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九章

 この場がすでに異界となったことに、少女は即座に気づく。周囲の景色よりも、肌が敏感にその異変を察知している。

 ――この中に魔術師がいるのでしょうね。

 それは嬉しさ半分、迷惑半分、といったところだ。嬉しいのは、こちらで結界を張らなくてもいいということ。いつもはオートに設定して結界を張るので戦闘中は気にならないが、魔力の一部が結界に流れてしまうので、多少なりとも効率が落ちるのだ。その負担を肩代わりしてくれるのは、素直にありがたい。……だが、不利な点もある。

 ――向こうにとって都合のいい結界である可能性が高いことです。

 結界は、基本的に壁だ。(なか)と外を隔てる壁。その派生で、内部に圧力を加えることもできる。簡単に言えば、行動の制限だ。例えば、カニバルのような超人的な肉体には通じず、魔術師含めた普通の人間の動きを制限するような(たぐい)

 ――いまのところ、その気配はありませんが。

 だが、わからない。魔術の発現がトリガーになる可能性だってある。

 それでも――。

「一か八か、やってみなければ先へは進めません」

 少女の身にまとっているものが、いつの間にか変わっている。黄色のトップと緑のスカートという女の子らしい恰好が、黒いローブを肩から靴の少し上まではおった、どこか異色めいた姿。

「おい。あいつの恰好……」

 周囲も少女の異変に気づいて、さざ波のようなどよめきが上がる。だが、当の少女自身はなにも驚かない。

 ――存在の定義が、更新されましたね。

 自分が何者で、どのような存在なのか、その定義を書き換える。それが正しく上書きされるためには、観測者の再読み込み(リロード)が必要だ。そこに必要な手段は、実に単純(シンプル)なこと。……瞬き一つ。それだけで、定義の更新が完了する。

 つまり、この場にいる全員が瞬きをして、一瞬でも少女の姿が断絶されれば、少女の恰好は、少女が定義しなおしたとおりに置き換わる。その事実を、少女自身も認識しただけのこと。

 ――このような強引な方法を使うのは、これが初めてですけれど。

 少女は狩人だ。獲物を見つけて、狙いすましたタイミングで攻撃をしかける。だから、いつもなら攻撃態勢を整えたうえで、敵の前に現れる。……こんなふうに、彼女が襲われるなんてことは、いままでなかった。

 ――それを言うなら、お仕事が終わったあとにお出かけするなんて、なかったですね。

 都合によって、予定していたよりも出発が遅れることは、これまでもあった。だが、基本的に少女は待機だった。彼女の監視役であるリーダーの人が必要な処理を完了次第、少女たちは次の場所へと移る。

 ――初めての、デート…………。

 その最後が、まさかこんな形で終わろうとするなんて。あんまりな幕引き(フィナーレ)に、少女は嘆息を禁じえない。

「それでも、仕方がありませんね」

 相手は、確かに少女を狙っている。むしろ、他の一般人を巻き込まないようにした姿勢は、評価するべきだ。

 ――響彩(ひびきさい)くんを、見逃してくれたのですから。

 少女は改めて、周囲を取り囲む敵の数を捕捉しようと努める。駅舎の上に五十人、駅前の道の上にいるのは百人以上、周囲のビルにも人がいるらしく、それぞれ十人以上だろうか。

 ――多勢に無勢、ですね。

 だが、少女は焦らず、冷静そのものだ。密林のある部族を滅ぼしたときは、三百人近くを相手にした。木々で視界が悪く、どこから来るのか全くわからなかった。そのときに比べれば、今回は視界を十分確保できている。

「あいつだ!あの女だ!間違いねぇ」

 叫び声が聞こえて、少女は声のしたほうへ視線を向ける。駅舎の上、時計のすぐ隣に、喚いている男の姿が見える。頭は剥げ上がり、耳は人間の頃を忘れたように変形して、作り話に出てくるゴブリンのような形をしている。肌も染みだらけで、人間の頃の名残は、彼がまとっている衣服くらいしか見当たらない。

 そのゴブリンは、隣にいる背の高い黒いローブの相手に(しき)りに話しかけている。ローブのほうは顔まですっぽり隠しているので、年齢も性別もわからない。ゴブリンの訴えにも振り向かず、ただ少女のほうを凝視している。

 無視された形になってもかまわず、ゴブリンは喚き散らしながら少女を何度も指差す。

「あいつですよ!レイル様を()ったのはァ!」

 へえ、と少女の口から音のない感嘆が漏れる。

 あの戦闘を見ている者がいた。少なくとも、少女はいままで気づかなかった。あの結界は、魔術耐性のない一般人の意識を奪い、さらに物質の座標や状態を固定する。それ以外の、カニバルの意識も動きも、封じることはできない。

 だが、カニバルを捕捉する少女の技量は確かだ。あの結界内にもう一人カニバルがいたら、少女は絶対に見過ごさない自信がある。

 ……式神か、監視カメラの類でしょうか。

 カニバル本体でないなら、確かに見逃したかもしれない。それが今回の失態を招いたなら、今後のために反省しなければならない。

「ねえ、あなた。時計のすぐ隣にいるあなたです」

 張り上げた少女の声に、ゴブリンは振り返って彼女を見下ろす。上と下、これだけの格差がありながら、しかし、恐怖しているのは上にいるゴブリンのほうだった。

 少女はかまわず、笑顔で彼に訊ねる。

「あなたは、あのときのどちらからわたしをご覧になったのですか?」

 恐怖に顔を青くするゴブリンは、それでもなけなしの意地で少女に向かって怒鳴り散らす。

「教えるわけねーだろ!教会の(いぬ)ッ!」

「あら、それは違いますよ。――わたしたちは、教会の総意です」

 世界中の人喰種(カニバル)を狩り尽くす――。それは、教会に所属する者の全ての意志だ。そこに、一般兵も隊長も、幹部だろうと、関係ない。

 もはや話にならないと諦めたのか、ゴブリンは隣のローブに言い募る。「早く()っちまいましょうよ」とでも言っているのだろうか。

 ローブに隠れて顔は見えないが、その人物はじっと少女を見ている。警戒、はしているだろう。しかし、隣で喚くゴブリンと違って、そこに恐怖の色は見受けられない。

 ローブの中から、澄んだ男性の声が少女に向けて投げられる。

「教会の人間。武器を捨てて投降せよ。そうすれば、命だけは助けてやる」

 思わぬ台詞に面食らって、少女は両目を瞬いてしまった。いままで、少女は一方的にカニバルを狩ってきたから、こんなふうに命乞いを強要されることはなかった。もちろん、少女からカニバルに慈悲を与えたことは、一度もない。

 少女は困惑のために眉を寄せて、小首を傾げる。

「それは無理です。そう簡単に、わたしは死ねませんもの」

 少女の中で、戦闘以外の選択肢は存在しなかった。その意を、ローブの男も覚悟していたらしい。ローブの隙間から、甲冑に覆われた腕が現れる。地面と水平になるように、ゆっくりと持ち上げる。隣でゴブリンがニタニタと気味の悪い笑みを浮かべているが、そんなものがなくても、少女には次の光景が想像できた。

 ――結界の中、誰にも知られない殺戮が始まる。


「――てェッ!」

 それは、容赦のない一斉射撃だった。ローブの男の一喝とともに、少女に向けて魔弾が襲いかかる。

 ――レイル・ボフマンのときと同じですね。

 通常兵器を、魔力で強化している。普通のショットガンが、大砲クラスの威力にまで跳ね上がっている。

 もちろん、少女は黙って的になるつもりはない。だが、この銃弾の数はどうだ。まさしく全方位、正面の駅舎だけでなく、周囲のビルからも、少女は狙われている。

 銃弾の威力に、道が砕け、黒煙が噴き上がる。剥がれた路面が、銃弾の威力で宙を舞う。轟音が耳を(ろう)し、黒煙が視界を塞ぐ。少女の周囲、半径五十メートルの範囲が無残に散る。

「そろそろ攻撃をやめさせるか」

 ローブの男は、手を地面とは垂直に上げようとした。視界が悪くなり、これ以上の攻撃は無駄撃ちになってしまう。まずは、相手の状況を確認する必要がある。レイルを殺した相手がこうもあっさりと()られてくれるとは、ローブの男も思っていない。

 だが、ローブの男は上げる途中でその手を止めることになる。黒煙の中から、黒いローブの少女が飛び出してきたのだ。その高さは、すでに路上から二十メートル近くも上だ。

「……!」

 ローブの男が驚愕で動きを止めた隙をついて、少女は反撃する。少女の周囲に展開した灰色の立方体(キューブ)、それがカニバルの群れに向けて一斉射撃を開始した。

 が……。

 少女の攻撃が正確に命中したのは、正面にいる隊列、しかもショットガンのみだ。それ以外の場所では、見えない壁に阻まれるように、少女が放つ光の弾丸は打ち消されてしまう。

 ――防壁ですか。

 すぐに、少女もその異変に気づく。敵は魔術防壁の内側から攻撃しているのだ。当然、銃撃のために穴は開いているが。それ以外への攻撃は、全て無効化される。

 ――もちろん、基準はわたしの通常攻撃なのでしょうけれど。

 レイルとの戦闘を見られているのだから、当然、敵もこちらの武器の対策はしている。だが、少女の攻撃はなにも光の弾丸単発だけではない。

 その、もう一つの砲撃を放とうと腕を上げたとき、少女は頭上の影に気づいた。それは網だった。少女を捕獲しようという腹か。少女は即座に手の方向を網に合わせた。立方体(キューブ)の発射光が、一斉に網へと照準を合わせる。

 少女の合図に従って、光の弾丸が網を打つ。だが……。

 ――対魔力用の呪詛入りですか!

