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四章


 ノイズが、走る。


 周囲の景色が、次々と後ろに流れていく。いや、線の群れだ。床も、壁も、クロい線が我先にと、後方へ駆け抜けていく。

 自分が走っているのかもしれない。しかし、それは瑣末な問題だ。景色が流れて、風景が変わっていく。線はぐちゃぐちゃと乱れて、いろんな形を造っては崩れ、また造っていく。

 ――行かなきゃ。

 そう念じるだけで、景色が変わっていく。段差のある床を駆け上った。建物がひしめき合う場所を潜り抜けた。広場のようなところも通った。床から、次々と線が噴き上げてくる。あれは、噴水だろうか?棒みたいな線も、時々、見かけた。線が寄り集まって、太い一本の線になっている。線というより、マッチ棒みたいだった。先端が丸い、まっクロな棒。

 ――お仕事。

 そう念じると、ぴたりと景色が止まった。目の前には、これまでと同じような、建物の形をした線があった。いや、建物の形をしているのだから、クロかな。どちらでもいい。クロは線で、線はクロ。

 ……ぐい、と。

 視界が歪む。身体が引っ張られるみたいに、景色が流れている。上を見上げると、徐々にシロい天井が減っていって、辺りはクロい壁に覆われている。

 次に現れたのは、クロい扉だった。いや、この世界にはクロとシロしかないんだ。だったら、これは扉だ。扉を開けようと手を伸ばして、


 ……………………。


 どこかの部屋の中にいた。床も壁も、天井まで、全てクロい線が包み込んでいるから、きっとここは部屋の中だ。クロい線だらけだったけど、どうやらモノの境界はあるらしい。例えば、いまいるのは扉のない仕切りだ。つまり、ここから部屋の中を眺めることができる。部屋の真ん中に、大きな机が一つ。壁の回りには、なんだかよくわからないモノが並んでいる。あれは水道だろうか?なにかを入れる袋だろうか?一際目立つあれは、釜だろうか?

 この部屋には、クロいマッチ棒もいた。しかも、二つだ。一つは、机の前でなにかしている。一つは、釜の前でじっとしている。じっとしている、ように見える。クロい線は絶えず動いて――揺れて?――いるから、本当にじっとしているかは、わからない。ただ、あまり動かないから、じっとしていると、そう見えるだけだ。

 ――なにを、しているんだろう?

 部屋は止まっているのに、そのクロいマッチ棒は時々動いている。机の前にいるほうは頻繁に動いているが、釜の前のほうは本当に時々しか動かない。

 その場に座り込んで、中の様子をただ眺める。……なんだか、変だ。

 自分は、こんなふうに見ているだけでいいのだろうか?どうして、この部屋にいるのだろうか?なにか、することがあるのではないか?

 な、に、か――?

 お、し、ご、と――?


 …………………………………………。


 どうやら、外にいるようだった。上を見上げると、そこにはシロい天井が広がるばかりで、クロい線はほとんど見えない。いや、全くかもしれない。ほとんどの気がしていたが、クロを見つけようとしても、見つけられない。

 視線を下に下ろすと、クロいマッチ棒がたくさん歩いている。いや、流れているのか。マッチ棒が歩くなんて、そんなのは変だ。だから、ただ流れているのだろう。それこそ、風景のように。

 ――と。

 景色が、揺れた――。

 線が、揺れている。ゆらゆらと、水面に落ちた葉のように、迫りくる小舟のオールが水面を打つたび、小さな葉っぱは渦に呑まれるように揺れ、ついには呑まれて消えてしまう。

 ――ああ。

 消えるのかな、とそんな思考が過ぎった。その途端、揺れはますます酷くなって、本当に、このクロとシロの世界が亡くなってしまいそうだった。

 ――消えたくは、ないなあ。

 他人事のように、そう思った。

 まだ、この世界を見届けていない。あの部屋の中にいたマッチ棒は、どうなったのだろうか。目の前を流れていたたくさんのマッチ棒は、結局どうなったのだろうか。

 ――カチリ、と。

 不安定に揺れていた世界が、カチ()った――。

 なんとなく背後を振り返ると、そこには建物らしいモノが立っていて、目の前にはぽっかりと開いた扉があった。そう、扉は開かれた。いや、まだ閉まっているのだろうか?でも、もう扉は開くときなのだと、なんとなく、思った。

 ――マッチ棒が、入っていく。

 そう、思ったときだった。そのとおりに、マッチ棒が扉の中に吸い込まれていく。自分の周りには、マッチ棒が津波のように押し寄せてくる。しかし、不思議と身体(からだ)は流されない。自分の場所だけ避けてくれるのか、あるいは、自分の身体を()り抜けてくれるのか。とりあえず、彼らの行く先を眺めてみる。

 ――よく、わからない。

 クロい線が跳ね回っているばかりで、中でなにが起こっているのか、全くわからない。マッチ棒が部屋の中をぐるぐる回って、しばらくすると外に抜け出してくる。

 なにかあるのか、と思って中に入ってみたが、クロい線に視界を覆われて、結局なにもわからない。あまり見ていると目を回しそうだったから、すぐに外に抜け出した。

 ――もう、いいや。

 その建物の前から離れて、他に見るモノはないかと、歩き出す。

 ……どこも、同じようなモノばかり。

 建物があって、マッチ棒があって、また建物、マッチ棒……。一つ一つ見てみれば違いがあるのかもしれないが、そんなものは、微々たるものだ。マッチ棒の中で動きがあるので、最初はその中に飛び込んでもみたが、ただクロい線が踊っているだけで、なにがなんだかわらないから、結局そこから離れるようになった。遠目で、マッチ棒たちの動きを観察する。そうすると気持ち悪さはないけど、結局なにが起きているのかはわからない。

 ――なにが、起きて?

 ふと、自分の手に視線を落とした。……なにも、なかった。

「    !」

 なにもないと思って驚いたが、よく見るとそこにはシロい線があった。

 シロい、線だ。

 クロい床の上に、ぽっかりと空いたシロ。だから、自分の手は、腕は、身体はシロいのだと、そう納得した。

 ――なんで、だろう。

 どうして、自分だけシロいのだろう。いや、シロは、なにも自分だけではない。

 上を、見上げる。どこまでも広がる。まっシロな天井。クロい床、クロい壁なんかよりも遥か遠くに存在する、果てしないシロ。

 ……目の前が、クロくなった。

「  ?    !」

 なにが起きたのか、わからない。一瞬だけクロの揺れが強くなって、その後、一気にクロが視界に流れ込んできた。

 ――やめて。

 クロを、流し込まないで。クロを、押しつけないで。わたしは、シロなんだ。シロは、在るんだ。クロじゃなくても、ちゃんとシロは在って、


 ……………………………………………………………………………………。


 身体中からクロを滴らせて俯いていた。

「        」

 どうやら、床の上に座り込んでいるらしい。いつもより、ずっと視点が低い。立ち上がると、ぼたぼたとクロが零れ落ちていく。だが、真っ直ぐ立ち上がると、もうクロは零れてこない。

 ――なにが、起きたんだろう。

 よく、わからない。わからないけど、とりあえず、自分の手に視線を落とす。……そこにあるのは、シロだった。……クロでは、ない。

 ――よかった。

 なにがよかったのかはわからないが、とにかく、よかった。そう思うのだから、それはとても大切なことだ。そんな、気がする。

 さて、歩き出そう。いつまでも、こんなところで立ち止まってはいられない。目的地?そんなものは知らない。でも、立ち止まっているのは良くない気がする。だから、歩き出そう。

