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五章


 ノイズが、割れる。


 ここはどこなのか。いまがいつなのか。まるでわからない。

 目の前を、クロの影が流れていく。姿形はマッチ棒に似ているけれど、あんなものは、ただの影だ。

 ――いやだ。

 じっとしていたほうがいいと学んでからは、もう、一歩も動いていない。その場に座り込んで、身体(からだ)を縮めて、自分自身を抱いている。

 ……そう。

 自分を、抱いている……。

 そう、思い続ける。思い込むことで、きっと自分は、そんなふうに()るのだろう。いや、在るはずだ。在るに決まっている。

 自分は、在る。

 どんなにクロい影が流れても、自分は在る。きっと、視線を落とせばシロい腕が見えるんだ。シロい身体があって、それを抱きかかえている。

 視線は、けれど、上のほうばかりを見ている。見たくなんて、ない。どれだけ、自分の身体が無くなっているか、なんて――――。

 ―――いや。

 だから、上ばかり見ている。目の前で、クロの影の群れが流れていく。決して、途切れることはない。……いや、途切れることは、ある。

 影もなくなって、クロい建物ばかりが自分を見下ろしているときが、ある。影が流れているときには、建物のことなんて気づかない。ずっと影ばかり眺めていればいいから。けれど、影がなくなってしまうと、その建物の群れが目に入ってしまう。

 微動だにしない、クロの建物。クロの線が、じっとこちらを凝視している。

 ……気が、狂いそうになる。

 それなのに、そのクロい線を見続けなければならない。自分自身を抱きしめて、自分自身が在ることを意識しながら、いつまでも、どこまでも変わらないクロを、見ていなければならない。

 その上に、ぽっかりと開いたシロの天井。最初は、あのシロが救いだった。シロはちゃんとあると、そんな希望が胸に湧いた。

 だけど、あれは誘惑だ。――こちらにはシロがある。たくさんのシロがある。さあ、あなたもおいでなさい。そんなクロに塗れた世界(ばしょ)よりも、こっちのほうが素敵なのだから。さあ――。


 ……………………。


 目の前を、クロの影が流れていく。姿形はマッチ棒に似ているけれど、あんなものは、ただの影だ。

 ――いやだ。

 また、途中で意識が無くなっていた。最近になって、ようやくそのことに気づき始めた。もっとも、その『最近』がいつからなのか、もはやわからない。だって、そうだろう。どれくらいの頻度で意識が無くなっていたのか、最初はわからなかったし、それに、どれくらい意識が無かったのか、そんなものは、もっとわからない。

 いまがいつなのか、当然わからない。影の多さから、なんとなく昼だろうとは想像できる。けれど、いまが平日なのか、休日なのか、春なのか、夏なのか、秋なのか、冬なのか、そんなものはわからない。

 ……だって。

 なにもわからないのだもの……。

 暑さも、寒さもわからない。クロの影の、違いもわからない。どれかと比べて、大きいとか小さいくらいはわかるけれど、見ているこちら側からすれば、その違いにどれほどの意味があるのかなんて、わかるはずもない。

 ――わからない、よぉ。

 どうして、自分はこんな世界(ところ)にいるのだろう。どうして、自分だけが周りと違ってしまったんだろう。

 周りはクロで、自分だけシロだった。いや、いまでもシロのはずなんだ。なのに……。

 ――クロが、零れたときからだ。

 あの瞬間(とき)から、おかしくなり始めた。身体からクロが零れるたびに、身体のシロが無くなっていく。表面上、見えなくなっているだけで、そこにはちゃんと身体があるらしいけれど。

 ――でも、恐い。

 足が無いのに、身体は動く。足がクロの床を踏んだ感触は、もちろんない。なのに、風景は流れていく。本当に、自分は動いているのか?景色だけが、流れているのではないか?

 手を伸ばして触れてみても、触っているのかもわからない。ちゃんとクロの前で止まっているときもあれば、クロの中に()り抜けてしまうこともある。最初の頃は、それでも気にならなかった。けれど、指が無くなって、手が無くなって、肘まで無くなって、さすがにおかしいと思った。おかしい以上に、


 ――恐い。


 …………………………………………。


 クロい影がなくなって、クロい建物ばかりが視界を埋め尽くす。

 ――いや。

 よりによって、こんな時刻(とき)に意識が戻るなんて。

 クロい影が流れているほうが、いい。見ていて楽しいものではないけれど、意識が途切れにくいというのは、確かだ。動いているもののほうが、どうも意識が向きやすい。それだけ集中していると、落ちることがないようだ。

 だから、影が流れるときは、じっと影ばかり見ている。それ以外のことは、できるだけ考えないようにする。考え始めると、そちらに意識が向いてしまう。そうすると、この世界のことを忘れてしまう。……一瞬でも、意識から外れてしまう。

 この世界は、クロい。クロが、支配する世界だ。シロは、あくまでキャンバス。なにもないシロに、クロを塗りたくっていく。だから、天井は――空は――あんなに、シロい。この世界のどこにもない場所。誰にも触れられない、誰とも交わらない、誰にも見られない、そんな場所。

 ……そう、見られない。

 誰も、わたしを見つけられない。イロの無いわたしを、誰が気づけるというの?シロですらなくなって、徐々にクロに塗り潰されようとしているのに……。

 ……いいえ。

 塗り潰されてさえいない。ただ、無くなっていく。もともと、無かったように。初めから、無かったように。

 ――いや、いや。

 わたしは、在る。ここに、在る。見なくても、わかる。足が無くなっても、腕が無くなっても、ここに在る。触らなくてもいい。確かめなくてもいい。ここに在ると、それだけが、わたしの存在証明(レーゾンデートル)

 そう、思い続ける限り……。

 クロの町を、見続ける。クロい人たちがいなくなっても、わたしは一人、夜の町を見続ける。ここは、きっと道の端っこ。お店も傍にない、裏道に続くような寂れた場所。……だから、誰も見向きもしない。

 ――わたしは、在る。

 クロい建物。どんなお店かはわからない。シロい空は、見上げない。見たって、月も見えないし、星も見えない。誘惑しかないのなら、そんなものは目にも入れてやらない。

 誰もいない。誰も通らない。完全なる停止。それが、唯一の救い。日中は鐘が鳴るせいで、世界が揺れ動く。意識が振り乱されて、気をしっかりもっていないと、すぐに落ちてしまう。

 だから、いまはなにも考えなければいい。ただ、クロい建物を目で追っていよう。誰か来てくれればいいのだけれど、いままでそんなこと、ありはしなかった。……だから、期待なんてしない。


「――――神魔(デミゴッド)


 初めて、見える以外に聞こえた。

 これまで、音は揺れでしか見えなかったのに。鐘の音も、人のざわめきも、全てはクロい線が揺れるだけだったのに。

「    !」

 わたしは、振り返った。クロい道とクロい建物に囲まれた、このまっクロな世界の中で――――――――――――――――――――――――そのヒトは、ヒトの形をして笑っていた。


 ……嫌な夢だ。

 内心で呟いてから、(さい)は身体を起こした。布団から腕を出してみると、そこには白い手袋をつけた自分の手が見える。

 ――シロは、ある。

 莫迦莫迦しいと頭を振ってから、彩は視線を上げる。天井付近の時計はいつもどおり、四時を示している。彩はベッド横のテーブルから本をとって、ティータイムまで読書で時間を潰すことにする。