 光の弾丸は網を打ち破ることなく、触れた傍から網の表面を沿って流れてしまう。魔力を散らして、魔術を無効化するらしい。なるほど、魔術師殺しなら、教会の人間以外にも有効だ。

 ――それなら……。

 少女は砲撃をやめる。代わりに、立方体(キューブ)を足場に集めて、一気に放火させる。その衝撃で、少女の身体(からだ)は斜め下に向かって吹き飛ぶ。網は広範囲で少女を狙っていたが、ギリギリ、少女までは届かない。

「ミサイル準備!……てェッ!」

 ローブの男が叫ぶと同時に、駅舎の上からミサイルが一斉に発射される。

 少女は足元の立方体(キューブ)を正面に展開して、ミサイルを迎撃する。弾丸の衝撃で、ミサイルの軌道が逸れる。そこに、後続のミサイルが激突し、爆発。周囲のミサイルも巻き込んで、目の前が一瞬で火炎に覆われる。視界と銃撃が、その刹那、途切れる。

「……っ!」

 その間隙(かんげき)を縫うように、少女の脇腹に衝撃が走る。狙撃されたらしい、少女の身体がその反動でのけ()る。

 続けざま、四方から同様の衝撃が少女を襲う。一発一発の狙撃、肩、太腿、そして腹部に二発を喰らった。

 だが、少女は無傷だ。撃たれた箇所から、黒い破片がぱらぱらと零れ落ちる。

 反応型の魔力障壁――。少女以外の魔術に反応し、その威力を減衰させる障壁だ。少女の意思とは関係なく発動するため、不意打ちに強い。

 ……ただし、大魔術クラスには堪えきれませんが。

 あくまで、不意打ちへの対処だ。これによって、最低限の被弾で抑えている。

「……!」

 少女は足元に展開した立方体(キューブ)を蹴って、黒煙を飛び越える。駅舎では、黒いローブの男がまた指示を飛ばしている。……狙撃で少女がやられないことは、想定の範囲内らしい。

 ――なら…………。

 少女は黒煙付近に残した立方体(キューブ)を引き上げる。立方体(キューブ)には、少女の魔力が通っている。そこに触れた色のない残留魔力は、全て彼女の支配下に置かれる。――つまり、ミサイルの余熱が、全て彼女の掌の内に。

 二十個ていどの立方体(キューブ)が黒煙を呑み込むことで、一気にその数を百まで増やす。そこに蓄積した魔力を、彼女は即座に大魔術へと編み上げていく。

「……っ」

 直径十メートル、高さは三十メートルを超える巨大なシャンデリア。その煌めきの先端は、駅舎にいる黒いローブの男に向いている。

「!」

 ゴブリンの男が恐怖に(すく)んで硬直する。ローブの男も、そのあまりの光景に指示を忘れた。

 ――これで、滅びなさい!

 膨大な魔力が、空に向けて放たれる。それは、狙い過たずローブの男を貫いた。

 手応えは、あった。咄嗟に魔術防壁を張られたようだが、そんなもの、簡単に打ち砕いてしまった。なんの障壁もなく、彼女の放った砲弾は、そこにいたカニバルを全て呑み込んだ。

 魔力が、再び空に(かえ)っていく。色を失った魔力が晴れて、駅舎の光景が少女の目に映る。時計はすでになく、黒いローブやゴブリンはおろか、その近くで銃をかまえていた兵士たちも丸ごと消滅していた。

 ……法術ですから、足が残っていたとしても、再生はできません。

 指揮官を失ったのだ、カニバルたちの連携は崩れるだろう。あとは、一方的な制圧戦。敵の兵力がなくなるまで、少女が戦い続ければいい。

 ……わたしは。

 決意、しかけて。

 少女はその気配に気づいて頭上を見上げた。

「……!」

 少女は我が目を疑った。少女の背丈ほどもあろうかという巨大なミサイル。それが夜空を、少女の視界いっぱいを彩っている。数はいくつだ。五十?百?少女の周囲を、劫火が()き尽くした。


 路面はおろか、周囲のビルを三つ呑み込む大火力を、アジール・ゲインベルグは画面越しで悠々(ゆうゆう)と眺めていた。……素晴らしい。あまりの爽快さに、笑いが抑えきれない。

 顔を覆うようにして、手で口を隠す。だが、口元がにやけるのは、やはり抑えられない。

「指揮官が前線にいるわけないだろう」

 画面越しに、アジールは声をかける。当然、返事はない。それが、また堪らなく愉快だ。

 駅舎にいたのは、アジールの人形だ。魔力線で操っているから、動きは普通の人間と変わらない。だが、滑らかな動きを再現するために関節回りが剥き出しになっているから、一目見ただけで偽物だとバレてしまう。……そのための、全身を覆うローブだ。

 もちろん、人形は一体だけではない。その人形たちを含め、各所に設置されたカメラを通じて、アジールは戦況を余さず見渡せる。一体人形を失ったが、視界は良好、指揮系統も当然、生きている。戦闘員の頭には通信機が埋め込まれていて、直接命令を伝えることができる。

「狙いを誘うためにベルナーを傍に置いたのは、それなりの効果があったかな」

 レイルの周辺警備を任されていた男。レイル自身は腕が立つので、あくまで異常を見つけ次第、レイルに伝えるのがその主な役目だった。

 だが、ベルナーにできたのは、レイルの死を本部に伝えることだけだった。そんな役立たずのために、アジールがわざわざ報復のための殲滅部隊を指揮しなければならなくなった。

「だが、よりにもよってあんな小娘にレイルが()られるとはな」

 同僚としてはどうとも思っていないが、彼の技量だけは、アジールも高く評価している。

 ――武器商人。

 それがレイルの肩書だ。その肩書通り、レイルは武器を製造する。一から作るわけではない。既存の武器に魔力を通して、より強力な武器に魔改造していく――それが、レイルの能力だ。

 レイルの死は、我が社にとって大きな打撃だ。主力商品の製造がストップしてしまうのだから。

 ――だからといって、使わない手はないがな。

 この報復戦にも、当然レイルが残した武器を投入している。惜しむ気はない。人間たちだって、石油の使用をやめられないだろう?化石燃料など、いずれ底をつくとわかっていながら。

「まあ、才能があることは認めるがな」

 ベルナーたちが再生しないところを見ると、少女が放っていたあの弾丸、一つ一つが法術だ。教会のお得意の業だが、あんな、湯水のように使える代物ではないはずだ。普通は剣や棍棒など、手に持つ武器に法力を通して、無駄な消費を抑えながら使うものだ。

「だが、もう済んだこと」

 任務は完了した。ベルナーの報告に会ったのは、あの女だけだ。他に仲間がいないか探すのは、また別のやつの仕事。さっさと部下たちに連絡して、撤収させよう。

 アジールが機器に指を伸ばそうとした、そのとき。

「……?」

 アジールは、レーダーに映った反応に動きを止めた。それは、直前まで少女の反応が消滅したことを意味していた。だがいまは……。

 ……反応が、ある?

「は?」

 なんて間抜けな声が、アジールの口から漏れる。だが、アジールはより理解不能なものを目にすることになる。

 映像の中の黒煙が、渦を巻いて霧散――いや――消失していく。そしてアジールは、別のモニターに映った魔力反応に驚愕する。

 モニターの上に、魔力反応がある。それは空間に散った無色の魔力ではなく、あるていどのエネルギー反応を示す、威力のある魔力。

 煙が晴れ、瓦礫を彩る炎さえも呑み込んで、残骸の山の中、平然と立つ少女の姿を目にして、アジールは完全に固まってしまった。

「ばかな……」

 それは、意図せずアジールの口から零れた。

 ……あり得ない。確かにやつは、死んだのだ。

 なのに……。

 少女が腕を振る。その動きに合わせて、少女の周囲に浮かんでいた灰色の立方体(キューブ)が整列する。少女の武器だ。どうやら、周囲の魔力を己の魔力に変換する機構を備えているらしい。ただ吸収するだけではない、あの立方体(キューブ)が触れたところから、同様の立方体(キューブ)が魔力に応じていくつも生成される。――その立方体(キューブ)が、白く輝く。

「あれは……!」

 アジールの人形とベルナーを呑み込んだ光だ。その咆哮が、次の標的を穿(うが)つ。過たず、少女は彼女を捕えようと網を放ったビルを撃つ。防壁はあっさり破れ、そこに陣取っていたカニバル兵を一瞬で消し飛ばす。

「くっ……!」

 驚愕はあった。動揺もある。だが、指揮官として染みついた身体は、即座に指示を飛ばした。

 ――全班、機関銃発射!

 ――C班とD班はネットも用意!

 並行で、被害状況を確認する。おおまかにはモニターに表示されているのでもわかるが、詳細は通信機の反応で確認する。

 ……壊滅か。

 少女が撃ち砕いた場所の班は、完全に沈黙している。

 ネットの準備が整ったとの通信が入る。魔力封じの網だ。アジールは直ちに発射を命じる。

 ――発射後、各班はこのポイントに移動しろ!隠密、かつ迅速にだ!

