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六章

 明風(めいふう)市国際ホテル客室最上階――地上四十一階――から眺める夜景は、市内でもそうそう見られるものではない。明風市はもともと山を切り開いた都市のため、都心から離れれば、より高みから町を一望もできよう。それこそ、市内で最も高いところに位置する電波塔まで行かずとも、山道の途中からでも、それなりの夜景を眺めることはできる。

 しかし、さすがは駅近くにある国際ホテル、町の明かりにこれほど近くから取り囲まれる様を見られるのは、ここしかない。

「俺みたいな傭兵上がりがホテルのスイートルームを貸し切れる日が来ようとは、世の中ってのはなかなか、面白くできてるものだな」

 スイートルームに相応しい、高級なソファーにゆったりと腰掛けて、レイル・ボフマンは高さ二メートル、幅七メートルのガラスの壁から夜景を見下ろしている。片手でワイングラスを弄んでいるのは、あくまでポーズだ。彼は決して、酒を口にしない。

 別に飲んでも酔ったりしないし、酒の味だってわかる。だが、人喰種(カニバル)となり、人肉(ヒト)の良さを知るようになってからは、人間の食事はできるだけとらないようにしている。人間のパーティに顔を出さなければならないときは仕方なく合わせるが、それ以外、自分からは一切、口にしようとしない。

 ――ワイングラスで血を頂く、ってのは、高貴かねぇ。

 そんな遊び心がふと湧いたが、決して試そうとはしない。もしものことがあってその様を他人(ひと)に見られでもしたら、後の処理が面倒だ。それで彼自身の地位が脅かされることは、まさかないだろうが、いらない火の粉はできるだけ近づけないようにするのが、彼の主義だ。帰りの機内で輸血パックを口にするまでは自重しよう。

 レイルは、自身の人喰種としての限界をよくよく把握している。実直な彼の性格を反映するように、彼の人間(ヒト)に対する興味は、あまりない。あくまで、最低限の衝動を満たせばいいだけで、それ以上の欲求は、できる限り抑えるようにしている。が、あまりにも抑え過ぎると、その後の反動が大きいから、適度な間隔で、適量の摂取を心がけている。

 人肉は、定期的に口にしてはいるが、それも一年に一度、一口ていどの少なさだ。(もっぱ)らは、輸血パックで賄っている。一日二回から三回の食事、合計七百二十ミリリットル、輸血パック三つだ。できれば、余分な保存液が入ったパックではなく、直接人体から飲んだほうが美味なのだが、それでは後処理や人間(ヒト)の管理が面倒になるので、彼は輸血パックしか使わない。

 もちろん、仲間内では圧倒的に直接摂取が好まれ、牧場(ファーム)と呼ばれる施設があり、家畜ドメスティック・アニマルの提供も行われている。だが当然、管理や逃亡などの問題が起きたときの処理、手続きを熟知している者にしか、貸出は行われない。

 レイル・ボフマンの地位なら、必要な研修を受け、正式な許可証さえ発行されれば、十分に活用できる。が、もしもの危険(リスク)を負うほどの甘い誘いかといえば、レイルにとってはそうではない。

 これも、彼の人間の頃からの性格というやつなのだろう。三つ子の魂百までという諺が日本(このくに)にはあるらしいが、彼もあと二カ月ほどすれば、それを体現できてしまう。

 そう、あともう少しで、百年になる。その時間の中で、各国の勢力構造はコロコロと変わっている。いまは落ちついているように見えるが、それは戦争がないからだ。今後も、戦争を起こすのは難しいだろう。もちろん、紛争は依然、各地で起きている。が、例えばそれでアメリカを殴れるか、ロシアを殴れるか、EUを殴れるか、アジアを殴れるか、殴って対等な喧嘩ができるか、というと、それはノーだろう。

 第一次、第二次のように、戦争は世界中を巻き込んだものでなければならない。戦わせ、競わせ、互いの技術力を結集し、研鑽し、それでようやく技術革新は起こる。そうすれば、原爆を超える兵器が生まれるだろう。その恩恵として、原発を超えるエネルギーを人類は手に入れられる。

 ――革新は闘争によって生まれる。

 ――闘争なき革新はあり得ない。

 一頻(ひとしき)りワイングラスを弄んでから、レイルはグラスをテーブルの上に戻し、ソファーに深く腰かけなおす。

 ……だが、いまの世界ではダメだ。

 平和、対話、協調……。そんな嘘寒い防衛線を張って、亀みたいな足で進んでいる。いや、ナメクジみたいな腹這いか。とにかく鈍い。革新なんて起きるわけがない。

 ……日本(このくに)は特に。

 今回レイルが日本を訪れたのも、自衛隊法改正に伴ってのことだ。武器使用基準が緩和され、厳しい条件はあるが、日本以外で武器を使用できる幅が広がった。

 武器を使用する確率が上がる――。つまり、武器商人(レイル)たちの出番だ。

 一応、客に合わせて商品を選りすぐった。無人偵察機や催涙ガスをメインに据えた。レイルとしては破壊力・殺傷力ともに抜群の一級品を推したかったが、商売のためにそこはぐっと堪えた。

 だが、自衛隊(あちら)の反応は微妙だった。商品を紹介するたびにリアクションはとってくれるが、あくまで合わせただけだ。こちらの手をとろうなんて気持ちは、最初からなかった。こちらのエリート傭兵部隊も紹介しようとしたが、必要ないと打ち切られてしまった。

 代わりとして、この一週間、日本(このくに)自衛隊(ぐんたい)に客人としてもてなされていた。模擬演習や可能な範囲で設備を見学させてもらえたのだから、破格の待遇と言えるだろう。しかし、レイル(こちら)は商売に来たのだ。外交官なら歓待だけでも、対談できればいいのかもしれないが、商人(ビジネスマン)は契約をとってこなければ意味がない。

 だが、まあ、と。レイルは思考を切り替える。

 嫌な顔をされたわけではない。歓待も、全く心にもないこと、というわけでもなさそうだ。こちらの立場は重々承知していて、顔合わせには応じてくれると、そういうわけだ。

 ここまで漕ぎつけるのにどれだけの時間と労力が割かれたのかと思うと、それほど落胆する必要はないのかもしれない。そういう下準備や根回しはレイルの担当ではないから、実際のところは知らないが。

 だから、レイルは今回の感触を率直に報告すればいい。あとは、あの人が時期を決めてくれるだろう。武器をご購入いただく、だけでは済ませない。我ら一押しの傭兵部隊(ぐんたい)をご利用いただかなくては。

 ――その点に関しては、アメリカの決定は早かった。

 さすが、最先端を行く国だ。法律でももたもたしない。迷う暇があるなら動け。判断は脊髄がくだせ。

 アメリカ(そこ)がサインしてくれているのだ、周りと足並みを揃えたがる日本にその事実を教えてやったら、それこそ迷わないだろうに。だが、それを伝えるのはレイルの役目ではない。まだ勝負をしかけるときではないとあの人が判断したから、こうしてレイルは日本(ここ)にいる。

 レイルはベッド横の時計に目を向ける。零時五分、ようやく日付が変わったようだ。だが、飛行機が飛ぶにはまだ時間がある。それまで、こうして時間を潰す必要がある。

 カニバルになって睡眠が不要になったメリットは大きいが、デメリットは時間潰しの理由にできないことだ。食事ほどの衝動はないため、身体(からだ)が変わったばかりは睡眠もどきを強行することもできた。が、不要の生活に慣れてしまったいまでは、到底無理だ。

 さて、とレイルは視線をガラスの壁に戻す。今度は、なにを考えて時間を潰そうか。この町の風景についてなにか意見でも出してみようか。陽の光の下では活動できないので、見学は夜中がメインだった。日中は説明や映像、地下施設などでほとんど予定は埋まっていた。こうして夜景を楽しむのも、なるほど、今晩が初めてなのか。

 では、折角の余暇だ、この光景を楽しもう。深い格子状の闇に光が浮いている。顕微鏡で眺めた微生物ように、透き通る格子が檻を形作っている。その箱庭の内側で、まるでフィルムに()きつけられたみたいに、光がピン止めされている。ガラスに張り付けられたように近く、手を伸ばせば届きそう。だが、きっとそれは届かない。空気ではなく、水を間に挟んでいるようなものだ。近くに浮き上がってみるが、実際には遠い。

 その違和に気づき、レイルが背筋を伸ばした、とき――――。

 ――――幅七メートルのガラスが一斉に砕け散り、無数の光が部屋の中へと乱入してきた。


 爆竹でも鳴らしたみたいに、派手な音を立ててガラスの壁が砕け散る。最上階のスイートルームに光の弾丸が雪崩れ込んでいく様を、少女はぼんやりと見下ろしている。いや、無表情なだけで、実際にはじっと、視線を固定している。その少女の瞳に映るのは、巨大なガラス板が砕け散る様子。そしてその破片が宙空に留まる様。いや、ただ留まるだけではない。破片は時計を巻き戻すように元の場所へ(かえ)ろうとする。が、絶えまない光の猛威だ、さらに細かく砕けて飛び散り、また宙空に静止する。そして巻き戻ろうとする、その繰り返し。