 隣の彩の自室、勉強机の上には、いまだに彩お手製の地図がクリアファイルの中に眠っている。もう二度と、利用されることはないだろうが。

 もう、彩は捜索する理由を失ってしまった。

 ――田板縁(たいたえにし)間宮黎深(まみやれいみ)も、この世界から消滅してしまった。

 だから、警察の捜索は完全に無意味なのだ。どこを捜したって、彼らは見つからない。消えた痕跡さえ、見つけることができないのだから。

 おかしな話だ。誰も、彼らが消滅したことを証明できない。彩の証言があったって、その証拠が見つからないのだから、結局、彼らの行方は不明としか表現できない。

 消滅……。


 ――ガンッ。


 と。

 背後、彩の拳が壁を叩いた衝撃で音が鳴った。

 痛みは感じない。派手な音を立てたが、感覚を遮断する彩には、なんの意味もないものだ。

 ……だが。

 もしも、彩が感覚してしまったら、


 ――ガンッ!


 もう一度、彩は打つ。

 ……思考に、余計なものが混じっている。

 ざわついて、目の前でちらついて、無視しようとしても、視界の端で蠢いているのが見えてしまう。

「……そうだよ」

 溜息とともに、低く呟く。そのまま枕の上に倒れ込んで、視界を腕で覆う。

 ――(ひびき)彩の感覚は、あらゆるモノを『破壊』する。

 完膚なきまでに、跡形もなく。それは、感覚という一点だけで行使される。彩の意思なんて、まるで考慮されない。

 だから、彩はなにも得られない。だから、彩はなにも求めない。望まない。

 傍にいるだけで壊れてしまうなら、近づかないほうがいい。関わりを持ったがために壊してしまうなら、その関係を断とう。関わりすら、持たない。近づかない。

 なのに……。

 結局、彩が与えられるのは破壊だけだ。それは、徹底した破滅と同じだ。

 人生の破滅ではない。彩は、ただモノを破壊する。だから、その破滅は〝存在〟だ。彩が感覚し続けるなら、その存在は初めから無かったように、消えてしまう。

 ――そうさ、響彩(おれ)にできるのは、破壊だけ。

 確かに、田板と間宮を見つけることはできた。だが、彼らはもう、この世に存在しない。彩がなんと言おうと、誰も彼らの消息を掴めない。

 助けることはできなかった。そも、助かることなど、できるはずもなかった。……それが、響彩という存在。

「…………けどな」

 その事実を再認識しても、それで全てを放り出せるほど、彩は自暴自棄になれない。そんな無責任を、響彩は容認しない。

 ――全部、話してもらうからな。

 夢々(むむ)先輩――。

 一つ、息を吐き出してから、彩は時計を確認する。そろそろ、五時半を回ろうとしている。急いで、リビングに向かわないといけない。結局、一昨日は夕食に間に合わなかった。いや、(あざや)が待っていてくれたから、一緒に食事はできた。が、当然、鮮の機嫌は良くない。あれこれ理由を訊かれたが、真っ当な理由など、話せるはずもない。道に迷って遅れてしまったとか適当な言い訳をでっちあげて、何度も詫びの台詞を吐くのが精一杯だ。

 朝食前のティータイムには、道に迷ったなどという言い訳は通用しない。鮮は根に持つタイプだから、また遅れて不機嫌にさせるとまずい。素早く着替えて、彩は早足でリビングへと下りていった。


 響の屋敷からの坂道を、彩は一人で下っていく。妹の鮮は彩とは別の高校で、電車通学のため、いつも彩より先に家を出る。弟の(かおる)は、もう少し後から家を出る。そもそも、鮮はともかく、彩の登校が早すぎるのだ。

 そんな早朝の登校だから、坂道に彩以外の人の姿はない。もっとも、坂道の上半分は響の所有物だから、人気がないのは仕方ない。中間地点のミラーから下から他の民家が現れるが、道の上には当然のように、誰もいない。

 彩はミラーの下で足を止めた。

「…………」

 余計な思考が湧き出しかけて、彩はすぐに頭を振った。どうせ誰も見ていないのだ、気にする必要もない。

 住宅地のほうを一瞥しただけで、彩は再び坂を下り始める。……いくら待っても、もう間宮が来ることはないのだから。

 昨日だって、彩は間宮の家には行かなかった。間宮の告白が真実だったのか、わざわざ確認する必要もない。むしろ、間宮邸に近づくことでいらぬ疑いをかけられたくはない。まだ、新聞には間宮本人のことも、彼女の両親のことも載っていなかった。だが、平日になれば、彼らの勤め先が気づくはずだ。そうなったら、さすがにニュースで公になる。

 また『神隠し』だと噂されて、騒ぎになるのだろうか。前とは毛色が違うが、一家丸ごといなくなるのは異常だ。いや、もしかしたら夜逃げという話で片付けられるのだろうか。間宮が血痕とかを残していなければ、そうなる可能性もある。

「どうでもいいだろう。そんなこと」

 校門をくぐったところで、彩は低く呟いた。周囲には誰もいないから、彩の声が聞かれることはなかった。

 彩の記録の中には、一昨日の夜、私服姿の間宮黎深がいる。両親を喰ったと語った彼女の身体は、どこも汚れていなかった。それは、そうだろう。血塗れで外をうろついていたら、一発で通報される。入浴や着替えをすませるのが、普通だ。

 だから、彩は想像してしまった。両親二人分の血で汚れた床を一人で綺麗にしている彼女(まみや)の姿を――――。


 学校に着いた彩は、自分の教室に鞄を置くとすぐに教室を出た。いつもならホームルームまで自分の席で本を読んでいるのだが、今日はやっておきたいことがある。

 向かったのは、体育館。いや、正確にはグラウンドが見渡せる、体育館の端、金網の前だ。陸上部が朝練をしているのは知っていたが、実際に彼らの活動を見るのは、これが初めてだ。一月の早朝だ、二人の生徒がコートを羽織ったまま、隅のほうで固まっている。

 ――これだけなのか。

 開門時間になったばかり、というのもあるだろう。もうしばらくしたら、数が増えるのだろうか。二人は会話に夢中で、まだ朝練を始める雰囲気ではない。

 彩は一昨日の場所を注視する。距離はあったが、陽も出ているので、あるていどのことはわかる。

 ……まあ、なんの異変もないか。

 一昨日の夜だって、グラウンドを立ち去る前に確認している。すでにグラウンドに下りた生徒たちが気づいていないんだ、なにかあった、なんて痕跡が見つかるはずもない。

 ――あそこで……。

 彩の記録から、その光景が瞬く。――手足を失った間宮。――その彼女の上から光が降り注ぐ。――彼女が(うしな)われる、音。――光が絶えたとき、彼女は無くなっていた。

「それでも、いたんだ」

 間宮は、そこにいた。痕跡がなくても。もう誰も、陸上部の部員たちでさえ気づかなくても。

 五人ほど集まって、陸上部員はコートを脱いで準備運動を始める。最初、少し戸惑いがあったのは、きっと間宮が来ていないことを不審に思ったからだろう。

 ――あれが、間宮の言っていた『みんな』か。

 全部で六人の朝練。陸上部員はもっといるはずだが、朝練にまで出る真面目な連中は、これで全部ということ。

 もう用は済んだと、彩はその場を立ち去る。体育館でも他の部活の朝練があるのか、人の声が聞こえる。だが、彩にとって不必要な情報だから、彩は振り向くことも足を止めることもしなかった。


