駒井元刑事 5
その日の夜。駒井は自宅で書斎代わりにしている和室に籠もり、松村澄美子から借り受けた、松村美々の携帯電話に登録してある通話やメール履歴、アドレス帳をノートに書き写していた。
勉強熱心で新しい物好きの駒井は、還暦を超えているが若者文化にわりと精通している。パソコンや携帯電話の扱いも慣れているし、最近はスマートフォンに乗り換えた。目の前にはデジタルグラフィックで描かれた伊勢安土城の掛け軸が掛けられている。定年後に買った駒井の宝物だ。
ただ、いかんせん老眼には勝てない。長く液晶画面を見つめていると、目の奥がシクシクと痛み出してしまう。スマートフォンに内蔵されているアプリの使用法に慣れておらず、美々のデータを転送する方法が分からない。仕方なく調べに必要と思われる箇所を抜き出しては、ペン字検定二級の筆力で見やすく書き取っていた。
駒井の前に、コトリと湯飲み茶碗が置かれた。玉露の香ばしい匂いが鼻に届く。
恐る恐る顔を上げると、駒井の妻である夕子の柔らかい笑みが目に入った。良かった。今日は良い状態の日だ。
「あなた。少しはゆっくりされたら?」
「ああ。ありがとう。もう少ししたら一休みするよ」
「そう言って、もう二時間くらい経ちますよ」
そんなに時間が経っていたのか。音声を無音にしているテレビの角に映る時刻を見て、駒井は驚いた。どうりで目が痛むはずだ。
「そうだな。このお茶を飲んだら休むことにするよ」駒井は目の前に置かれた茶を啜った。熱すぎて舌に鈍い痛みが残る。
「これが、今やってる調べ事ですか?」夕子が美々のアドレス帳にあった友人の電話番号を書き写したノートを手に取り見ている。
「ああ。なあに。すぐ終わるさ」駒井が安心させるように言うと、夕子はお茶を乗せてきたお盆を手に取り、部屋を出て行った。
夕子は二重人格だ。
正確には、高次脳機能障害。脳梗塞による後遺症が原因なのだが、悪い状態の夕子はまさに二重人格と呼ぶに相応しいほどの別人格となる。怒り、口汚く罵り、宥めることに失敗すると物を投げつけ荒れ狂う。自制が利かなくなるのだ。
全ての原因は駒井にあった。
夕子は昔から活発で行動的な面があり、三人の子供達が家から巣立つまでは、休む間もなく立ち回っていたため、ストレスのかからない日々を過ごしていた。ところが末の息子が就職すると、途端に時間を持て余すようになった夕子は欲求不満が溜まり続けていたらしい。スーパーで万引きをして捕まってしまったのだ。
担当した警察官に頭を下げて、なんとか事を穏便に済ますことはできたが、妻の孤独と寂しさに気付いてあげられなかった駒井は反省して考えた。そこで犬を飼うことにしたのだ。
ペットショップに行き、当時は消費者金融の広告で話題になっていた、血統書付きのチワワを買うことにした。
ガラスケースから取り出す時に、夕子に抱かせようと勧めた女性店員に対して、『無理! 無理』と言ったところ、チワワがワンと返事をした。その時の出来事から、チワワの名前はムリちゃんと決まることになる。
そして、問題となった日。
当時、暴力団対策を担当する課に所属していた駒井は、経済犯罪事案の捜査で、増援としてI区に赴いていた。
前日に妻との外食を約束していた駒井は、勤務終業間際に入ったタレコミ情報を元に、とあるビルへと向かった。そこで瀕死の重傷を負った男と、二人組の男を発見するのだが、問題は重傷の男が当時のI区警察署長の息子だった点だ。
結局、署長の息子は亡くなり、二人組のうちの一人をその場で逮捕したわけだが、警察署長の息子が暴力団と関わりがあった事実が明るみになり、I警察署長は辞表を提出することになる。
だが、問題はそれで終わりではなかった。その日、駒井が夕子との約束をすっぽかした事により、夕子はムリちゃんを連れて食事に出かけてしまったのだ。
車の助手席に乗せたムリちゃんは、最初はおとなしくしていたのだが、流れる外の景色に興奮して暴れ始めてしまう。そして、運転する夕子の足元に潜り込んだことにより、夕子はブレーキ操作を誤り追突事故を起こしてしまった。
