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松村優太 9

 駐車場に車を停めると多少斜めになったが、優太達はそれを無視して車から降りた。エレベーターの階数表示を見ると二つとも五階で止まっていたため、二人はすぐそばにある階段を駆け上がった。

 病室に着くと、美々はベッドの上に座っていた。優太と目が合うと、はにかんだ笑顔で軽く手を振った。顔の血色も良い。

 部屋には澄美子の他に看護士が二人と医師が一人。美々の手術を担当した朝比奈だった。血圧を計ったり瞳孔を調べたりとテキパキ動いている。隅のほうで澄美子が邪魔にならないよう小さくなり座っていた。美々が朝比奈と言葉のやりとりをした後、看護士が医師に小声で何かを言った。朝比奈が頷くと、看護士は失礼しますと言って優太と健二の脇をすり抜けて行った。

「あの、部屋に入ってもいいでしょうか?」健二が尋ねると、朝比奈はもう少し待ってほしいと言ってきた。

「私なら大丈夫ですけど」美々が小鳥のようなか細い声で言うが、朝比奈はそれを制して、美々にベッドで横になるよう指示した。

 やがて、さっき出て行った看護士が再びやってきて、朝比奈に耳打ちした。「二時間ほど」「準備」との言葉が漏れ聞こえ、優太はわずかに不安になる。家族にもちゃんと言葉で伝えてほしい。

 数分後、検査用の様々な機材が取り外され、看護士が運び去った。一段落ついた部屋に優太が招き入れられた。健二は外に行き、南米にいる親父に電話をかけている。

「ひとまずは安心です。しかし、負担をかけないようにしばらく様子を見なければなりません。長く寝ていたため、手足の筋力も衰えているはずです。お母様、たしか半月ほど後に退院の予定でしたね」

 澄美子は頷いた。

「今日この後、念のためもう一度検査をします。それから二週間から一か月程度、様子を見ながらゆっくりとリハビリしていきましょう。それまで退院は延期してください。良いですね?」

「はい」

「では、検査の時間までしばらく時間がありますけど、面会は手短にお願いします。あまり長く喋ったりすると美々さんの負担になるので」

 そう言うと、朝比奈は会釈をして病室から出て行った。入れ替わりに健二が戻ってきて部屋へと入る。

 久々に家族四人でのひとときとなった。

「ごめんね。何か色々と迷惑かけたみたいで」美々がベッドの上で首だけを優太に向けた。「ゆう兄、太った?」

「うん? ああ、そういえば少し太ったかな」駅伝を引退したことを美々はまだ知らないはずだ。美々の事故がきっかけだったことは知られたくない。「良い所に就職が決まったから引退したんだ。走るの止めたら腹に肉ついちゃったな。つまんでみるか?」シャツをまくって毛深い腹を出すと、美々は笑ってベッドから右手を出してきた。腹の肉をつまむとクマみたいだと言い八重歯を見せて笑った。

「親父が良かったってさ。それと、これ」

 健二は携帯電話のボリュームを最大にして、美々の方へ向けた。すると、聞き覚えあるバースデーソングのメロディが聞こえてきた。学がポルトガル語らしい歌詞で歌っているようだが、音程が微妙にズレている。『誕生日おめでとう。美々』

 澄美子がパチパチと控えめな拍手をして、優太も思い出した。一週間ほど前が美々の誕生日だったのだ。色々なことが重なってすっかり忘れていた。

「わあ、千羽鶴すごい」

 そこで初めて、美々がベッドの左右に飾られた折り紙の束に気が付いた。

「清海ちゃん達が作ってくれたのよ」

 澄美子が束の一つを美々の手元に置くと、美々は折り紙を一つずつ手にとり始めた。

「ホントだ。きんちゃんが折ったやつだこれ」美々が笑っている。なんで誰が折ったか分かるの? と、澄美子が尋ねたら「ほら、鶴じゃなくてツバメやハチドリも混ざってる。折ってるうちに飽きたんだよ多分」と言った。