 少女が周囲から魔力を吸収していることに、アジールは気づいている。もう、ミサイルは使えない。機関銃でいまは凌いでいるが、いずれ、少女があの大砲を放つのに十分な魔力が溜まってしまう。

「陣形を変えていく必要があるな」

 アジールは陣形を映すパネルをタッチして、各班の移動先、およびタイミングを全て書き出していく。

「外周で待機している援軍も呼び寄せて」

 アジールが動かせるカニバルは、なにも駅前にいるだけではない。少女が逃げられないように、逃走経路になりそうな場所には伏兵を配置してある。

 まずは、中心地からもっとも近い伏兵を前に出し、その穴を埋めるように後続部隊を一つ前に待機させる。

「なにか手を考えなければ……」

 いま出せる指示をあらかた出し終え、アジールは戦法を考える。

 ……まずは情報収集(リサーチ)だ。

 大型ミサイルで灼き払ったはずなのに、少女は健在だ。その原理(カラクリ)が明らかにならなければ、レイルの二の前だ。

「フフフッ……」

 アジールの口元から笑みが零れる。……面白い。ここまで苦戦させられるのは、久し振りだ。いつ以来だろう。少なくとも、カニバルになってからは一度もない。人間の頃だって、まだ血気盛んな若造の時分に数度、経験したていどだ。

「いいだろう。貴様の正体、このアジールが暴きだしてやる……!」

 アジールは自分の人形たちに、撃墜防止の結界を張ったミサイルを時間差で発射するよう、通信を入れた。


 十数分ほど、時を遡る。

 彩は家の前の坂の近くまで向かうバスに乗っていた。他に乗客はいない。日曜日の最終バスだから、ギリギリ乗り込んでくる客がいてもよさそうなものである。もっとも、彩は普段、こんな時間まで外にいないので、これが普通なのかどうか判別できない。それに、いざとなればタクシーがある。

 ……本当に、これで良かったのか?

 窓の外を眺めながら、彩は物思いに耽っていた。もちろん、彩はこれで良かったなどとは、思っていない。しかし……。

 ……どうすれば、夢々(むむ)先輩を説得できたんだ?

 それが、わからない。

 彩は、自分の知っている限り、思う限りを伝えた。それを、夢々先輩も納得してくれた。彩の言葉が嘘ではないと、そう信じてくれた。

 しかし、そのうえで夢々先輩は可能性に懸けると、その決心を変えなかった。彩も気づいていない、別の方法があるのではないか……。

 彩は、カニバルの専門家ではない。だから、長く教会にいる夢々先輩がそう主張するなら、彩は否定することができない。

 ――きっと、夢々先輩はフェイトに辿りつけない。

 そんな彩の直感を、しかしどうやったら夢々先輩にもわかってもらえただろうか。別の可能性なんてないと、そう断言できるなにか。

 あるいは……。

 彩は首を横に振った。

 それは、できない。彩は、人殺しにはなれない。たとえ相手がカニバルでも、夢々先輩を殺した相手であっても。

 ――そんなことをして、夢々先輩は満足するのだろうか。

 フェイトの首でも持っていって『ほら、フェイトは死んだ。だから、夢々先輩はもう教会にいる必要はない。苦しむ理由は、もうない』なんて話すのか。

「――最低だろ」

 それは、夢々先輩を破壊するのと同じだ。むしろ、それ以上に残酷な行為。

 だって……。

 ……夢々先輩の生きる意義を、彩自らの手で壊してしまうのだから。

 それこそ、いままで耐えてきた『痛み』が、全て無駄になる。彼女がその苦しみに耐えてこれたのも、全てはフェイトに到達しようとする目的があるからだ。

 ……だったら。

 不意に、彩の脳裏にその思考が浮かぶ。

 彼女に……。


 ―――― ド グ ン


 響彩は、その気配に肉体(からだ)を引かれた。

「……っ!」

 動悸がする。急に、感覚の遮断が弱くなっている。呼吸を整えるのも、やっとだ。

 ――まるで、悪夢から醒めたときのよう。

 だが。

 まだ悪夢は終わっていないことを、彩は()っている――。

 即座に、彩は降車ボタンを押した。……響の家まで、あとどのくらいだ?……もう、駅からどこまで離れてしまった?

 バスが止まって、彩は両替をせずに代金以上の金額を運賃箱に放り込む。どうやら、橋まで来てしまったようだ。

 彩は目を閉じて、感覚を遮断しなおす。彩の身体、存在は、どこにも接地していない。あらゆる感覚が遠く、なくなり、身体はどこか、宙に浮いている。

 ……慣れた行為。彩は強すぎる感覚を剥ぎ取る。

 だが、全ての感覚を消したわけではない。――戦闘態勢。そう、彩はこれから死地に赴かなければならない。そのくらい、彩だって察している。

「二十分以上のロス」

 走っても、駅まで戻るには三十分以上かかってしまう。橋の上を見ても、いつもならいるはずのタクシーの列がない。

「今日に限って……」

 いや、いまだからこそ、なのかもしれない。だが、彩は諦めない。……戻ると、決めたんだから。

 彩は走りだす。脳裏には、彼女の姿が流れては消えていく。今日のデートで笑っていた彼女の顔。エリザの部屋で顔を紅くしていた彼女。東波高校の食堂で、一緒に食事をしていた彼女。

 ――そして。

 炎の海に呑まれて灼けていく、痛み――。

「夢々先輩……!」

 擦れ違う人も、車の姿もなく、人工の明かりがうすっぺらく輝く町に向かって、彩は走り続ける。


 アジールは深く椅子に腰かけて、収集したデータをもとに考察していた。いまも、戦局は動いている。だが、それはアジールの予想通り、指示した通りに、だ。必要な命令はすでに兵たちに伝えてあるので、ここでアジールが焦って手を下す必要はない。

 まず、アジールは熱分布と魔力分布を正面に移して、ある時間だけをスローで再生させた。その中心には、人型の模様がある。ある瞬間の少女を映したものだ。そこに、大型ミサイルが撃ち込まれ、少女の周囲で、そのミサイル群が破裂する。高熱・高魔力を示す赤色がモニターの大部分を覆う。

 だが一部、少女の位置だけは青黒く浮かび上がる。表示幅を調節して、ミサイルが破裂する前の少女の状態を基準に表示させている。

「これが……」

 再生速度を落としながら、少女の状態をモニタリングしていく。最初は、少女も防壁を張って抵抗する。が、ビル一つを簡単に吹き飛ばすミサイルを十数個も浴びているのだ。咄嗟の防壁では、防ぎ切れまい。

 事実、少女の防壁は一秒も()たずに侵食される。少女に周囲の魔力を吸収する技量があろうとも、この瞬間は、ミサイルとしての魔力が優勢だ。

 少女の表面温度が上がる。身を(よじ)っているのは、苦痛のせいか、それとも爆風に煽られているだけなのか。

 見る見るうちに、少女の身体が小さくなっていく。高温の前に、肉は灼けるより先に蒸発する。五秒もすれば、少女の形は完全に消滅してしまう。

「そのはずが――」

 五秒、十秒、三十秒……。

 アジールはモニターの範囲を広げ、そしてある地点に目を止める。当然、爆撃地点から離れれば離れるほど、温度と魔力の値は下がってくる。だが、この異常な下がり方はなんだ?そこだけ、まるで台風の目のように空洞が見える。モニターの色でいえば黄色から緑になったていど、だが、周囲が赤またはオレンジを示す中で、その落ち込み方は無視できない。

 その、二秒後。

 それは、青黒い少女の形に見えた。いや、実際そこに少女はいるのだ。爆撃地点から五メートルしか離れていない位置で、少女は姿を現したのだ。

「…………」

 アジールは口元に笑みを浮かべながら、もう一度モニターを再生させる。何度見ても、結果は同じ。ミサイルの熱で蒸発したはずの少女が、それから一分も()たず、姿を現している。

「ただの人間、ではないだろうな」

 カニバルでさえ、こんな高速で再生する者はそうそういない。ここに集まった者では誰も、レイルやアジールだって、無理だ。

 ――ザラマ様なら、もしかしたら……。

 だが、少女はそれをやってのけている。不老不死に最も近いカニバルから見ても、あれは化物だ。

「レイルが敗れたのも、頷ける」

 カニバル以上の不死性。どうやってそんな相手を倒したらいいのか?


「――だが、方法は見つかった」


 アジールは席を回転させて、カメラ映像のほうに目を向ける。血塗れの少女が、カニバルの兵士たちに囲まれている。ビルからの遠距離射撃ではない。駅前まで下りて、少女を中心に半径三十メートルの距離で取り囲んでいる。前線にはアジールの人形を置いて、防護壁を張っている。これで、少女の法術は完全に防いでいる。

「――――炸裂弾――――」

 着弾と同時に弾が破裂し、中の金属片を撒き散らすという悪辣な弾丸。肉に侵入して、内側から肉体(からだ)をズタズタに引き裂いていく。初弾が外れても、破裂した破片で傷を負わせることもできる、まさしく、人類の悪意の結晶だ。

 少女の欠点が見つかったのは、まったくの偶然――いや――アジールの執念の賜物だ。ミサイルの効かない相手。なら、他の武器ではどうか。一番は魔力封じのネットだが、遠距離からでは避けられてしまう。まずは、彼女の動きを封じる手段を見つける必要があった。

 ミサイルのような大火力兵器がそもそも効かないのでは、と思い到り、アサルトライフルやマシンガン、ハンドガンなどを試し、弾の種類もいろいろと試してみた。

「人形八体に、兵士が六十人」

 それだけの犠牲を払って、ようやくこの正解(こたえ)に行き着いた。どうやら、身体に弾が残ると再生できないらしい。超高速再生はその真逆、身体の完璧な消失を以ってしか機能しない。

 なら、アジールの戦法はこうだ。――壊しすぎないように傷つける。

 ミサイルのような大火力は、もう使わない。少しずつ少しずつ、敵の肉を削いで弱らせる。あるていどまで抑え込めば、あとは魔力封じのネットも使える。

 主力(メイン)は近距離からの炸裂弾。少女の反撃は、全て人形の防壁が防いでいる。替えの人形はまだ五十体近くあるから、この戦闘でなくなることはあるまい。

 遠距離からの支援も入れている。少女の武器である立方体(キューブ)は盾にもなるので、炸裂弾単体では防がれてしまう。そのため、遠距離からマシンガンで壁を大きく削る。

 また、ライフルでできる限り立方体(キューブ)を落として、あの大砲を構築できないようにしている。あれをやられると、アジール側も態勢を整えるのが大変になる。

「さあ、あとは単純な消耗戦だ。このまま打開策が打てなければ、君の敗北(チェックメイト)

