三章
ノイズが、晴れる。
目の前に、白と黒の線がある。線は乱れて、形を変えて。まるでこの世界になにがあるのかを隠そうとしているように、見えるものに意味を与えてくれない。
――なに?
だが、線もようやく諦めて、そこにある形を見せてくれる。床だ、ということがわかった。石でできた床。不揃いの石を無理矢理押し込んで、それらしく整えたような、お粗末な床。
――どこ?
身体を、起こす。起こしている、はずが、なかなか視界が高くならない。起き上がろうとするたび、また、目の前に白と黒の線が走る。いや、実際には黒い線だけなのか。白の視界に、黒のノイズが駆け回っている。
何度目かの挑戦で、ようやく身体が起き上がったようだ。ようだ、というのは、視界が変わったからだ。高くなったと、そう思う。しかし、辺りには黒い線が無秩序に走っているだけで、実際に視点が上がったのか、よくわからない。
……いや。
全くの無秩序、というわけでは、ないと思う。ただ、自分がそれを認識できないだけだ。
――自分?
自分とは、誰だったのか。なんだったのか。
……………………。
カチリ、と視野が合った。
どうやら、どこかの廊下みたいだ。床を形作る石の輪郭。木の柱と漆喰の壁。覆い被さる天井は真っ暗で、なんでできているのかはわからない。
――どこ、だろう。
どういった処にいるのかは、なんとなくわかる。だが、それではどこにいるかの、解答にならない。
ぐるり、と首を動かして辺りを眺め見る。廊下にいる、ということはわかる。なら、ここは建物の中なのだろう。一体どんな建物か。見上げれば、そこには天井が見える。あまり高くないから、小屋とか倉庫の中かもしれない。
廊下ということは、どこかに部屋があるはずだ。そう思い到り、歩き始めてみる。
……線が、乱れる。
歩くたびに、周囲の線が暴れて、景色がわからなくなる。いや、線が動いているだけで、本当は歩いてなどいないのではないか。だって、
…………………………………………。
黒い線と、赤い線が踊っている。
まるで、真っ白な紙の上に、黒いクレヨンと赤いクレヨンでお絵描きをしたみたいだ。いや、お絵描きなんて、そんな上等なものじゃない。これは、らくがき。しかも、執拗ならくがき。まるで、もともと紙の上にあったなにかを隠すみたいに、ぐるぐるグルグル――――。
黒いクレヨン。赤いクレヨン。黒く塗った後に、隙間を埋めるように、赤で塗り潰す。床にも、壁にも。だけど、天井にはほとんどない。壁も、床も、一か所が酷くて、そこから飛び散った感じ。
――なにが、あったんだろう?
見つからないように、隠したモノ。見つかってはいけない、隠しておかなければならないモノ。黒く光るモノの上に、赤く光るモノ。黒で塗り潰せなかったモノを、赤で塗り潰す。
手を伸ばして、その赤を掬ってみた。なんだろう。赤、というコトしかわからない。ただの、線の集まり。もう少し見ないとわからないのかと、じっと見ようとして、しかし、気づいたらそれは掌から零れ落ちていた。
あっ、と思ったときには、もう手にはなにもない。ただ、黒い線が走っているだけ。
――なん、だろう。
床に散った赤。壁に塗られた赤。床と壁と、天井を埋め尽くす黒。黒が走り回って、その上を、赤が飛び跳ねる。まるで踊っているように、そこは、黒と赤。
――赤は、お肉の色。
そんな言葉が、不意に浮かんだ。
お肉は、赤い。動物の、豚や牛のお腹を開くと、その中には赤いお肉がある。それは、赤いお水の中に浸っているから、だから、お肉は赤く染まるんだ。
――赤い、水。
水は、灰色だ。外を流れる川は、いつだって灰色だった。きっと、汚れが染み込んでいるからだ。洗濯物の汚れ、食器の汚れ……。いろんな汚れを吸いこんで、川は灰色になっていく。
――じゃあ、赤い水は?