 午前の授業が終わって、食堂へ向かおうと彩が教室を出たところで、後ろから佐久間(さくま)が声をかけてきた。

「おう、彩。今日は俺も食堂行くぞ」

 普段は一緒に昼食をとるのだが、三学期になってから佐久間は別行動だった。だから、今日、一緒に昼食をとるのは、随分久し振りになるわけだ。

「いままで昼はどうしてたんだ?毎回、購買部だったのか?」

 食堂へ向かう途中で、彩は佐久間に話を振った。周りには彩たち同様、食堂、または購買部へ向かう生徒たちで溢れている。彼らもまた、仲間内で思い思いに会話をしている。

 佐久間は歩きながら首を横に振る。

「いんや。外に出てた」

 昼休みだからといって、校外に出て()いというルールはない。だが、佐久間のように不真面目な生徒の何人かは、こっそり外に出ているらしい。

 佐久間が外に抜けることは珍しいが、過去に何度もあって、そのたびに理由を聞かされてきたから、彩も特に驚かない。

「そうか」

 大体のことを察した彩はそれで話しを終わらせようとしたが、佐久間のほうはまだ続けていたいらしい。

「おい。もっと聞けよ」

「大体わかったから、もういい」

「いやいや、おまえはわかってない。大体、ってことは、ほとんどわかってない、ってことだぞ。なにも聞いていないのに全部わかるなんて、そんな超人はいないんだよ」

「……話したかったら勝手に話せ」

 よしよし、と佐久間は頷いて、勝手に前を歩き始める。どうやら、佐久間の武勇伝をBGM代わりに昼食をとることになるらしい。

 佐久間はまっすぐ人混みに特攻していった。昼休みになったばかりだから、受け取り口にはかなりの人が並んでいる。一方の彩は、自販機でハンバーガーを購入してさっさと席につく。

 五分ほど待っていると、佐久間がトレーを持って彩の前に座った。揚げ物の定食のようだが、おそらく、食堂で人気のお任せ定食だ。いわゆる日替わり定食で、なにが出るかは頼んでみてからのお楽しみ。安くて量も多いから、食べ盛りの高校生たちの評判は高い。

「で、外でなにしてたか、って話しだが……」

 席に座るなり、佐久間は味噌汁を一口飲んでから、そのとっておきの話を勝手に喋り出す。

「駅の向こう側のオフィスビルとかある辺りに、移動車の弁当屋があるんだよ。まあ、何台かあるんだけどな。そん中の、あれはなんて()ーのかな。アメリカン?メキシカン?まあ、なんか洋風っぽいとこで、イタリアンじゃないトコ。そこの()ーちゃんがすげーかわいーんだよマジで」

 最後だけ熱の入り方が違っていたが、彩は特に触れない。彩がコメントせずとも、佐久間のほうが勝手に話しを続けるからだ。

「でよ。昼食どきしかやってないから、昼にしかいないわけよ。だから行くしかねーじゃん」

「それで毎日行ってたのか」

 おうよ、と佐久間は平然と頷く。口の中の揚げ物を呑み込んでから、話を続ける。

「っつってもよ。平日しかやってないんだこれが。ビル連中の昼飯だから、それも仕方ねーんだけど。まあ、昼休みになって学校出て、チャリで飛ばしていくと、その時間には他に人もいなくてさ、結構話しできるんだよ」

 おかずの冷ややっこを呑み込む勢いで平らげてから、佐久間は続ける。

「大学生なんだってさ。小さくて可愛いんだけど、もう三年生で、講義もほとんどないから、バイトして稼いでるんだと。夜は飲み屋とか。コンビニは、なんか割に合わないとか、シフトを勝手に入れられるとか友達から聞いてるから、やってないらしい」

 専攻も聞いたらしいが、不真面目な佐久間の説明では少しも要領を得ない。海外の歴史研究らしい、ということしかわからない。あと、県外の出身らしく、実家は海の近くで、夏休みには講義仲間を誘って遊びに行っているとか。そこで佐久間は、自分も夏にバイトで海に行くからそこで会えるかも、なんて話しておいたそうだ。あとは、よく笑ってくれてその顔がすごく可愛いとか、小さくて可愛いとか、そんな自慢話が割り込んでくる。

 徐々に新しい内容がなくなってきて、ただの自慢話と化してきたので、彩は口を挟む。

「で、結局フラれたんだろ」

「おまえな、話してないのに勝手に結論言うなよ」

 喧嘩慣れした佐久間が険のある目で睨みつけてきたが、彩は一向に気にしない。佐久間とは中学校からの付き合いだ、あの当時の荒れた佐久間を知っている彩からすれば、いまの佐久間はかわいいほうだ。

 佐久間は添え物のキャベツを口に含んだまま、さっきまでとは打って変わった沈んだ表情で話しだす。

「一昨日の夜に、飲み屋のバイトでゴミ出ししてたときにさ、あの人と会ったんだ。彼氏と一緒でな。最初は一人かと思って声かけたんだけど、すぐに男連れだって気づいて。まあ、そのまま彼氏を紹介されたよ。彼女、結構酔っててさ。大分ハイで、楽しそうに話すわけだよ。今日は一日中彼氏とデートで、さっきまで飲んでて、これから帰るんだと」

 それ以上この件を話すつもりはないのか、佐久間は揚げ物とご飯を口に放り込む。

「佐久間はいつも、当たる前に砕けるよな」

「相手に男がいるのが悪いんだよ」

「どうせ砕けるんだから、最後に当たっておいたらどうだ」

「ばーか。そんな野暮なことはしねーよ。彼氏とよろしくやってる(ひと)は、そのまま幸せになってくれりゃいいんだ。俺がちょっかい出して気分悪くさせちまったらダメだろ」

 一つ長い溜め息を吐いてから、佐久間は最後の揚げ物とご飯、そして味噌汁まで飲み干した。一息ついた佐久間が、そこで彩の手元に気づいて視線を止める。

「って、彩。おまえ、まだ食わねーの?」

 彩の手には自販機のハンバーガーが包みに入ったままで握られている。

「おまえこそ、勝手に食い終わって良かったのか?夢々先輩を待たないで」

 久し振りにやってきた佐久間と入れ替わるように、いつも一緒に昼食を食べる夢々先輩はまだ来ない。すでに昼休みの半分近くを過ぎているから、今日は休みかもしれない。彩も待つのを諦めて、ハンバーガーの包みを解き始める。

 佐久間は神妙な表情のまま首を傾げる。

「――――誰だ?そいつ」

 かぶりつこうとした寸前で、彩は硬直した。

 ……いま、佐久間(こいつ)はなんと言った?

 驚愕に表情を凍りつかせたまま、彩はゆっくりと佐久間に視線を戻す。

「…………夢々、先輩だよ。いつも、一緒に昼飯を食べてる……」

「知らねーよ、そんなやつ。ムム、って、それ、あだ名か?」

 変な呼び名だなぁ、と、佐久間はもう彩の話しから興味を失っている。

 ――どういう、ことだ?

