駒井元刑事 6
「随分お疲れのようですね」午前六時前。刑事課の取調室にて、朝からハッカ飴をガリガリと噛み潰す駒井を見て、橋本は声をかけた。
「警備の仕事もあるからね。まあ、現役時代よりは楽だよ」入り口から遠い奥の席に腰掛けて、駒井は答えた。この席は尋問の時に被疑者が座る席だ。退職した刑事が警察署内をうろついて良いわけがないが、声をかけられてもこの席なら善意の情報提供者で通せる。
「で、どうですか? 松村健二君達は」
「元気だよ。お母さんも立ち直っていたし」
橋本は安堵の息をはいた。「そうですか。警察が伺ったことで、あらぬ噂が立って困っている、なんてならなくて良かった」
「この件の全容が解明されたら、気持ちももっとすっきりするんだろうけどね。おっと、忘れないうちに」駒井は松村美々の携帯電話を取り出して机に置いた。「松村美々ちゃんのものだよ」
「拝借します」橋本は手に取り目を通している。「着信履歴やメールは見られるけど、画像フォルダにはロックがかかってますね」
「そう。頼みたいのはそれなんだよね」駒井は、松村澄美子が適当なパスワードを入力してロックがかかったこと、松村美々が保存してある古い画像にパスワードを設定していることを説明した。
「友人の裸の画像ね。最近の子供は警戒心が無さすぎて困ります。そんなものをメールで送るなんてどうかしている。警察は学校と共に危機管理能力の育成に力を入れなければ」橋本は本気で怒っているようだ。
駒井は苦笑いを浮かべ、橋本を宥めた。女児が被害に遭いそうになる事案に対し冷静でいられなくなる橋本の特性は直りそうにない。「そういうわけで、お母さんの要望に答えてくれるかな」
「わかりました。じゃあ、女性の解析員を探して、絶対に男性警官に見られないようにします。ちょっと時間はかかりますが」
「うん。急ぐ事じゃないから、ゆっくりでいいよ」
橋本は駒井の前で、律儀にメモをとっている。
「さて、ではこっちも。田鳥殺しの容疑者です」橋本は手帳の別のページをめくると、何かを書いて破り机に置いた。「名前が松久保玲旺。レオと読みます。歳は十九歳」橋本は駒井をちらりと見た。「菊池翔空や松村美々と同学年です」
駒井はメモを手に取り見た。松久保の名前の横には現住所が書かれている。隣県でかなり遠い。
「A警察の捜査の結果、目撃者が二人見つかりました。一人は仕事帰りの飲食店経営者。この人は、男が田鳥を暴行している現場を見ています。関わりたくないから見て見ぬ振りをして通り過ぎたが、後日A警察に情報提供したそうです。もう一人は近所に住む居酒屋から帰る途中の酔っぱらった男で、公園で水を飲もうとした所、膝から出血した傷口を洗う男に遭遇しました。心配して声をかけたが無言で自転車に乗りその場を離れたそうです。後で田鳥の服から田鳥とは別人の血液が付着していることが確認されました。田鳥に膝蹴りを入れた時にどこかで引っかいて出血したものと思われます。
二人の話から似顔絵が作られ、後は足を使った捜査です。コンビニやガソリンスタンド、二十四時間の無人駐車場にある防犯カメラの映像を片っ端から調べ、事件から数十分後に、遠く離れた場所にあるコンビニで絆創膏を買う容疑者を発見。防犯カメラ映像を拡大して調べたところ、容疑者の広げた財布の内側に隣県の大学の学生証を見つけました。今はマルタイを二十四時間監視しています。時間の問題です」
橋本の話をじっと聞いていた駒井は、首をコキコキと鳴らすと尋ねた。「その少年の写真はありませんか?」
途端に橋本の顔が曇った。「申し訳ありません。私は事件発生時、加害者が未成年の少女と関わりがあると考えられたため、女性刑事としての犯罪被害者支援や聞き込みを頼まれただけで。容疑者が未成年とはいえ男性と確定した以上、捜査の核心部分はA警察上部が漏れないよう止めているんです」
なるほど。ここまでの情報を得るだけでも苦労したはずだ。