それは、動物の中にしかない。あんな強烈な赤は、そこでしか、見たことがない。お肉があんなに鮮やかに赤く染まるのも、その水の色が強すぎるからだ。
――赤…………。
黒い、ここは部屋だろうか。廊下よりも、ずっと広い。あちこちで黒が散らばっているけれど、それがなにかはわからない。いや、そんなものは重要ではない。白と黒の中で、初めて別の色が現れたんだ。そこには、なにか意味があるはずだ。アカ…………。
――オ、
もう一度、アカに手を伸ばす。今度は、両手で掬ってみる。これなら、零れ落ちてしまうこともないだろう。
――ト、
気づいたら、手には黒い線が走っているだけだった。いつの間にか、アカは両手の隙間から滑り落ちてしまったらしい。
――ウ、
手を伸ばして、今度は掴んだ。強く握っていれば、きっと逃げ出したりしないだろう。
――サ、
掴めない。手の中に、アカはない。もう一度、掬おうとして、だけど、今度は掬うこともできない。もう、掬えない。
――ン
逃げないで。離れていかないで。いい子にしますから。ちゃんと、お金を持ってきますから。働いて、お金を稼いできますから。だから、
――いなくならないで
オ、ト、ウ、サ、――
……………………………………………………………………………………。
辺りは、まっクロだった。
ぐるりと、首を一回りさせてみる。いや、クロだけじゃない。白の塗り残しがあるから、そこにクロがあるとわかるんだ。白の上に、クロい線が踊っている。だから、周りはクロだって、わかるんだ。
――オ、ト、ウ、サ、って、なんだろう?
不意に浮かんだ、そんな疑問。
言葉の意味は、もちろんわからない。そもそも、なぜそんな言葉が出たのか、それすらわからわない。
――ここは、どこだろう?
あるのは、クロい線ばかり。それが、ぐるぐるグルグル踊っている。なんだが、楽しそうだった。じっとしているだけなのに、目が回りそうだ。
――あ、
クロい線に手を伸ばしかけて、立ち止まる。自分は、とても大切なことを忘れていた。
――仕事に、行かないと。
どうして、忘れていたんだろう。こんなに大切なことなのに。
部屋を飛び出し、廊下を通り抜けて、外へと駆け出した。辺りは、クロい床と、クロい壁と、シロい天井が続く世界。
――ソレは、
大切な理由を、識らない――。
目を開けたとき、そこが白と黒の世界であるかのように錯覚した。脱色して黒い輪郭と皺が踊り狂い、白い肌が剥き出しになった、そんなイカレタ世界。
――引きずられるな。ここは、俺の部屋だ。
正確には寝室だが、と内心で付け足す。……それだけの余裕は、どうやらあるらしい。
彩は上半身を起こして、周囲を見渡す。確かに、ここは彩の寝室だ。天井付近を見上げれば、時計の針は四時を示している。カーテンから漏れてくる明るさから、朝だということがわかる。彩の、いつもの起床時間だ。
その後の彩の行動も、至極いつもどおりだ。読書で時間を潰し、五時半になったら一階のリビングで鮮と一緒にティータイムを過ごす。いつも鮮から話しかけられるが、大して会話は続かない。朝の挨拶を済ませ、二言三言だけ口を利いたら、あとは静かに紅茶を飲む。
朝食を済ませたら、すぐに家を出て東波高校へと向かう。鮮から寒くはないのかと訊かれたが、問題ないと返して、いつもどおり、制服だけで響家の前の坂道を下っていく。
一月の早朝、当然、吐く息は白い。だが、彩は寒さというものを感じないから、平然としたもの。不平もなく、むしろ静かでいられるこの時間は、とても貴重だ。
坂の中間地点であるミラーの下で、彩は足を止めた。
――間宮が、いない。
彩が響の屋敷から東波高校に行くようになってから、ほぼ毎日、彩と一緒に登校していた間宮が、今日はいない。ほぼ、というのは、数日前にいなかった日もあったからだ。失踪した田板を捜していたためか、陸上部の朝練に出なくなったからだ。部活に行くようになってからは、また彩と一緒に登校するため、ここで待っていたのだが。
彩はちらりと、脇道のほうへと目を向ける。こちらは住宅が集まる平坦な道だ。早朝だから、人の姿はない。間宮が来る様子もなさそうだ。
寝坊か、あるいは、また部活をサボり出したのか。なんてどうでもいい思考が流れてくる中で、彩は昨日、帰りがけに間宮と会った記録を見つけた。田板の失踪で、いつまでも塞ぎこんでいる彼女に、彩は現実を理解させようとした。……彩の説得を、間宮は拒絶したんだっけ。
