池翔空の通学路は重なっていた。そこで美々を見つけた菊池翔空が好意を寄せたと考えられていた。
そして、菊池翔空の飛び降り自殺したとされる場所。かつて田鳥が住んでいたマンションは『几』の北東部にある。その事件を調べた刑事の元を訪問するため、駒井は車を走らせていた。
雨で視界が悪いため慎重に運転する駒井の左手に公園が見えた。田鳥が松久保に蹴殺されたとみられる公園だ。駒井の運転する車から見て、公園を越えた奥に、A区A中央署がある。生前の田鳥が住んでいたアパートはすぐ近くだが、今は用が無い。そのまま通りすぎ更に車を十五分ほど走らせると、菊池翔空自殺事件を担当した管轄の警察署へと辿りついた。
駒井が来客者用の駐車場に車を停めると同時に、助手席側のドアがコツコツと叩かれた。見ると痩身の私服刑事らしい男が手を振っている。右手に傘を持ち、左脇に大判の封筒を抱えていた。
荒木と名乗るその刑事は、駒井の車の助手席に座ると素早くドアを閉めた。平均的な身長で細身だが、身のこなしが素早い。
「すみません。雨の中ご足労頂いて」
「いいえ。こっちが頼み込んだことですから」
駒井はしばらく前から、菊池翔空自殺事件の詳しい捜査資料を確認したいと、つてを頼っていろいろな方面にあたっていたのだが、今日ようやく実現したのだった。
「A警察刑事課の荒木です」
「駒井です。元S警察の刑事です」差しだされた手を握って上下に振った。
「S警察ってことは、やっぱりあれですよね。松村美々さんの事故死の関連ですよね」荒木が口に出して、駒井が口を開く前に荒木が自分で遮った。「いや、すみません余計な詮索をして。どうぞ。これが菊池君の実況見分調書です」
駒井は受け取った封筒の中身を取り出した。菊池翔空の遺体の写真や詳しい外傷の説明、現場周辺の外観や飛び降りたとみられる十階現場の写真まで添付してあり、ほぼ完全な調書だった。
駒井は礼を言い、手早く拝見することにした。
「荒木さんは担当じゃないんですね」
「ええ。当時の先輩刑事が担当しました。僕は調書作成や遺族への報告といった役目ばかりで」
「そうですか。綺麗な字でとても読みやすくまとめられています」
荒木を褒めながらも駒井は手を止めない。だが、いくら読んでも真新しい発見は無かった。
この件は遺族の意向でテレビでは報じられていないが、松村家の家族が当時詳しく報告を受けており、優太から又聞きで概要は聞いていた。
花火大会で片想い相手の松村美々を見つけた菊池翔空は、立ち入り禁止区域に松村美々を連れ込んだことにより怪我を負わせてしまった。その日以降、家や学校でずっと落ち込んだ姿を見せていた菊池は、インターネットの書きこみを見て、美々の意識が回復したことを知った。その日の朝方は雨だったため、菊池は徒歩で学校へと向かっていた。学校で美々の回復を知り、自分が責められると考えた菊池は、学校が終わると徒歩でぶらりと家とは違う方向に向かい、オートロックの無い高層マンションに立ち入って、携帯電話に遺書を打ち込み、飛び降り自殺した。両親の証言として『おとなしく責任感の強い子だった。私たちに迷惑をかけることになるのを嫌ったのかもしれない』と、追記してあった。
松村優太から聞いていた内容と大差は無い。
十階の廊下、菊池君の転落地点の真上に、コートと手袋、遺書が書かれた携帯電話。
だが、そのマンションの二階上には、当時は田鳥が住んでいた。このネタは大西から教えられたものだが、警察では関連付けていないと思われる。
「携帯電話の遺書については、どう思います?」
「文面には不審な点は無かったですね。『花火大会でミミさんに怪我をさせたのは僕です。死んで責任をとります』後に遺族や同級生からも話を聞きましたが、彼は自分のことを僕と言っていたし、死んで責任をとりますってセリフも言いそうな性格だったそうです」
少し言い方に引っかかりがあった。「文面に不審な点が無いけど、他に不審な点があったのですか?」
荒木が頷いた。「鋭いですね。写真にもありますけど、飛び降りたとされる十階の外廊下部分は、モルタルコンクリートの上部がアルミ製の手すりです。普通、乗り越えるとしたら両手を使って手すりを握り、体を持ち上げて足を乗せるのでは。そうなると指紋が残るはず。ところが現場からは採取されませんでした。下の指紋が残りにくいコンクリート部分に手をついて上ったとも考えられますが、それなら上の手すり部分に足跡がつくはずです。ところがそれも無かった」荒木は眉を顰める。「外廊下の下は人通りも少ない場所で、おまけに外廊下と反対側のベランダ側のすぐ下で、大規模な道路補修工事が行われていまして。騒音が激しかったので、悲鳴があがっても聞こえなかったはずだとのことです」
悲鳴があがっても、と、荒木は言った。