夕子とムリちゃんに怪我は無かったのだが、追突してしまった車の運転手の様子を見に行こうと運転席のドアを開けたところ、ムリちゃんが飛び出してしまった。そこに事故車両を強引にかわして進もうとした乗用車が突っ込み、ムリちゃんは即死してしまう。
愛犬が死ぬ瞬間を目にしてしまった夕子は、その場でショックのあまり脳梗塞を起こした。救急車で運ばれ命に別状は無かったのだが、後遺症で別人格とも言える凶暴なもう一人の夕子が誕生してしまったのだ。
数年間荒れた生活が続き、やがて駒井は、夕子が荒れるのは退屈が原因であると気付いた。そこで、自宅を一部改装して洋裁教室を開くことにしたのだ。これが大当たりだった。家事と洋裁教室、それに生徒との交際で、夕子は毎日クタクタになってよく眠るようになった。
ただ、それでも洋裁教室が休日になる月曜日と水曜日の夜は、稀に状態の悪い夕子が現れることがある。今日は水曜日で、出てきてもおかしくはないタイミングだった。
駒井は多少ぬるくて飲みやすくなったお茶に口をつける。
「ふう。I区か」
I区の古い警察署員は全員、駒井に厚意と憐憫の情を持っている。I署長が退職する時、玄関の前で駒井に対して妻の事故を謝罪したためだ。
菊池君に女の協力者がいると思われる以上、一度は健二に冤罪を着せようとしたI区の件も調べ直さなければならない。ただ、あの件は被害届すら出されていない。まともな記録は期待できそうにない。駒井が頼めば、改めて調べ直してくれるかもしれないが。
その時、目の前のスマートフォンから着信音が鳴った。液晶画面を見ると橋本の名前が出ている。駒井はすぐに通話ボタンを押した。
「夜分遅くすみません。今は大丈夫ですか?」
「ええ。珍しいですね。橋本さんから電話をかけてくるなんて。何かありましたかな?」
「はい。田鳥殺しについていくつか進展がありましたので、ご報告しようと。まず、報道規制が解除されました。まあ、駒井さんならこれだけで大体何があったのか察せられると思われますが」
田鳥の殺害事件発生から一週間以上が経過していた。一般のマスコミにまで情報が漏れ始めて隠し通せなくなってきたか。あるいは、犯人に目星がついたのか。おそらく後者だろうと駒井は思った。警察側から規制を解除したということは、田鳥の毒牙にかかった少女に迷惑がかからないような容疑者なのかもしれない。
「待った。まあ、橋本さんの言いたいことも分かるが、今日はもう遅い。それと、私のほうからも橋本さんに頼みたいことがあるんです。続きは明日でどうでしょう。私がS警察署まで出向きますよ」
「わかりました。明日の始業前でしたら時間を空けられます」
「ありがとう。では七時前には伺いますよ」
約束をして電話を切ると、駒井はテレビのボリュームを上げた。丁度夜の報道番組が始まった所だった。
美々の携帯電話にあるデータを書き写し終えて、冷えた茶を全て喉に流し込んだ頃、田鳥のニュースが流れだした。
○月○日午前二時ごろ、T都A区の公園で近くに住む田鳥輝巳さん二十九歳が倒れているのをアルバイト帰りの男子大学生が見つけました。駆けつけた救急隊員によりすぐさまT都○○病院へと搬送されたものの、同日午前三時前、病院の医師により死亡が確認されました。田鳥さんには暴行を受けた跡があり、財布などの貴重品が盗まれていない点などから、警察では……。
報道の扱いは小さいが、察しの良い者なら事件発生から一週間以上経過して始まった詳しい報道に、訳あり事件として気付くだろう。報道内容そのものは、橋本から事前に聞いていた話と大差は無かった。
チャンネルを別のテレビ局に切り替えるとそちらでも流れ始めたが、内容は似たようなものだった。
駒井はリモコンを手にしてテレビの電源を落とし、台所に行き茶碗を洗うと寝室へ向かった。夕子は既に布団を被って軽い寝息を立てていた。