「…………」
十秒近く、彩は誰もいない道の先を見つめていたが、いつまでも足を止めていても仕方ないと、坂を下り始めた。そもそも、彩が間宮と一緒に登校する必要はないのだ。間宮のほうから彩と一緒に登校しようとしていただけで、彼女が現れないなら、彩は無視して行ってしまえばいい。
――もともとは、田板が言い出したことだがな。
彩が自分たちの家の近くに暮らすことを知って、田板から彩に登下校を一緒にしようと、そう約束してきたのだ。下校は時々あったが、登校は、結局一度も田板と一緒になることはなかった。
彩は一度も振り返らず、いつもの速度で坂道を下っていく。早朝なので、誰とも擦れ違うことなく、自分の教室へ到着した。
ホームルームの時間になっても、間宮は姿を見せず――。
――彼女はその日、学校を休んだ。
ホームルームが終わり、職員室に戻りかけた担任を、彩は呼び止めた。
「矢口先生」
振り返った担任は、そこにいるのが彩だと気づいて、やや戸惑っていた。いままで彩が担任に話しかけることなんてなかったから、驚くのも道理かと、彩は特に気にしない。
「どうした?響」
場所は、職員室から五メートル手前。教室からは大分離れているので、生徒たちの姿はない。最初の授業が始まる直前だから、それも当然。担任が困惑しているのも、そんなタイミングで声をかけられたからかもしれない。
彩はいつもどおりの無表情で、用件を伝える。
「クラスの緊急連絡先を見せてもらえますか?」
担任の困惑が一層強くなる。彩だって、連絡先が記録にあれば、担任に頼んだりはしない。学級閉鎖などもしもの場合に備えて、クラス全員の連絡先は知らされているが、その一覧は響家の彩の自室にある。もらってから、特に使うこともないだろうと一度も開いていないので、彩の記録にもその情報はない。
怪訝の表情も隠さず、担任は答えた。
「かまわないが……。誰の家に連絡するつもりだ?」
「田板と間宮の家です」
担任の表情が劇的に変わった。動揺どころか、狼狽と言ってもいい。
――わかりやすすぎだ。
内心を見せない無表情で、彩は担任の反応を見ていた。十秒近い間を置いて、担任は強張った表情のまま返した。
「田板も間宮も、今日は病気でお休みだ。家族の人に迷惑だから、電話はやめておきなさい」
「田板は、違うんじゃないですか?」
反射的に、担任は身を引いた。予想できる反応だった。あまり時間もないので、彩はすぐに言葉を続けた。
「――失踪、したんでしょう?」
担任の顔から、一気に血の気が引く。当然と言えば当然か、学校側は田板失踪のことを隠そうとしていたのだから。
「響、おまえ勝手に……」
「確認したのは間宮です。田板と間宮の家は向かい同士で、昔から知り合いだそうです」
担任が怒鳴り出す前に、彩は返答した。感情的になって周囲に気づかれるのは良くないだろうという判断だ。
出鼻を挫かれたせいか、担任も暴走せずに済んだ。といっても、内心で暴れるものまでは、抑えきれないだろうが。
「響は、間宮と話をするのか?」
いまだ彩がクラスに馴染んでいないことを、担任もよく知っているらしい。彩は包み隠さずに返した。
「俺の家が田板と間宮の家の近くなんです。それで、登下校が時々、一緒なんです」
担任は長い溜め息を漏らす。この悪夢的な偶然にショックを受けているらしい。だが、そんな担任の心情を慮れるほどの優しさを、響彩は持ち合わせていない。
「連絡先、見せてもらえますか?今日の帰りに直接寄ればいいのですが、できれば早めに確認したいと思って」
最初の質問に戻る。改めて、逃げ道を塞いだ上で。
十秒もの葛藤を終えて、担任はようやく観念し、彩が他の生徒に口外しないことを条件に、それを教えてくれた。
「…………間宮も、昨日から家に帰っていないらしい」
彩は、特に驚きはしなかった。担任に声をかけたのだって、間宮の失踪を予想できていたからだ。
「警察には?」
「昨晩のうちに、連絡したそうだ。間宮のご両親は、田板のことを知っていたようだからな。間宮が話したんだろう」
失踪事件を知っている間宮が同じ目に合うなんてなぁ、と担任はぼやいた。
一方の彩は、これ以上、担任から聞き出すこともない。彼らのことは他言しないことを再度約束して、自分の教室へ戻っていく。
どうせ、学校の方針は田板の決定から変わらないだろう。――捜索は警察に任せる。生徒たちに無用な不安を抱かせないため、学校側は失踪事件のことは公表しない。