荒木の言い方は、殺人の線も考えている刑事の言い方だ。
「更に、携帯電話ですが、指紋が消えていまして。これについては学校の友人の証言ですが、菊池君は外を歩く時、手袋と携帯電話をコートの前ポケットに入れるクセがあったそうです。ですから、手袋をはめた状態で携帯電話に遺書を打ちこんだため、指紋は手袋に拭き取られて残らなかったという見解になりました。その後、飛び降りる前に、遺書が見つかりやすいようにと、脱いだコートと一緒に携帯電話を置いて、十階から飛び降り自殺したと考えられました」
駒井は黙り込んだ。いかにも田鳥が自殺を偽装したように聞こえる。
荒木は更に続けた。「もちろん、自殺に見せかけた殺人という線も疑いました。しかし、花火大会の事故があった日以降の菊池君の豹変ぶりを家族や友人が証言したため、彼が異常なほど思い悩んでいた事実が根拠となり、遺族もすんなり自殺を受け入れたことから捜査が終了してしまったのです」
話は分かる。だが、当時そのすぐ上に、菊池と面識のある田鳥が住んでいたと分かっていたら、問題がガラリと変わる。
十二階からの飛び降り自殺と、十階からの飛び降り自殺。遺体の損壊具合はさほど違わない。
松村美々の回復を知った菊池君は、田鳥の家へ向かい自首すると伝えた。事故が表面化することを恐れた田鳥は、口封じに菊池君を突き落として殺害した。可能性はある。
その時、一枚の写真が駒井の目に留まった。「あの、コートの背中の下が少し破れてますね」三センチほど縦に裂けている。
荒木が横から覗き込んだ。「ああ、それ。コート自体は親御さんのお下がりを使っていたそうです。一応ご家族や友達にも聞いたけど、いつ破れたのかは分かりませんでした」
いつ破れたのか分からないということは、自殺直前に破れた可能性もあるということだ。
駒井はポケットからハッカ飴を取り出し、口に放り込んだ。
「荒木さんも食べます?」
「ハッカですか。頂きます」
駒井は三粒、荒木の手の平に飴を乗せた。
荒木の礼を聞きながら、駒井は目頭を押しつつ推理してみた。
田鳥の家に着き、自首するしないで言い争いになる菊池君。田鳥は口封じの計画を立てる。まずはコートを破ろうと考える。わざと部屋の温度を上げたりしたかもしれない。当然、コートに入っている手袋と携帯電話を手に入れるための仕掛けだ。やがて菊池君は玄関から外へ出てコートを着ようとする。そこであらかじめ田鳥が破いていたコートの裂け目を指摘する。縫ってあげるから貸しなさいとでも言いコートを取り上げた途端、菊池君の体を持ち上げ突き落とした。悲鳴をあげる暇すら無かっただろう。そして、非常階段にでも身を隠すと、手袋をはめて携帯電話に遺書を打ちこみ、偽装のため十階へと移動して、菊池君が転落している地点の真上の廊下にコートと手袋、携帯電話を置き、部屋へと逃げた。
全て推論だ。だが違うとも言いきれないはず。
しかし、この推理は永遠に証明できないであろう。なぜなら、双方が既に死んでいるからだ。
「どうです? 何か気がつくことあります?」荒木が黙り込んだ駒井に声をかけてきた。
「ううん。今のところはなんとも」
真実がどうであれ、物証が何も無い。五年前の出来事だけに、状況証拠を積み重ねるしか手は無い。
その時、後部座席のドアが開き、駒井と荒木はびっくりして振り返った。
「荒木、探したぞ。署員用の駐車場探しちゃったじゃないか」中年の背広の男が無断でいきなり乗り込んできた。
「ああ、すみませんマイさん。駒井さんが車でいらしてくれることになったので」
「バカ。おまえが出迎えに行けよ」雨の中、傘を差さずに探し回ったようだ。男の肩が濡れていた。「ああ、すみません駒井さん。後部座席濡らしちゃって」荒木からマイさんと呼ばれた男は、上着を脱ぐと、ハンカチを取り出してシートを拭き始めた。
「ええと、たしかI区の刑事さん」駒井は声で思い出した。健二が盗撮の冤罪で捕まりかけた時、そばにいた私服刑事だ。
「舞川です。お久しぶりです。二年前に異動でI区からA区に来ました。今は荒木と同じところにいます」
駒井も軽く挨拶を済ませると、舞川は荒木に尋ねた。
「どのあたりまで話した?」
「ほとんどですよ。ああ、すみません駒井さん。駒井さんが菊池君の件を調べているってことを舞川さんが聞きつけて、立ち会わせろって言われてまして。でも、マイさんだって悪いですよ。何度もスマホに連絡したのに」
「ああ、それはちょっとだな、雨で遅刻しそうだから走ってたら、着信音に気付かなくて」舞川はモゴモゴと旗色が悪そうだ。「まあ、俺のことは後でいい。今は菊池翔空の自殺の話をしてるんだろ?」
駒井は荒木をちらりと見た。
「大丈夫ですよ。資料の確認はマイさんも同意してます」