 三学期になってから一緒に昼を食べていなかったから、彼女のことを忘れてしまったのか?いや、そんなはずはない。佐久間は彼女に対して好意を抱いていた。しばらく別の女を追いかけていたが、それももう、佐久間の中で区切りをつけた。……真っ先に、夢々先輩のことを探しても、おかしくなかった。

 いや、探していないほうがおかしいのではないか?冬休みが明けてからずっと、彩は夢々先輩とお昼を一緒にしてきたんだ。佐久間だって、そのくらいのことは気づくはずだ。真っ先に、夢々先輩となんらかの進展がなかったか、彩に問い質してくるのが、佐久間の正常な反応ではないか。

 ――なのに、覚えていない。

 まるで。

 彼女の存在が、無かったかのように――。

「――――」

 彩はハンバーガーをテーブルの上に置いて立ち上がった。

「どうした?」

 不審そうに見上げてくる佐久間に、しかし彩は応えない。食堂の時計を確認すると、昼休みはもう、残り十分しかない。……時間が、惜しい。

 彩は早足に食堂の出入り口へと向かった。背後から佐久間に声をかけられたが、もう振り返りもしない。食堂を出て周囲の目がなくなると、彩は迷わず走りだした。一人残された佐久間は、扉に向けていた視線をテーブルのほうへと落とす。誰も食べていないハンバーガーが、包みを解いた状態で転がっていた。


 食堂を出て彩が向かったのは、三年生の教室だ。各教室には、机と生徒を対応付ける座席表が用意されている。教卓から座席表を取り出して「夢々」という名前を探す。いや、名字だろうか。その記録の曖昧さに気づいて、彩の焦燥は一層強くなる。

 いきなり知らない生徒が教室に入ってきたのだ、中にいた上級生から奇異の視線を浴びたが、彩は一向に気にしない。彩のほうから話しかけることもないし、時々向こうから話しかけられても、彩はなにも言わずに教室を出ていった。

 ……どこにも、いない。

 最後の教室で授業開始のチャイムが鳴ったが、教師はすぐに来なかったので、彩は見つからずにすんだ。すぐにトイレへと駈け込んで、教師たちをやりすごす。

 三年の全クラスを回ったが「夢々」という名は座席表になかった。職員室に行って長期欠席者がいないか確認したほうがいいだろうかと思案したが、すぐに却下した。長期欠席の生徒が、あんな普通に校舎内を歩き回れるはずがない。食堂どころか、彩は廊下でも彼女とすれ違っている。

 ――放課後になったら、図書室に行ってみよう。

 図書委員だったという夢々先輩。彩が辿れる彼女の痕跡は、もうそこしかない。それまでは、手当たり次第に校内を探してみよう。授業は始まっているから、廊下くらいしか回れない。空き教室は鍵がかかっているだろうから、外から確認できれば、見てみよう。不用意に扉に手をかけて授業中だったら悲惨だ。授業をサボった理由を教師に訊かれたら、体調不良とでも言っておけばいい。

 彩は廊下の物音がないことを確認してから、トイレを抜け出した。


 三年生の教室前の廊下だけでなく、二年生、一年生の場所、果ては職員室前まで見て回ったが、彩以外に歩き回っている生徒の姿は皆無だった。

 科学室などの特別教室がある棟も見て回ったが、収穫はゼロ。外から確認してどこも授業に使われていないようだったから中も見て回ったが、どこも鍵がかかっていて中には入れない。一応、最上階まで上ったが、諦めざるを得なかった。

 体育館やグラウンドも見て回った。他に、運動部の部室棟も行ってみたが、当然のように誰もいない。

 休み時間に入ってから各クラスを見て回ったが、夢々先輩の姿はなかった。昼休みが終わる間際に三年生の教室は回ったから、一年生や彩のクラス以外の二年生の教室を重点的に調べた。彩の記録では三年生の先輩だが、その記録も、もはや信用できない。……「夢々」というのが、果たして名前なのか名字なのかもわからないのだから。

 そもそも、彩が夢々先輩と初めて会ったのはいつで、どこなのか……。その記録自体、存在していない。

 記録の欠落、ではない。入学時点から今日に至るまで、一年と十カ月にわたる高校生活の記録を開いてみたが、その出会い(イベント)はどこにも見当たらない。

 いや、正確には、ある。

 ――去年の十一月。

 休み時間、彩は廊下にいて窓から外を眺めていた。ほんの気晴らしだ。次の授業があるからすぐに戻ろうと振り向いた。――そこで、彩は夢々先輩と出会った。

 それが、最初だ。なのに、夢々先輩は以前から彩のことを知っていると言って、彩もまた、それに頷いた。――彼女の名を、夢々先輩という呼び名を、彩自ら口にした。

 ……初対面のはずなのに、相手の名前を知っていた。

 それは、致命的な違和だ。

 なぜ、その矛盾に気づかなかったのか。なぜ、その不可解を見過ごしたのか。

 ――無かったものを、()ると思い込み

 ――在ったものが、無かったことになる

 放課後、図書室の教師に確認してみたが、夢々という図書委員は存在していなかった。そもそも、三年生は受験や就職で忙しいから、夏休み前に委員をやめてしまうらしい。

「じゃあ、あんたはどこへ行ったんだよ」

 体育館の端にあるフェンスの前に、彩は立っていた。辺りはすっかり暗くなって、体育館はおろか、校舎のほうも明かりが落ちている。部活動の時間は終わったのだ、目の前のグラウンドにいた陸上部も、もういない。

 午後から探し回ったが、結局、夢々先輩は見つからない。手掛りすら、どこにも残っていない。最後の手段だと、下足ロッカーを隅から隅まで調べてみたが、彼女の名はやはり見つからない。

 これ以上どこを探していいかわからず、途方に暮れた彩は、しかしこのまま諦めて帰ることもできず、こうして一人、フェンスからグラウンドを見下ろしている。

 ――ここで、夢々先輩を見つけたんだ。

 一昨日、ここから見えたのは後ろ姿だったから、倒れていた間宮以外、誰がそこにいたかはわからなかった。だが、グラウンドへ下りて、間宮が光に消されて振り返ったら、そこにいたのは夢々先輩だった。黒い、修道服のようなローブを身につた彼女が、そこにいた。私服には見えなかった。なにかの役目を負ったように、儀礼みたいに、彼女はそれを着ていた。

 ――間宮や田板を、無かったことにする役目。

 その役目が終わったから、夢々先輩は消えたのか?自分の存在すら、無かったことにしてしまって……。

「日を改めて、って、約束したじゃないか」

 あのとき、無理にでも聞き出せばよかったのか。彩だって、夢々先輩の言葉を信じ切っていたわけではなかった。しかし、週末が終わって学校が始まれば、またいつものように彼女に会えると、そんな甘い考えを抱いていた。

 そう、甘い考えだ。なぜ、彼女が学校に現れるなんて思ったんだ?生徒二人を消しておいて、平気な顔して登校してくるとでも?その犯行を見られておきながら……。

 ……らしく、ないな。

 いままで彩は、できるだけ他人(ひと)と関わらないようにしてきた。彩の感覚は、あらゆるモノを破壊する。だから、誰かと関わることで、接することで、破壊してしまうことを恐れていた。