 一歩、シロい足が動く。もう一歩も、踏み出す。――けれど、そこにシロはない。

 シロと『 』が、交互に進んでいく。そんなことにも気づかずに、シロと『 』はクロの中を進んでいく。


 鼓動が跳ねるような錯覚を受けた。だが、それが本当に錯覚だったのかは、怪しい。呼吸(いき)が荒いのは、身体の問題か、それとも精神(こころ)の問題か。

 ――随分、悪趣味な夢だ。

 (さい)は見開いた目を強引に閉じて、一度、長い呼吸をする。感覚遮断、というほどでもないが、意識を切り替え、いつもの状態に落ちつける。

 再度、目を開き、彩は周囲を確認する。いつもどおり、彩の寝室で、いるのはベッドの上。天上付近の時計は四時を指していて、いつもの起床時間であることがわかる。

 彩は着替えを済ませると、隣の部屋へ移動する。こちらも彩の部屋、いや、正確にはこちらが彩の部屋だ。寝室と普段生活する部屋が用意されていて、どちらか一つだけでも、一高校生には十分すぎるくらいの広さがある。

 これまでなら素通りするだけの生活スペースを、ここ三日は珍しく有効に活用している。勉強机に模造紙を広げ、隅には地図や山の風景が撮影された写真集、他にも明風(めいふう)市の簡単な歴史書などが積まれている。彩は地図を机の隅に広げて、歴史書に目を通しながら、時折、辞書代わりに写真集をめくっていく。あるていど情報が頭に入ると、本を持つのとは逆の手で模造紙に書き込みを始める。模造紙には、市販のものと遜色ないほどの精緻な地図が描かれ、細かな道まで正確に記されている。

 彩が描いているのは、ここ(ひびき)の屋敷を含めた、近所の地図だ。メインは田板(たいた)間宮(まみや)が住んでいた住宅地、その中の公園や空き地、そして山へと続く道。山の中は、整備された道しか地図に載っていない。しかし、歴史書や風景の写真集から、推測で裏道なども描きこんでいく。また、彩自身の記録と照らし合わせて、確実に道がない箇所や崖になっている箇所を塗り潰していく。

 ――崖になっていそうなところが、結構あるな。

 近くを川が流れているせいもあるだろう。奥に入れば源流を辿れるかもしれないが、ほとんどは崖のすぐ隣を川が流れている形だ。写真でも、背の高い木々が山を隠すように伸びている。ほとんど壁のように生えそろっているから、崖と考えていいだろう。歩ける範囲を確認する際には、その辺りは注意して回らないといけない。

 歴史書にも、それなりに面白いことが書いてあった。古くからとかく、山は信仰の対象になりやすいが、あの山も昔はそうだったらしい。豊作祈願、よりも、水害を防ぐ意味合いが大きかった。雨が降ると、近くの川がよく氾濫するようだった。また、地盤も緩いらしく、土砂災害が頻発したらしい。

 いまは整備も進んで、大きな事故は起きていないらしい。公園の社が忘れ去られているのも、その実態を反映しているみたいだ。

 ――実際は、誰も近寄らなくなった、かもしれないがな。

 いまの町は、川を挟んで山と住宅地がきっかり二分されている。川のすぐとなりは道路になっていて、川側のガードレールに近寄る人間は、あまりいない。そのガードレールから下を覗くと五十メートル近い高さがあるから、普通は下りることもできない。

 また、山に入るためのルートもかなり限られていることがわかった。基本的には川を渡らないといけないので、当然といえば当然だ。正規ルートと思しき橋は地図に載っていて、その先の道も、写真集や歴史書からあるていど推測できた。

 ――だが、不明な箇所も残っている。

 まず、田板を追った、社の裏側の道は見つけられなかった。もともと、道ですらなかったのだろう。だから、その箇所は彩の推測で埋めている。あの後、彩が迷い込んだ道は、どうも正規ルートではなかったらしい。すぐ隣に行楽のための散歩道があったので、工事に必要な資材を運ぶかなにかした名残りかもしれない。

 田板が倒れていた場所は、どうやら正規の道に含まれるらしい。道というより、その途中にある休憩スペースの一部だ。だからあの晩、彩は迷うことなく山を下りることができた。

 ――出た場所が響の屋敷とは反対側だったから、帰るのが遅くなって、(あざや)に問い詰められたんだっけ。

 田板に追いついた時点で、夕食の時間だったのかもしれないが。

 歴史書を読み切り、最後の描き込みを終えたところで、彩は寝室側の扉の上、天井付近にかけられた時計に目を向ける。

 ……まずいな。

 朝食前、いつものティータイム開始の時間をすぎている。片付ける時間を惜しんで、彩は模造紙と本などをそのままにして、急ぎ足で部屋を出た。


 リビングに下りると、いつものように妹の鮮がソファーに座って彩を待ちかまえていた。

「兄さん。今日は来るのが遅くありませんか?」

 彩がリビングに入ってすぐに、鮮は険のある目で彩を見上げてくる。リビングの中の時計を確認すると、五時四十分になったばかりだ。

「ちょうど、(さい)に兄さんを呼んできてもらおうとしていたところです。お出かけの仕度に熱中するあまり、お茶の時間を忘れてしまったのではないかと思いまして」

 彩がソファーに座ると、鮮のすぐ傍に控えていた猪戸(ししど)再が困ったように眉を寄せて、それでもいつもの微笑を浮かべたまま、彩のすぐ隣まで来てカップに紅茶を注いでいく。

 今日、彩が出かけることは昨晩のティータイムのときに話してある。しかし、それまでなんの話もしていなかったから、鮮の機嫌はすこぶる悪い。

 ……いや、それだけが原因ではないのだろうが。

 彩がソファーに座っても、鮮はぴくりとも動こうとしない。普段ならすぐに紅茶を口にするとうのに、今日は挑むような鋭い視線で彩を睨んでいる。

 だから彩もカップに手を伸ばさず、それでもいつもの無表情で彼女に応じた。

「十分遅れただけじゃないか」

「ええ、十分だけです。ですが、最近の兄さんは時間にルーズなところがありますので、心配にもなります」

 ようやく、鮮はカップを手にとった。しかし、すぐに口はつけず、香りを楽しむように顔の傍でカップを品良く揺らす。――あるいは、高まりかけた感情を落ちつかせるためだったのかもしれない。

「今日のお出かけのために、随分と熱心にご準備なさっていたようですし。それ以外のことを気になさらなくなっても、仕方がありませんね」

 珍しく率直な皮肉を零してから、鮮は紅茶を口にする。

「夕食の時間には帰るから。心配しなくていい」

 彩も反論してから、差し出された紅茶に手をつける。

 いろいろと、鮮の中で不満はあるだろうが、その最大の原因はこれだろう。昨晩も、何時に帰って来るのか、昼に一度戻ってくることはできないのか、と何度も食い下がってきた。

 遠出するから無理だと彩は答えたのだが、ではどこまで行くのかと訊き返され、結局、彩は目的地を教えなかった。

 出かける理由はこの辺りの散策、ということにしている。二カ月前に引っ越したが、東波(とうば)高校への道以外、なにも知らない。だから、散策に行こう、というわけだ。自分で好きなところを回りたいから、一人で出かける。気分に任せて歩き回るから、これといった目的地もない。……ざっと、こんな説明だ。

 ――散策というのは、嘘ではないが。

 何度もティータイムを過ごしてきたが、いまだに紅茶の良さがわからない彩はすぐにカップをソーサーに戻す。基本的に、彩にとってモノを口にするというのは、身体を動かすのに必要な栄養や水分を摂取するといこと。だから、優雅にお茶の時間を楽しむというのは、根本的に相容れない。だが、鮮がこの時間を望むなら、それに付き合おう。別段、拒む理由もないのだから。

 ――家族は一緒にいるべきです。

 それが、響鮮の願望。だから、いままで三樹谷(みきたに)家に追い出されていた彩を、鮮は呼び戻した。前当主の響(たかし)から勘当されていた彩を、だ。親戚連中からどれだけ反発があっただろうか。しかし、当主となった鮮は彼らの反対を押し切り、さらに、いままで響の屋敷に我が物顔で生活していた親戚たちを追い出した。使用人もほとんど暇をやって、残ったのは猪戸兄妹(きょうだい)だけだ。

「できれば――」

 紅茶をゆっくりと味わってから、鮮はカップを手にしたまま口を開いた。

「お昼に一度戻ってこられると、わたしは安心できます」

「昼は無理だって、昨日話しただろ?」

 昨晩も話したことだから、彩は即答した。一度了解したはずなのに、鮮の顔は静かに怒気に燃える。いや、正確には彩の強情さに、彼女が折れたのか。だから、きっと鮮は少しも納得できていない。