 光がスイートルームを襲う様を平然と眺める少女は、(そら)にいた。これは比喩でもなんでもなく、彼女はスイートルームの天井から五メートルの高さ、そしてホテルから十メートル離れた地点に浮いている。よく見れば、少女の足元には一辺二十センチメートルの立方体(キューブ)があるが、それもどういう原理か、宙に浮いている。

 と。

 少女は右足で空を踏んだ。重力に引かれて彼女の身体は落ちて、一秒も()たずに足場にしていた立方体のすぐ横を頭が通り過ぎる。まるで光の嵐の中に飛び込むような無防備さ、しかし、光は包み込むように、少女に道を開ける。

 ……と。

 少女は(そら)に着地する。彼女の足元には、同じ立方体(キューブ)が配置されていた。衝撃を殺すように膝を曲げ、逆にバネのように立方体(キューブ)を蹴り飛ばす。反動で、少女の身体は前に出る。ガラスが砕けて口を開けている、スイートルームへ。

 立方体(キューブ)に着地した瞬間から部屋に侵入するまで、少女は隅々まで状況を観察していた。その間、わずか三秒。だが、少女が次の行動をとるには、十分すぎる時間。

 ――障壁。

 押し倒されたソファーの後ろ、一メートルほどの距離に黒い壁がある。幅二メートル、高さ一.五メートルといったところか。穴だらけのソファーに対して、壁のほうには傷一つついていない。

 ……少女にはわかる。

 あれは、魔力を編み込んだ盾だ……。

 物理攻撃に対しても、魔術にも耐え得る盾。こんな銃弾クラスの威力ではびくともしない。

 次の手段に移るべきと、少女が後方に指示を送ろうとした、直前。彼女はその気配に気づいて真横を振り返った。

 迷彩の掛け布を剥がしたように、ソファーの上から天井五十センチメートル手前まで、入口から砕けたガラスまで、一斉に銃器が並ぶ。マシンガンやショットガンが一列八挺、それが三列、銃口を少女に向けて居並ぶ様は、実に悪夢的だ。

 ――どうしましょう?

 葛藤は刹那だった。

 整然と並ぶマシンガンやショットガンの引き金に、少女は見えない指を()る。狙撃手は、もう一つの手で銃を支えている。腹這いになって獲物を狙っている様を幻視する。みんなして、(すく)んだ獲物に襲いかかろうとしている。狂喜に輝く瞳で、少女を射抜く。引き金が、引かれる――――。

 少女は足元の立方体(キューブ)を蹴った。その反動で、少女の身体は天井すれすれまで舞い上がる。その、直前まで少女の肉体(からだ)があった空間を、どす黒い魔力を帯びた弾丸が蹂躙する。

「……!」

 少女と、盾の背後に隠れていた男――レイル・ボフマン――の視線が初めて合った。明かりが落ちた暗がりの中で、レイルはカニバルの視力で少女を見る。彼女は、レイルを目にして口元に小さな微笑を浮かべる。それは獲物を見つけた、捕食者の微笑(えみ)

 同時に、レイルは自身の反撃が失敗したことを悟った。少女の周囲には、灰色の立方体(キューブ)がいくつも浮かんでいる。その中心には半球体のレンズが目のように埋め込まれている。

 あれが少女の武器だと、武器商人であるレイルは即座に看破した。原理は知らない。だが、レンズが白く輝きを帯びるより先に、レイルの直感がその危機を告げる。

 緊張に身を強張らせ、しかしレイルは微動すらしない。その隙に、少女の周囲の立方体(キューブ)、その中央が白く輝き出す。

 ようやく、レイルが後ろへ退()がろうとする動きを見せる。が、圧倒的に遅い。反撃してきたほうがまだマシだったかもしれない。それでも、少女にはまだ奥の手がある。

 少女を取り囲むように、レイル(カニバル)を取り囲むように、立方体(キューブ)の輝きは臨界を超え、殲滅の光を一斉放射する――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――寸前、視界が吹き飛んだ。

「……!」

 爆風の連続。それはハンマーで直接殴られたように、激烈。左へ、右へ。上へ、下へ。あらゆる方向へ、身体を弄ばれる。

「っ!」

 負けじと、少女は発砲の指示を立方体(キューブ)の群れに告げる。もはや、狙いなど関係ない。命中することさえ考えていない。単なる威嚇射撃、この撹乱(かくらん)に乗じた反撃を阻害するための防衛手段。

 少女も、その予期していなかった反撃をこの目で見ていた。絶体絶命の危機に敵が選択した単純(シンプル)な悪足掻き。

 少女の目の前に、花梨(かりん)ほどの大きさの手榴弾が滑り下りてきた。次元の隙間から零れてきたように、その出現は唐突だった。

 目の前だけではない、それは十センチメートルていどの間隔に並び、少女の顔の横、胴の横、脚の横、頭上、真下、部屋の隅のベッドからガラスが砕けた空間まで、横十列以上並んでいた。爆風の感触から、おそらく背後にも並んでいたのだろう。それこそ、レイルは指一本動かすことなく。

「…………へええぇ。擬似的に〝城〟を構築しておりましたか」

 爆風が止み、少しずつ煙が薄れ始めた頃に、少女は起き上がった。パラパラと、砕けた破片が身体の上から落ちて消えていく。

 少女は左腕を目の前に伸ばして、目の前を払うように腕を振る。と、その動きに合わせて、部屋の端から、テーブル、戸棚、ベッド、壁をぶち抜かれたバスルーム、扉、トイレ、ソファー、テーブル、壁、(そら)へと、まるで音階を駆け上がるように灰色の立方体(キューブ)が出現していく。いや、単に現れただけではない、その立方体(キューブ)は煙から生成されたように、視界は綺麗に澄み渡った。そのたった一振りで、少女の前には百近い目が獲物を求めて首を振っている。

「どちらに行ってしまわれたのかしら?」

 一度首を左右に振っただけで、レイル・ボフマンが部屋からいなくなったのは明白だ。銃撃戦、己も敵も顧みずにばら撒かれた手榴弾の影響で、スイートルームという形は無残な姿を曝している。そのおかげで隠れるスペースも見当たらないというのは、実に皮肉だ。

 ――いいえ。

 一箇所だけ、不自然なところがある。その場所を砲撃するよう、少女は左手だけで立方体(キューブ)に合図を送る。

 部屋の中で唯一、位置も向きも変わらないベッド。光の銃弾を受けて毛布は引き裂かれているが、ソファーやテーブル、果てはもう一つのベッドが吹き飛ばされている中、このベッド(これ)だけ四本の足を床につけている。

「当たりですね」

 ベッドを跳ね上げて退かすと、その真下には人が優に通れるほどの大穴が隠されていた。


 一方、四十階へ移動したレイルは廊下の影に身を潜め、自分が下りてきた大穴と、その先の廊下を交互に注視している。

 ……まだ、敵はいる。

 もしやという推測は、ほぼ確信に変わっている。

 おそらく、このホテルは結界の中にある。『おそらく』がつくのは、元々レイルは魔術師ではなく、そのため魔術の気配もあまりわからないからだ。

 カニバルになってから魔術に関する知識をいくらか得たが、そこから推測するに、今回の結界は『内部の維持』を行っているらしい。簡単に言えば、形状記憶だ。ガラスを割っても、階の柱を吹き飛ばしても、そこには『維持』の魔力(ちから)が働く。だから、真上のスイートルームはまだ潰れていない。そして、その結界が維持し続けているということは、術者もまた健在だということだ。

 もちろん、上の敵の他に仲間がいる可能性もある。その場合、迂闊に外に出るのは危険だ。とはいえ、どうだ。ここに留まり続けるのと、外に出るの、どちらのほうがレイル・ボフマンの生存率は上がるだろうか。

 第一は、結界の外に出ることだ。結界内は、すなわち敵の陣地(テリトリー)。電波や念波の(たぐい)も遮断されているはずだ。レイルの居場所を特定されたくはないので、試してはいないが。

 そうなると、どうするか。結界は、基本的に壁だ。今回のように内部に制限をかける場合は、閉じ込める意味合いが強い。外に出るには、術者を見つけなければならない。そして、もう一つ基本的なこと。これだけ巨大な結界の檻を造る場合、大黒柱となる術者は内部(なか)にいる。