 そうやって、自ら創った孤立のせいで、彩は何度も暴力に襲われた。子どもというのは、異端や偏屈を攻撃してくる生き物だ。恐いものなどなにもないのだと、自分こそがこの小さな箱庭の支配者なのだと、思い込むために。

 だから、彩は関わらない。降りかかった火の粉は、最低限、振り払うように努力する。そのおかげで、感覚遮断を弱めて人の気配を読むようになったし、攻撃のかわし方や気絶のさせ方を覚えたのだ。

 でも、それだけだ。彩は、いまでも孤立のままだ。大勢の暴力に勝利しても、彩は彼らの主にはならない。

 そうだったはずだ。妙な事件に巻き込まれたって、済んでしまえばそれで終わり。彩はそれ以上、深追いなんてしなかった。そもそも、好きで喧嘩をしていたわけではないのだから。

 ――だから。

 夢々先輩のことだって、深追いしなくても――。

「ふざけるな……」

 彩は助けようとしたはずだ、間宮や田板のことを。結局、彼らを救うことはできなかったけれど、彼らに迫った人物を、彩は見つけたんだ。

 夢々先輩――。

 ――俺は、あんたを諦めない。

 約束は、守ってもらう。無かったことになんか、させやしない。

「絶対に、見つけ出してやるからな。夢々先輩」


「本当に、わたしの思うとおりに動いてくださいませんね。響彩くんは」


 その声に、彩は反射的に振り返った。明かりのない闇の中だったが、闇に慣れていた彩の目は、確かに彼女の像を結んでいた。これまで彩が見てきた制服姿ではなく、一昨日に初めて見た黒いローブを身につけて。

 ……なんだ、やっぱりいるんじゃないか。

 本当なら、警戒すべきなんだろう。間宮と田板を消した人だ。それに、東波(とうば)高校の生徒全員の記憶から自分の存在を消してしまうような人。今夜現れたのだって、彩の記録を消すためかもしれない。

 しかし、彩はまず安堵した。彼女は、彩との約束を守ってくれた。姿を眩ましたままにすることだってできたのに。彩のことなんて無視し続けてもよかったのに。でも、彼女はそうしなかった。彩のことを監視していて、無視しきれなくて、こうして、彩の前に現れてくれた。

 はあぁ、と夢々先輩はあからさまに溜め息を()く。

「響彩くんは、よくわからないお人です。どうしてわたしが現れて、そんなホッとした顔をなさるのですか?普通、もう少し恐がったり警戒したりしませんか?」

 彩自身はいつもの無表情でいるつもりなのだが、思ったよりも顔に出ているのか、それとも夢々先輩の洞察力が逸脱しているのか、いまいちわからない。

 だが、そんなことは関係ないし、気にしない。彩は口元を緩めて、返してやった。

「普通は怒るところだよ。後で話す、って約束しておきながら、丸二日も待たせるんだから。今日の昼に出てきてくれれば、俺も夢々先輩を探したりしなかった」

「あら、お約束は『また後日』ですよ。いつ、なんて、最初から決めてなかったではありませんか」

「夢々先輩がそんな人非人だとは思ってなかったんだ」

 彩の非難が夢々先輩の琴線に触れたのか、彼女は「ふふふっ」と微笑を漏らす。

 まるで、これまで学校で一緒に過ごしてきた時間と同じみたいだ。制服姿ではないけれど、夢々先輩は彩と談笑してくれる。変わらない彼女の姿に、彩は自然と安堵を覚える。

「それではお約束どおり、お話し致しましょう」

 夢々先輩は口元に微笑を浮かべたまま、しかし目からは笑みを消した。

 ……わかってしまう。

 表面上は談笑を繕いはするけれど、ここから先は、気安く立ち入るべき場所ではない。彩もまた、相応の覚悟をもって臨まなければならない。変わってしまった彼女の姿に、彩は反射的に手を握りしめた。


「お話しすることは、田板縁くんと間宮黎深さんのこと、そしてわたしのやったことなどで、よろしいでしょうか?」

 なにから訊くべきかと、彩が言葉を見つけるより先に、夢々先輩はそう提案してきた。それで十分になるかは現段階では不明だが、大雑把にはそれでいいだろうと、彩は了承の意を込めて頷いた。

「まずは、それで頼む」

「わからないことがありましたら、適宜質問を挟んでかまいませんので」

 そんな前置きをしてから、夢々先輩は口元からも笑みを消して、語り出す。

「わたしが調べたところによると、田板家は魔術師の家系でした」

「魔術師?」

 ええ、と夢々先輩は頷く。

「魔術師というのは、魔術を使える人たちの総称です。呪文を唱えて火をつけたり、魔方陣や魔石を使って結界を作る、そんな理解でかまいません。一昨日、わたしが光を出したのは覚えていますか?あれも、大雑把には魔術に分類されます」

 厳密には違うのですけどね、と夢々先輩は付け足す。

「魔術は、現代では数が減りましたが、いまでも存在しています。科学が広まってからは、魔術の隠蔽や秘匿が行われていますけれど。なので、存在しているといっても、普通の人が関わることは一生ありません」

 響彩くんは例外になってしまいましたね、と夢々先輩は口だけで笑う。しかし、その笑みはどこか悲愴じみて見えた。

「魔術も科学と同様、系統だった学問なので、万能ではありません。特に、魔術は個人差が強くでます。匠の技、というものでしょうか。遺伝的な影響もあるようなので、魔術は家系の中だけで閉じる傾向があります。そのため、大昔では特定の魔術師の家系が支配階級についていたこともあります」

「田板の家が、その魔術師だと?」

 はい、と夢々先輩は頷く。

「といっても、田板縁くんのお(うち)では、魔術の継承はされていなかったみたいですね。先ほども申しましたが、現代では魔術師の数は少なくなっていますから。なにせ、公にできない技術ですからね。いくら魔術を極めたところで、それだけで生計を立てることはできません。そういった理由もあって、魔術師は年々、絶えていっています」

「それでも、田板は魔術師だったんだろ?」

 そうでなければ、田板の家が魔術師の家系だ、なんて話をする必要はない。彩の疑問を()んで、夢々先輩は即座に頷く。

「ええ、そのとおりです。田板縁くんのお家には、魔術の伝承のために魔術書があったようです。いわば、魔術の教科書ですね。一般的に、魔術書にはその一族以外の方が解読できないように暗号が施されていて、正しく継承がされなければ、魔術の習得はできません」

 そこで一度、夢々先輩は溜め息を吐く。

「田板縁くんの場合は、独学か、どこかにヒントがあったのでしょうね。ともかく、田板縁くんは魔術師としての技術を習得していました。魔術書や魔石――一般には魔具と呼びます――それが見つかっています」

 彩は山奥の隠れ家を思い出していた。あの隠れ家の奥の部屋に、意味不明な文字の羅列を記した本があったのを、彩は記録している。魔石――魔具――というのは彩も検討がつかないが、鍵のかかった棚にでも入っていたのかもしれない。あるいは、田板の家にそういった(たぐい)のモノが隠されていたのだろうか。どちらにしても、夢々先輩はすでに、そういった証拠品を見つけていることになる。

「それで、夢々先輩はどうして田板を……?魔術師だから、なんて理由じゃないよな?」

 夢々先輩の話しぶりから、魔術師が取り締まるべき存在ではないことを、彩も察している。案の上、夢々先輩は彩の確認に答えた。

「もちろん、魔術師になったから消去したわけではありません。魔術師は、魔術の存在が公になることを禁じていますけれど。わたしの所属は、そういうことには関与しません」

 よくわからないが、夢々先輩は魔術師、ではないのだろうか。魔術師と自負する連中、団体、あるいは家柄、といったものが存在するが、夢々先輩(かのじょ)はそれ以外の所属(ところ)にいる、と……?