 そうですか、とだけ漏らして、鮮は残りを飲み干して、ポットから新しい紅茶を注ぐ。彩はいつものように、会話の合間に口をつけるだけで、おかわりはしなかった。


 朝食を終えた彩は、自室に戻って最後の調整をした。模造紙をそのまま持ち運ぶのは不便なので、A4サイズていどに切り分け、番号を振ってからクリアファイルに入れて、学校の鞄にしまう。筆記用具も持っていくのは、歩きながら地図を完成されるためだ。風景や道順は彩の記録に入るが、地図という形で全体を俯瞰できるようにしておくことで、気づくことが出てくるかもしれない。

 出かける前に一度リビングに立ち寄って、新聞に目を通しておく。彩が田板を最後に見てから三日()つが、一向に田板のことが記事になることはない。

 ……本当に、なかったことにされたみたいだ。

 警察でも捜査の進展はないらしく、鮮からも追加の情報を得られていない。

 なにも得られぬまま、彩は響の屋敷を出た。玄関で(れん)に見送られたが、出かける間際まで昼に戻ってこられないか訊かれた。きっと、鮮の差し金だろう。同じ返答を繰り返して、彩は時間を惜しんですぐに外へ出た。

 坂道を下り、中間地点のミラーまで来ると、彩は住宅地のほうへと道を逸れた。目指すのは当然、田板を追った、あの山だ。

 ――なぜ彩は、そこまであの山を気にかけるのか。

 決まっている。

 あの山に、田板がいままで隠れ潜んでいたのだから――。

 田板に最後に出会い、襲われたときの記録から、彩は推測する。――――田板は、誘拐されていたわけではない。

 いままで可能性が低いと考えていた『家出』というのが、案外、正解だったのかもしれない。少なくとも、田板はどこかに拘束されていたわけではない。自ら、隠れ潜んでいた。

 しかも、田板に会ったのは、間宮に案内された公園、その奥にある社だ。公園自体、あまり人が寄りつく雰囲気ではない。なら、社の裏側なんて、まず誰も近づかない。

 ――間宮なら、その奥に進んだかもしれないが。

 その推論と間宮の失踪が、どうしても繋がって見えてしまう。……つまり、間宮は田板に攫われたか、あるいは共犯だった、ということ。

 前者ならば話しは簡単だ、間宮を発見できたら、田板のことは追々話すとして、ひとまず彼女の家に連れて帰ればいい。

 だが、後者の可能性――。間宮がいなくなる直前、彼女は本気で田板の身を案じていた。とても、グルで家出をしたとは考えにくい。

 そこで、そもそもなぜ田板が家出をしたか、を考える。家出とは大概にして、家に嫌気がさしたからするものだ。とはいえ、所詮、子どものすること。住む家がなければ、長続きしない。

 多くは知り合いの家に匿ってもらうのだろうが、田板はおそらく、その手段をとらなかった。――田板が選んだのは、あの山だ。

 なら、あの山の中に、田板の隠れ家があるに違いない。……そこに間宮がいる可能性はかなり高いのではないかと、彩は考えている。

 さて、思考を戻そう。なぜ、田板は家出をしたのか――その理由だ。

 田板の家庭の事情は知らないから、家が嫌になったという一般的な理由の根拠はなにもないが、それは違うだろう、と彩は考えている。

 まず、田板に襲われたときのことが、いろいろと不可解だ。

 田板は小柄で、見るからにいじめられそうなタイプだ。実際、彩が田板と会話をするきっかけが、西波(さいば)高校の連中にかつあげされているのを彩が助けたからだ。……だから、田板から襲ってくるなんて、想像もしていなかった。

 襲われた直後、彩は昏睡状態に陥りかけた。ギリギリ意識は失わなかったが、田板が喋っているのが時折、聞こえただけで、目の前はほとんど真っ暗だった。

 しかも、彩が意識を取り戻した後の田板の反応は、彩の記録から見返しても、不可解すぎる。起き上がった彩に、田板はあれやこれやと命令してきた。自分で自分を殴れ、なんて、普通だったら絶対にしないようなことを、平然と。

 ……催眠薬でも盛られたか?

 意識を混濁させて、言葉通りに相手を操る――。そんな薬物を、田板は造り出したのか?それを製造するのに、家にいることができなくなった?

 そればかりは、田板の隠れ家でも見つけなければ確信できない。田板がこの山を選んだのも、誰にも見つけられない自信があったからだろう。……だが、間宮ならその場所を見つけられたかもしれない。

 田板と間宮は幼稚園時代からの幼馴染で、小学校の高学年になるまでは、よく一緒に遊んでいたらしい。他の人間が知らない、二人だけの秘密の遊び場を、彼らは共有している。

 ――だから、間宮は田板の隠れ家を見つけてしまったのか?

 ――だから、田板は間宮を隠れ家に閉じ込めたのか?

 それを、彩は確かめる。田板に襲われた後、彩もこの辺りの地理は調べ尽くした。あとは、手作りの地図の空白を埋めていけば、その場所を見つけられるだろう。まずは危険な箇所の確認からと、彩は川に沿って上っていく。


 川の周囲は彩が予想していたとおり、急峻(きゅうしゅん)な崖になっていた。ギリギリまで近寄ることができたが、それも木の幹に手と足をかけてやっとだ。一歩間違えれば川まで落ちてしまう。

 彩の調査は川がメインではないので、木の幹を渡りながら、道に戻りながら、地形を確認していく。

 しばらく上ると、散策路は山の中へ入っていき、川から離れていく。このまま川を上ると、車の通る橋に辿りつくはずだ。そこでいったん山道は途切れ、神社や墓地などを挟んで、再び山の中へ入っていく。が、そこから先は正規の、舗装された道ばかりが続く。細い道もあるようだが、ほとんどは観光スポットになっていて、人の出入りが多そうだ。……とても、隠れ場にできそうな場所があるとは思えない。

 なので、彩は川沿いの探索を終えて、山道に戻る。少し先にある休憩スペースで、地図の上に新しい情報を追加していく。危険地帯の確認なので、概ね彩の予想通りに埋まっていく。川に向かう途中で空白があるが、それはいったん森の外へ出て、神社側から眺めてみれば、外観は掴めるだろう。

 川沿いの、あきらかに危険な場所を確認すると、彩は外周の確認にとりかかる。やはり、探索範囲を明確にしておいたほうがいい。

 ……あとは、もしものときの逃走経路を確認する意味だ。

 田板を消した何者かの存在が、どうしても気になる。田板が造り出した薬物に関係するのだろうか?もともと、田板は危険なことに首をつっこんでいたのではないか?だから、居場所がバレている自宅から姿を消す必要があった…………?

 ――そうだとすると、(おれ)も危ないことに首をつっこみかけているんだが。

 だが、彩はまだ無事だ。田板が消されたとき、その現場にいた彩は即座に消されていてもおかしくなかったのに。あるいは、無害だと判断されて、放置されているのか。

 なら、相手の油断を最大限に利用して、彩は探索を続けよう。一応、感覚遮断を弱めに設定して、周囲の警戒はしておく。小さい頃からの、喧嘩の成果だ。普段は感覚を遮断する彩でも、大人数に囲まれて殴り合いをしなければいけないときまで、全てを無視することはできない。最低限、相手の気配を読めないといけないからだ。

 それから彩は山の外周を、道路側から、遊歩道側から歩いて周り、空白を埋めていく。それだけで、昼までかかったようだ。太陽が頭上まで来ているから、そう判断できる。

 彩は休まず、今度は森の中の探索に移る。道が整備されているところは市販の地図でもう埋まっているから、そういった普通の道から外れた場所を歩き回る必要がある。

 ――歩き回るといっても、この辺りしか行く場所はなさそうだがな。

 危険な箇所と遊歩道を除くと、山の中央に巨大な空白が広がっている。行く場所はそこでいいが、かなりの広さがある。順路くらいは決めておいたほうがいい。

 彩は田板を追った道と、最終的に田板がいた場所を結ぶように線を引く。おそらく、このルートが田板の実際に通った道だろう。彩は遊歩道をまっすぐ上がったが、田板は途中で道を逸れたようだ。遊歩道は途中からカーブを描き始めるから、その辺りで道を外れたのだろう。