 では、レイルはどう行動すべきか。強襲してきた敵がまだ生きていると仮定して、向こうが出てくるのを待つか。しかし、あれだけ大量の手榴弾をまともにくらって、あの女は果たして生きているだろうか。

 レイルは人間だった頃、魔術師ではなかったし、魔術なんてものは作り話に出てくる都合の良いもの、くらいにしか思っていなかった。しかし、カニバルになったことで、レイル・ボフマンはたった一つだけ魔術を使えるようになった。その魔術――異能に近いらしい――によって、レイルは現在の地位を獲得したと言っても過言ではない。

 いまレイルが握っている短機関銃MP5SD3にも、レイルの魔力が息づいている。通常、九ミリパラベラム弾を毎分八百発で連射できるこの短機関銃が、レイルの魔力によって、一発の弾丸で人体にサッカーボールていどの大穴を開ける怪物に変貌する。

 当然、上の階で使った銃器も手榴弾も改良済みだ。ハンバーグの破片どころか、消し炭になっていてもおかしくはない。

 なら、外へ出て他の敵を探すか。後ろに非常階段があるので、そこから外へ出ればいい。目の前のエレベーターは止まったままで、もちろん使うつもりもない。

 よし、この場から離れようと、天井に開いた大穴への視線を切ろうと、して――――。

 ――――その影は、なんの躊躇いも警戒もなく、大穴からするりと舞い降りた。

 人喰種(カニバル)の反射神経が、レイル・ボフマンを即座に行動に移させた。廊下の中央に立ち、その影に向けて短機関銃を連射した。

 少女は当然、なんの準備もせず、無謀に敵陣に突っ込んできたわけではない。少女の周囲にはあの灰色の立方体(キューブ)が、卵の殻さながらに、立ち塞がっていた。

 その守りを視認したうえで、カニバルのレイルは真っ向から少女の挑戦に応える。百メートルもない距離、十分すぎるほど、射程範囲内だ。

 一発の弾丸は、しかし立方体(キューブ)の防壁を削り切れない。〝教会〟の人間だ、魔力で強化しているのだろう。だが、毎分八百発の嵐では耐えきれるものか。

 だが、驚愕を味わうことになるのはレイルのほうだった。

 ……多重障壁か!

 灰色の壁は、なにも一枚だけではない。その背後、さらに奥に、防壁はなおも続いている。風穴が開いてしまった防壁は即座に破棄して、内側から再構築しているようだ。

 レイルの動体視力で見たところ、壁に穴を開けるのは平均で三発、それほど頑丈ではない。が、一秒経っても削り切れなかったところから判断すると、初期状態で五枚以上の壁を張っていることになる。あるいは、一秒以内に壁を再構築することができるのか。形状も、二十センチメートルの立方体(キューブ)ではなく、厚みを十センチメートルまで落とした壁として構築している。

 速攻で決着をつけられなかったレイルの敗北だ。短機関銃MP5SD3の装弾数は、三十。三秒も経たずに、弾切れだ。

 弾が尽きて、レイルは躊躇いなく短機関銃を捨てた。――少女に向けて。

 放り投げられた短機関銃を、壁に埋め込まれたガラスの球体が狂いなく撃ち抜く。と同時に、短機関銃に蓄積されていた魔力が破裂し、大爆発を起こす。左右の壁はおろか、廊下も天井も抉りとる猛威。少女が張った障壁も、五枚全てが削りとられてしまった。

 だが、ギリギリで少女まではその威力も届かない。少女は障壁を解き、立方体(キューブ)を周囲に浮かせてレイルを追う。少女が廊下のT字路を曲がると、最果てにある非常口から、ちょうどレイルが闇の中に飛び込むところだった。


 四十階の高さから、レイルは迷うことなく飛び降りた。強烈な突風がレイルに向かって吹きつけてくるが、当然、身体は重力に引かれるまま、落下の速度を上げていく。

 背後の快音に、レイルは即座に振り返った。非常口の扉が吹き飛ばされたのだ。銃撃ではない。少女自身が体当たりして、その柔な鉄の板はあっさりと宙を舞う。

 加速器としての役割を果たした灰色の立方体(キューブ)が、くるりと照準を真下のレイルへと向ける。加速の余力があるのか、中央の目はすでに獲物を渇望して白く輝いている。

「……っ」

 レイルとて、このまま一方的に蹂躙されるつもりはない。真横の空間に手を突っ込んで、大口径重機関銃M2HMGを引っ張り出す。使用する12.7ミリ大口径弾は、通常威力で装甲車両や航空機をも撃墜する。それを、毎分一〇〇〇発で吐き出す怪物だ。人の腹に一発でも命中すれば、首から足まで抉りとる。

 当然、この重機関銃も魔力でコーティングしていて、一発で一般的な日本家屋一件を吹き飛ばすほどの、すでに規格外の魔物に改造してある。

 素早く身体の正面でかまえ、レイルは銃口を少女に向けて引き金を引いた。人間の耳なら一発でイカれるほどの轟音。それが、一秒のうちに十六回。

 落下する少女もまた、立方体(キューブ)から光を発射する。サイレンサーがついているように、音はほとんどない。

 レイルは最低限の回避で、光の雨をかわしていく。発射の反動で、光の射線上から身を離す。対する少女は、灰色の立方体(キューブ)を足場にして、12.7ミリ大口径弾の射線上から大きく外れる。少女も、今回の攻撃は先ほどの九ミリ弾とは桁が違うと、薄々感じているのだろう。防壁などあてにせず、徹底的な回避に専念する。落下しながらジグザグと左右に避け、時には前進してレイルとの距離を詰めようとする。

 体感としては一分以上も続く接戦だが、実際には四秒もかからない。百五十メートル近い高さでも、その短時間で地面に到達する。

 レイルは一度も振り返らなかったが、地面の接近を察知していた。だから、カニバルにのみ許された空間から、それを召喚した。

 地面との激突寸前に、レイルの身体は宙に舞い上がる。彼を(そら)まで運び上げたのは、黒い塊だった。長年の魔力の染みつきで、外装はおろか、周囲の空気までもどす黒く歪めてしまう。操縦席に人はいない。だが、彼の意思一つで、それは自在に宙を駆け回り、獲物を追い詰める。

 攻撃ヘリコプターAH―1Zヴァイパーの縄梯子に手足を引っかけ、不要になった大口径重機関銃を空間に戻す。そう、もう不要だ。レイルの視界はすでに、コクピットからのものと同化している。ハンドル操作を頭で思い浮かべ、20ミリガトリング砲を発射する。

 レイルをかっさらっていった影を目で追うため、少女は身体を反転させた。ヘリコプターの尾が、すでに十メートル近く離れたところにある。少女も体勢を立て直して、地面との直撃を回避、展開した立方体(キューブ)に乗って地面の上二メートルほどの位置を滑空する。

 だが、ブレーキをかけるわけにはいかない。宙で一回転を見せたヘリコプターが少女と相対する。左右の翼に小型ミサイルを抱えた筒が一つと、大型ミサイル四本で一セットを、それぞれ装備している。ヘリコプターの中央、足元にはガトリング砲が取り付けられていて、ヘリコプター全体からはひどく弱々しく見えるが、当然、先ほどレイルが両手で抱えていた機関銃以上の威力を発揮し得る。

 そのガトリング砲から、一秒間に十発近い弾丸が発射される。速度を緩めなかったおかげで回避はできているが、地面が吹き飛ぶ勢いにも押されて、なかなか体勢を整えられない。

 そこに――。

 ――一翼十九発、計三十八発の小型ミサイルが降り注ぐ。

 小型とは言え、全長1.06メートル、弾体直径77ミリのサイズで、広範囲を殲滅する兵器だ。たった一匹の鼠を狩るには十分以上の威力を誇る。

 少女の周囲から爆炎が巻き起こり、その圧倒的な圧で、少女はバランスを崩す。いや、それどころではない。凍えるような真冬の寒さから、一気に灼熱の劫火に叩きつけられたような暑さ。熱い、と感じたときには、ローブが融けて皮膚に貼りつき、皮膚が融けて肉を()く。肉が泡立ち、神経と骨がぐちゃぐちゃに掻き回される。その強烈な痛みについ喘ぎを漏らすと、そこから焔が喉を灼いて、肺を蹂躙する。破れた肺から横隔膜、その他の内臓まで食指を伸ばし、外から(なか)から、肉体(からだ)を喰い尽くそうと襲いかかる。