 わからないなりに理解して、そのうえで彩は訊ねる。

「じゃあ、夢々先輩たちの理由は?」

 なぜ、田板や間宮に手を下したのか?同時に、夢々先輩のいる所属(ところ)とは?

 夢々先輩は、しばらく悩んでいるふうだった。それをあっさり話せるなら、夢々先輩も姿を眩ませたりしないと、彩だって理解はできる。理解はできるが、そこから先を説明してもらえなければ、彩は納得できない。だから、正確に答えてもらうために、彩は辛抱強く待った。

 実際にはどのくらい待ったのか、感覚を遮断している彩にはわからない。少なくとも一分は経過した頃に、夢々先輩はようやく決心できたのか、口を開く。

「――――田板縁くんは〝カニバル〟になっていました」

「カニバル……」

 ええ、と夢々先輩は淡々と続ける。

食人行為(カニバリズム)から来ています。つまり、人間(ヒト)を食べる生物です」

 彩は訊き返すことさえ、忘れた。

 ――人を喰う、生き物。

 田板は〝それ〟に()っていた――。

 黙り込んだ彩を無視するように、夢々先輩は表情を変えずに続ける。

「カニバルは、実際にこの世界に存在しています。カニバルとして生まれた天然物のことは『神人(しんじん)』といいます。カニバルは、生命というよりも世界に近いんです。世界から直接エネルギーを汲み上げるため、ほぼ無尽蔵の力が使えます。傷は即座に塞がり、病気にも罹らない。理想的な不老不死ですね。さらに、基礎体力も標準で人類(ヒト)を遥かに超えます。……そんな超人でありがなら、人喰いを嗜好する」

 そこで夢々先輩は一息つく。

「そんな完璧な肉体を得ようと、人間からカニバルへ肉体を変異させる人たちが、時々います。ほとんどが魔術師上がりですね。そのように、後からカニバルになった者は『魔人(まじん)』といいます。――田板縁くんは、その『魔人』になったんです」

 夢々先輩は彩の反応を待つように一度言葉を切る。が、彩には反応のしようがなかった。なので、夢々先輩は諦めたようにまた口を開く。

「魔人になると、確かに不老不死になります。しかし、元が人間なので、天然の神人とは違って、所々欠陥があることが多いです。代表的なところでは、日光を浴びると肉体が急激に劣化する。そのため、魔人は基本的に夜行性です。また、世界から直接エネルギーを汲み上げる能力も、神人より劣ります。また、これが最も致命的ですが、人喰いの本能が強く現れます。人間も、思春期を迎えると性欲が活発になりますでしょう?それと似たようなものです」

 そんなふうに、夢々先輩は簡単に例えるが、それを受け入れるために、彩は思考を挟む必要があった。

 だって、そうだろう。思春期でイライラしたから、目についた人間を殴るようなものだ。そんな気軽に、人を喰いたい、なんて衝動があってたまるか。

 だが、夢々先輩の微動だにしない瞳からは、嘘が読みとれない。だから、彩も笑って冗談で済ませることができなかった。これまでの話しを彩なりに整理したうえで、彩はようやく口を開いた。

「つまり夢々先輩は、そのカニバルを消すための、どこかに所属しているんだな」

 それこそ、夢々先輩が田板を殺した理由。人の道を外れてしまった田板を、跡形もなく、痕跡も残さずに抹消した動機。

「わたしたちは単に『教会』と呼んでいます。魔術師や人喰種(カニバル)の存在が一般に知られていないように、教会の存在も秘匿されています」

 当然、世間で知られているあの教会ではあるまい。それ以外の、夢々先輩が所属している『教会』とやらは、世間一般では知られていない〝カニバル〟を消すことを生業か教義にしているらしい。

「じゃあ、間宮もカニバルだったのか?」

 もはや疑いを挟む余地もないが、彩は確認の意味で夢々先輩に問うた。

「田板が、カニバルになったときの薬を、間宮に飲ませたのか?」

「それは想像になりますけれど、おそらく違うと思います」

 彩の質問に、夢々先輩は答える。

「世界に近い存在とはいえ、カニバルも繁殖ができます。神人の場合、力が強すぎるため、自ら種を増やそうとする者はあまりいませんけれど。ただ、魔人は食料や寝床を確保するために、自分の手足となる仲間を増やすことがあります」

 手足、という単語が気になったが、彩は黙って夢々先輩の言葉を待つ。夢々先輩の瞳は少しも揺らがなかったが、しかしその先が出るには、数秒の間があった。

「仲間にしたい対象に自分の血を流し込む――――。これが、カニバルの繁殖方法です」

 彩の脳裏に、神社の裏で田板と出会ったときのことが浮かぶ。――田板は、彩の首筋に噛みついてきた。

 ……その後、彩はどうなった?

 得体の知れない感覚に、彩は目眩(めまい)を起こした。いや、目眩だけでなく、音もほとんど聞こえなかった。立っていられなくて、その場に倒れて……。

 彩の動揺など知らず、夢々先輩は先を続けた。

「血を与えた者を親として、子どもは親の命令には絶対に従います。身体の所有権を掌握されてしまうそうです。だから、親は子どもを使って安全の確認や食料の確保などをさせることが多いです。だから、普通は子どもと最初に遭遇して、そこから親を辿るものなんですけれど。今回は珍しく、逆になってしまいました」

 子どものほうが強いというのもなかなか(レア)ですけれど、と付け足した夢々先輩の口調はどこか笑っているような気がした。

 彩は、それどころではない。彩は自身の記録を閲覧する。意識が戻って、ようやく立ち上がったとき、田板はまず、彩に自分のところへ来るように、と言ってきた。その後…………。

 田板があっさりと言ってきたから、彩はついカチンときて田板を殴ってしまった。助けようとした相手に逆に襲われ、途端、意識を失いかけたのに、向こうは平然としていたんだ。こればかりは、田板の態度もどうかと思う。

 だが、そういうことなのか。田板は、彩を自分の手足にしようとしていたのか。きっと、首筋に噛みつかれたときに、田板の血を流しこまれたんだ。

 ……だが、なぜだ?