 ――まずは、田板の足跡を辿るか。

 いま彩がいる道の先に例の遊歩道があるから、そこまでは道なりに歩いていけばいい。

 それから、どのくらい歩いただろう。周囲は木々に囲まれ、彩も時間というものを感覚しないから、何時間()ったのかわからない。いい加減、時計でも持ったほうがいいのだろうか。だが、学校で生活する分には時計なんて必要ないから、あまり積極的には考えない。

 とにかく、彩は例の遊歩道に辿り着いた。ここまで歩いて、擦れ違った人間はいない。遊歩道なんてあるくせに人が寄りつかないんじゃ、なんのために道があるのかわかったものではない。昔は、山奥の社とか神社に訪れる人がいたかもしれない。が、いまはこのとおり、ほとんど獣道に呑まれかけている。

 途中、田板が逸れたと思われる箇所で、比較的入りこめそうな場所を選び、木々の間へと足を踏み出した。

 ――うん。ここで合っているだろう。

 整備されていない、木々の隙間に分け入ったわけだが、思ったよりも足場はしっかりしているし、人一人が通るには十分な空間がある。多少蛇行しているが、それも許容範囲だ。初見の彩でも、十分道として使える。

 あっさりと、彩はその空間に出た。――田板が、倒れていた場所。――田板(えにし)が、この世から消えた場所。

 ……改めて見ると、ホント、なにもない場所(トコ)だな。

 遊歩道などの工事をするための拠点として利用されていたのか、下の公園の半分ほどの範囲、草も生えていない地面が続いている。

 彩は、改めて田板に最期を下した飛来物が飛んできたであろう場所を見て回った。あれから三日も経ったんだ、なにかあったとしても、すでに証拠はないだろう。

 人の気配がないことを確認して、彩はこの空間の中心――田板が絶命した場所――に立った。頭上には、木々が開けて空が見通せる。山の景色はほとんど見えず、唯一の例外は、彩がこの場所を見つけた岩場が下から突き出ている。位置を変えて確認してみたが、見えるのはその岩くらいで、意外と、ここは盲点になっているらしい。

 さて、と彩は地図を確認する。

 ――この後、田板はどこへ逃げ込むつもりだったのか。

 まさか、ここが終着地点ではあるまい。ここはなにもなさすぎて、隠れる場所もない。

 まず、田板はいま彩が来た遊歩道からここへ来たのだろうから、その方向はない。次に、あの岩場の方向も、崖があるだけなので却下。

 ――他に行きそうな場所は…………。

 ここから下る方向には別の遊歩道があり、そのさらに奥は川沿いの危険地帯に入る。すると、その方向もなさそうだ。

 彩は周りの様子も確認する。可能性を絞っていき、さらに入っていけそうな場所は…………。

 ――見た目では、ないな。

 だが、地図の上では、奥へ進んでいく方向だ。岩場の崖から少し逸れた方向、遊歩道から外れたところに、空白がある。

 彩は、その方向に目を向ける。木々はあまりなさそうだが、社の奥と同様、茂みが深い。かき分けて入ってみなければ、通れるかもわからない。

 ――仕方ない。

 彩は地図を閉まって、その茂みの中へと入っていく。外見通り、茂みが深くて簡単には進まない。途中で木にぶつかりながら、道なき道を蛇行する。それでも、彩は記録の地図と照らし合わせて、空白の場所から外れないように気をつけて進む。

 歩みは、遅々として進まない。なのに、時間は無慈悲に過ぎていき、辺りは暗くなり始めていた。ただでさえ薄暗いのに、日が落ち始めるとほとんど夜だ。ギリギリ空を確認できるところで視線を上に向けると、夕焼けの色が濃い。

 ――もう、半分は超えたと思うんだが…………。

 このまま行くと、神社に出てしまう。神社の傍の橋から見下ろしてみたが、その辺りは緑が深すぎて地形が見通せなかった。川から離れているはずだが、このままなにも見つけられなければ、どこに辿り着くかもわからない。日も暮れてきたし、どこかで引き返さないと…………。

 と。

 足元が消えた。

「……!」

 崖になっていたのか、視界が悪すぎて見過ごした。反射的に来た方向へ手を伸ばすと、土を引っ掻いてずるずると滑っていく。

「……っ」

 足もめり込ませて踏ん張りをかける。落ちる方向を視線で追うと、足をかけられそうな出っ張りが見えた。ほとんど反射で、彩は身体がそちらに流れるよう誘導する。

 足を着くと同時に、衝撃をできるだけ抑える。もしもこれがただの土塊なら、このまま落ち続けるかもしれない。

 どうやら、彩が踏んだのは頑丈な岩だったらしい。落下が止まって、彩はホッと息を()く。木々の枝が視界を邪魔してよく見えないが、葉の隙間を見通しても暗い闇しか見えない。

 ――木があるから、地面はあるんだろうけど。

 川沿いと同じく、かなりの高さがあるのかもしれない。底まで落ちていたら、夕食までに響の屋敷に戻ることは、不可能だったかもしれない。

 ――だが、この辺りが今日の限界だな。

 ここからの道はないようだが、まだ空白はあるはずだ。なら、下に下りる道があるかもしれない。それを確認する時間は、さすがにない。暗くなり始めたから、探索も難しくなるだろう。

 上に上がって、最低限、道が途切れている場所だけ確認して引き返そうと、彩が手をかけられる場所を探していた――――とき。

「ん……?」

 それが、視界に入ってきた。川から離れ、山の内側に入った位置。崖の上のその場所に、自然に生えている木の中に、不自然な影が確かに見えた。


 崖の下から見てもそれがなにかわからなかったが、ようやく元の場所に戻ってみると、それは木々に隠れてすっかり姿を消してしまった。彩は自分の記録を頼りにその場所まで辿り着き、それが木々に隠された小屋であることがわかった。

 最近造られたものではない。かなり昔に忘れ去られた、山小屋だ。扉付近の屋根が破損して、人が通れるほどの大穴が開いている。土足と室内がわけられているが、床板の一部が腐っていて穴だらけだ。

 彩は比較的丈夫そうな、できるだけ端のほうを歩いた。軋みの音が酷いが、ゆっくり、慎重に足を乗せれば、歩けないこともない。部屋を突っ切って、奥の扉へと向かう。扉は一つだけで、外から全体を見た感じでは、こことその場所以外、部屋はなさそうだ。

 扉は、すでに開いていた。というより、これ以上は動かせないらしい。人一人がギリギリ入れる隙間から、彩は部屋の中を覗き込む。

 ――ビンゴ、だな。

 部屋は暗かったが、次第に目が慣れてくると、中の様子が見えてくる。

 まず目に着いたのは、足元に転がった懐中電灯と、予備の電池を閉まった透明なボックス。隅には傘が三本とビニール袋に入った菓子の山。反対側の隅、影になった場所には、この荒れ果てた小屋には不釣り合いな、比較的新しい、靴箱くらいの大きさの棚。足元の懐中電灯をつけて棚の中を確認すると、救急箱やビーカー、アルコールランプと、見たこともない文字が描かれた本が数冊でてきた。

 ――なんだ、コレ……?

 他にも筆記用具とルーズリーフが出てきて、こちらにもわけのわからない文字がでたらめに描かれている。

 あと気になるのは、鍵のかかった引き出しだ。これはさすがに開けられない。無理矢理こじ開けて調べたくても、あまり時間はない。続きは明日と、彩は弄ったモノを元の場所に戻して小屋を出た。

 ――ひとまず、成果だ。

 田板の隠れ家はこの場所で間違いない。催眠薬かなにかを造り出したというのも、あの実験器具から信憑性が出てきた。あそこにあった本にその造り方かヒントが載っていたのかもしれないが、生憎、彩には読めなかった。少なくとも、英語ではない。筆記体にも見えたが、時折、象形文字のような記号が混じっていた。どこかの言語、というより、暗号の(たぐい)だろうか。そうなると、あそこまで意味不明な文字列が並んでは、解読のしようがない。明日来たときに判別表でも探してみるしかない。

 だが、気になることもあった。

 ……食料が、少なすぎないか?