 熔解していく身体に包まれながら、少女は声の無い絶叫を上げ、己が身を掻き毟る。最後の最期まで、少女に刻まれた感覚はその激痛を上塗りしていく。


 ――――これまで感じたことのない激痛とともに、響彩(ひびきさい)の意識は覚醒した。

 その痛みは幻覚だと、彼が見たモノはあくまで夢なのだと、そう理性的に理解していても、受けた第一印象、直感、あるいは本能の部分が、激痛に悶え続ける。

「――――、――――、――――、――――――――ッ」

 絶叫は、なんとか喉元で抑えつけている。しかし、漏れた悲鳴は歯の隙間からボロボロと零れ落ちる。

 ――――オ、チ、ツ、ケ。

 まず、自分の意識が落ちないように踏ん張りをかける。このまま意識を失ったら、彩はきっと朝まで目覚めない。……そんな無様は、許さない。

 歯をくいしばる。身体に爪を立てる。ここまで必死になったのは、きっと初めて。だが、咄嗟にどう対応すべきか、肉体(からだ)はよくよく心得ている。

 だが、このままではいけない。普通の人間ならあまりの激痛で失神してしまうところを、響彩だけは回避手段を体得している。

 何度も繰り返される荒い呼吸。一秒という短い間隔(スパン)で呼気と吸気を行っていたのを、強引にでも引き延ばし、三秒ごとに呼気か吸気を入れ替えさせる。

 激痛は引かない。だが、それは鼓動のように波がある。寄せては、退く。その、退いた瞬間に…………。

「――――――――」

 響彩は、感覚を遮断する。

 あらゆる感覚は、この世のどこにも接地していない。闇の中、無重力、全てが遠く、触れることはできない。視覚は彼方へ、聴覚は辺境へ…………痛覚は、最果てへ。

 響彩は()()る。この世のどこにもいはしない。誤った存在、不適格、不適合。これは異端で、なにも触れることはできず、なにも得られない。

 全ては、遠く…………。

「…………」

 緩やかに、彩は目を開いた。感覚遮断が成立して、痛みは残滓(ざんし)ほども感じない。そもそも、感覚をこの身に置いていないのだ、感じる・感じない、とか、それ以前の状態だ。

 彩は手袋をはめたままの右手を額に当てた。記録の中から直前の夢の光景を引っ張り出すと、一ミリの劣化もなく、彩の脳裏で再生される。

 ……彼女は。

 ビルから飛び降りた少女と男性。落下しながらの銃撃戦の末、男性はヘリに掴まって地面との激突を回避し、目標に後ろをとられた少女は急ぎ振り向き。

 …………夢々先輩は。

 全ての防壁が(ことごと)く焔に喰われ、その余波だけで彼女の肉体(からだ)は燃え上がった。まさに、火だるまだ。視界が白く燃え上がって、なにも見えない。耳や指の先なんて小さなモノは、あの温度で融けてしまったかもしれない。

 だが、それこそ瑣末な問題だ。

 ――熱い!痛い!苦しい!痛い!熱い!痛い!熱い!熱い!痛い!痛い!痛い!

 頭に鳴り響く警報の嵐。その圧倒的な情報量に、もはや熱さすら吹き飛んで、残ったのは先のほうから肉体(からだ)が粉々に崩れていく唯一の激痛。

 夢が寸断される寸前に、彩が感じたのは衝撃だ。あの暴力的な衝撃は、きっと敵の二撃目があったのだ。防壁を失い、肉体(からだ)も一割か二割を失い、体表の八割以上が灼け(ただ)れた中での二撃目だ。


 ――――カラダガバラバラニナッテモオカシク


夢々(むむ)先輩ッ」

 彩は急いで普段着に着替えて、部屋を抜け出す。深夜の散歩のときは、屋敷の連中に見つからないよう、寝室の窓から外に出るのだが、それでは地上に辿り着くまで時間がかかりすぎる。いくら彩が感覚を無視できても、肉体(からだ)は普通の人間と同じなのだ。

 ……迷う必要があっただろうか?躊躇う理由があっただろうか?

 そんなもの。

 あるわけない……!

 あれがただの夢であるはずがない。どんな理屈かは、彩も知らない。だが、彩が感じたあの痛みは現実だ。夢々先輩が感じたあの苦痛は、確かに在った。

 こんなときでも、彩の記録は十分に機能している。夢に見たあのホテルは、きっと駅前付近の中でも一際大きいやつだ。周りの風景から、位置も概ね特定できた。

 物音も気にせず、彩は廊下を走り抜け、階段を駆け降りる。

「誰ですか?こんな夜中に騒々しい……」

「えっ、あれ?彩様?どちらにお出かけですか?」

「兄さん?えっ、兄さん、どこへ行くのですか!」

 玄関の鍵を開けて外へ飛び出した彩の背中に、(れん)(あざや)が声をかけてくる。が、彩は彼女たちを無視して、屋敷の外に出た。表門が施錠されているので、夜の散歩のときと同様に、柵を乗り越える。鮮たちの声も届かず、彩は街灯のない坂を駆け下りていった。


 いまだに白煙が立ち上る中で、レイル・ボフマンは敵が死亡したことをほぼ確信していた。レイルの体内には様々な探知装置が仕組んであり、赤外線スコープやレーザー測距器などを通して、瓦礫内に動きがないことを確認できた。

 当然の警戒として、結界内に他の敵影がないかも確認したが、魔術を使えない一般人の気配しか感知できない。結界内だから、身動きしない熱源が点在するだけだが。

 ――それでも結界が解けないということは、どこかに術式があるのか?

 魔術はエネルギーである魔力と、魔力の流れ方を定義した術式さえあれば、術者から離れた場所でも駆動する。この結界もその類だろう。戦闘中に意識を切らして途中で結界が解けるのを恐れて、と考えるなら、別に不思議はない。

 一息ついてから、レイルは縄梯子を上ってコクピットに入る。いつまでも不安定な梯子に掴まって風に揺られるつもりはない。

 コクピット内には8×6インチ二基、4.2×4.2インチ一基の計三基の多機能カラー液晶表示装置が設置され、GPSや索敵・照準情報、飛行計器情報、各種システム情報が表示される。中央には照準や発射、武器の選択までが可能な、テレビゲームのコントローラーにも似たミッショングリップがあり、左右には操縦用の各種レバーが整っている。他にも、暗視・赤外線画像の表示や目視による対象へのロックオン機能を兼ね備えたヘルメットが用意されているが、これらの装置に一切触れることなく、レイルはこの攻撃ヘリコプターを操る。ヘリコプターに染み込んだ術式が、レイルの意思――魔力や術式――に呼応して各種装置を動かしているらしいが、レイル自身はその詳しい原理をあまり理解していない。理解していないが、それでも動くのだから、レイルにとってはそれで十分だ。

「では、結界の発生源を見つけるか」

 元々は魔術師ではなかったレイルも、カニバルになることで、魔術というものを感覚として理解できるようになった。すなわち、魔力反応を目視することができる。レイルだけでは十数メートルが限界だが、ヘリコプターの各計器と合わせることで、その範囲を数キロメートルまで伸ばすことができる。このていどの結界内なら、隅から隅まで、魔術師の位置だけではなく、術者とは分離した魔術――魔具や式神の類――まで探索することができる。

 脳内の魔術探知機能に、ヘリコプターの処理能力を掛け合わせ、範囲を広げる。真っ先にヒットするのは、目の前の黒煙。当たり前だ、大魔力の塊であるミサイルを容赦なく打ちこんだのだから。煙から距離を離して、感度は一段下げたほうが見つけやすい。術者から分離した魔術は独立して駆動するため、大きな魔力反応がある。山火事から離れたところにある篝火を探すようなものだ。

「――――ん?」

 計器の設定を終えたところで、レイルはその違和に気づいた。大量の魔力を放出している目の前の黒煙、その魔力分布に、所々、穴が開いている。魔力は熱に近いから、熱源を失えばすぐに薄れるのは知っている。だが、この早さは少し気になる。それでも、無視することはできるだろう。魔術の知識や経験の低いレイルにとっては、そのていどの違和だ。

 ――そこに。

 大量の光がヘリコプターに向かって乱射される――。

 黒く歪んだ魔力の壁をあっさり通過して、光の乱舞は攻撃ヘリコプターAH―1Zヴァイパーの機体を瞬く間に潰していく。

「な、に……!」

 全く予期していなかった攻撃だ。いや、魔力探知を見ても、その攻撃は理解できない。これだけの攻撃だ、どこかに魔術の発生源があるのが道理だ。

 なのに……。

 ……どこにも、ない、だと?

