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松村健次 1

第二章

「お疲れっと。どうなりました? 試合」

「お疲れ様です主任。大逆転勝利ですよ」

 松村健二はドアを開けるなり、首位攻防戦の結果について尋ねながらテレビに目を向けた。ペナントレースは佳境に入っており、目の離せない日が続いている。

「おほっ、すごいな。氷川を打ちこんだんですか。アイツ防御率一点台切ってましたよね」

「今はもう二点台ですわ」年上の後輩がニカッと笑い、機嫌よく警備員用の帽子を被りながら言うと、じゃあ行ってきますと言って部屋を出た。彼もまた健二と同じキャンサーズ、T都に存在するプロ野球の球団、その人気の少ないチームのファンであった。

 健二が一人になった休憩室でテレビのボリュームを上げると、贔屓にしている選手の豪快なホームランの映像が流れて、野球中継が終了した。口元を綻ばせながら鍵束を机に置く。

 健二が全国規模である公益法人の警備会社に就職できたのは幸運だった。建築関係の専門学校へ通いながら求職している時に偶然空席が一つ見つかり、中途採用され順調に仕事をこなしていった。

 真面目な勤務態度が評価され、半年前には主任となり、設備検査資格の試験も合格。来年からは防災センター中心の警備業務だけではなく、中央監視室設備管理業務も兼務した係長の補佐役としての席が確定している。

 これでキャンサーズが優勝すれば三冠王だな。と考えながら、給湯室で淹れたコーヒーをテーブルに置く。自分の鞄からスマートフォンを取り出すと、手紙のランプが点滅しているのが見えた。メールが一件届いている。親指でボタンを押すと違うウィンドウが開いた。健二は毎回ここで舌打ちをする。指が太すぎてスムーズに操作できないのだ。ガラケーのほうが良かったなと思いながらテーブルに置き、人差し指の先っぽで慎重にボタンを押していく。


『A区A教育委員会の調べによると、この二十代の男性教諭は、複数の女子児童に対していかがわしい行為をした疑いがあるとして、先月末付けで懲戒免職処分にしたということです。女子児童は教諭と交際していたと主張していますが、教諭はそれを否定。記者会見したT都教育委員会によりますと……』


 メールと添付してあった画像を慎重に開いた健二は、大きくしてあったテレビのボリュームを下げた。スマートフォンを目に近づけて目を凝らすと、遠い昔、健二が小学校低学年だった頃に見た姿そっくりの赤ん坊がいた。


 〈優太〉   円花まどかが初めて立った!


 兄である優太の娘であり健二の姪、円花の写真だった。

 新生児用のウサギの耳がついた服を着て、天使のような笑顔で片手を頭にあてて立っている。笑顔が健二の記憶にある美々そっくりだった。小学校一年か二年の頃、初めて美々が立った所を見た覚えがある。

 いや、美々が立った時は歯が生えていたはず。円花はまだ歯が生えていない。ということは、円花のほうが成長が早いのかな?

 などと健二が頭の中にある思い出を掘り起こしていた時。

「その子が姪御さんですか」

 突然すぐ後ろから話しかけられた。

 健二はハッカ飴の匂いがする方向へスマートフォンを掲げて、「ええ。俺や兄貴に似なくて良かったでしょ」と、自慢げに見せつける。

「立ち姿勢が良いね。将来は婦人警官なんてどうだい?」

「プロから見てどうですか? 見どころありそうです?」

「見事な敬礼だよ。才能がある」円花の写真の右手を指さして、引退した元刑事の駒井は太鼓判を押した。

 美々の死から三年後、優太は同じ職場の女性と結婚した。小柄な優太よりも背が高くて、おっとりした感じの人だった。すぐに妊娠・出産と好事が続き、今の松村家はもっぱら円花の成長が話題の中心になっていた。

「マルカ、まどかちゃんかな?」

「ええ。まどかです。義姉さんが風花って名前だから、一文字とって付けたそうです。生まれた時はまんまるだったから、円花」

「なるほど。綺麗な響きだ」駒井は目を細めている。

 今年の春に定年退職した駒井は、健二の職場に一年契約で再就職していた。

 警備の会社では定年退職した警察官は重宝される。都内で四十年近く警察の職に就いていた駒井は、警備だけではなく暴力団や不動産関連のトラブルも含んだアドバイザーの役割を負っている。健二にとって知恵袋のような存在だった。

「で、どうしたんですか、こんな所まで」

「ちょっとコーヒーを頂きにね」給湯室に足を向けながら言った。「調べたら、ここだけ二十四時間業務だからかな、良いコーヒー豆を使ってるんだよね。前任者が眠気覚ましのためにこだわったみたいで」