 田板は十日近く、あの小屋で身を隠していたはずだ。それなのに、小屋にあったのはお菓子の山と、まるで遠足のような選択(チョイス)だ。それに、袋の大きさから見て、食べたのは別の袋に入れられていた空箱だけだろう。一度、おやつに食べたくらいしか、消費していない。

 もちろん、食事はすでに消費し尽くして、ゴミは外に出しているのかもしれない。だが、そうするとなぜお菓子だけゴミ袋を用意しているのか、という疑問が出てくる。

 ――そして。

 最大の疑問。

 間宮黎深(れいみ)は、どこへ行った――?


 山を下りる途中で日は沈み、遊歩道には街灯もないので、明かりの乏しい山道を一人、彩は下っていった。丸一日歩き通しても、誰とも擦れ違うことはなかった。おかげで、川の際なんて危ない場所を通っても、誰にも見咎められることはなかったわけだが。

 一応、市販の地図にも載っている正規の道から山の外に出て、彩は間宮に案内され、田板と再開した公園で休憩することにした。疲労は感じないので、休憩というよりも、探索した範囲の見直し、のほうが正しい。

 平均台に腰かけて、彩は手作りの地図を開き、最後に描いたところから新しく記録した箇所を追記していく。描くのは当然、田板の隠れ家へと続く道だ。まだ空白が残っているが、あの山小屋の背後にある崖と、そこから神社の近くまで続く場所は、永久に空白のままだろう。

 ――それよりも、明日は山小屋の中を集中的に調べないと。

 とはいえ、その探索も午前中で終わらせたい。結局、間宮の居場所は突き止められていないのだから。

 間宮の手掛りを見つけるために小屋を調べるというのもあるが、それは望み薄だと、すでに彩は判断している。

 間宮が失踪してから、すでに三日経つ。その間に、あの小屋から間宮は逃げ出した可能性がある。田板の監視もなくなったんだ、いつまでもあそこにいる理由はない。

 ……だとしても、いつ間宮はあの小屋から出たのだろうか。

 昨日、間宮は学校に来なかった。今日、彩が山を歩いている間に、どこかで擦れ違いになったのかもしれない。だとすると、まずは間宮の家を確認したほうがいい。もしかしたら、昨晩のうちには戻っていたのかもしれない。今日、山へ向かう途中に間宮の家を通ったときは、なにも気づかなかったが。

 よし、と彩は描き終えた地図をクリアファイルにしまって鞄に戻す。間宮が家に戻っていたら、この件は終わりだ。もしもまだ間宮が戻っていないなら、明日も山の中を探してみよう。できるなら警察に頼みたいが、警察を動かすだけの説明が、まだ彩の中で構築できていない。

 実は田板の失踪は家出で、とは、話せない。なら田板はいまどこにいる?と問われても、彩は答えることができない。

 あの山小屋だって、道なき道の果てにある。どうやって見つけたか訊かれても、正直に答えるわけにはいかない。

 ――だから、今日か明日で決着をつけたい。

 それでも無理なら、さすがに警察に頼らざるを得ない。人命がかかっているのだから。

 決心を固め、帰り際に間宮の家に寄ろうと、立ち上がりかけて、

「――――ひびき、くん?」

 彩は動きを止めた。代わりに、反射的に首だけ動かして、声のした方向へと振り返る。一ミリも違えず、彩は彼女を見つけた。

「……間宮、か…………?」

 公園の入り口で、間宮が突っ立っていた。制服でないところを見ると、家で着替えたらしい。……なんだ、家に帰っていたのか。

 心配して、馬鹿みたいだ。だが、嫌な気はしない。緩やかに身体の力が抜けていくように、楽になる。

 間宮は、呆然と彩を眺めるばかり。困惑しているのだろうか。無理もない、田板に薬を盛られ、攫われて、山奥の小屋の中に閉じ込められていたのだから。

 だが、いつまでもお互い、無言で突っ立っているのも変だからと、彩は間宮に声をかける。

「おい、大丈夫……」

「来ないで!」

 一歩、彩が間宮に近づくと、彼女は叫んだ。反射的に、彩は足を止めてしまう。どういうことだろうか。間宮は公園に入ったばかりで、彩も平均台から立ち上がってすぐの場所にいるから、互いの距離は十メートル近く離れている。暗がりで細部まで見通せないが、彩が見えるところでは、怪我らしい怪我も見当たらない。

「どうしたんだよ」

 彩は、動かぬまま彼女に問うた。しかし、間宮はきつく口を閉ざしたまま、ぴくりとも動こうとしない。

 急に、思考の中にノイズが混じる。ざわついて、ざらついて、彩の正常な思考を妨害するように、かき乱してくる。

「なんだよ……。どうしたんだよ!大丈夫なのか!答えろよ!」

 なぜ、こんなにも声が荒れるんだ?こんな大声を出さなくても、彼女には聞こえているはずなのに。

 なのに、彼女は口を固く閉ざしたまま、硬直している。必死に目を閉じて、いまにも泣き出しそうなのを堪えるように。

 なぜ、なんだ?もう、全て解決したんじゃないのか?田板のことは、仕方ないと諦めよう。間宮が知っているかは、まだ訊かない。彼女だって、何日も家に帰れなくて、辛かったんだ。だから、まずは彼女の話を聞こう。彼女が落ちつくまで、いくらでも聞いてやろう。そして、安心して家に帰れればいい。――また、月曜から一緒に登校することになるのだから。

 荒れていたものを抑えつけて、彩はいつもどおりになろうと、声を落とす。

「…………なにがあったか、話してくれないか?」

 間宮は、すぐには口を開こうとしない。目を閉ざしたまま、何度も小さく首を横に振っている。時折、唇だけが動いているが、聞き取れるほどの大きさではない。だが、彩はじっと彼女の口の動きを追って「ダメ」とか「ダメだよ」というのだけは、なんとか読みとれた。

 五分近く、間宮の葛藤はあった。ようやく間宮は落ちついて、彩と目を合わせてくれた。これまでの怯えを隠すように、彼女は笑った。

「――ねえ、響くん」

 笑おうとして、しかし間宮の声は震えている。無理に笑顔を張りつけていなければ、そのまま倒れてしまいそうなくらい、彼女は竦んでいる。

「――あたしのこと、見なかったことにしてくれない?」

 彩には、その言葉の意味が理解できなかった。だって、彼女は助かって、いまこうしてここにいる。無事な姿で、目の前にいるんだ。休みが開けたら学校に来れると、そう、彩は信じている。

 その期待をあっさり裏切って、間宮は震えに耐えながら続ける。

「もう、学校には行けないと思うんだ。だから、あたしを見ちゃったこと、誰にも言わないでほしいの」

「……理由くらい、話せないのか?」

 間宮の目から、滴が零れた。まるで決壊したみたいに、涙は溢れて止まらない。

 なぜ、間宮は泣いているのだろうか。そんなにも、話してしまうことが恐いのか。なにを隠していたいのか。……彩には、わからない。

「話したら、響くん、あたしのこと、嫌いになるよ。あたしが存在していることを、許せなくなる。だから、忘れてほしい。あたしは、学校に行けなくなった日からいなくなったんだって、そう思ってほしい」

 無かったことにしてほしい――。そう、言っているように、彩には聞こえた。

 また、思考の中でノイズが暴れる。だが、なんとか表層だけは冷静を保っていられた。折角、間宮がここまで応えてくれたんだ。その彼女の努力を、彩が台無しにするわけにはいかない。