 煙のせいで広範囲で魔力反応があるが、それでも高反応域からは外れている。だが、発射位置を絞り切れない。計器に映る結果が正しいなら――正しいはずなのだが――レイルはすでに全方位から取り囲まれていることになる。しかも、十数メートルの近距離から。

「ばかな……!」

 接近などなかった。調整中だったとしても、これだけの攻撃の反応を見過ごすなど、あってはならない。

 舌打ちを漏らし、レイルはヘリコプターを急上昇させる。多少機体が変形しても、蓄積した魔力で強引に動かすことはできる。まずは敵の包囲を抜けることだ。

 下からでなく、真横から、上からの攻撃があったから、レイルが気づかぬ間に、完全に囲まれていたらしい。だが、ヘリコプターAH―1Zヴァイパーに染みついていた魔力はどうにかもちこたえてくれた。下からの銃撃が続くが、射程範囲からは抜け出せた。

 だが、まだ油断はできない。いまだ、攻撃位置はおろか、敵の位置も把握できていない。位置が捉えられないのは、なにも銃撃が後方から追ってくるだけではないからだ。

 前方、斜め下方からの猛攻に、レイルは慌てて進行方向を横に傾ける。

「くそっ……どうなっている……!」

 魔力探知を見ても、いまの場所に高い魔力反応はない。ミサイルの残滓もほとんどなくなっていて、先ほどの威力なら見逃すはずはなかった。

 だが、見逃した。いくら計器を見ても、位置の特定どころか、存在すら見つけられない。

 レイルは舌打ちとともに吐き出す。

亡霊(ゴースト)か……!」

 存在しないものからの攻撃。

 だが、攻撃があるということは、存在するはずだ。

 後ろから、前から、横から。先の読めない銃撃に翻弄されて、レイルはついに気づかなかった。周囲の魔力濃度が、急激に下がっていることに。

 その原理は単純だ。レイルへの攻撃は、レイル自身が放ったミサイルの残留魔力から汲み上げたものだ。己の決定打が、いま彼を苦しめているとは、なんという皮肉か。だが、彼の不幸はそれだけではない。

 先が読めなくなった彼は、追い詰められていることにも気づかない。光の嵐に流されて、ヘリコプターはある経路を辿って、ある場所まで導かれていた。それは、実に単純(シンプル)なこと。

 ――より、魔力が残留しているほうへ。

 誘導は最低限に、余剰分は回収へ。少しずつ追い詰めても、効果はない。むしろ、相手を慣らせて決定打が決められなくなる。

 だから、変化をつける。単純な攻撃に慣らしておいて、最後に、絶対不可避の一撃を喰らわせる。誘導の過程で、相手の機動力は把握した。あとは布陣を固め、その射程圏内(ポイント)に入ったら、引き金を引く。

 カクン、とヘリコプターの進行方向が、不意に折れた。ようやく、敵はこちらの意図に気づいたらしい。


「――――でも、遅すぎます」


 深夜を反転させるように、空が輝いた。巨大な輝きは、光の雨。ほとんど中心の位置から、直径五百メートルの光の塊が降り注ぎ、三秒ほどで激突する。そんな近距離からの一斉射撃、押し潰すような圧に、回避などできるものか。

 上空を見上げる彼女には、ヘリコプターが光に呑み込まれる瞬間の音は聞こえない。だが、その光景は決定的なまでに、瞳の奥に灼きつけられる。そのさらに四秒後、圧倒的な光が地面に激突し、地響きとともに土砂を巻き上げて視界を覆った。


 予期せぬ反撃を受けてもレイル・ボフマンが生き残れたのは、ひとえにヘリコプターに蓄積された内部魔力の恩恵だ。撃墜されたと同時に、エンジンや各ミサイルが大爆破を起こした。普通ならその爆風で木端微塵になるところだが、それは単なる爆破ではなく、魔力の暴走だ。行き場を失ったエネルギーは、頭上から降り注ぐ高魔力で次々と削られ、中のレイルを包み込むような膜の形で均衡した。結果、レイルは体内の魔力をありったけ吐き出すことで圧死を逃れ、奇跡的に光の猛攻を一発も喰らうことなく、地上に降り立った。

 ――これが『奇跡』か?

 レイルはカニバルの体力で強引に身体を持ち上げた。いや、意地というべきか。傷は追わなかったが、消耗は大きい。武器商人であるレイルだからまだ戦闘を続行できるが、普通の、己が肉体を頼みとする人喰種(カニバル)なら、すでに勝負を諦め、逃走を選択していただろう。当然、選択したからといって成功する保証など、ありはしないが。

 自然、口元から笑みが零れる。初めは弱々しく漏れだすていどだったが、次第に抑えが()かなくなり、敵の存在も気にせず、哄笑となる。

 煙が晴れていく。改めて、その異常な速度を体感する。自然に消えているわけでは、断じてない。空気中に散った魔力の残滓をかき集めて、それを自身の魔力にしている者がいるのだ。

 イメージとしては、風力発電や太陽光発電に近い。だが、現実のこれら発電システムと同様、効率が悪すぎて普通の魔術師は利用しない。だが、研究テーマとしては存在していて、伝説級の変態(マニア)で、八十パーセント以上の回収率を叩き出したという噂もあるのだとか。

 あくまで伝説だ。魔術師界隈ですら、半信半疑の話。そんなやつに出会ってしまったなら、迷わず逃げるしかない。

 使い終わった魔術は、一部の魔力を空気中に残留させる。その一部がどのていどかは魔術の効率にも依るが、ほとんどは五十パーセント以上を無駄にしてしまう。

 そんな魔力の残滓のほとんどを回収できるなら、戦闘時はほぼ無尽蔵の魔力を使えることになる。まさしく、魔術師たちが目指す奇跡の業だ。

「…………いいや、これは『悪夢』だよ」

 見てはいけなかったモノ。出会ってはいけなかった相手。――ありうべからざる存在。

 煙が完全に晴れて、その存在が嫌でも目に入る。少女は、レイルが目にしたときとなんら変わらない姿でそこにいた。黒いローブをまとった、十歳を超えたていどの、年端もいかない少女。黒いローブにも、ローブから出た手や顔にも、たった一つの傷痕すら見つけられない。

 少女はレイルを正視して微笑みかける。

「お怪我はないようですね。あのヘリコプターは、随分とご主人さま思いなのですね」

 笑うべきではないはずなのに、レイルは笑いを抑えられない。抑えようとしても、つい口の端から漏れてしまう。

 いまさらだとは思ったが、折角、会話ができる機会を得たのだ。レイルはなんの抵抗も迷いもなく、思うままに口を開いた。

「〝教会〟の人間か?」

 はい、と少女は微笑のまま頷いた。バーで働く女たちのねちっこい微笑でもなく、マフィアに強姦された女の狂った微笑でもない。打算のない、あるがままを受け入れる広大な微笑。

 なるほど、とレイルは口元を歪めたまま続ける。

「いままでの攻撃は全部、法術なのか?」

「教会の人間でなくても、法術が使える人はいます。ただ、教会は法術が使えるよう訓練をしますし、必要な法具の提供も行います」

 でも、と少女は続ける。

「安心してください。わたしがこれまで使ってきたものは、そして、これからも使うものは、全て法術ですから」

 なるほど、とレイルは笑う。嗤わずには、いられない。

「なら、俺のようなカニバルが一発でもおまえの弾丸を喰らったら、もう再生はできないんだな」

 魔力とは本来、無色の力ではない。術者によって特徴があり、それが個々の得手不得手に繋がる。

 そんな有色の魔力の中でも、それ単独で魔術の域に及ぶような強力なモノには特別な分類があり、その中の一つに〝法力〟と呼ばれるものがある。この魔力の特徴は『束縛』だ。その魔力を受けた者は、魔力の流れを抑えつけられてしまう。カニバルであれば、数秒のうちに傷が塞がるほどの再生力が、たちどころに封じられてしまう。ほぼ無尽蔵の力と再生力を誇るカニバル相手には有効な手段だ。

 だが、これは魔術ではなく、魔力そのものの性質によるものだ。ゆえに、生まれつき法力を持っている者ならいざしらず、それ以外の者は訓練というより矯正する必要がある。矯正されて使えるようになっても、本来の流れとは違うのだから、当然、連射などできない。維持だけでも難しいから、普通は法具――法力を扱いやすくした魔具――を使うのだとか。それも、刃物や棍棒のような、比較的維持が容易なモノ。断じて、一発きりの銃器には用いない。

 つまり、相手は生まれながらの適正と、かなりの修練を積んだ怪物だ。いまさらだが、見た目の幼さなど、思慮(しりょ)してはいけない。

 レイルの内心の警戒など知らず、少女は「人間でも法術を受ければ行動は制限されますけれど」と、些細な補足を口にする。

 とてもじゃないが、この嗤いは収まりそうにない。嗤いを口の端から零しながら、レイルはなおも少女に問う。

「なぜ教会(おまえたち)は、カニバル(おれたち)を問答無用で殺す?」

 微笑(わら)ったまま、少女は答える。

「当然ではありませんか。――――人喰種(カニバル)は人類の敵です」

 蜜蜂にとって、雀蜂は仲間を喰い殺す敵だ。だが、蜜蜂は一方的にやられるだけではない。敵を見つければ全員で取り囲み、自身の体温で灼き殺してしまう。

 理屈は同じだ。――敵は殺す。それが、捕食されるものの当然の抵抗。

 だが、人肉(ヒト)をできる限り喰わないようにしているレイルには、その理屈はあまりにも安直すぎる。ようやく笑みが消えて、レイルは交渉(ビジネス)の表情を作る。

「俺のいる組織は、無闇に人を殺したりしない。人間たちの誰かが望んだ人間を、こっそりと()しているだけだ」

 戦時中は政府高官・要人の暗殺、平時はマフィア間の組織抗争に加担する形で商売をしている。最近では営業部の腕が上がったのか、平時でも様々な国の要人を標的(ターゲット)にする依頼も出てきた。