 もちろん、アジールは少女に逆転のチャンスを与える気はない。逃走ルートには依然、伏兵が控えている。彼女が抜け出せる場所など、どこにもない。


 エリザは駅の裏側にある基地局の上にいた。彼女の家の近くで、駅全体を見渡せる、それでいて誰にも気取られない場所といったら、ここしかない。

 当然、エリザは最初からことの流れを見ていた。いや、いまでも傍観を続けている。

 ――そう、傍観だ。

 カニバルの相手をするのは、あくまで彼女。それが、教会(うえ)からの命令。エリザの任務は、彼女が正しく役目を果たしているか、見張ること。そのためのお膳立てくらいはやってやる。だが、手出しはしない。

 ……腐ってくねぇ。

 基地局に腰かけたまま、エリザは駅前の様子を眺め見る。結界が張られているとはいえ、それは一般人から隠すためのものだ。エリザのような教会の人間なら、視界を魔術的に弄れば覗けてしまう。

「どんな感じ?どんな感じ?」

 鉄筋の上を往復するのに飽きたのか、ミルヒがエリザの傍に立ち止まって何度も首を左右に傾ける。エリザはミルヒを一瞥しただけで、視線は基本的に、駅前に向いている。

「押されているな。カニバル側も、うまい戦術を取っているようだ」

 戦況は、素人目に見ても、カニバル側の圧倒的な優勢だった。一人相手に何十人もの数で囲い込み、ジリジリと近づいて徐々に行動範囲を奪っていく。

 彼女にとって、行動範囲が戦力だ。彼女の戦い方から、エリザはそのことに気づいている。

 敵の指揮官も、そのことに気づいたというわけだ。だから、兵を動かして彼女の動ける場所を制限している。一度はまったら、もう泥沼だ。起死回生を狙いたくても、そのためには魔力をかき集めるだけの空間が必要だ。

 ――応援が、必要だな。

 だが――。

「どうする?どうする?」

 ミルヒの問いに、エリザは振り返るまでもなく、はっきりと告げる。

「――――どうもしない。監視を続ける」

 それが、エリザに与えられた役目。彼女が危機に陥っても、手助けはしない。彼女は不死だ。危機など、そもそも存在しないのだ。

 ゲームオーバーのたびに、戦力は失われていく。しかし、彼女は何度でもコンティニューができる。なら、彼女が諦めるまで、好きなだけ続けさせればいい。――それが、教会の決定だ。

「…………」

 エリザは、じっと少女を観察し続ける。傷ついていることは知っている。彼女に痛みがあることも、もちろん。――今回のゲームがすでに詰んでいることも、とっくに気づいている。

 それでも、エリザは()ていることしかできない。監視者、傍観者。エリザの役目は、ただそれだけ……。

 なにが隊長だ。カニバルを狩っているのは、彼女だけだ。自分は彼女が傷つき、擦り減っていくのを、ただ見ていることしかできない。彼女の戦果を、ただ教会(うえ)に報告する。それだけで、エリザの職務は果たされる。将来が約束される。……一人の少女を使い潰すことで、エリザの人生は安泰だ。

「……………………」

 エリザは奥歯を強く噛む。

 だが、この苛立ちをどこにぶつければいい?いっそのこと、教会の命令を無視して彼女を助けにいくか?カニバルたちの隊列を崩せば、少しは活路が見出せる……。

 ――できるわけがない。

 そのあと、エリザ自身はどうなる?彼女の監視役から外され、どこか僻地に回されるのだろうか。彼女のことを忘れたエリザは、自分がなぜこんなところにいるのかわからない。

 エリザだって、命は惜しい。教会に所属する誰もが、最後までそれを思う。敵を憎む心と自分の存在を天秤にかけられたら、大体は後者だ。その判断ができなくなった者は、ほぼ間違いなく狂っている。もはや、戦うことすらできない。

「――――エリザ」

 身体が揺さぶられているのを感じて、エリザは思考から引き上げられる。

 ……つい、いつもより脱線がすぎた。

 ミルヒに身体を触られるまで気づかないなんて、注意力散漫だ。エリザは切り替えるように頭を一度振って、それから隣のミルヒに振り返った。

「なんだ?」

「……あれ。あれ」

 ミルヒの指先を追って、彼女の意図を察するのに三秒。観たものから事態を認識するのに、さらに五秒を費やした。

 ――どうして、あいつが……?

 外見上は、身動き一つせず冷静なままだが、しかしエリザの内心は、見た目に反して荒れている。

 彼女のことを忘れない少年――確か、響彩といったか――。彼は、エリザの見ている前で結界の中に入っていった。一瞬動きを止めたから、おそらく結界の存在には気づいている。レイルのときも結界内に入ったのだ、当然といえば当然か。……だから、彩はこの中でなにが起こっているのか、すでに理解しているはずだ。

 ――どうして、戻ってきた?

 彩は、バスに乗って帰ったのだ。その時点で、彩はもう、教会と関わってはいけない。あいつに近づくような真似をしたら、その場で処分しなければならない。

「どうする?どうする?」

 隣でミルヒが小首を傾げている。じっと見上げてくる瞳に、エリザは一瞥を返し、正面を見据えたまま口を開く。

「――――どうもしない。監視を続ける」

 彩への対処は、とりあえず後回しだ。いまは、彼女の監視を優先する。彩は結界内に入ってしまったんだ、エリザまで中に入ったら、それは彼女への援護と判断されかねない。

「レイルのときとは違い、中は依然、戦闘状態だ。――心得のない人間が、生きて出られる場所じゃない」

 エリザの返答に納得したのか、ミルヒはもうなにも言わない。エリザの隣に腰掛けて、結界内の観察を始める。

 ――愚か者め。

 顔には出さず、エリザは内心でぽつり、呟く。

 向こう見ずな響彩と、そんな彼に一瞬でも憧憬を抱いてしまった、自分自身に対して――。


 ……痛い…………です…………。

 少女は戦い続けていた。ただ、がむしゃらに。だが、彼女の放った弾丸は周囲の敵には当たらない。途中に透明な防壁が張られていて、彼らまでは届かないのだ。

 ――防壁を突破するには、もっと魔力を集める必要がある。

 だが、周囲の魔力はわずかだ。基本的に、少女は魔力を生成できない。『存在』を(うしな)った時点で、生物としての機能は失われたのだ。表面的に食事をとることはできるが、それは他者の認識に違和感を発生させないためにするだけだ。誰も見ていない、あるいは少女のことを知っている者の前でなら、そんな、生物として当たり前の行為を怠っても、問題はない。

 栄養補給は必要ない。疲労も睡眠も無縁。その代わり、体内でエネルギー――魔力――を生成することも、少女にはできない。

 だから、少女は周囲の魔力を自分自身の魔力として取り込むことで、魔術を行使できる。より多くの魔力を得るには、大魔力が放たれた直後の場所がもっとも効率的。それがなければ、ひたすら空間をかけずり回るしかない。

 だが、周囲の敵はそれを許してくれない。行動範囲を制限され、もう同じ場所しか動けない。あとは敵が放つ弾丸が散らした残留魔力をかき集めるしかないが、敵も少女の戦闘スタイルを理解したらしく、高出力の魔弾は撃ってこない。

 ……いた…………い…………。

 少女は痛みを感じ続ける。少女の右半身を掠った弾丸から飛び散った金属片が、足首から二の腕までを切り裂いた。周囲の魔力が少なくなって、黒いオートの防護片が防げたのは、初弾のみ。次いで放たれた破片はもろに受けてしまった。綺麗に突き抜けた箇所はしばらくすれば再生するが、金属片が残った箇所はいつまでも治らない。

 左の脇腹には弾丸が命中、破裂した衝撃で腸が一部破れたらしい。しかも、破片が残ったから穴の開いたままだ。

 臓器の損傷は、激痛を伴う。それこそ、失神するほどの壮絶な痛み。

 ……い……た…………ぃ…………。

 それでも、少女は意識を失わない。痛みに耐えているわけではない。むしろ、その逆。その激痛を、少女は余さず感じ続ける。

 ――痛みは、生きている証――――。

 その激痛こそが、少女の存在を証明している。少女がこの世界に存在することを、許してくれる。

 右肩が抉れて、金属片が右腕を傷つける。身体中から血が流れ続ける。普通なら血の流し過ぎで意識を失うところを、しかし少女は立ち続ける。血液なんて、人間(ひと)として観測されているから出てくるだけだ。だから、少女から離れた路上の血はすぐに消滅してしまう。

 血液だけではない。この肉体だって、本当は存在していない。存在を喪った時点で、少女は本来、存在しない。

 ……ぃ…………。

 痛みだけが、少女の存在を支えてくれる。だから、少女は痛みを手放さない。死ぬほどの痛みを受けようと。実際、その痛みのあまりに死んだとしても。

 衝撃が、少女の左目から真後ろに抜けた。その反動に、少女の身体は堪えきれず、転倒する。

 ――ィ――――――――ッ!

 ライフルの弾丸が、少女の左目から左脳、頭蓋骨の一部を吹き飛ばしたのだ。痛覚を処理する脳髄をやられたのだ、普通なら痛みすら感じることのないダメージ。

 ……なのに。

 イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ――――――――――――ッ!

 少女は痛みを感じる。意識も失わない。無くなった左目が、灼けるように痛む。頭部にできた空洞は、ありったけの針を詰め込まれたような激痛。

 イタイ……!