「ただ、容疑者の顔と全体像の絵だけはなんとか貰えました」橋本は、手帳の間から一枚の紙を取り出し広げた。
色黒で精悍な顔立ちだ。
「松久保は子供の頃からサッカーをやっていて、都内でもそこそこの選手だったみたいです。中学まではI区に住み、高校はO区へ。その頃には凡庸な選手だったようですが、隣県にある大学のスポーツ推薦に引っかかり、現在に至っています」橋本は更に手帳から三枚の写真を取り出した。「これはインターネット上の記事やブログから見つけた松久保の写真です。一枚目と二枚目が八年前、三枚目が六年前のサッカー大会の様子です。参考にどうぞ」
駒井は橋本から手渡された写真を見た。一枚目と三枚目はゴールを決める瞬間を遠景から撮影した写真で、二枚目は賞状を掲げて誇らしげな笑顔の写真だ。三枚とも日焼けした健康的な少年が写っている。
「駒井さんは、松久保玲旺が、花火大会の日に警備員を誘い出した少年だと思いますか?」
「まだ、分からないね」正直これだけでは確信が持てない。後藤セキュリティの副島にこの写真を見せても、なにせ五年以上前の夜の出来事だ。覚えているか怪しい。
「しかしまあ、これで松村健二への疑いは晴れたことだし、とりあえず安心されたんじゃないですか?」
「まあね」確かに、自分の目的は健二や優太に対する田鳥輝巳殺しの疑いを晴らすことだった。目標が達成された今、これ以上調べる必要は無くなった。
「じゃあ、調査も終了ですか」
「まさか」駒井はニコリと笑った。「わざわざ隣の県からやって来て、蹴り殺すなんて憎しみのこもった殺し方をするくらいです。玲旺君と田鳥の間にはよほどのことがあったのでしょう。彼が逮捕されたとしても、それで一件落着とは思えません」
橋本もまた、その返事を聞いて安堵したのかニコリと笑った。
「諦めませんよ私は。この件は最後まで進まないと、翔空君や美々ちゃんも浮かばれない。そんな気がします」それに、大西とも約束している。事件を最後まで終わらせると。
「わかりました。私も全面的に協力します」
駒井は橋本と硬い握手を交わすと、サッカーをする松久保玲旺の写真を貰った。松村美々の携帯電話のことをよろしくと念を押すと、S警察署を後にした。
「どうぞ。熱いので気を付けて下さい」
「ありがとう。うん、いい香りだ」健二からコーヒーを受け取った駒井はその香りを楽しんだ。「健二君、淹れるの上手になったね」
「ありがとうございます」健二は自分のコーヒーをテーブルに置くと、駒井の向かいの席に座った。
「ええと、四十五分までかい? 休憩」駒井は壁にかかっているマジックボードに書かれた勤務表を見て尋ねた。
「はい」
「じゃあ、時間あまり無いね。簡単に伝えるよ。田鳥の殺害事件で、容疑者がほぼ固まったよ」
駒井は橋本から聞いた情報を一部隠して告げた。松久保玲旺の具体的な動機が判明していない。それに未成年者だ。例え逮捕されて実刑が確定しようとも、全てを伝えるわけにはいかない。
「そういう訳で、健二君や優太君が疑われることは今後無いはずだよ。迷惑をかけてすまなかったね」駒井の言葉を聞いても、健二の顔は晴れない。
「駒井さんは、その男が美々の事故に何か関わってると思ってますか?」探るような視線だ。
こういった時にポーカーフェイスを保って受け流すのは、駒井が最も得意とする技術だった。「断言はできませんが、その可能性も考慮した上で、もうしばらく調べてみます」ゆっくりと穏やかな声で答えた。
健二は尚も駒井に問いたいような顔をしていたが、やがて短い休憩時間が終わった。警備員用の帽子を手に取り「お願いします」と頭を下げて、大柄な体を揺らしつつ足早に部屋を出た。
早退届を出して定時より一時間ほど早く退社した駒井は、S区永体会病院へと赴いた。