 空間の隙間に手を突っ込んで、レイルは大口径重機関銃M2HMGを取り出した。相手の銃口は肌に感じている。機関銃の銃口を宙に向けているが、誤魔化しとしては弱いことも、レイルは重々に承知している。だから、素早く捲くし立てる。

「この武器だって、人間たちが必要としているから作っているんだぜ。暗殺(ころし)だけじゃない。まだまだこの世界には紛争がある。『その争いを一日でも早く終わらせて、平和な生活を取り戻したい』その願いを叶えるために、俺たちは商売(ビジネス)をしている」

 人を喰うどころか、レイルの組織は人間たちに戦う武器を提供している、いわば味方だ。武器は決してなくならない、なくせない。弱者が強者に抵抗するためには、それなりの武器が必要だ。そして強者も弱者から身を守るために、それなりの武装を必要とする。

 人間(ヒト)は利己者なのだ。自分が生き残るために、他者を殴る。殴らなければ、相手から殴られる。そのために、武器が必要だ。その武器が会話で通じるなら、それも()いだろう。だが、それでは済まない世界が、実際には存在する。――だから、この世界には武器が必要で――――武器商人もなくならない。

 少女は困ったように眉を寄せて首を横に振る。

「残念ですが、ザラマ・シュレルドの存在は人類の脅威だと、教会は判断しました」

 彼の名前が出てきても、レイルは特に驚かない。この一週間でレイルのことがバレること自体おかしいのだ。その理由がどこにあるかと考えれば、自ずと組織(そこ)に行き着く

 すでに調べはついているということ。つまり『組織』を相手にする覚悟が、目の前の少女にはあるのだ。

 レイルはいままでの物腰の柔らかさを捨て、眼光鋭く少女を睨み、低く吐き捨てた。

「教会の(いぬ)が」

「食べられる前に駆除しておきたいというのは、ごく自然な心理でしょう?」

 レイルはもうなにも語らない。だが、内心で少女の余裕の笑みに忠告を返しておく。

 ――巣をつついたんだ、駆除する前に喰われるかもしれないぞ。

 口にしないのは、少女もそれを重々承知していると、理解できるから。なら、レイルがやらなければならないのは、少女の覚悟と自信を確かめることだ。

 ……レイル自身の覚悟は、すでにできた。あとはこの身が殲滅されるまで、何度でも彼女を破壊してやろう。


 レイルが重機関銃M2HMGをかまえたと同時に、少女は発砲した。すでに灰色の立方体(キューブ)の群れに囲まれていて、これから反撃を試みようとするレイルには逃げ道などなかった。

 光がレイルの脇腹を掠める。カニバルの視力と反射神経を駆使しても、これが限界だ。

「――――ッ」

 激痛を無視して、レイルは引き金を引いた。肉体(からだ)を抉られた痛みではない、再生を阻害されたときの灼けるような痛みだ。

 自力で衝撃を逃がしつつ、レイルは少女に向けて12.7ミリ大口径弾を連射する。毎分一〇〇〇発の速度だ、回避はほぼ不可能。

 少女は最低限の動きで弾丸をかわすが、さすがに全てをかわしきることはできない。少女の右肩に魔弾の風圧がかするのを目にして、しかしレイルは瞠目することとなる。

 一般家屋を吹き飛ばす弾丸の風圧だ、かすっただけでも人の腕は引き裂かれる。なのに……。

 ……防壁か?

 風圧から少女を守るように、彼女の腕に黒いガラス質の膜が出現した。単純な防壁ではない、少女の周囲で風圧が減衰したことから、おそらく魔力を相殺させたのだ。

 ――あれでミサイルを防ぎ切った、と?

 だが、レイルは納得していない。あのミサイルは軍事施設を壊滅させるだけの威力を有する。少女一人を守るていどの柔な防壁で、その威力に完全に耐え得るだけの性能などあるだろうか。

 ゆえに、レイルは引き金から指を離さない。反対側の脇腹も抉られ、肩を被弾し、太腿を貫通しても、なおレイルは少女を狙い続ける。

 距離を離そうとするレイルに、少女は弾丸をかわしながら接近する。いまのところ、レイルからの攻撃は風圧が掠るていどなので、自動防壁で耐えられている。

 が……。

 魔弾の一発が、少女の肩を掠る。防壁では衝撃を抑えきれず、反動で少女の華奢な身体が横に吹き飛ばされる。

 ――やった……!

 相手の法力は確かに厄介だが、威力はレイルの武器のほうが上。一発でも当てて体勢を崩せれば、そこから畳みかけられる。

 銃口で少女を追い、改めて引き金を引こうとした、ところに、光の弾丸が彼の指を、手首ごと撃ち砕いた。

「……くっ…………なん、の…………!」

 手首を失った腕を支えにして、反対の手で引き金を探る。少女とて、万全の態勢ではないはずだ。間髪を入れなければ、このまま押し切れる。

 銃声が途切れたのは、そのコンマ数秒ていど。先に攻撃を再開できたのは、レイルのほう。重機関銃の銃口から放たれた弾丸が、少女を隠す煙へと殺到する。

 爆発音と、さらに濃密な黒煙が辺りに充満する。――間違いなく、命中の感触。

 レイルは重機関銃を空間に戻して、代わりに短機関銃MP5SD3を取り出した。片手が使えない状態での重機関銃は、いくらカニバルでも無理だ。短機関銃の重みを感じながら、レイルは息を整える。今回は掠ったのではない、命中だ。すぐには立ち上がれまい。

 ――やつは、いまどうなっている?

 そもそも、彼女はどうやってあのミサイルの雨から生還したのだろうか。あの防壁以外に、なにか隠し玉を持っているのか。あのときはあれで殲滅できたと油断して、彼女に対して魔力探知を行わなかった。

 そんな思いつきから、レイルは魔力探知に意識を向ける。両の目は、当然、黒煙を見ているが、少女の姿は見えない。

 ――その探知結果に、レイルは愕然とした。

 あり得なかった。だが、脳内に示される映像と、なにより目の前の光景が、それを事実だと宣告している。

 黒煙の中から、無傷の少女が飛び出してきた。無傷だ。彼女が身につけている黒のローブさえ、どこも破れていない。

 レイルは絶叫を上げながら引き金を引いた。だって、そうだろう。銃撃を受けたはずの相手が無傷で目の前にいるのだ。

 魔力探知にも、それしか映らない。防壁の反応も、魔弾を相殺したであろう魔力の反応も、なにもない。目の前の少女しか、映らない。

 あり得ない。消滅したはずの相手が、存在している。存在を失ったはずなのに、なおも存在を続けている。それは、永遠に存在すると定義づけられているように。あるいは、最初から存在しないと決定づけられているように…………。

「そうか、おまえは―――――――――」

 五メートル先に、短機関銃が転がっている。一度跳躍すれば十分届く距離だが、しかしレイルは微動だにしない。下半身を失い、両手を失い、胸から上だけとなった彼には、もはや不可能なことだ。

 小さくなってしまった彼を、少女が見下ろす。どこも欠けることのない、傷一つない、完璧な彼女の姿。それは、レイルが目にしたときから変わらない。……その完璧さこそ、少女の在り方。


「――――――――〝フェイト〟」


 最後の最期で、レイル・ボフマンはようやく得心がいった。

 勝てるはずなどなかった。カニバルは不老不死と呼ばれているが、それは無尽蔵に近いエネルギーがあるからだ。

 だが、目の前にいるのはそれ以上の化物だ。不老など、不死など、それは生命から見た概念だ。だから、存在そのものを司るモノにとって、それはより低次の事柄でしかない。力でさえ、この存在の前には無力に等しい。

 闇の中で光が瞬いている。白く輝く、無数の眼。獲物に喰らいつこうとする、捕食者の眼光。

 光に閉ざされる前、彼は彼女の顔を見上げた。人喰種(レイル)を抹消する瞬間でも、少女は曇りも歪みもない、純粋な微笑を浮かべて彼を見下ろしていた。


「…………その呼び名を聞くのは、随分と久し振りです」

 少女は歪な闇を見上げていた。星々が輝く夜闇とは思えない、薄い暗幕を垂らしたような天空を、半透明の格子の檻が覆っている。

 対象(ターゲット)を狩り尽くしたこの場所は、少女だけの舞台だ。演目が終わったのだからすぐにでも引き上げたいが、そうはいかない。相手の抵抗が激しかったから、今回はいつも以上に修復に時間がかかる。