「理由も知らないのに、そんなこと納得できるか」

 間宮はまた口を閉ざして、俯いてしまう。また、黙り込んでしまうのか。彩は自身のノイズに耐えながら、即座に思考をまとめあげる。

「おまえ、家に戻れたんだろ?おまえが話せないなら、家の人に直接訊いてやる」

 途端、間宮はハッとして顔を上げた。彩は顔を逸らしたかったが、なんとか耐えた。――間宮の顔はこの暗がりでもわかるくらい、蒼ざめていた。

 彩の(なか)で、警笛(アラーム)が鳴り響いている。これ以上、近づいてはいけない。これ以上、踏み込んだら、取り返しのつかないことになる。声を張り上げろ。この場から直ちに逃走しろ。見なければ、聞かなければ、()らなければ、響彩はまだ平穏の中で生きていける。

 ――そんなもの、いまさらだ。

 彩は踏み出した。踏み込むことを、選択したんだ。なら、もう振り向かない。逃げ出すなんて、以ての外だ。

 一度、深呼吸して、固まっていたものをリセットする。彼女が前に進めるよう、彩は言葉を選んで、口にする。

「聞かせろよ。俺はそう簡単に、おまえを見捨てたりしない。まだ困り事があるなら、一緒になんとかしてやる」

 半分は彼女に言葉を促すためだったが、半分は本心だった。どんなに間宮が酷い状態だったとしても、彼女を拒絶したりしない。なにか心配事があって、それで話ができないって言うなら、彩にできる範囲でなんとかしてやろう。

 面食らったように、間宮の表情が固まった。しかしすぐに、ふっと微笑を漏らして、呟いた。

「響くんって、そんな優しい言葉(セリフ)、言えたんだね。……なんだかあたし、惚れちゃいそうだよ」

 溢れかけたものを拭って、間宮は一息ついた。ようやく話す気になったのかと、彩は少しだけ気が楽になった。――そのせいで、彼女がどれほど深刻な話をするのか、彩は覚悟するのを失念していた。


「まず、なにから話せばいいのかな。あの夜、響くんには会っているから、その後のことから話せばいいかな。……うん。あたし、あの後、家に帰らなかったんだ。ちょっと、自分でも気が動転しちゃって。それで、この公園まで来たの。特に、なにも考えてなかった。落ちついたら帰ろうって、そう思っていたのかもしれない」

 あのときはもうぐちゃぐちゃでよくわからなくなってたんだ、と間宮は恥ずかしそうに苦笑する。

 彩が黙って頷くと、間宮は続きを話し出す。

「帰ろうとしたところで、あの社の裏側が、気になったんだ。ほんの気紛れ。昔、田板と時々、あっちで遊んでいたから。田板って、手先が器用でね。あいつが作ったものを、よく見せてくれたんだ」

 照れたように、困ったように、間宮は笑い声を漏らす。

「あたし、本当におかしかった。あの夜も、そのことを思い出して、また、いろいろ考え出しちゃって……。それで、ようやく落ち着いた、ってときに――――――――田板に会ったんだ」

 彩は、頷かなかった。予想できていた展開だ。だから、間宮の話すに任せて、聞くことに専念する。

「あたし、びっくりしちゃって。いろいろ話したと思うんだけど、あんまり覚えてないんだ。夢中で話してたから。あいつが驚いて、ぽかーんってしてたのだけは、覚えてる」

 それから、と間宮の声の調子(トーン)が変わる。

「気が付いたら、山の中の隠れ家にいたの」

「隠れ家?」

 咄嗟に、彩は訊き返していた。きっと、山奥にあった小屋のことだろう。しかし、間宮の口からその単語が出てくることに、違和感を覚えた。

 うん、と間宮はなんでもないように頷く。

「小さい頃、田板が見つけた場所なんだ。向こうの山の、すごい奥にあってね。もう、随分前から誰も出入りしていないらしくて、ボロボロなの」

 なるほど、と彩は納得した。

 彩が黙って頷くと、間宮は続きを再開する。

「目が覚めたのは、夜だった。たぶん、日が沈んですぐくらいの時間。あ、昨日の夕方ね。だから、二日間もあたし、眠りっぱなしだったんだ。……だから、その…………。すごく、お腹が空いていて…………」

 言い淀む間宮。女の子だから、そういうことを恥ずかしがるのだろうか。二日間も眠らされてたんだから、そんなこと、気にする必要もないのに。

 切り替えるように、間宮は顔を上げて口を開く。

「とにかく家に帰ろうって、山から下りたんだ」

「すぐに、出られたのか?」

 うん、と間宮は不思議そうに頷く。彩の質問の意図がよくわからないのだろうか。

 だが、彩にとってその返答は重要だ。――つまり、田板は間宮を拘束していなかった、ということだ。

 催眠薬の効果があるから大丈夫だと思ったのか。だが、実際の間宮は小屋を出て山から出てしまった。

 ……いや。

 こうして間宮がこの公園に戻ってきたのは、そういうことか?逃げ出したとしても、すぐに自分のもとに戻って来ると、そんな確信があったのか?

 彩の沈黙に首を傾げたが、間宮はすぐに話しに戻る。

「家に着いたときは、お父さんもお母さんもいなかった。あたしの家、二人とも共働きだから。時計を見て、どっちかが帰って来るのはもう少しかかる、ってわかったら、我慢できなくて、お菓子を食べようとしたんだよね」

 でも、と喋りかけて、間宮は言葉を切る。なにを躊躇うことがあるのかと、彩は訝しんだ。なにもおかしいことはない。二日もなにも食べていないんだ。感覚を遮断している彩にはわからないが、普通の人間は空腹を覚えるものだ、ということくらい、彩だって理解している。

 彩が続きを待っていると、たっぷり十秒経って、間宮はようやく口を開いた。

「食べられなかった。味が、しなかったんだ。クッキーだったけど、パサパサしてて、砂を食べてるみたいだった。だから、すぐに吐き出して、水で流したの。水はまだ大丈夫だったけど、でも、どんどん口の中が渇いていく感じがしたから、水もやめちゃった」

 彩に疑問する間も与えず、彼女は続ける。

「他のものも試してみたけど、どれもダメだった。どれもこれも、砂か粘土みたいだった。最初は、食べ物のほうがおかしいと思ったの。……でも、よく考えたら、そんなはずないよね。たった二日だもん。それだけで、いままで美味しく食べられていたものが不味くなるなんて、そんなはず、ないよね」

 彩には、彼女の話から事態を構築するだけで精いっぱいだった。田板は、彼女になにをした?催眠薬のせいで、彼女の味覚がおかしくなったのか?

 だが、間宮の語る内容は、より残酷で、無慈悲だった。

「あたしが台所で口にしたもの全部戻してるとね、お母さんが帰ってきたの。お母さんは、あたしを見るなり、抱きしめてくれた。『どこ行ってたの?』って。『心配したんだから』って。ずっとずっと、泣いてた」

 お母さんに抱きしめられながら、あたしは思ったの。


 ――ああ、美味しそうな匂いがするなぁ


 間宮は、笑って語る。いまにも泣き出しそうな顔をしているのに、彼女は一滴だって、涙を零さない。

「だから、あたしは――――」

「やめろ……」


 ――――オカアサンヲ、タベタノ


 彩は、なにも言えなかった。返すことも、止めることもできなかった。そんな無様な彩を、しかし間宮はすでに見てなどいないように、笑って語り続ける。

「お母さんが終わった後、お父さんも帰ってきたんだよ」

「やめろ」

「お父さん、びっくりしてた。なんでかな?お母さんは、もうそこにはいなかったのに。でも、そんなことは、どうでもよかったんだ。だって、お父さんからも美味し……」

「やめろ!」

 彩の絶叫に、間宮はようやく言葉を止めた。彼女の視線が自分に向いているのを認めて、彩は抑えた声で絞り出す。

「……もう、いい」

「どうして?やっぱり、響くんはあたしのこと、嫌いになっちゃった?許せなくなっちゃった?」

「そうじゃない」

 彩は断言する。

 ……彩の感覚と、同じだ。

 本人の意思とは、関係ない。味覚に変調を来していて、自分ではどうすることもできないのだ。それがわかるから、彩は彼女の話を遮った。

「話すのが辛いなら、もう話さなくていい。もう、十分すぎるくらい、わかったから」

 間宮は、呆然と彩を見ていた。まるで、自身の心の()り方を失ったみたいだ。無関心のまま、彼女は口を開く。

「じゃあ、わかったよね?あたしが学校に行けない理由。いまだって、響くんから美味しそうな匂いがしてるけど、近づかないように必死で我慢しているんだよ?」

 なんて、軽い台詞。そんなふうに現実を空虚にしなければ、彼女はここに立っていることもできないのか。

 でも、と間宮は笑みの形に口元を吊り上げる。

「それが一番の理由じゃないんだ。他にもね、あたしの肉体(からだ)はいろいろとおかしくなっているんだよ。例えば、太陽が出ている間に、外を歩けなくなっちゃったんだ。酷い火膨れを起こしちゃうの」

 もう治っちゃったから証拠は見せられないけど、と間宮は乾いた笑みを漏らす。

 紫外線で火膨れを起こすという病気は、ある。なら、間宮はその類か?だが、それでは味覚障害と結びつかない。

 ――いったい、田板は間宮になにを盛った?