 激痛の中で、少女の右目は周囲の様子を正確に捉え続ける。どうやら、少女は仰向けに倒れたらしい。頭上には、結界に歪められた空。ビルも駅舎も視界には入らず、敵の姿も見えない。だが右耳と、辛うじて繋がっている左耳が敵の存在を教えてくれる。

 ……と。

 歪な夜空に、網が舞っている。魔力を封じる、少女を捕えるための網。


 イ タ イ


 思考など、すでに正常には働かない。しかし、少女の身体に染みついた戦闘経験が、この場でとるべき最善策を、少女に強いる。


「ん?」

 アジールはモニターに映ったある模様に目を移した。それは魔力を感知するモニターだ。現在の表示範囲は、少女を中心とした百メートル四方。映像のほうは駅舎やビル群を含めた広範囲で移しているため、見落としはない。

 ……いま、確かに…………。

 少女の周囲に浮かぶ立方体(キューブ)の数と内包魔力は、ほぼ均一。この数値では、あの砲撃はまず放てない。人形のほうも、防壁に綻びはない。

 アジールはモニターを凝視する。注意深く見つめるその一点。なんの変化もない。だが、視界の端に見えたその異変に、アジールは反射的に視線を動かした。

 ……見間違いでは、ない。

 今度は、モニター全体を俯瞰する。異変は、一箇所だけではないのかもしれない。全体を通して、見極める必要がある。

 と。

 アジールの目は、今度こそその異変を見て取った。少女の武器である立方体(キューブ)は、このモニター上では黄緑色だ。そしてアジールの人形が張る防壁も、黄緑色。あとは概ね青色で、魔力の高低から人の位置関係がはっきりとわかる。

 ――その青の中に、時折、水色が浮かぶ。

 モニター上は、わずかな変化だ。しかし、色に対応する値を考えれば、それは魔術の前兆を示す異変だ。

 その色は、現れては消え、そして別の場所で現れ、消える、を繰り返す。あまりにも微かな変化のため、つい見落としてしまいそうになる。

「なんだ……?」

 だが、アジールは見逃さない。これは、明らかな異変だ。防壁を突破するほどの威力はないからまだ警戒には値しないが、それでも、放置するほど軽率にはなれない。

 ――しかし、アジールは軽率だった。

 この時点で、警戒どころか、対応策を講じるべきだった――。

 地響きだ。と思う間に、それは激しい縦揺れに変わった。

「……っ」

 立っていられない。デスクに手をついても、それはなんの支えにもならない。

「なにが、起こって……!」

 顔を上げたアジールは魔力探知モニターを再び目にして、愕然とした。モニターの中は真っ赤になっていた。もはや、どこに誰がいるのかもわからない。真冬の大地にマグマが溢れ返ったような、そんな異常。

「ばかな…………」

 あり得ない。数秒前にあったのは、ほんの小さな、ぬるま湯ていどの魔力が湧いただけだ。こんな威力の魔力がカニバル兵を呑み込むほどに溢れるなど、あるはずがないのだ。

 だが、アジールはまだ理解していない。モニターに集中するあまり、アジールは己の探知能力を完全に失念していた。

 その大魔力は、モニターの範囲だけではない。路上どころか、駅もビル群も、援護のために待機しているカニバルたちをも呑み込む、超広範囲だということに、ついぞアジールは気づかなかった。

 アジールの足元から光が溢れ出す。それは、ビルの地下に用意した指令室のさらに下から解き放たれようとする、魔力の輝き。

 その光に気づくまでが、アジールに許された最期の行動だった。大魔力は上空の結界擦れ擦れまで一気に駆け上がり、アジールを、人形の防壁を、そしてカニバルたちをも呑み込んだ。


 駅前は、そこが駅前だということを忘れさせるほど、無残に崩れた。中心にあったビルはどれも倒壊し、駅も、表側はすっかりなくなり、裏側がわずかに残っているていど。直径一キロメートルほどが、なにかしらの被害を受けている。

「はぁ……はぁ……」

 少女は地下を歩いていた。どうやら、地下街に落ちたらしい。壁に手をついて、なんとか立って歩いているが、その姿は這っているのに近かった。壁と足元に血の痕がつく。が、少女が二メートルも歩けば、その赤はたちどころにこの世から消える。そうやって、少女はどこにも痕跡を残さず、一軒の店に入っていった。もともとはファッションショップだったらしい。マネキンが倒れ、床の上に衣服が散乱している。

「はぁ………………はぁ………………」

 少女は衣服の中に身体を横たえた。……痛みが酷い。だが、意識は失わずに済んだ。

 手近な布を一枚手にとり、少女は身体に食い込んだ金属片を掻き出す。

「……ぁ……が……!」

 傷に喰い込んでいた破片がさらに肉を切り、少女の身体から取り除かれる。だが、それで取りだせるのはほんのわずかだ。人間(ひと)を傷つけることだけに特化した兵器は、そう簡単に彼女を解放してくれない。

「はぁ………………はぁ………………」

 あまりの激痛に、少しでも気を抜いたら意識を失いそうだ。それでも、睡眠すら知らない少女は、決して意識を奪われない。

 ……もう少しだけ、動いてくださいよ。わたしの、身体。

 腕が、思うように動いてくれない。指先も震えて、布を引っかけているだけだ。

 ――大魔力を放った代償だ。

 あの魔術は、まず構築速度や精度を度外視して、大量に立方体(キューブ)を生成するところから始まる。普通は魔力の吸収が追いつかず、立方体(キューブ)は完成しないまま崩れ去る。だがそこに、さらに立方体(キューブ)を生成し続けたらどうなるか。不完全ながらも魔力を吸収しようとする穴が生まれる。あとは雪だるま式だ。周囲の魔力を片っぱしから呑み込む、いわばブラックホール。その超魔力を、適当な大きさで発火する。粉塵爆発のように、周囲を吹き飛ばす大魔術が発動する。

 だが、その反動で、周囲から一瞬で魔力が枯渇する。今回は少女が中心にいるのもおかまいなしに発動したから、身体を維持する魔力まで奪われてしまった。ただでさえ修復スピードが遅くなるのに、破片の除去も進まない。――身体が元に戻るのに、何日かかることか。

 ……エリザさんは、助けに来ませんよね。

 すぐにでも、魔力のある場所に移動しなければならない。だが、少女の残存魔力では、ここまで来るのがやっとだ。あとは、時間の経過で魔力が流れ込むのを待つしかない。

 ――町が元に戻って、結界が解けたら、少しは変わるのでしょうけれど。

 あの結界は、まだ維持されているだろうか。いまの少女には、それもわからない。しかし、維持されていないと困る。町が戻りきらないうちに結界が解けたら、大惨事として世間に残ってしまう。

 ――そうなったら、エリザさんも動いてくれるのでしょうか。

 だが、そんな期待は良くない。これは、少女の役目だ。最後まで、少女がやりきらなければならない。

 だから、助けは期待しない。自力で回復して、カニバルを殲滅する。この大魔術で、どれくらいのカニバルを倒せただろうか。少しでも傷をつけられれば、カニバルは再生能力を封じられる。魔人なら、人としての痛みを覚えているはずだ。簡単には動けなくなる。

「……ああ…………。痛い、です…………」

 金属片が肉にくい込む痛み。破れた腹部から血が流れるたびに、脈打つように痛む。

 早く、金属片を掻き出してしまわないといけないのに。いっそのこと、自分の身体を吹き飛ばしたほうが、早いのかもしれない。だが、そんな荒技をする魔力すら、周囲にはない。

「痛い……のに…………動け……ない…………」

 なんて、無様。こんな失態は、これが初めてだ。追い詰められて、自爆して、残存している敵を殲滅しなければならないのに、動けない。

「……アハ…………アハハハハハハ……………………」

 力のない、乾いた笑みが零れる。このていどで『フェイト』に辿りつけるのだろうか。相手は神人だ。魔人の原型(オリジナル)。一部の例外を除けば、基本的に神人のほうが魔人よりも遥かに強い。何十、百人が束になっても、彼らには敵わない。教会が四部隊を集結して、ようやく一体を倒したという記録がある。

 ――わたし独りで、倒せるのでしょうか……?

 そもそも、到達できるかも怪しい。まずは幻影城を見つけなければならないが、その方法を少女は知らない。教会の秘術をもってきたほうが早いのだろうが、そんな許可を、教会が少女に出すはずもない。

 あくまで、少女は兵器なのだ。教会が殲滅すべしと判断したカニバルを掃討するための、破壊兵器。自律行動と自動修復が可能な、他よりも少し優れているだけの、危ない玩具。

 ――わたしは、独り。

 ガラ、と音がして、少女は懸命に視線を動かした。明かりの落ちた地下の中で、(ボウ)()(とも)る。少女は、灯かりなんて用意していない。……だから、誰かがこの空洞に入ってきたということ。

 一瞬、それが人なのか、少女には判別できなかった。丸いそれは、巨大なおまんじゅうに見えた。だが、明かりを持つのが手で、その上には顔らしい形が見えて、ようやく人なのだと納得できた。背丈は百八十センチメートルくらいだろうか、背の高いほうだとは思う。だが、それ以上に横幅が異常だ。背丈と同じだけの幅があるせいで、丸い壁のように見えてしまう。

 明かりで照らし出された部屋の中から少女を目にして、そのカニバルは竦み上がったように、体格の割には小さな顔が凍りついていた。身体全体をガクガクと震わせていたが、見ている少女からすると、怖いというよりも愛嬌があって可愛らしかった。

 悲鳴を上げ、いまにも逃げ出そうとしていたカニバルは、ようやく少女が動かないことに気づいたらしい。明かりを掲げて、じっと少女の様子を窺う。当然、少女は動かない。恐る恐る、数歩近づいて見て、今度こそ少女が動かないと確信が持てたのか、カニバルは小躍りせんばかりに少女に駆け寄った。その体格だから、走るというよりも飛び跳ねているようで、場違いとは思いつつ、少女はおかしくなった。

「おまえ、動けないモ?動けないモ?」

 そのカニバルは拙い言葉で少女に訊ねる。動けない少女は首を動かすことも、口を動かすこともしない。その微動だにしない、しかし呼吸と瞬きの動きを目にして、カニバルはその小さな顔いっぱいに喜色を浮かべる。