 立場を利用して何を調べているのやらと、健二は笑った。「のんびりしていますね」

「私がのんびりしている時は平和な時ですよ。喜んで下さい」ふぉっふぉと笑いながら、駒井が健二の向かい側に座った。

 美々の事故をきっかけに、健二は性格が丸くなった。

 中学生時代に同級生の女子を骨折させて以来、家から出られない日々が続いたが、美々の一件であれこれと外を駆け回らなければならなくなり、気付いたら人と接触する事への苦手意識が消えていた。外に向かって放っていた荒れる意識を、内側にじっと溜めてエネルギーにする感じだ。

 溢れるスタミナと、天国の美々に誓った人生をより良くする決意。その二つが健二の人生に充実と円熟を与えていた。



 数日後、一本の内線電話が警備室詰所へと入った。

「松村主任、お客様がいらっしゃってます」

「はい? どちらからですか?」

「S警察署です」

 勤務が終わり、夜勤業務の者に業務の申し送りをしている健二に声がかけられた。

 仕事柄、地元警察関係者との面会は非常に多い。洗面所にいたずらをされた。エスカレーターで転んだ。空調から異臭がする。酔っ払いが消火器を噴出させた。雑多なトラブルを健二の保安警備業務課が受け持ち、場合によっては警察へと通報する。幸いなことに、健二が就職してから勤務している地域では、一度も大きな事件が起きたことは無い。

 脱ぎ掛けの警備服を再び着込み廊下の奥へ進み、事務所入り口横にある間仕切りの裏に向かうと、どこかで見た覚えのある女性がいた。近づくと、健二が声をかける前に立ちあがって頭を下げてきた。

「こんばんは。勤務時間外なのに申し訳ございません」ひどいだみ声だ。大柄だから男と見間違えそうになる。

「松村です。ええと」必死で名前を思い出そうとするが出てこない。

「橋本巡査部長。いや、今は警部補だったかな?」

「駒井さん?」健二と橋本の声が重なった。

 突然、すりガラスの向こうから駒井が現れた。両手で持つお盆には湯飲み茶碗が三つ乗っている。

「おっと。僕がやります」健二が立ち上がってお盆を受け取ると、駒井はすまないねと言い、しれっと二人の横にある椅子に座った。

「ああ、そういえばビルメンテナンスの会社に再就職したと聞いたことがあります。まさかここだったとは」

「意外に近くてびっくりしたかな?」

「ええ。ご自宅からS署までと、ほとんど通勤時間が変わらないんじゃないですか?」

 健二はお茶を配りながら二人の会話に聞き耳を立てる。それなりに親し気な雰囲気から、面識のある相手同士らしいと推測した。同じS警察署に勤めていた者同士なのだから当然か。

「ああ、すまないね松村君。ほら、主役をほったらかしにしちゃいかんよ」駒井は橋本に話の先を促す。

「はい、失礼しました松村さん。本日は少々お尋ねしたいことがあってまいりました」橋本は姿勢を正すと、懐から手帳を取り出し、間に挟んである二枚の写真を健二に向けた。「この写真の男に見覚えはありませんか?」一枚は正面から顔をアップで撮った写真、もう一枚は遠くから撮影したジャージで走っている姿だ。

 健二は両方の写真を手に取り目を凝らす。色白細身で足が長く長身、歳は二十代、髪がやや長めで若干ナルシストっぽい雰囲気がある。甘いマスクで、かなり異性にもてそうだ。

 すぐ横に駒井の顔があって、写真を覗き込んでいた。ハッカの香りがスンとくる。健二と目があうと「失礼」と言って離れた。

「すみません。全くありません」橋本に写真を返す時、その目の真剣さに怯んだ。殺気が籠もっているというか、瞳の一瞬の揺らぎすら見逃さない決意のようなものが感じられる。

 健二が怪訝な顔を浮かべると「そうですか。ありがとうございます」と言って、そそくさと写真を片付けた。

「今の男がどうかしたのかい?」

 駒井が尋ねると、橋本は一瞬言い淀んだ。

「良いじゃないですかちょっとくらい。定年退職したとはいえ元警察官です。口は固いですよ?」

「いえ。駒井さんを信用していないわけではなくてですね」橋本はわずかに躊躇ったことを笑って誤魔化そうとしている。実際、部外者に情報を広めることを嫌ったのだろう。

 橋本は周囲をチラリと見てから、小声で答えた。「殺人事件の被害者です」

 はあ、と言ったきり、健二は黙った。全く心当たりが無いし、それ以上答えようがない。じりじりとした空気に包まれ、やがて橋本は根負けしたかのように話しだした。

「松村美々さんの写真を、この男が持っていました」 

 その瞬間、健二はようやく橋本のことを思い出した。そういえば美々の事件の時に、警察へ被害届を出すために病院から診断書を持って行ったことがある。あの時に受付してくれた婦人警官だ。ダミ声に特徴があった。

 それと同時に、これは健二の仕事内容とは無関係な聞き込みだと気付いた。さっきの橋本の鋭い目線と殺人事件。ひょっとして、自分が疑われているのだろうか?