 もちろん、彩はその答えを持ち合わせていない。ただ、間宮の証言を聞くだけだ。

「でも、それはそんなに不便じゃないんだ。夜になっても、よく見えるようになったから。いまだって、響くんの顔ははっきり見えるし、ここから社の奥だって、はっきり見えるんだ」

 葉っぱの一枚一枚までね、と間宮は簡単に続けた。

 ――間宮の証言が真実なら、彼女はすでに普通ではない。

 いったい、彩になにができる?医者に()せたところで、誰が彼女を治すことができる?視力が良くなったのは異常すぎるが、無視しよう。火膨れは、まだなんとかできるかもしれない。だが、味覚障害はどうしたらいい?舌や嗅覚がおかしくなったのか、あるいは脳のどこかに異常があるのか。そもそも、こんな重度な障害、治すことができるのか?

 あまりにも、彩の知っている常識とは外れすぎている。解決策も浮かばず、気休めの言葉も言えなくて、彩は黙るしかなかった。

「だからね、あたしは学校に行けないんだよ」

「…………」

「帰る家も、もうなくなっちゃった」

「…………」

「きっと、もうあたしはあの隠れ家から逃げ出せないんだ」

「…………」

「だから、誰もいないうちに戻ろうとしたんだよ」

「…………」

「ねえ――」

 笑っていた間宮が、不意に笑みを消す。その縋るような眼差しに、彩は身動きが取れなかった。

「こんなあたしでも……」

 言いかけた言葉は、最後まで続かなかった。間宮は言葉を切り、笑みも消して、動きを止めた。何事かと、彩が訝しむよりも先に、

 ――彼女は、消えた。

 そうとしか思えないほどの速さで、間宮は後ろに跳んだ。ただ軽く地面を蹴っただけなのに、彼女は家二軒分を軽く超えるほどの跳躍を見せた。

 と。

 ――彼女が消えた空間に、飛来物が横切った。

 闇の中で、燐光が瞬く。まるで弾丸のように、それは地面に弾けて消えた。パンッ、という乾いた音。――田板の頭を砕いた音に、似ている気がした。

「……!」

 彩は公園を飛び出した。もちろん、追撃は警戒している。が、光の弾丸はもうこない。……どうやら、彩は標的になっていないらしい。

「間宮……!」

 叫ぶが、当然、彼女の姿はない。いや、遥か先まで跳んでしまい、ほとんど見分けがつかないのだ。目を凝らしても、彼女の姿は闇に溶けてしまって、完全に見失ってしまった。

 ――一体、どこに……?

 と、思う間に。


 ―――― ガ ァ ヂ ィ


 空間が、閉ざされる感触。どこかで、世界が別たれた。

 …………東波、高校?

 そう、彩は直感した。その根拠はどこからくるのか、彩も知らない。だが、迷っている時間はない。彩は人気のない夜闇の中を駆け出した。


 夜の東波高校は、いつもと変わらずそこにあった。ただ、夜に見上げるというだけで、廃墟じみて見えてくる。彩だって、閉門時間ギリギリで帰ったことがあるから、夜の学校なんて、見慣れているはず。それでも違和を感じるのは、こんな時間に学校の中に入ろうなんてしたことがないからだ。

 ……いや、それだけだろうか。

 彩は校門前に立って辺りを見回した。当然、校門には鍵がかかっている。他の場所だって鍵がかかっているだろうから、どこを回ったって、普通だったら入れない。

 だが、彩は校門から少し離れて周囲を確認してから、鉄柵をよじ登り始めた。近年の学校への不法侵入対策で、東波高校にも監視カメラは設置されている。だが、彩はカメラの場所を記録しているので、その死角を選んで中へと侵入する。

 ――間宮は、どこだ?

 彼女が本当に東波高校に入ったのか、彩は目で追えていない。だが、根拠のない直感はこの先にいると、迷わず彩に告げている。

 時間が惜しい。彩は自身の直感を信用して、カメラを避けつつ駆け出した。

 ――ざわり。

 と。

 肌の上をなにかが這う感触があった。

 そんなはずはない、と彩は走り続ける。誰かの視線でも感じたのか。いまは警戒しているから、感覚遮断は弱めに設定している。それにしては、視線らしい気配は感じないのだが。

 校舎の外周を回っていく。校庭を突っ切ったほうが早いのだが、そこには監視カメラが設置されていて、見つからずに通り抜けるのは難しい。窓とフェンスの間、人一人がギリギリ通れる隙間を、彩は早足で移動する。

 体育館の脇を通り抜けて、グラウンドのほうへ向かう。彩の直感がグラウンド(そっち)だと囁くのだ。

 体育館の影がなくなって、視界が露わになる。瞬間、燐光が瞬いた気がする。グラウンドの照明ではない。辺りは闇のまま、だが、グラウンドの中が一瞬、その閃光で白く輝く。

 フェンスの前で、彩は光があったほうに目を向ける。闇に戻ったせいで、すぐには視界が定まらない。闇の中には、影があるかも不明だ。

 が……。

 ――いる……!

 目が慣れてきて、グラウンドの中に人影が見えた。それは、光が見えた位置の近くだ。

 彩はフェンスを超えて、グラウンドのほうへと向かった。グラウンドの入口からでは監視カメラに引っかかるので、坂を下っていく。もともと人が下りることを想定して作られていないので、彩は速度がですぎないよう、ブレーキを踏みながら下っていく。

 彩は駆けた。ここには民家の明かりも、近くの道路からの明かりも届かないので、遠くの人影なんて、ぼんやりとしか見えない。

 ――走るうちに、人影は一つだけではないことに彩は気づいた。

 だから彩は、グラウンドの上に倒れたままのほうへと方向を切り替えた。

「間宮……!」

 彼女は、グラウンドの上に仰向けに倒れていた。彼女は、どうやら彩の接近には最初から気づいていたらしい。彩のほうを見ているが、特に驚きもしない。

 ……いや、驚いたのは彩のほうだ。

 間宮は、身動き一つとらなかった。いや、とれなかった。彼女の身体は、胸から上しかない。美術部に飾られている、胸像と同じ姿。腕は左右ともに、肩から消失していた。

「間宮……」

 とても、生きているとは思えない凄惨な姿。なのに、間宮は彩のほうを見上げて、優しく微笑んでいた。なにか喋ろうとしたのか、()せた瞬間、口から赤いモノが噴き出してきた。

 彩は足を止めてしまった。まだ、彼女とは二メートルもの距離がある。高が、二メートル。そのちっぽけな距離が、絶望的なまでに、遠い。

 間宮の胸が上下している。まだ、息をしているらしい。彼女は口元を赤く濡らしたまま、微笑を浮かべて彩を見上げている。

「ひ、び、き、く、…………」

 だが、それまでだった。

 彼女の言葉は、外から飛来した光によって押し潰された。光の乱打が、闇夜の中、彼女の上で踊る。

 最初に、濡れた音が響いた。まるで、泥沼に小石を投げ落したような、重く、沈む音。次いで、カニの殻か昆虫でも折ったような、リズミカルなポキ、パキ、という音。最後には、砂場のお城を叩き崩すようなサラサラと乾いた音。