「お、おまえのせいで、おデたちひどい目に遭ったモ。どうしてやるかモ?」

 ニタニタと笑ったまま、その巨漢は少女に覆い被さる。カニバルは少女の両手を掴んで、床のほうへと引きずりおろす。遠慮なく体重をかけられているから、金属片とは違う、圧迫されるような痛みが、二の腕にかかる。

「お、おまえ、不死身かモ?」

 このカニバルが無事なのは、きっと前衛にはいなかったせいだ。それでも彼が少女のことを知っているということは、各人への連絡はちゃんと行われていたということだ。

 それでも、生で見るのは初めてのこと。カニバルは舌なめずりをして少女を見下ろす。

「ふ、不死身の肉は、上手いかモ?」

 彼らカニバルにとって、人喰衝動は性欲を上回る。生きたままかぶりつくのは、凌辱以上の興奮だ。

 息を荒げ、唾液を撒き散らすのもかまわず、巨漢は少女との距離を縮めていく。前傾姿勢で、顔が、口が、少女の顔に近づいてくる。

 ――ああ。

 抵抗できない少女は、これ以上見ていられなくなって目を閉じた。長い戦いの中で、少女自身が喰われたことはない。きっと、腸が破れるのと同じくらい、痛いのだろう。

 喰われる――痛い――元に戻る――痛い――喰われる――痛い――元に戻る――痛い――喰われる――痛い――元に戻る――痛い――喰われる――痛い――元に戻る――痛い――喰われる――痛い――元に戻る――痛い――喰われる――痛い――元に戻る――痛い――。

 何度も、目の前のカニバルが満足するまで、それは続く。全身くまなく食べられれば、金属片もとれるだろうか。そうすれば、少女の身体は完璧に元に戻る。

 ……なら、全部食べてほしい。

 死ぬほどの痛み。そんなものは、何度も経験してきた。決して慣れない。しかし、感じ方と耐え方は、身体が覚えている。過去の記憶は忘れても、この痛みだけは決して消えない。

 ――助けは、こない。

 受け入れようと、少女は抵抗する気もなかった。顔に、カニバルの熱い吐息がかかる。そのまま、唾液に濡れた歯が触れるのを待つばかり。

 だが、少女に衝撃はこなかった。代わりに、ゴン、という鈍い衝撃音。まるで、鉄パイプで後頭部を殴りつけたような、そんな重み。

 悲鳴が聞こえた。「ガァ……ッ」という、気絶寸前の(うめ)きに似た悲鳴。ふっ、と少女の上から重みが消える。顔に吹き付けられていた熱も、もう感じない。

「…………」

 不思議に思って、少女は目を開けた。カニバルはすぐ傍に明かりを置いたらしい。そのせいで、彼の顔がはっきりと、少女の()には映った。

「――――――――」

 声が、出なかった。たぶん、力が入らないから、だけではない。その想像していなかった相手は、しかし彼女の心中(なか)でもっとも強く残っているその人は、確かに少女の前に立っていた。

 どれくらい、彼を見上げていただろうか。彼の荒い息遣い、肩で息をして、手には鉄パイプが握られている。

 一分も経って、ようやく少女は声を出せた。

「響、彩くん――――」

 少女のか細い声を聞いて、彩は目を見開いて、そのまま膝から崩れ落ちた。地面に両手をついて、余計に息が上がっている。顔は見えなかったが、よかった、と絞り出すように呟く彩の声だけは、少女にも聞こえた。

「ぁ――――」

 彩が顔を上げるのと同時に、視界の端で黒い影が起き上がるのを、少女は見た。

「ひび、き……!」

 それだけ絞り出すのが、少女の限界だった。だが、彩は少女の表情から、その危機を即座に察した。

 彩が振り向いて両手を前に出すと同時に、巨漢のカニバルが彩に覆い被さる。いや、それは突進に近い。細身の彩はあっさりと瓦礫だらけの床の上に倒されてしまう。

「くっ……!」

「イタイ!イタイモォ!」

 カニバルが喚き散らす。痛みに逆上して、先ほどまでのなよなよしさは嘘のように消えている。獲物を眼前に捉えたイノシシのよう。

「……こぉ、のォ!」

 彩も無抵抗にはやられない。ギリギリと押し潰されそうになる、寸前、巨漢の股間めがけて、めいっぱい蹴り上げる。ピギィ!なんて悲鳴を漏らして、巨漢は彩の身体から離れて悶絶する。

 彩は肩で息をしながら身体を起こし、叫びながら巨漢を殴り始める。容赦のない、一方的な攻撃。巨漢は防ぐこともできず、許して許して、とか細い声を出すばかり。

 だが、彩は許さない。肉の塊みたいな男の首を腕で抱えて、ロックしたまま自分の身体を、思いきり後ろに落とす。最後の悲鳴を上げて、巨漢はようやく気絶した。

 彩は手近に転がっていた頑丈そうな衣服を手にとって、巨漢の両足と両腕を、それぞれ後ろ側で縛る。カニバルの力ではどれほど()つのか不明だが、多少の時間稼ぎにはなるだろう。

 彩は、再び少女の前にやってきた。普段、表情を見せない彼には珍しく、痛みに耐えるような、辛そうな色をしていることに、少女は気づいた。

「……夢々先輩」

 少女の名を、彩は口にする。もう、この世で彩しか、その名前を呼ぶことができない。その悲痛に耐えるように、彩は奥歯を噛む。

「どうすれば夢々先輩を助けられるのか、俺に教えてくれ」

 少女は面食らってしまった。最初、彩がなにを言っているのか、まるで理解できなかった。

 しかし……。

 ……ああ。

 と、それに思い到る。

 少女が一瞬で身体を元に戻しているのを、彩は見たことがあったのだ。瞬き一つで、少女は元に戻る。そのはずが、いまは巨漢とやり合った後でさえ、少女の傷は塞がらない。

 ――身体に、金属片が刺さっているから…………。

 だが、それを言ってどうなる?どれくらい破片が残っているのか、少女にはわからない。腹部も裂けたままだから、そこも掻き出さなければならない。破けた腸に手を入れさせるなんて、そんな残酷な真似、彼にさせられない。

 ――いや、それ以上に…………。

 思考もうまく働かないのに、少女はそれを口に出す。

「……どう、して…………」

 どうして、彼は戻ってきたのだろう。折角、帰っていったというのに。これでようやく、日常に戻れるというのに。

 結界の中にまで入って、カニバルたちの目を盗んで、どうして彼女を見つけてしまったのだろう。

 少女の問いに、しかし彩は答えなかった。まるで、自分の質問に答えるまでは動かない、とばかりに。

 少女は途方に暮れてしまう。だが、当惑していられるほど、周囲は甘くない。

 微かだが、音が聞こえる。遠く、足音か、人の話し声か。地下道だから、壁に反響して聞こえてくるのだろう。だから、まだそんなに近くではないはずだ。だが、安心はできない。大人数でしらみつぶしに探されたら、こんな場所、一発で見つかってしまう。

「……っ」

 当然、彩も敵の気配に気づく。どれほどの葛藤があっただろうか、だが彩はすぐに決断を下し、それを実行に移す。

「夢々先輩。少し耐えてくれ」

 彩は少女を抱え上げ、そのまま崩れた店内を出た。カニバルたちは、まだ近くにいない。音がするのとは逆の方向に、彩はできるだけ足音を殺して走り出した。


 もう、どれくらい走り続けただろうか。十分か、二十分か、あるいは、もう一時間以上も逃げ続けているのか。

 あれだけの崩落があったにも関わらず、敵はいまだに健在だ。あの光の柱が見えた場所にいたカニバルは、おそらく無事ではないだろう。だが、その外側にいたカニバルは、建物の倒壊に呑み込まれたものの、まだ動けている。彩は何度も敵の足音や声を聞き、そのたびに方向転換を余儀なくされた。

 道を進んでもかわしきれないと、彩は店の中に入り、抜け出せそうな場所を探す。崩落によって、裏口にもすんなりと抜けられる。また、地下と地上の境が曖昧になったおかげで、見た目は危ないが、新しい道もできた。彩は、そんな道なき道を敢えて進み、敵の包囲網を潜り抜けようと試みる。

 だが、それもいずれ限界が来る。

「くそっ」

 彩は小さく悪態を()く。さっきから、敵の気配を見つける間隔が短くなっている。彩は焦る。なんだか、結界の中心に走らされている気がする。彩の記録力のおかげで方向は見失っていないが、そのせいで、出口から遠ざかっていることにも、彩は気づいている。

 まだ遠くにいるはずの敵の、しかしはっきりとした叫び声に、彩は内心の焦りが頂点に達する。

「あっちだ!間違いない、向こうに行った!」

 ついに、敵に自分たちの位置が捕捉されてしまった。人喰種(カニバル)だから、人の匂いに敏感なのか。迷いのない足取りは、確かに彩たちのもとへ向かっている。

「響…………彩……くん…………」

 下から、夢々先輩のか細い声が聞こえる。どうした、と走りながらも彩は彼女のほうに視線を落とす。

 夢々先輩の顔色は、いつもと変わらない。だが、彼女の身体中、特に、腹部から溢れる血が、そんな当たり前を吹き飛ばす。彼女が感じる痛みを、彩は想像でしか察してあげられない。

 口を動かすのも億劫なのに、夢々先輩はそれでも、自分の想いを彩に伝える。

「わたしを……捨てて…………逃げて……ください…………」

 彩は奥歯を噛みたいのを、なんとか堪えた。まだ、自分は走れている。だから、正面に視線を戻して応えてやる。

「しないよ。そんなこと」

 お願い、という声が聞こえた。

「先輩のお願いでも、それはきけない」

 どうして、と掠れて消えてしまいそうな、また声。

 ――どうして、って?