 たしかによく見ると、千羽鶴の中に鶴ではない折り紙がいくつも混ざっている。

「早く退院して、お礼言いに行かないとな」

「うん。へへへ、美々は果報者です」

 小春日和にはまだ早い季節。病室に暖かく穏やかな時が流れた。だが、夜には身を切るような風が病室を切り裂くこととなる。



 頭部CT検査では異常が見られなかった。意識障害や記憶障害も無く、初めて朝比奈も笑顔を見せた。しかし、軽い眩暈を美々が訴えたことにより、面会は終了させられた。二ヶ月以上も眠り続けていたのだから、無理をさせるわけにはいかない。

 美々を休ませ、優太は澄美子や健二と共に一旦自宅へと帰った。学校に意識回復の連絡を入れると「休学や復学の手続きについて相談してくる」と言い、澄美子は学校へと向かった。

 優太はきんちゃんやなっちゃんといった、心配をかけた人達に連絡を入れた。夜までに美々の友人達だけではなく、駅伝部の仲間やコーチ達からもおめでとうメールが届き返信が大変だった。どこで聞きつけたのやら、畑からも取材要請のメールが来たが、『もうしばらく待ってからにして下さい』と、一旦保留しておいた。

 その電話を受けたのは健二だった。澄美子が学校から帰ってきて、鼻歌混じりに遅い夕食の準備を進めている時、病院から電話が来た。

「美々がまた昏睡状態になったらしい。しかも危険だって」

 半ば悲鳴のような健二の叫びを聞き、優太は指先が冷たくなるのを感じた。澄美子はエプロンをつけたまま車庫へと走り、健二がその後を追う。優太はガスコンロの火を消すと、エンジンをかけた澄美子の軽自動車の助手席に乗り込んだ。



 優太達が夜間出入り口から病院の中へ入ると、すぐ前にすっかり顔なじみとなった看護士長が立っていた。彼女は挨拶もそこそこに、五階ではなく手術室へと先導して歩き始めた。診療時間終了後とはいえ、まだ面会可能な時間であり、人の流れもある。だが、澄美子や健二の怒っているかのような緊張した表情を見ると、パジャマ姿の入院患者までもが道を譲った。

 手術室前には朝比奈が立っていた。すぐ隣にある検査室から美々がストレッチャーに乗せられ運ばれてくる。澄美子が美々に声をかけたが、反応が全く無い。

「再び出血が始まりました」朝比奈は重く冷徹な声で言った。「意識が覚醒して血流が増えたことにより、傷がついて瘤になっていた血管が破裂しました。前回の緊急手術でも手を付けることができない場所だったため、彼女の治癒力にかけたのですが」

 朝比奈の説明に、その場にいる誰もが言葉を失う。

「これから出血を止めるために全力を尽くします」

 澄美子が美々の手を握ったまま震えて離そうとしない。

「おふくろ」

 優太がその上に手を乗せると、澄美子の震えが止まって手を離した。

 手術室のドアが開く時、一瞬巨大でおぞましい生き物の口が開いたかのような錯覚を感じた。この中に入ってしまうと二度と戻ってこられないのでは。そんな幻影が優太を襲う。

「美々」手を伸ばした先で、ドアはゆっくりと閉じた。



 健二の貧乏ゆすりが長椅子を揺らし続ける。止めるように頼んでも、生返事を返して一旦は止まるが、数分したらまた始まる。それが何度も繰り返されて、やがて優太は諦めた。

 人通りが無くなり、消灯時間が過ぎて廊下の明かりが暗くなった。澄美子は一度外に出て、学に電話をかけていた。尋ねたら、すぐに飛行機を手配してこっちに来ると言っていたそうだ。

 静かな夜の病院の廊下に誰かの腹の鳴る音が響いた。そういえば晩飯を食べていない。優太の腹も思い出したかのようにつられて鳴った。だが、空腹感は不思議とちっともわかない。

「あんたたち、お腹すいたなら何か食べてくれば?」

 と澄美子が言ったが、優太と健二は腰が上がらなかった。自分が病院から出て行ったら美々が死んでしまうのでは? などとありえない妄想の根が足腰に絡みついて動けなかった。

 会話の無いまま、時間だけがどんどん過ぎて行く。優太がなにげなく時計を見たら、日付が変わっていた。

 息をしていることすら忘れるほど時間の重みに潰されている時、手術室のランプが消え、間もなく青い手術着を着た朝比奈が出てきた。袖や胸には赤い血がぬらぬらと光っている。

 澄美子が立ち上がり正面に立った。朝比奈はその目を見つめると、ゆっくりと首を横に振った。


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