舞川は菊池君の件を掘り返されることを止めに来たわけではないと分かり、駒井は引き続き資料に目を落として質問した。
「菊池君が自殺するために入り込んだマンションの住人に、菊池君と交流のあった人物はいなかったのですか?」
「小学校時代に三学年上だった生徒の家族が四階に住んでいましたが、それだけですね」
「彼の携帯電話や、そうだな。パソコンなんかは調べたのかな?」
「携帯電話の通話やメールの相手は全て調べました。家族や学校の友人だけで、部活にも入っていなかったため、それほど多くはなかったです。松村美々さん以外の女の子の画像も無かったですね。あの写真はかなり勇気を出して撮ったんでしょう。ただ」ここで荒木は黙った。何かを正確に思い出そうとしているようだ。「パソコンのほうですが、こっちはこまめに使用履歴を削除していたみたいです。これについては色々意見が出ましたが、中学生の男子がパソコンを使って、親にどんなサイトを見られたのかを知られたくないのは当然だって意見でまとまりました」
荒木の言いたいことを、駒井は察した。ようするに、アダルトサイトの閲覧履歴を知られたくなかったと。まあ普通だろう。健全な中学生の男子だ。
「例えば、SNSや、学校の掲示板のようなものは?」
「そういうのも含めて全て消えてました。友人の証言でもあったんですけど、菊池君は結構テレ屋だったみたいです。女の子の好みなんて話もノリが悪かったみたいで、そういう点は秘密主義で口が堅いというか、慎重なタイプだったようですね」
荒木の答えを聞いて駒井はやれやれと溜息を吐いた。
田鳥が菊池君の恋愛相談役という推測を後押しする根拠が全く見つからない。
車中に手詰まり感が漂い、駒井が頭を抱えていたところ、後ろから舞川が声をかけてきた。
「駒井さんは、松村美々ちゃんの事故死と菊池翔空君の自殺が、田鳥の殺害事件と関連があると考えているんですよね」
「はい。考えています。松久保玲旺君と菊池翔空君は面識があると思います」今更隠し立てしても仕方ない。駒井は言いきった。
荒木と舞川の間にある空気が一瞬で張り詰めた。駒井の口から松久保玲旺の名前が出ることを全く想定していなかったためだろう。
舞川は逡巡していたが、やがて覚悟を決めたように話し始めた。「私は今、田鳥殺しの捜査に援軍として携わっておりまして。本部の大勢は、松久保玲旺が偶然出会った田鳥を衝動的に殺したって意見です。というのも、どれだけ探しても田鳥と松久保の間に接点が見つからないためです。田鳥の毒牙にかかった少女は、奴の勤めるA区の小学校卒業生が大半でした。松久保は小学校から中学校までI区で、高校から県外です。接点が見つからない」
「まあ、その点はいずれ捕まえてから問い詰めれば良いと考えているのでしょう」
「その通りです。ただ、私としては松村美々の写真がどうしても引っかかっていました。当時の花火大会の警備員を探し出して聞き込みに行きましたが、田鳥や松久保の写真を見せても曖昧な返事しかもらえなかったんです。この点は時間による記憶の風化って壁が邪魔して先に進めない」
後藤セキュリティの副島は、駒井が先に尋ねていることを口にしなかったようだ。駒井は正式な捜査ではなく、私的な動機で動いていることを伝えていた。気を効かせてくれたのだろうと、駒井は副島に感謝した。
舞川は懐から封筒を取り出し、中から一枚の写真を駒井に見せた。
「もし全てが繋がっているとしたら、松村健二の冤罪事件も仕組まれていたってことですよね」
写真はファーストフード店の防犯カメラの映像だ。上部左側からレジの前を映し出している。拡大して印刷したようだ。
「その女が、松村健二に下着を盗撮されたってことになった少女です。松村さんのご家族と駒井さんが帰られた後に見つけておいたものです。I警察署に保管してあるものを取り寄せました。また、当時通報してきたサラリーマン風の男を見た警察官に田鳥の写真を見せたところ、非常に似ているとの証言を得ることもできました。その写真はどうぞ持っていってください」
舞川から渡された写真の女学生は、背は高いが顔が小さくて目つきは鋭く気が強そうだ。かわいいというよりは美人。駒井は礼を言ってその写真をグローブボックスに入れた。
「残念ながら、デジタルカメラについては、遺失物として既に処分されていました。それと、更に詳しくその少女のことを調べようとしたのですが、その制服は市販されていないものであることが分かりました」
舞川の言葉に駒井は首を傾げた。
「コスプレっていうやつですね。そう分かった上で少女を見ると、髪もウィッグのように見えます。こうして見ると、見た目より年上とも年下ともとれます。最初から歳や学校を偽った上で、盗撮冤罪事件を起こしたのかもしれません。全てが計画通りだった気がします」