 決まってるだろ――。


「夢々先輩を、助けたいからだよ……!」


 ずっと彼女を見てきた彩だから、それを形にできる。あとは、踏み出すだけ。そのまま、前に進むだけ。

 ――彼女を、離さない。

 夢々先輩を抱いたまま、彩は走り続ける。

「俺は、夢々先輩が傷つくのを、もう見たくない」

 何百、何千と繰り返してきた、死ぬほどの痛み。その地獄を終わらせると、彩は誓う。

「カニバルだろうと、教会だろうと、夢々先輩を傷つけるやつは、俺が許さない」

 このカニバルたちの群れを、絶対に抜け出してやる。教会に追われたって、逃げ伸びてみせる。

「夢々先輩がフェイトを諦めきれない、っていうなら、俺が引きずり出してやるよ。でも…………」

 人殺しに加担したくない、という彩の気持ちは、いまでも変わらない。それでもその名を口に出すのは、夢々先輩のことを信じているからだ。――彼女なら、絶対に彩の想いをわかってくれる、と。

 だから、彩は叫ぶ。

「夢々先輩がこれ以上傷つくのは、俺が許さない!」

 走り続けた。敵の足音が聞こえるたびに方向を変えて、敵のいないところをみつけては、その場所を駆け抜ける。

 彩自身の呼吸音が、やけに耳につく。鼓動の音も、もしかしたら聞こえてきそうだ。

 だが、彩は感覚しない。それは、彼女の重さや温もりを感じるようなものだから。壊れモノを扱うように、彩は感覚しない。

 彩の耳に、不意に彼女の声が届く。

「…………むちゃ…………くちゃ…………です…………」

 そうかもな、と彩は前を向いたまま走り続ける。

「勝手な……こと……ばかり……」

 そうだな、と彩は瓦礫の上を飛び越える。

「わたしの……決意を……無視、して……」

 絞り出すような、悲痛な叫び。その痛みは、感覚しない彩でも識っている。

 そうだよ、と(うそぶ)き、でも、と彩は瓦礫を階段のように駆け上がりながら、腕の中の彼女に叫び返す。

「夢々先輩を助けられるなら、俺は夢々先輩の決意だって踏みにじってやる!」

 考えて、考えて、考え抜いた果てに、彩が思いついたのは、こんな荒っぽい方法。どうあっても彼女を説得できないというなら、新しい意味を、彼女に押しつける。それで彼女が救えるなら、どんなに罵倒されたって、恨まれたって、彩はかまわない。

「もう、教会なんてやめちまえ!フェイトのことなんて、諦めろ!」

 もう、危険に身を曝さないでほしい。戦いなんてやめて、彩の傍にいてほしい。また学校で、一緒に昼食を食べていてほしい。

 彩は強く彼女を抱く。感覚できないのが、もどかしい。痛みを識ったのに、それをもう一度、彼女と共有することもできない。

 それでも――。

「そんなものがなくたって、夢々先輩は、ちゃんとここにいる」

 彩は、断言できる。痛みなんてなくても彼女は生きていると、彩だからこそ、口にすることができる。

 彼女からは、返事がない。ちゃんと、彩の想いは伝わっただろうか。だが、それを確認する猶予など与えられない。

 ……カニバルたちの足音が、どんなに走っても、もう振りきれない。

 完全に取り囲まれてしまった。少しでも時間を稼ごうと彩は走ったが、やがて巨大な壁にその足を止められてしまう。倒壊したビルが、六車線もある道を完全に塞いでいる。

 彩は舌打ちする。どんなに首を振っても、抜け道一つ見つけられない。足掻いて横たわったビルに沿って走ったとしても、その先からも足音が聞こえてくるから意味がない。

 必死な彩を、彼女は彼の腕の中から見上げていた。自分を助けようとしているのは、ひしひしと伝わってくる。しかし、彩の焦燥は、彼女には遠かった。

 ――フェイトのことなんて、本当はどうでもいいんですよ。

 自分が無くなったときのことなんて、もう彼女は覚えていない。自分が喰われたというのも、教会でそう教えられたことだ。

 ……実感が、ない。

 そんなあやふやなものを憎悪するほど、彼女は子どもでない。ただ、カニバルが人類の敵だという教会の教えは、理解できた。自分のような人が少しでもいなくなればと、教会のもとで戦うことを選んだ。

 ――そこしか居場所がなかった、というのが正しいでしょうか。

 でも、いまは違う。彼だけは、自分のことを忘れない。いつまでも、覚えていてくれる。

 ――それだけで、わたしは満足です。

 存在が無い存在なんて、間違っている。この身は遠い昔に喰い尽くされて、抜け殻だけが彷徨い歩いている。

 ――だから。

 世界を、正しい姿に還しましょう――。 

 ごめんなさい。あなたの気持を裏切るようなことになってしまって。でも、いまのあなたを助けるには、こうするしかないんです。いまのわたしにできる、精一杯の悪足掻き。

「――――ありがとうございます。響彩くん」

 彼女の声に気づいて視線を落とした彼に、彼女は彼の首を両腕で抱きしめた。

 目を閉じて、なんて言っても、きっと彼は言うことをきいてくれないでしょう。だから、わたしから消えます。痛みを忘れる――。それが、存在を戻すための条件(あいず)


 ――――わたしを、見つけてくれて。


 彩は、自分の腕の中から温もりが消えたことを識った。感覚したのではない。響彩の直感が、それを教えてくれる。

 自分の手を、目の前にかざしてみる。見えるのは、両手を覆う白い手袋、それだけだ。握れば、その汚れ一つない指が(くう)を掴むだけ。

 ……なにも無かったかのように。

「――――――――ッ」

 彩は叫び声を呑み込んだ。この歪な(そら)に向けて、本当は叫びたくて仕方がなかった。なのに、周囲はそんな余裕を、彩に与えてくれない。

「やっと見つけたぞ、人間」

 周囲を取り囲む人喰種(カニバル)の群れ。十、二十……。さらに数は増え続ける。カニバルの呼び声に、次々と仲間が集まってくる。

「てめえか?俺たちを罠にはめた教会の人間は?」

 銃を手にしたカニバルが、彩の周囲三十メートルを取り囲む。警戒するようにそれ以上はまだ近づかないが、彼らは自分たちが圧倒的に有利だということを知っている。

「なんか違くねぇか?教会のやつはみんな、黒いローブを着てるんだろう」

 ほとんどのカニバルは、まだ銃もかまえていない。一人だけの彩を横目に、仲間と会話をする余裕がある。

「一般人のフリをしてるのか?それとも、教会の連中に囮として使われたのか?」

 銃口を彩に向けて鋭い視線を向けてくる者も、少数だがいる。だが、大多数はそんな生真面目なやつらを小馬鹿にするように、下卑た笑みを浮かべる。

「どっちでもいいや。俺たちのことを知られたんだ。――喰ったほうが、世界のためだろう?」

 いままで彼らを無視していた彩も、その台詞には笑ってしまう。もともと人間だったくせに。強者になった途端、弱者を蔑ろにする。――嗤わずにはいられないほどの、ゲスだ。

「――――ああ。確かに、どっちでもいいな」

 歪な空を見上げていた視線を、彩は地上の人喰種(カニバル)たちに向ける。足を止めているのは五十人くらいで、まだ後ろから続々とやってくる。手にした銃をちゃんとかまえているのは、誰もいない。あるいは、カニバルの体力なら、かまえなくても撃った反動に耐えられるのか。

 つい、冷静に分析してしまうが、彩はそんな情報、使うつもりはない。闇に慣れた眼では、相手の視線も銃口の向きも、全て把握できる。一度全てを把握すれば、あとは動いたモノだけ補正していけばいい。――――記録力だけではない、いまの集中力(テンション)なら、このていどの空間把握くらい、即座に処理できる。

「かかってこいよ。いまなら、てめえらの相手をしてやる――――」

 手招きする彩に、カニバルたちは呆然と固まってしまう。だが、それも五秒ほどのこと。周囲からはどっと笑い声が起こる。銃口を向けていた者でさえ、つられるように失笑する。

 彩は氷のように冷めた眼で正面を向いている。首を動かさなくても、これだけ距離が離れていれば、全てを視界に収めることができる。耳も意識しているから、視界に入らない気配があったって、彩は反応できる。

 一頻(ひとしき)り笑い声が引いて、しかしカニバルたちはニヤニヤ笑ったままだ。どうやら、ここにいるカニバルたちは全員、彩とまともにやり合う気がなくなったらしい。

 前の集団から五人、五メートルだけ彩に近づく。ハンドガンでも、十分に当たる距離だ。ちゃんとかまえる者もいれば、緩く手を上げるだけの者もいる。いわば、射的だ。誰が最初に当てられるか、競おうというのだ。

 集団に残った一人が、銃口を空へと向ける。彼が、発射の合図を告げるらしい。一言も口を利かないのに、見事に意思の疎通がとれている。

 あいかわらず、彩はかまえない。だが、身体はすぐに反応できるようにしている。先発隊のわずかな軌道修正を、彩は記録に追記して次の行動の指針にする。

 パァーン!という乾いた音が、(そら)に向かって(はし)る。その銃声を合図に、五つの銃口から一斉に魔力を帯びた弾丸が放たれた。

 彩は地面を蹴ってすぐに射線上から外れる。右端の弾丸は胸よりも上、顎のラインを狙っていたので、彩は姿勢を低くして右に突っ込んだ。彩の背後で轟音が上がる。きっと、背後の壁は砲丸でも受けたように凹んでいるだろう。だが、彩は振り返らない。そのまま前に前進する…………。

 地面を蹴る寸前まで、彩はそのつもりだった。だが、自分の耳に飛び込んできたその情報に、彩は三メートル跳んだだけで止まる。彩は少しも間違えることなく、その銀の風を()た。