 少女の張った結界は、あくまで維持だ。最低限の魔力で作れるため、構築も早いし、張った後で少女が意識する必要もない。欠点は、自動設定を多用したあまりに、後からの変更操作を受け付けにくく、修復が完了するまで身動きがとれないこと。破損部分は魔力が滞留しているので、それを再利用することで多少は修復速度を上げられるが、それでも今回の損害では、目算、小一時間はかかるだろう。

「その呼び名を知っているということは、かなり長生きの魔人だったのですね」

 倒した敵が誰だったのか、少女は最低限のプロフィールしか教えてもらっていない。名前はレイル・ボフマン。魔人。ザラマ・シュレルド率いるカニバル集団の一員で、ポジションは幹部。このカニバル集団は政府や民間人への武器の売買や、彼らからの暗殺依頼を引き受ける、いわゆる闇企業だ。

 ザラマ・シュレルドのことは、以前から聞いている。神人の中でも古参で、しかも人間社会に溶け込むために企業を起こした変わり者。裏だけでなく表の顔も有しているから、簡単に仕留められそうなものだが、実際にはうまくいっていない。彼の居場所は基本的に秘密で、仮に情報を得られたとしても、そのほとんどがダミー。教会も報酬金を出してハンターたちの手を使っているが、いまだに成功しない相手。ゆえに、教会が直接ザラマ・シュレルドに手を出すことはないと、少女は思っていた。

 今回、レイル・ボフマンが日本に来たのは、日本政府への商談が目的だったらしい。実際の商談がどうなったのかは、少女は知らないし、興味もない。その結果をどう判断するかは教会の役目だ。一構成員にすぎない少女は、粛々と教会の命令を果たすだけ。

 ……あの、呼び名。

 長いこと教会に仕えることで、少女もそれがなにを指しているのか、理解するようになっている。……いや、ある意味では誰よりも、その存在のことを()っているだろう。

 ――――神魔の王(デミゴッド)

 ふと、その名が記憶の底から浮かび上がる。

「さて、いつ聞いたのでしたっけ」

 記憶を振り返ってみても、どうも思い出せない。少女の記憶は、ひどく断片的だ。いや、正確には記憶の合間に強い雑音(ノイズ)が混じって、記憶を壊してしまっているのだ。

 破損の原因を、少女はよくよく理解している。彼女の記憶の中で、もっとも強く残っているモノ。消したくても消えない、けれどそれこそが、少女が存在するための糧になる。

「愛憎、ですね」

 憎くて憎くて、殺したいくらい憎いのに、なのに、殺すことができない。それだけ強く想っているということは、きっと、愛しているのでしょう。

 ――でも、必ず見つけて、殺してみせます。

 何度、この宣言を繰り返しただろうか。何百では足りない。なら、何万?それとも、何億?それだけ繰り返すと、宣告はただの定型文のように軽薄になる。感情を込めたくても、それが当たり前すぎて、一向に燃え上がらない。

「――それはきっと、青い炎なんだよ」

 遠い昔、そんな話をしたときに、誰かが語った言葉。赤々と燃える炎よりも、青い炎のほうが温度は高い。だから、一見激しさに欠けるけれど、実際は近寄ることもできない、苛烈の()

 その例えがとても詩的で、そのフレーズだけは、いまでも覚えている。でも、それを語ってくれたのが誰だったのか、もう、思い出せない。記憶は、修復不能なほどに、すでに破壊されてしまった。

 これまでの存在の中で、少女は多くのものを(うしな)っている。――出会い。――別れ。――そして、記憶。

 誰も、少女のことを覚えていない。少女でさえ、その出会いを覚えていられない。思い出は、いつの間にか壊れて、見ることもできない。仮に見れたとしても、少女はそれを再認できるだろうか。

 それでも、少女は存在している。与えられるモノ、得られるモノ、それだけが、少女という存在の全て――――。

 虚空に向けて、少女は一人、呟きを漏らす。

「わたしの愛憎を果たせるのは、一体いつなんでしょうか」

「それが、あんたの存在する理由か?夢々先輩」

 一人きりのはずのこの舞台で、少女に応える声があった。ハッとして、少女は振り返った。それは、二つの理由であり得なかった。

 一つは、彼の接近に気づけなかったこと。距離にして、わずか五メートルたらず。路面も抉れたこの足場の悪いところで、これだけ近づかれても気づけないなんて、カニバルと戦い慣れた少女には、あり得ないことだ。

 そして、もう一つ。――侵入禁止の結界の(なか)に、彼がいるということ。

 この結界によって、結界内の物質形状は維持される。割れたホテルのガラスや、砕けた廊下、そして少女の周囲のクレーターが元に戻ろうとしているのは、その影響。

 その派生能力として、外部からの影響も遮断している。これによって、外部から結界内に入ることは不可能だ。その、はずが…………。

「…………どうして、あなたがここにいるのですか?」

 声は震えないよう、なんとか平静は取り繕った。しかし、内心まではそうはいかない。心音が聞き取れるくらい、鼓動が速い。口の中が急速に乾いていって、このまま口を開いたら、掠れた音が出てしまう。

 一度口を閉じて、心身ともに落ちつかせてから、少女――夢々先輩――は彼の名を呼ぶ。

「――――響彩くん」


 彩が想像していた以上に、その場所は悪夢的だった。舗装された道には無数のクレーターが作られ、その上を黒煙が舞っている。まさしく、戦場跡だ。彩が暮らしている日常では決して見ることのできない、非日常。

 そこに、夢々先輩はいた。目に見えない境界線を超えた先は、一見すると外側の様子と大差がない。けれど、見上げたときの夜空が違いすぎた。感覚しない彩にはわからないが、この閉塞感は、無知な人間が迷い込んで良い場所ではない。

 ホテルを目指そうとした彩の視界に、光の柱が入ってきた。いや、落下する巨大なシャンデリアのようなものか。その場所を目指し、光が失せたところに、夢々先輩は一人で空を見上げていた。こちらに背を向けていたから、最初は彩の存在に、彼女は気づかなかった。なにか、よくわからない独り言を漏らしていた。

 近づいて声をかけると、夢々先輩はようやく彩の存在に気づいた。最初はとても驚いた表情をしていたが、すぐにいつもの彼女の表情を作り、微笑すら浮かべて彩を迎えてくれた。

「ここに、夢々先輩がいる気がしたんだ」

 夢で見た、なんて、とてもじゃないが言える気がしない。だが、ほとんどの人が眠っている時間に、しかもこんな場所で会うなんて、偶然にしてはできすぎている。それを夢々先輩もわかっていて、だから彩の曖昧な返答に吹き出した。

「それだけ聞くと、すごいストーカーさんみたいですよ、響彩くんは」

 学校中を探し回ったときもあるから、否定するのが難しい。夢々先輩の軽口に、だから彩も悪びれずに返した。

「本当のことを話したって、信じちゃくれないよ」

「――わたしは、信じますよ。響彩くんのこと」

 夢々先輩は微笑で彩を後押ししてくれた。いや、実際は詰問だ。学校からも姿を消して、もう二度と会わないはずの相手に、またこうして出会ってしまったのだから。

 表情は微笑のまま、夢々先輩は続ける。

「だって、響彩くんは完璧なタイミングで、わたしを見つけだしたんですから」

 彼女の裏の表情を、彩だって理解している。彼女は、こう言ったんだ――最悪なタイミングで、と。

 確かに、夢々先輩からすれば悪夢だろう。彩だって、こんな悪夢的な再開を望んだわけではなかった。

 間宮が消えた場所に、夢々先輩はいた。今度は、消される姿を見なかったとはいえ、この非現実的なまでの惨状。

 葛藤はあった。だが、そんなものはおくびにも出さない。やがて決意した彩は、夢々先輩の微笑に応えるように気軽に理由(わけ)を話す。

「――――夢を、見たんだ。夢々先輩が、カニバルと戦っている、夢を」

 夢々先輩がホテルの一室でくつろいでいたカニバルを強襲したところから、下の階でカニバルから反撃を受けたところ。非常口から外に飛び出したところ。落下しながらの銃撃戦。

「そいつがヘリに乗って、夢々先輩に向かってミサイルを撃ったんだ。かわしきれる数じゃなかった。夢々先輩はできる限りかわして、何発かは盾かなにかで防いでいた。でも、堪えきれなくなって…………」

 その先を口にするのが、彩には困難だった。夢とは思えないほどの、生々しい痛み。いや、彩にとっては夢でしかあの痛みは感じられないのか。だが、他の人だって、あんな痛みは一生に一度、体験できるかできないかだ。