 光が消えたとき、そこにはもう、間宮の姿はなかった。――田板のときと同じだ。もう、この世から消えて無くなってしまった。

「…………」

 彩は呆然としたまま、もう一つの人影へと振り返った。相手は、彩から五メートルくらい離れた位置で立っている。

 彩の視線に気づいて、その人影は柔和な笑みを浮かべて彩を見上げた。

「――――こんばんは、響彩くん」


 ……なんて、場違いだ。

 素直に、彩はそう思った。

 学校にいるのは、まだいい。陽の落ちたグラウンドというシチュエーションは珍しいが、下校時間ギリギリで一緒に学校を出たこともあるから、それほど違和感はない。

 ――だが。

 よりによって、間宮が無くなった場所で――。

 すべてが、悪い夢みたいだ。いや、悪夢であったほうが、まだ救いがあった。

 しかし、彩の冷静な部分は、そんな逃避を許してくれない。放っておけば硬直してしまいそうな口を、彩は無理矢理動かした。

「…………なんで、夢々(むむ)先輩がここにいるんだ?」

 夢々先輩は、制服姿ではなかった。そのことは、別におかしいことではない。今日は週末で、学校はない。だから、彼女が制服以外の、普段着であっても、なにも不思議ではない。

 だが、彼女が身にまとっているものは、普段着と呼ぶには異様すぎた。修道服を思わせるような黒のローブ。修道服と違うのは、頭になにもつけていないだけ。そんな彼女が明かりのないグラウンドに立っていると、闇に溶けて消えてしまいそうだ。

 夢々先輩は微笑のまま、彩の問いに応える。

「夜のお散歩です」

「散歩、って……」

 あまりに自然な返答に、彩は(かえ)って戸惑ってしまう。そんな彩を無視するように、夢々先輩は不満そうに頬を膨らませる。

「それにしても、響彩くん、ひどいですよ。しばらくお散歩は自粛なさるとお約束してくださいましたのに。さあ、いまからでもご自宅にお戻りになったほうがよろしいですよ。妹さんも、さぞご心配になられているはずです」

 駄目な後輩を優しく諭すように、夢々先輩は微笑する。いつもどおりの口調。いつもどおりの表情。彼女は間違いなく彩の知っている夢々先輩なのだと、自覚させられる。

 彩は、奥歯を噛まなかった。そんなことをして不必要に感覚を呼び覚ましてはいけない、彩の癖だ。だが、頬の引きつりを抑えることには、失敗してしまう。

「間宮と、田板を()ったのは、夢々先輩なんだな?」

 間宮を消した光の原理は、彩にもわからない。だが、彩が駆けつけるよりも先に、夢々先輩はグラウンドにいた。間宮の、すぐ目の前にだ。

 微笑していた夢々先輩が、困ったように溜め息を一つ漏らす。

「相変わらず、響彩くんはわたしの思うとおりに動いてくださいませんね」

 まるで、小さな子どもに社会の不条理について詰問されたような、そんな軽薄さ。彩の(なか)で行き場を失っていた混沌が、再び暴れ出した。

「夢々先輩……!」

「ええ。そのとおりです」

 彩の叫びを塞いで、夢々先輩はあっさりと認めた。――夢々先輩(じぶん)が、田板と間宮を消したということを。

 予想できていたことなのに、いざ言葉(かたち)にされると、彩は言葉に詰まる。だが、ここで彩は止まってはいけない。……まだ彩は、納得などできていないのだから。

「なんで……」

 だが、なにを訊けばいい?あまりにも、この状況は理解できないことだらけだ。

 誘拐されていたのではなく、家出をしていた田板。彼はなにか、人を操る薬でも作っていたのだろうか。いや、きっとそれだけではない。間宮の身体に現れた異変は、それだけでは説明できないから。

 だとしても、夢々先輩がここにいる理由がわからない。夢々先輩は、田板や間宮になにをした?いや、なぜ夢々先輩が彼らを消さなければならない?夢々先輩は、田板が作ったもの、間宮に起きた異変を、なにか知っている……?

 わからない。でも、彩の口は、すでに抑えがきかない。

「どうしてだ?夢々先輩……!」

 自分でも、おかしいくらい言葉が荒れている。落ちつけと、冷静になれと、己の理知的な部分が声を上げても、内から溢れるモノは納まってくれない。

 すっ、と。夢々先輩の目が細くなる。いままでの微笑は奥に引っ込み、どこか達観した、清閑な表情になる。

「いいですか、響彩くん。世の中には、知らなくてもいいこと、知らないほうが幸せなことがあるんですよ」

 口調はいつもどおりなのに、その声はこれまでにないくらい落ちついていた。その声に合わせるように、彩もトーンを一つ落とす。

「……忘れろ、って言うのか?」

 だが、内から溢れる勢いまでは、落とせそうにない。一歩間違えれば再び暴れ出すことを自覚して、彩は言葉を続けた。

「間宮のことも、田板のことも、全部、無かったことにしろって、そう言うのか?」

 そんなこと、していいはずがなかった。確かに、これまで彩は間宮とも田板とも関わろうとしなかった。向こうから彩に近づいてきても、彩はそれを適当にあしらっていた、適当に合わせていた。距離を、置き続けた。

 ――だが。

 間宮も田板も、存在していた――。

 その事実だけは、消してはいけない。

 険のある彩の()に、夢々先輩は口元にだけ微笑を戻す。

「響彩くんは本当に優秀なお方ですね。わたしが語るまでもなく、全てをご理解なさるのですから」

 彩の(なか)で、抑えていた蓋が外れた。抑えが、止まらない。

「ふざけるな!」

 彩の怒声に、夢々先輩は「まあ」なんて、簡単に声を出す。

「わたし、ふざけてなどおりません。響彩くんには、わたしがふざけているように見えるのですか?わたしは本心から響彩くんのことを称賛しておりますのに。――本心から、響彩くんの身を案じておりますのに」

 また、夢々先輩から笑みが消える。細められた目は、逸らすことなく彩を見据えている。

 飛び出しかけた勢いを、彩はなんとか抑える。そして冷静を装って、黒いローブ姿の夢々先輩を見下ろした。

「俺も、消す気か?」

 まさか、と夢々先輩は再び口だけを笑みの形で結ぶ。

「響彩くんにはなにも致しません。その理由がありませんから」

「じゃあ、なんで間宮と田板を……」

 彩は間宮が消えた場所を一瞥した。つい数分前まで、彼女が横たわっていた場所。口から血を吐きながらも、それでも彼女はそこにいた。存在していた。

 田板だって、そうだ。あの山の中で、田板は確かにいた。ボロボロになっても、消えてなくなるギリギリまで、彼は存在していた。その姿を、確かに彩は記録している。

 その彼らは、もう……。

 夢々先輩は、しばらく彩を黙って見上げていた。が、やがて、その閉ざしていた口を開く。

「帰りが遅くなると、妹さんが心配なさりますよ」

「そんなこと……」

「いいえ。ご家族揃っての夕食のお時間、大切になさったほうがよろしいですよ」

「いや、だが……」

「ご心配なさらないでください。ここから先のお話はとても長くなってしまいますので、また後日、日を改めようと思います」

 だから今日はもうおしまい、とでも言うように、夢々先輩は顔に微笑を浮かべる。口だけでなく、目まで優しく弓なりにしている。

「本当だな?」

 とてもじゃないが、彩は信用できない。このままはぐらかせる可能性は、十分すぎるほどある。

 だが、もう遅いということも、なんとなく理解している。そろそろ響の屋敷に戻らないと、夕食の時間に遅れる。鮮を怒らせて外出に制限をかけられたらまずい。冗談抜きで、鮮ならやりかねない。

 仕方ないが、ここはいったん引いて、明後日、学校で話を聞かせてもらおう。そう、表面上だけ承諾をする彩。夢々先輩のほうはすでに立ち去ろうと背中を向けていたが、彩の確認に「ご安心ください」と微笑を返した。その後、夢々先輩の周囲を閃光が包み込み、光が消えたときには、夢々先輩は跡形もなく消えてしまっていた。


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