 灯の墜ちた闇の中で、(アカ)が舞った。それは火柱のように、味気ない闇を鮮やかに彩る。

 彩を狙った五人と、合図役を務めた一人のカニバルが、銀の獣に喰われていた。剣と鎧を組み合わせたような、狐を思わせる美しい獣。それが、各カニバルに一体ずつ。獣たちは一心不乱に、人類の敵(カニバル)を貪り喰う。

「粋がるじゃないか」

 彩の前に、黒いローブを身につけたエリザが降り立つ。空から降ってきたというのに、平然と地面に着地して、背後の彩に視線だけ向ける。

「こいつらは、あたしの獲物だよ」

 カニバルの何人かは、エリザの出現に気づいたようだ。しかし、銀の狐は次々と手近なカニバルに襲いかかるため、ほとんど恐慌状態だ。

 そんなパニックの中で、銀の狐たちから離れ、比較的冷静だったカニバルがエリザに銃口を向けた。わずかな補正だけで、銃口は正確にエリザの胸に狙いを合わせたことに、彩は――そして、狙われたエリザ自身も――気づく。

 そのカニバルの決断は早かった。補正からコンマ数秒のうちに、引き金を引く。見事に衝撃を流し、ブレ一つ起こさない。狙いは精確で、一秒もかからずエリザの胸部に吸い込まれる。

 だが、その魔弾は届かない。なんの予備動作もなく、エリザと、彩を囲むように、風のような結界が現れた。視界に入ったのは、弾丸を弾く一瞬だけ。どうやら、敵の攻撃に反応して構築されるタイプらしい。

 弾丸を放ったカニバルは、その鉄壁さに驚愕を隠し切れない。……動揺のあまり、彼は直上の危機に最期まで気づかなかった。

 新たな獣が、そのカニバルを頭から、腰の辺りまで一口に喰らいつく。肉と骨、内臓まで砕かれる嫌な音。その一撃で、カニバルの生存は絶望的だ。

 銀の狐たちがエリザの武器だということに、彩は当然気づいている。教会が扱うのは法術と呼ばれ、カニバルの再生能力を阻害する。頭から、主要器官を喰われれば、カニバルでさえも絶命する。

「そうそう。早死にしたいやつは、さっさと名乗りでな!」

 エリザが叫ぶと同時に、(そら)からさらに三体の獣がカニバルの群れに躍りかかる。計九体の銀が、カニバルたちを次々と呑み込んでいく。辺りに満ちるのは、悲鳴と怒号と、銃声と血飛沫ばかり。


 その後は、一方的な殺戮だった。ものの二十分で、百人近いカニバルが呆気なく喰い尽くされてしまった。

 時間がかかったのは、その後の修復作業のほうだ。どういうカラクリかは知らないが、エリザはカニバルが張った結界を掌握し、獣たちが呑み込んだカニバルや魔改造された銃器から抽出した魔力を結界に流し込むことで、固定された結界内の空間を巻き戻していった。構成情報は残っているから、そこに戻すための魔力さえあれば元通りになるのだとか。派手に壊されたが、取り込んだ魔力も膨大だから、修復の上に補強をかけられる余裕があるらしい。外見は三十分で元に戻り、柱や細部の再構成、さらに補強などで、さらに一時間が経過した。

「よし、終わりだ」

 エリザが宣言した直後、結界内に散らばっていた銀の狐たちが戻ってくる。狐たちは役目を終えたように姿を消す。その光がエリザの首元に集まって、それは牙か爪を模したシルバーのアクセサリーに変わった。

 そのタイミングを見計らっていたように、ミルヒが姿を現した。エリザと彩がいる場所から十メートル離れた位置で止まり、左右に首を傾ける。

「終わった?終わった?」

「ああ。終わったよ」

「この後、どうする?どうする?」

 拍子をとるように、首を左右に揺らすミルヒ。そうだなぁ、と呟きながら、自然な流れのようにエリザは彩のほうへ振り返る。修復中は目も合わせなかったのに。なにをやっているのか、訊けば答えてくれたが、口調の節々に「話しかけるな」という拒絶の意思がありありと見えていた。

 特段、彩は驚きもしない。むしろ、ようやくかという、冷めた自分を自覚する。エリザの眼に、鋭さはない。道を歩いていたら偶然、知人とすれ違ったような、そんな気安さ。

 ミルヒ、とエリザは振り返りもせずに少女の名を呼んだ。

「教会に報告しておいてくれ。ザラマ・シュレルド配下のカニバルを殲滅した。これより、次の任務に移ると。あと、移動の準備をしているやつらに、これから向かう旨もな」

「エリザは?」

「――――あたしは、まだ結界が残っているうちに、やっておきたいことがある」

 そう告げたエリザは、じっと彩を見つめた視線を逸らさない。口調も、視線も、変わらず穏やかだ。だが、彩は彼女の瞳の奥に潜む影を意識せずにはいられない。

 ミルヒのほうもエリザの意図を察したのか「わかった」とあっさり頷き、結界の外に向かって走っていった。結界の中からは、外へ連絡をとることができないのだ。……つまり、この瞬間、ここにはエリザと彩の二人しかいない。

「まったく……。おまえは本当にいい引きをするな。響彩」

 怪訝と見返す彩に、エリザは心底呆れたように肩を落とす。

「二度もカニバルに目をつけられたことだよ。本当なら、あたしが速攻で片づけなきゃいけなかったのに」

 どうも、エリザの中では彩は偶々、カニバルたちに襲われたことになっているらしい。さらに、今回のカニバルたちのように、レイル・ボフマンもエリザが掃討したことになっているようだ。

 ――記憶の改変だ。

 各自にとって都合のいいように、記憶が再構築されている。当の本人は、なんの違和感も抱かないままに。

「…………」

 彩は、なにも返さない。それが、エリザの望んだ結末だ。彩がなにを言ったって、彼女には理解できない。

「今度こそ、あたしの仕事も終わりだ。カニバルも掃討し尽くしたから、当分、おまえが関わるようなことはない」

 順当にいけば二度とないだろうがな、とエリザは皮肉っぽく笑う。

 そうか、と彩は頷く。

「じゃあ、あんたたちはもうこの町を出るんだな」

「ああ。次の任務があるからな。……と。何度も言うが、あたしらのことは他言するなよ。おまえのおかげでカニバル退治もスムーズにいったから、今回は特別に忘却しないでおいてやるがな。次はないぞ。永遠にあたしらの記憶を失くすか、いまの生活に別れを告げるか、どちらかにしてもらうからな」

 わかってる、と彩はあっさり頷く。

 よし、とエリザは口元を緩めて、この場を去ろうと彩に背を向ける。すぐに行ってしまうはずが、しかしエリザはなかなか動かない。背中しか見えないのでわからないが、なにかを迷っているような、そんな逡巡がある。

「なあ――――――」

 背を向けたまま、エリザは空を見上げる。


「――――ここに、あたしら以外に誰かいなかったか?」


 エリザは、決して振り返らない。宙を見上げたまま、そこにありもしない誰かの姿を追い求めるように……。

「すぐ駆けつけたはずなのに、ずっとここを視ていた気がするんだよ。結界があって、カニバルどもがおまえを追いかけ回している。……それを、あたしはずっと見ていた」

 カニバルたちが張った結界を見つけて、教会の人間であるエリザはすぐに駆けつけた。結界内(なか)はすでにメチャクチャで、一般人である彩がカニバルたちに追い回されている。

 それが、エリザの望んだ筋書きだ。それならば、彼女は理解できる。なのに…………。

「…………なんだか、誰かがあたしの代わりに戦っていた気がするんだよ」

 その理解を妨げる違和感。そんな記憶はないはずなのに、その幻影がチラついて、離れてくれない。

「…………」

 なんて返したらいいのか、彩は迷った。彩の葛藤も、背を向けたエリザには見えない。十秒もかかって、彩はその決意を口にした。

「でも、ここには俺しかいなかっただろう」

「そうなんだよ……。おまえしかいない。結界内(ここ)には、響彩しかいなかった」

 ガリガリと、エリザは自分の頭に手を突っ込んでかき回す。

 ……覚えていなくてもいい。

 必要なら、彼女は思い出す。彩が無理矢理こじ開けようとしても、(かえ)って混乱させるだけだ。――だから、彩は触れない。

 ああ、と叫んで、エリザは手を離して頭を下げる。大きな溜め息を吐き切って、切り替えるように頭を上げる。やはり、彼女は振り返らない。

「いまのは忘れてくれ。ただの思いつきだ」

 じゃあな、と最後まで彩には一瞥もくれず、エリザは地を蹴った。銀の風が、彼女を空高く運び上げる。現れたとき同様、エリザは呆気なく、彩の前から姿を消した。彼女がこの場から離れたことを合図に、結界も消えてしまった。

「……………………」

 彩は空を見上げた。歪な闇は晴れて、そこにはまっさらな夜空が広がっている。月はない。そういえば、今日は新月だったか。

 ――魔が、死んだ夜。

 彩は、なにも感覚していない。手袋も、つけたままだ。

 なのに、なにも残っていない。衣服も手袋も、綺麗なまま。

 記憶は、全て喪われてしまった。

 だが、記録だけは残っている。彩だけの記録。この世界の誰もが忘れ果てても、響彩はその記録を永遠に抱えて()く。


 ――――ありがとうございます。


 彩は夜空を見上げた。抑えきれないモノが、口から、目から、溢れようとしている。どうして、こんなに呼吸が荒いのだろう。どうして、目の前が霞んでいくのだろう。そんなこと、考えるのも億劫だ。……それ以上の激情が、暴れて止まらない。


 ――――わたしを、見つけてくれて。


 彩の慟哭が、夜の闇に染み込んでいく。誰一人、彼の存在には気づかない。誰一人、彼の悲哀を理解できる者はいない。

 ……でも、(おれ)だけは識っている。

 それこそが、彼女が存在していた記録(あかし)になる。


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