「それから、わたしはどうなりましたか?」

「夢々先輩は…………」

 続きを促されて、しかし彩はなおも迷った。しかし、それほど猶予はない。葛藤の末、ついに彩は決断を下す。

「――殺された」

 あれは、どう見たって死んでいた。それほどの劫火で、それほどの激痛で、身体も融けて無くなっていたんだ。

 なのに……。

 彩の解答(こたえ)に、夢々先輩は「そうですか」と微笑を漏らす。笑い飛ばしもせず、激昂することもなく、ただ、ありのままに彩の言葉を受け止めてくれる。……受け入れて、しまう。

「響彩くんは、そういう運命を背負っているんですね」

 彼女の微笑そのものに、彩はなんて応えたらいいかわからない。だが、このまま黙り込んではいけないと、彩は必死で思考を回した。

「だったら、聞いていいか?」

 拒絶されるかも、とは思った。そうでないにしても、表情が曇るのではないかと危惧した。しかし、夢々先輩は相変わらず、微笑のまま「どうぞ」と彩を促す。

「夢々先輩は、死んだんだよな?」

「言葉通りに答えるのは難しいですが、響彩くんが思い描いているとおりのことは起こりました」

 夢で見た光景がフラッシュバックする。彩は一度頭を横に振って、もう一度、夢々先輩を直視する。

「だったら……」

「どうして、わたしは傷一つなく存在しているのか?」

 彩が言おうとしていた言葉を、微妙に変えて夢々先輩は返してくる。彩は訂正を入れなかった。夢々先輩の口から出た言葉が、その問いの解答(こたえ)だと理解できたから。

「――そういう『存在』なんですよ、わたしは」

 それが全てだというように、夢々先輩は微笑する。だが、そんな漠とした言葉では、彩も納得しきれない。

 彩の心境を読んだように、夢々先輩は続ける。

「言葉では伝わりにくいと思うので、実演しましょう」

 途端、宙空に灰色の立方体(キューブ)が浮かぶ。夢で見た、夢々先輩の武器。あそこから発射された光が、今回のカニバルや間宮、田板を消し飛ばした……。

 ……と。

 その光が、夢々先輩の左腕を、肩から吹き飛ばした。

「……!」

 彩は驚愕に固まってしまった。繋がりを失った彼女の左腕はくるくると回って地面に落ちた。あまりにも唐突で、あまりの呆気なさに、彩は声を出すのが遅れた。

「なにしてるんだよ……」

 やっと声が出たのに、それはか細い呟きのようだった。左腕を失い、肩から血を流している、それなのに、夢々先輩は相変わらず微笑を浮かべていた。

 そのあまりの変わらなさに、彩はようやく激昂した。

「なにしてるんだよ!夢々先輩……!」

「御覧のとおりです」

 なんて、簡単に言ってのける夢々先輩。夢々先輩よりも、彩のほうが怯えて声が震えている。

「だって、そんなことしたら……」

「ええ、痛いです。とても、痛いです」

 夢で感じた痛みを、彩は思い出す。あれは、すでに過去の出来事だ。だから、それを感覚しても、彩はなにも破壊しない。

 いや、彩ですら、あのときの情景を完璧に再現することはできない。だって、あれは死ぬほどの痛みだ。夢ですら、途中で再生が切れたのだ。意識のある状態であんなものを再現したら、彩の身が持たない。彩の肉体(からだ)は、あくまで普通の人間のものと変わらないのだから。

「なんで……」

「響彩くん」

 彩の混乱を、夢々先輩は遮る。彩もようやく気がついた。微笑を作りながらも、夢々先輩の額には脂汗が浮いている。

「一度、瞬きしていただけますか?」

 それがなんのために必要なのか、彩はちゃんと理解できたわけではない。しかし、その唐突なお願いに、彩は面食らって瞬きしてしまった。

 ――夢々先輩の左腕が彼女の左肩から生えていた。

 完全に元通りだ。切断された痕跡すら見当たらない。なぜなら、千切れたはずのローブですら、元通りになっているのだから。

「はい、ありがとうございます」

 彩の驚愕を余所(よそ)に、夢々先輩は微笑で会釈する。虚勢ではない、痛みを堪えている素振りなどない、一瞬前まで見えていた脂汗もすでにない。

 たった一瞬だ。それだけの断絶で、景色が一変する。落ちた左腕も無くなって、そんなことは、最初から起こっていなかったみたいに。

「……なんだよ、それ」

「なに、って。御覧になったとおりです」

「わかんねぇよ!」

 彩は叫ぶ。叫ばずには、いられない。

 困ったように、夢々先輩は表情を曇らせる。

「響彩くんは優秀なお方なのですから、ご理解いただけたと思います。――わたしは、確かにあのカニバルに殺されました。肉体(からだ)を灼かれて、バラバラにされて。あのときもいまと同じように、ちゃんと痛みを感じました」

 夢々先輩自身の口から語られた内容に、彩は凍りついたように固まった。――あの夢で感じた痛みを、確かに夢々先輩は感じていた。

「それでも、わたしは死にません。『死』という事象を、跳躍できるんです」

 なんでもないように、夢々先輩は続ける。

「わたしは、わたしの意思で自分の存在を定義するんです。『わたしは人間です』『人間として、この世に存在しています』『人間は痛みを感じます』『だから、人間(ヒト)として生きるためには、痛みを感じ続ける必要があります』」

 痛みは生きている証ですから――。

 彩は放心したように動けなくなってしまった。もはや激昂も動揺も意味をなさない。それ以上の衝撃が、そこにはあった。

 自分の在り方を、自ら定義する――――。

 しかし、それは万能ではない。自身を人間(ヒト)だと定義した時点で、その痛みから目を背けてはいけない。死ぬほどの痛みであっても、その痛みを感じ続けるなら、決してその存在は消えない。その思い描いた存在の姿で、いつまでも、変わらずに。

「そこまでして、どうして夢々先輩は存在を選び続けるんだ?」

 それは、まさしく地獄ではないのか。何度も何度も苦痛を与えられ、死ぬほどの苦痛を受けても、また蘇る。何百年、何千年、あるいは何億年だろうと、罰が許されるその日まで、永劫の苦しみを味わい続ける。

 うーん、と可愛らしい素振りで悩む夢々先輩は、閃いたように手を打って彩に向き直る。

「テレビゲームなどでコンティニューを選択するのは、なぜでしょうか?」

 彩の問いに答えるための比喩なのだろうが、生憎、彩はテレビゲームをやったことがないのでわからない。だから、ゲームはやりたいからやる、やりたくなくなったらやめる、そのていどの理解しかない。

 十秒待って、返答のない彩に代わって、夢々先輩が微笑を漏らしながら正解を口にする。

「――答えは『クリアしたいから』ですよ」

 夢々先輩の笑顔に、しかし彩は簡単に頷けない。

 だって、それはゲームの話だ。お遊びだから、何度もゲームオーバーになっても、コンティニューができる。敵にやられたって、場外にとばされたって、キャラクターの痛みはプレイヤーには届かない。そういう、割り切りができる。

 ……でも、あんたの場合はそうじゃないだろ。夢々先輩。

 何度、その痛みを味わってきた?そして、これからもその痛みを受け入れ続けるのか?

 だが、それが夢々先輩の回答(こたえ)だ。譲ることのない、いまの夢々先輩の生き方――存在の仕方。

「それが、夢々先輩の『愛憎の果て』か?」

 夢々先輩は微笑を消した。その言葉は、彩に気づく前に夢々先輩が語っていた台詞だ。

 地雷を踏んだ、ということには気づいた。しかし、ここで止まるわけにはいかない。なぜなら、それこそが、夢々先輩が誤魔化し続けようとした『根源』なのだから。

「そいつを殺すために、夢々先輩は痛みとともに生き続けるのか?」

 復讐はなにも生まない、なんて綺麗事を、彩も言うつもりはない。しかし、夢々先輩が自身に課した試練は、まさに地獄だ。

 なぜなら、彼女に終わりはない。何度脱落したって、何度も『続ける』を選択すればいい。そんな地獄を選択し続けるほどに、復讐は意味があるのか?

 彩は彼女からの返答を待った。彼女は、しかし俯いて、なかなか答えようとしない。それでも、彩は待つ。なんとしても、その問いには答えてもらいたい。

 が……。

 瞬き一つで、夢々先輩の姿が消えた。驚愕の声を上げるより先に、彩の視界が暗転する。身体そのものが接地点を失ったように、現実味が喪われていく。

 彩が意識を失う、その寸前、彼女の声が彩の耳元で囁きかける。

「その痛みは、わたしだけが抱えればいいものです。……響彩くんには、識る必要のないこと」


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