 彩は結局、田板の手足にならなかった。人喰いの衝動もないし、陽の光を浴びても身体が崩れることもない。夢々先輩が手を下さないのだから、響彩は依然、人間のままなのだろう。

 なのに――。


「……じゃあ、間宮は田板の都合で、カニバルにさせられたのか?」


 ――間宮黎深は、人喰種(カニバル)になっていた。

 間宮は、不老不死なんてものを望んではいなかった。その代償として、学校に行けなくなることを覚悟してなどいなかった。

 ――人喰い、なんて。

 そんなもの、受け入れられたはずが――――。

 彩の口調と表情からなにを読みとったのか、夢々先輩は目を(すが)めて彩に応じた。

「そういうことになります。しかし、カニバルになった以上、間宮黎深さんをこの世から消さなければなりませんでした。――事実、すでに間宮黎深さんはご両親を捕食されていました」

 なんて簡単に、現実を突きつけられる。

 間宮のときもそうだった。彼女もまた、まるでなんでもないように、あっさり告白してきた。


 ――――オカアサンヲ、タベタノ

 ――――オトウサンカラモ、オイシ


 ――やめろ!


 そんな、簡単なことじゃないだろう。

 間宮は、望んじゃいなかった。なのに、現実は拒否を許してくれない。

 目が覚えている、耳が覚えている、舌が覚えている、手が覚えている。あの光景、あの音、あの味、あの感触。

 それでも、衝動は納まってくれない。間宮はその衝動に呑まれたくなくて、だから彩と距離を置いていた。すぐに逃げ出してもよかったのに、彩が引き止めるから、間宮は話しをしてくれた。

「そういうものなんですよ、カニバルというのは。本人の意思を捻じ曲げてしまうほどの、強い本能――衝動――をもちます。田板縁くんは、どうやら対策を考えていたようですけれど。それでも、仲間を増やした時点で、田板縁くんの危険度は変わりません」

 お二方は消去する以外、選択肢がありませんでした――――。

 夢々先輩の落ちついた言葉を、しかし彩はすぐに受け入れることができなかった。

 彩だって、これまでの夢々先輩の話をちゃんと聞いている。無茶苦茶な話しでも、彩が体験したことと合わせれば、納得できてしまう。

 夢々先輩は教会に所属していて、そこではカニバルを抹消している。だから、夢々先輩はカニバルを消した。……ただそれだけのこと。

 だが、彩にとって田板と間宮は、カニバル(それ)ではない。彼らは、響彩のクラスメイトだ。人付き合いを忌避する彩の中で数少ない、話しかけてくれる生徒たち。彼らが人間以外の存在になって、人を喰らう化物になったなんて、だから消すしかないなんて、そんなこと、あっさりと受け入れられるはずがない。――苦もなく受け入れて、いいはずがない。

 さて、と夢々先輩は表情をもとの平坦なものに戻す。

「ご理解いただけましたでしょうか?田板縁くんと間宮黎深さんの身になにが起きたのか。そしてわたしが、どういう役目を帯びた存在なのか」

 彩は返事をすることができなかった。その意味を夢々先輩も察しているのか、彼女は気にせず言葉を続けた。

「ご理解いただけなくてもかまいません。むしろ、このようなことは一生理解されないほうがご自身のためです」

 無機質な夢々先輩の声は、なぜか突き放すような響きを帯びていた。受け入れられなくてもかまわない。受け入れないことで、彩が隠蔽されていたものから距離を置き、穏やかな日常に戻れるなら、そのほうが()い。……そんなふうに、彩には聞こえた。

 彩は焦りを覚えて、思考を急回転させる。ここで終わるわけにはいかない。このままなにも言えなかったら、夢々先輩は躊躇いなく「さよなら」を言ってしまう。

「夢々先輩が東波高校からいなくなったのは、もうやることが終わったからか?」

 これ以上、田板や間宮のことで訊いておきたいことが思いつかないから、彩は当初の疑問をようやくここで口にする。

 学校中の誰もが、一緒に昼食をとった佐久間でさえ、夢々先輩の存在を忘れてしまった。もちろん、二日で全校生徒の記憶からその情報だけが欠落するなんて、普通ではない。その異常を作り出したのは、間違いなく、目の前にいる夢々先輩。

 ふっ、と口元を緩めて、夢々先輩は苦笑を漏らす。

「そういうふうに見えてしまいますよね……。実は、わたしがこの町にやってきた本当の理由は、田板縁くんのことではありません。偶々、彼がカニバル化の禁術を使ってしまったので、わたしが隠蔽をしただけなんです」

 その笑みは、苦笑とはいえ、場違いじみて見えた。ゴミ箱に向かってゴミを投げたのに、淵に当たって床に落ちてしまったような、そんな簡単な失敗のように。

 ――田板や間宮が死ななくちゃいけなくなったのは、そんな大したことない想定外なのか?

 奥歯は噛まない。限りなく無表情のままで、頬一つ、ぴくりとも動かさない。ただ右の拳だけを微かに開閉するだけで、彩は口を開けた。

「じゃあ、やるべきことはまだ済んじゃいないんだな?」

 ええ、と夢々先輩は当たり前のように頷いた。

「ただ、本当のお仕事のほうも、そろそろ終わりそうです。だから、この学校から出たのは、間違いではありません」

「…………今度は、誰を消すんだ?」

 彩は記録している。――彩に噛みついてきた田板も。……一緒に帰ろうと誘ってきた田板も。――両親を食べたと告白した間宮も。……毎朝、一緒に登校した間宮も。

 響彩が望んでいなかった人との関わりを、彼らはくれた。そんな彼らを、結局、彩は救えなかった。探し回って、やっと見つけたのに、彼らは彩の目の前で消えてしまった。跡形もなく、まるで無かったかのように。

 もはや人ではなくなったと、人を喰う存在になってしまったのだと理解はできても、彩は彼らとの記録を蔑ろにすることができない。

 ふふふっ、と夢々先輩が笑みを漏らす。それは苦笑ではなく、心底おかしく感じているときの、静かで、綺麗で――――凄惨な笑い。

「気になりますよね。でも安心してください。この学校に関係する人ではありません。田板縁くんや間宮黎深さんのようなカニバルになりたての赤ちゃんではなく、もっとずっとベテランの――――――――――――――――――――――――人間から外れた存在ですから」

 気づいたときには、夢々先輩は姿を消していた。いや、記録はちゃんとある。なにも言えなくなった彩に見切りをつけて、夢々先輩はまた光に包まれて去ってしまった。だから、夢々先輩がどこへ向かったのか、彩にはわからない。

 なにも言えなかった。我ながら情けないと思うが、夢々先輩がいなくなったいまでも、彩は彼女になんて言えばいいのか、わからない。

 あの微笑は、狂気とでも呼べばいいのだろうか。それくらい、あの表情が放つ雰囲気は常軌を逸していた。当然といえば、当然か。彩が経験してきた、子ども同士の喧嘩とはわけが違う。本当の、殺し合いだ。勝って相手を消すか、負けて相手に喰われるか。その世界に身をおいている彼女からすれば、田板や間宮のように、カニバルになりたての相手なんて、赤子の手を(ひね)るようなものなのだろう。

 その、冷やかな殺意を、彩も()た。しかし、それ以上に、夢々先輩の表情の裏側からちらついていたものも、彩は()てしまった。それがために、彩は返す言葉を失った。

 ……夢々先輩。

 なんで、そんな顔をするんだよ……。

 その微笑は、どこか自嘲しているように、彩には見えた。


 町の中心部から四キロほど離れた河川沿いに、一際大きなマンションが一つ。周辺にもマンションはあるが、他が二階建ての高さに対して、その一件だけは八階建てと、圧倒的な高さを誇る。そのマンションの屋上からなら、町全体を優に眺めることができる。