 橋本は何も言わずに手のひらを組んだまま健二を見つめている。

「美々の写真を持っていて、何か問題があるんですか? メディアでも流れていましたよね」

「ええ。マスコミがニュースサイトなどで流していた美々さんの写真なら、問題無いんですけどね。彼がパソコンに保存していたのは、菊池翔空君が持っていた写真でした」

「はあ……」自殺した菊池君が撮影した写真のことか。それを何故、健二に尋ねるのだろう。聞きたいことがよく解らない。

「橋本さん、説明が足りませんよ。何を言えばいいのか困ってるじゃないですか」横から駒井が助け船を出す。「彼とはここで一緒に勤めてるから分かりますけど、見た目は力道山のようですが、根は純朴で内気なんです。嘘をついたり隠し事ができるほど器用じゃないし、殺人なんて大それたこと決してしません。私が保証しますよ」

 純朴で内気っていうのも、物は言いようだなと思った。健二自身は自分を単純で臆病と評価している。駒井は言葉を良いほうに言い換えてくれていた。

 駒井の言葉を聞いて橋本もニヤリと笑った。「私もそう思います。五年前に病院の玄関と警察署で会っていますが、彼は暴力をふるうような男じゃないと。殺人事件を起こすなんてありえないってね」

 ああ、やっぱり向こうも覚えていたのかと、健二は思った。というか、病院の玄関で会っていた? そういえば見たような覚えもあるが、顔まではっきり思い出せない。

 橋本は写真を横に寄せると、今度は手帳の間から新聞記事のコピーを取り出した。受け取って見ると、数日前の記事だった。殺人事件ではない。

「一週間ほど前に男性教諭が懲戒免職となった記事です。ご存知でしょうか?」

「いえ……」複数の女児とわいせつな行為をしていた教師がクビになった。テレビで聞いた気もするが、こんな平凡なニュースを健二はいちいち覚えてはいない。「この男性教諭が殺されたってことですか?」

「はい。そして、死後に教諭のパソコンを調べたら、美々さんの写真が出てきました」

「それはつまり、美々がこの教師と付き合っていたとか、そう考えてるってことですか?」健二は自分で言いながら、なんてバカバカしい考えだと思った。

「いえ。そこまでは考えていません。ただですね」橋本は言い淀み間を取ると、申し訳なさそうに話し始めた。「松村さんは以前、I区にて盗撮の疑惑を受けたことがありますね?」

 今更か、と、健二は頭に血が上る感覚を抑え込む。五年も前の、しかも冤罪を蒸し返してくるとは。

「今回殺された教諭は、未成年の女子児童に強く執着していた性癖があるのです。それも、美々さんが不幸な事故に遭われた五年前よりも以前から。仮に、美々さんがこの教諭と何らかの関係があった場合、松村さんと教諭の間にも面識があったのではないかと考える捜査担当者がいるんです」

「そんな乱暴な!」健二は握りしめていた新聞記事のコピーをテーブルに置いたが、無意識に力が入りすぎていた。三つの湯飲み茶碗ががちゃりと音を立て、テーブルに緑の線が走る。遠くで事務作業をしている者たちが何事かと覗き込む嫌な視線が飛んできた。

「たしかに、乱暴な推測です」橋本は眉一つ動かさずに落ち着いている。「ですが、警察とは頓珍漢な意見でも、上がやれと言えばやらなければならない組織でして。仕方がなく調べるためにこうしてやって来た次第です。今頃はお兄さんのほうにも捜査員が尋ねているはずです」

 怒りで赤くなっていた健二の顔が、瞬く間に青くなった。

 警察官の胸倉を掴む兄を想像してしまったのだ。

 優太は今、仕事も結婚生活も絶頂期にある。軽率な行動はとらないはずだと願いたい。美々の事故死から立ち直った家族が、自分が関わったくだらない冤罪事件で崩壊したとなったら申し訳が立たない。

「その件、私に一任しませんか?」

「は?」

 のんびりと茶を啜った駒井が、春先の縁側で昼寝から目覚めた老猫のような顔で、健二を見つめている。

「私も松村君とは不思議に縁がある。花火大会の日に出会い、冤罪事件の日にたまたま関わり、今は同じ職場で働く同僚です。他人事とは思えません」

 健二は戸惑いの表情を浮かべたが、駒井はにこやかに話を続ける。

「安心してください。私はこう見えて、調べ事が得意なんです」今度は橋本に顔を向けた。「私じゃ本件の代理人として役不足ですか?」

「いいえ、そんな」大柄な橋本が背を縮めて恐縮している。「私ごときが駒井さんを評価すること自体が分不相応です」

「じゃ、話は決まりだね」駒井が再び健二を見つめた。健二はただ頷くしかない。

「後のお話は私が聞いておきます。なあに。大船に乗ったつもりで待っててください」駒井が歯を見せて笑うと、奥にある銀歯がキラリと光った。


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