アポは取っていない。だが、長年刑事をやってきた駒井は、S区内にある病院にはかなり顔が効く。それは刑事を引退しようとも変わらない。真っすぐに院長室へと向かうと、運よく病院長は部屋にいた。
「御壮健そうでなによりです」病院長は目を細めて駒井に言った。
「先生はどうですか? お体のほうは」
駒井から先生と呼ばれた病院長は、院長机の横に立てかけてある杖を軽く持ち上げた。「緑内障も酷くてね。最近はもっぱら事務作業と学会の往復だよ」駒井とさほど年齢の変わらない病院長は、医者の不養生をそのまま表した不健康そうな白い顔で寂しげに笑っている。
「上司がゆっくりしているのは、部下が優秀な証明ですよ。先生が若いころ育てた雛が、今は大きく羽ばたいている。それを喜びましょう」
古い付き合いの駒井は知っていた。病院長は最前線に立ち自分でメスを握りたいと考える仕事中毒者だ。病気を抱えて机で作業をこなす今の姿は不本意なのだろう。
「まあ、その通りですけどね。座りっぱなしのほうが体調が崩れやすくて」
「私から見たら羨ましいですよ。こっちは歩くことが多いので、足腰の節々が痛んで」
駒井が膝を擦ると、病院長もふふふと笑う。
「おっと、話が逸れました」年を取った者同士が会うと、話が回り道していけない。今日、駒井はある調べものをするために、永体会病院へと訪れたのだった。
その頼み事を口に出すと、病院長は心地よく了承してくれた。
「じゃあ、終わったら言って下さい。私は隣室におりますので」そう言うと、副事務長を名乗る中年の男は相談室を出て行った。
駒井の目の前にある数冊の分厚いファイルホルダーは、松村美々が事故にあった日から亡くなる日までの面会簿を月毎に纏めたものだった。
永体会病院はかなり大きい。入院病床数だけで四百を超える。面会希望者にはまず面会票を渡され、来院日、来院者の住所氏名と電話番号。更に患者氏名及び患者との関係を記入し、最後に入退室予定時間を書きこむ。それを四百人以上が数ヶ月分。一ヶ月分だけでも膨大な量だった。
この手の記入は、何度も訪れる者は面倒くさがって記入しない場合もある。住所を都道府県だけしか書かなかったり、電話番号すら記入しない者もいる。
だが、美々は中学生だ。その年代の少年少女がお見舞いに来たならば、生真面目に全て記入して提出していてもおかしくはない。田鳥輝巳、松久保玲旺、女性の協力者。誰かに関する何かがあるのではと駒井は考えた。
松村美々は事故からずっと面会謝絶のまま亡くなった。同じ学校の教師や友達にはその話が事故後すぐに伝わったから、面会者は少ないはず。だが他区にいる友人だったら、知らずに訪れたかもしれない。それでも大半は受付で面会謝絶と聞いて引き返すだろう。可能性は低いが、何かミスがあって記録に残っているのではないかと期待したのだ。
五年前の事故の日のページを開き、患者氏名『松村』を探しながら、一枚ずつ捲っていく。一日分だけで数百枚はある。神経を擦り減らす作業だった。
事故の翌日から松村美々への面会希望はあった。だが、多くがS区在住の者ばかりだった。字が幼いため、女児が多い事が推測できる。中学校の名簿や松村美々の小学校卒業アルバムで見た名前ばかりだ。たまにあるのはS区役所の職員。被害者家族との折衝目的もあっただろう。水野の名前もある。
一日目の分、二日目の分と終わり、三日目の面会簿を探し始めた時、目的の面会票が、とてもあっさり見つかった。
菊池翔空 住所 A区○○○……
松久保玲旺 住所 I区○○○……
二人の面会票が続いてファイルホルダーに綴じてあった。住所氏名だけではなく、電話番号までもきちんと書きこまれている。面会希望患者の名前も松村美々。間違い無い。
これは松久保玲旺と松村美々に繋がりがあるという、初めての物証になり得る。また、いくら何でも、他区の二人が別々に松村美々の面会に訪れたとは考えにくい。従って、菊池翔空と松久保玲旺もまた、顔見知り。二人が連れ添って松村美々の面会に来たと考えるのが妥当だ。