 見るのは遠く、町の夜景ばかり。足元を見下ろしても、ほとんど闇だ。マンションや民家からの光は互いの影になって、その存在を見つけることさえ困難。

 そのマンションの屋上、フェンスの外側に二つの影が佇み、外の景色を眺めている。一人は金に輝くストレートの長髪で、外壁に腰を下ろして刃物のように鋭利な眼光を眼前に向けている。もう一人は茶髪の巻き毛で、小学校高学年から中学生くらいの背丈しかない。外壁の上を、まるで平均台の上を渡るように、両手を地上と水平に上げて、端から端まで歩いては、時折、外の景色に目を向けて楽しそうにはしゃいでいる。そんな対照的な二人の共通点は、ともに女性で、修道服のような黒いローブを身につけていることくらい。

 ビル風に紛れて、一つの風が吹き上がるのを、金髪の女性は感じ取った。いや、それより以前に、その存在の接近は視認していた。が、彼女は特に振り返ったりしない。それが彼女のすぐ隣に着地したことなど、気配だけで十分に察知できる。

「ただいま戻りました、エリザさん」

 現れた少女もまた、黒いローブを着ている。背丈は中学生くらい。が、少女が中学生ではないことを、金髪の女性は知っている。

 女性は少女を一瞥しただけで、すぐに視線を正面に戻す。金髪の女性が見慣れたとおりに、少女は微笑んでいた。それを場違いだと感じつつ、しかし女性はその点には触れない。

「用は済んだか?」

 簡潔な女性の問いに、少女は「はい」と微笑のまま頷いた。

「必要なことは話してきました。……納得してくれたかは、微妙ですけれど」

「おまえは納得したのか?」

 少女がなにをしてきたのか、監視はしていなくても、女性は知っている。そもそも、少女の望みを聞き入れ、行動の許可を出したのは女性自身なのだから。

 少女は、ある学校に潜入していた。別に、その学校に意味があったわけではない。女性や、そこで屋上の縁を行ったり来たりしている少女が準備をしている間、身を潜める場所ならどこでもよかった。

 強いていうなら、情報収集のしやすいところか。そういう意味で、学校という場所は至極、都合がいいらしい。授業時間、休み時間、なんて予定が明示的で、不測の事態が起こりにくい環境だから、自由に行動できるのだとか。

 もちろん、この少女は一度も授業を受けていない。学校の生徒だと認識はさせるのに、どのクラスに所属しているか、という情報は空白で、かつ、その空白に違和感を抱かせない。

 ……とんでもない、化物だ。

 暗示という魔術は確かに存在するが、少女がやっているのは、そんな次元ではない。少女自身が対象の認識を操作するのではなく、少女を観測した人間が自然と彼女の存在を受け入れてしまう。少女が存在していることの辻褄を、観測者自身が作り上げる。いわば、記憶の捏造だ。だが、捏造している本人は、それが捏造しているものだと気がつかない。錯視やだまし絵を見ているのと同じようなもの。

 そんな蜃気楼はもう芝居をやめたのだが、舞台の小道具の中で気になるモノがあったらしい。いや、彼女からすれば、それは観客だとか。少女とともに踊る操り人形(マリオネット)ではなく、彼女という存在を客観視してしまう、観測者(オブザーバ)――――。

 正直なところ、女性には少女の(げん)が理解できなかった。いや、いまだって理解などできていない。女性は、まだ種を明かされているから、こうして少女という在り方、蜃気楼の存在を認識できる。だが、その事前情報もなしに、個の存在を理解できるはずもない。

 だから、重要なのは少女が語る観測者のことではなく、少女自身の納得だ。納得できていなくても、今後の活動に支障がでないていどに踏ん切りがつけばいい。

 女性の簡潔な問いに、少女は「はい」と明瞭に頷いた。それでいい。女性は一瞥で少女の顔色を確認して、それで良しと頷いた。

「なら、おまえの擬態は今度こそ終了だ」

 嘘を吐いているかどうかは、蜃気楼相手なのでわからない。だが、人としての機能を備えてはいるのだ。ボロを出したところで追及すればいいこと。といっても、これ相手の扱い方など、変わりはしない。――教会(うえ)からの指示は絶対なのだから。

「それで、次のわたしの任務(ミッション)は?」

 少女は微笑のまま、女性に問いかける。

 わかりきったことを、と女性は内心で毒吐く。そもそも、女性たちの準備が整ったから、少女を学校から引き剥がしたのだ。少女がこの後なにをするかなど、少女自身も、よくよく心得ているはずだ。

対象(ターゲット)は、土曜の早朝に日本(ここ)を発つ。それまで、平日の予定は完全に埋まっている。日本政府に知られず実行するには、金曜から土曜にかけての真夜中を狙うしかない」

「それまでは待機ですか?」

「おまえはな。ヤツの追跡は、あたしとミルヒでやる。あくまで見失わないための保険だから、深追いはしない」

 首を捻って、女性は少女を見上げる。一瞥ではなく、女性は少女を視界に捉え、逃さぬまま口を開く。

「――人類の敵に最期を下すのは、おまえだ」

「わかっています」

 少女は苦笑を漏らす。いつも、こうだ。なにをいまさらと、そう突きつけられた気分だ。

 ふん、と鼻を鳴らして、女性は再び視線を正面に戻す。町から離れたこの場所は、相変わらず闇だ。

 闇は別段、不都合ではない。むしろ、彼女たちには慣れ親しんだ場所でもある。陽の光を恐れ、人目を避ける怪物を負う彼女たちだ、闇に潜むのは、普通の人間が昼間に出歩くくらい、自然なこと。

 そんな闇の住人でも、少女のように自然体で微笑(わら)う者は少ない。任務のことしか口にしない者が大半で、腕自慢や馬鹿騒ぎをしたがる者がごく一部。女性も教会に所属する者の数を把握しているわけではないから確かなことは言えないが、二割から三割ていどだろう。だが、そういう威勢のいい連中も、現実を見ていくうちに――人が喰われるところを見ていくうちに――大半の仲間入りをするようになる。

 中には情緒不安を抑えられないやつも当然でてくるが、そういった脱落者は最前線からは外されて、教会の(なか)の仕事に専念してもらう。隊の統率を乱して成功率や生存率を減らされては堪らないからだ。

 だが、そんなふうに精神がイカれても、少女のように微笑(わら)う人間は、かなり稀だ。そこで一人、ずっと歩き回っている少女のように、精神的に停止する、あるいは退行する者なら、女性も何人か見たことがあるし、噂話で流れてきたりもするのだが。

「いま話せることは以上だ。定時連絡を入れるから、役目が回ってくるまで、寝床で待機していろ」

 はい、と少女は素直に返事をして、すぐに屋上から姿を消した。女性は振り返らない。ただ、風の流れから少女が去ったことを認識するだけ。

 あの少女のように微笑(わら)う人間が少ないことを、女性はすでに()っている。

 ――早死にするんだ。

 少女が去ってなお、女性はマンションの屋上に座ったまま、正面から視線を逸らさない。もう一人の少女も、ミリ秒も一寸も狂いなく、屋上の縁を往復し続ける。


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