ここでようやく駒井は自分の推理に確信を持つことができた。
田鳥殺害事件は花火大会の事故と関係がある。
ふと、一緒に来たのは二人だけだろうかと疑問がわいた。一ページ手前に、名前だけが書きこまれた面会票がある。これが怪しい。
『成川信佳』
住所や電話番号、面会予定の患者氏名すら書いていない。
集団で入院患者に面会を希望する場合、その代表者だけに記入を要求する場合もある。もしかしたら、菊池君や松久保が丁寧に記入しているから、自分は曖昧でかまわないと判断したのかもしれない。そして記名だけで提出した。可能性はある。
更に、松久保の下にも怪しい面会票が見つかった。
『前川和美』
これもまた名前だけ。それも、字の書き方が乱雑で、わざと崩して書いたようにも見てとれる。これを書いた者も、菊池・松久保の二人と関係があるのでは。
四人分の面会票を病院の事務員に頼んでコピーしてもらうと、駒井は残りの面会簿の確認を急いだ。病院の診療時間も終わったが、まだ半分以上残っている。
その時、相談室の扉が叩かれた。駒井が返事をすると、白衣の医師が現れた。
駒井は記憶を辿った。見覚えがたしかにある。「ええと、たしか松村さんの主治医だった?」
「はい。朝比奈と申します」年若い医師は頭を下げた。「院長先生から話を聞きました。松村さんの友人を探しているとか。手伝いますよ。勤務時間を終えたので」
「おお、ありがたい」駒井は素直に申し出を受けた。朝比奈は駒井の隣の席に座ると、駒井がまだ調べていないファイルホルダーを手に取って捲り始めた。
「ええと、他区から面会に来た友人を探しているとか」
「はい」
病院長には、遺族の持ち物の中から大切そうな借り物が見つかった。どうしても持ち主に返したい。小中学校の友人は調べたが持ち主が見つからないので困っている。だから定年退職して暇を持て余している駒井が人探しをしていると伝えておいた。
田鳥の事件のことは口に出していない。だが病院長は聡い。これが事件捜査だと薄々察した上で、黙って了承してくれたのだろう。
シャッシャッと、二人で面会票をめくる音が相談室に響く。壁にかけてある時計がカチカチと鳴り、時々メモを取るためのボールペンの音が混ざる。
「彼女のことはよく覚えています」別のファイルを手に取りながら朝比奈が語り始めた。「医師をやっていて一番きついのは子供が亡くなる時です。最も己の無力を感じてしまいます。私が担当して亡くなった子供の顔と名前は毎日思い返してしまいます」
病院長も昔、似たようなことを言っていた。
駒井は刑事として、不運にも事件に遭遇した子供を幾度となく病院に連れてきたことがある。力を尽くしたのに救えなかった時の顔。そんな時に見せた昔の病院長の顔と朝比奈の顔が重なる。
「彼女は友達も多かったのでしょうね。病室には千羽鶴が五つ飾られていた。目を覚ました直後に驚いていました」
駒井もその話は聞いていた。きんちゃんとなっちゃんが有志を募って折り続けたとか。三回忌の時に寺でお焚き上げしたそうだ。
「彼女が目を覚ました時、朝比奈先生がいたんですか?」
「ええ。丁度点滴が終わった所だったので、『ごめんね』と言って針を抜いたら、突然手を掴まれて『こっちこそごめんね』って」
それは驚きそうだ。「寝ぼけていたのですかね」
「お母様が毎日お見舞いに来て話しかけていたので、意識の底で気付いていたのではないでしょうか。親に看病で迷惑をかけていると思っていたのでは。健気な子でした」
その時、最後の面会票のチェックが終わった。
「これで最後です。お目当ての友人は見つかりましたか?」
「ええ」朝比奈が来て以降は、重要と思える面会者は見つからなかったが、二人で分担したおかげで早く終わった。
謝意を伝え握手をすると、「後の片づけは私がやりますので」という朝比奈の言葉に甘え、駒井は相談室を後にした。