彩は無表情のまま、教室へと戻っていく。授業の始まりを告げるチャイムが鳴ったが、廊下には誰もいない。
田板失踪のことは生徒たちに知らされていないから、間宮一人が休んだところで、当然のように、気にかける者はいなかった。授業はいつもどおりに進む。休み時間中に、変な噂が立つこともない。――至って、いつもどおり。
「響彩くんは、間宮黎深さんも田板縁くんの失踪事件に巻き込まれたのではないかとお考えなのですか?」
彩の向かいに座った夢々先輩は、神妙な顔で彩に問いかけた。
いまは昼休みの時間で、彩はいつものように夢々先輩と昼食をとっている。彩の目の前には、珍しくラーメンが置かれている。図書室の片付けが終わったので、夢々先輩から奢ってもらったのだ。
彩としてはいつものハンバーガーでも良かったのだが、折角お手伝いいただいた響彩くんに申し訳がたたないとかなんとか、夢々先輩はちゃんとした昼食を奢りたいと一歩も譲らなかった。仕方なく彩が頼んだのが、このラーメン。麺類は茹で上がりの関係で並ばず、呼ばれるまで待つので、人混みが苦手な彩でも、なんとか許容できるメニューだった。
彩は口の中の麺を呑み込んでから口を開く。
「同じやつの犯行だと断言はできないが、可能性は高いだろう」
そうですね、と夢々先輩も同意する。
「田板縁くんと間宮黎深さんはお家が近いということですし、犯行現場も、その付近ということでしょうか」
「そうだと思うが、あそこは住宅地だ。不審者がいれば、近隣住民が気づきそうなものだが」
田板の家は母親が専業主婦をしていたし、お年寄りが暮らしている家もあった。怪しいやつがいれば、誰かの目にとまるはずだ。
そうでしょうか、と夢々先輩は首を捻る。
「例えば、訪問販売員の方がその付近を歩いていた場合、それを不審者だと思うでしょうか?」
「いや、怪しいと思うだろう」
「でも、それは話しかけられた場合だけではないでしょうか」
そう、夢々先輩は力説する。つまり、新聞みたいな訪問販売員がうろついていても、一見して怪しいとは言えない、という話だ。だが……。
「そんなやつに道端でいきなり話しかけられたら、田板も間宮も、警戒するだろう」
小さな子どもだって、知らない人についていったらいけない、ということくらい知っている。高校二年生の二人が、そんな簡単に見知らぬ相手についていくとは考えにくいのだが。
ふーむと眉を寄せて唸っていた夢々先輩は、疲れたのか、やがてパッと表情を緩める。
「じゃあ、赤の他人説は却下ですね」
なんて朗らかに零してから、食事を再開する。彩も食事に戻ろうと、ラーメンを冷まして口に運ぶ途中で、ハタとその手を止めた。
「夢々先輩、あんた、なにを考えてる?」
夢々先輩は口に含んだものをゆっくり咀嚼し、呑み込んでから、まるでなんでもないかのように口を開いた。
「言葉通りの意味ですけど」
なにかおかしなこと言いました?とばかりに、夢々先輩はきょとんとしている。彩は顔色を変えず、できるだけいつも通りの口調で、
「……近所の誰か?」
「もしくは、知り合いによる犯行」
あっさり、夢々先輩は付け足した。
「知り合いだと、学校の先生、というのも対象でしょうか。すると、東波高校が彼らの失踪を隠そうとしているのも、納得できますね」
そう語る夢々先輩は、どこか微笑を浮かべているようにも見えた。彩は箸をほとんど落とすように器に置いていた。
「まさか……」
「わたしも、それはこじつけだと思います。もしそうだとするなら、犯人は学校の中でもかなりの権力者、ということになってしまいます。教師が生徒に手を出すというのは、かなりリスキーです。それに、どちらかお一人ならまだしも、お二人、しかも男女で攫うとなると、その目的がわかりません」
彩は再び黙考する。では誰が、と。だが、近所の誰か、はもちろん、田板と間宮の知り合いで可能性のある人間など、彩が知るはずもない。
「犯人が誰か、なんて考えていても仕方ない。まずは、どこで攫われたか、だろう。その可能性のありそうな場所を、捜してみるしかない」
「あら、響彩くん。もしかして、犯人を見つけられようとされていますか?」
突然、夢々先輩はおどけたように笑う。呆然としている彩に、夢々先輩は小首を傾げながらなおも微笑する。
「そういうことは警察にお任せしたほうが良いと、間宮黎深さんにお話したのではなかったのですか?」
咄嗟に、彩は返す言葉が浮かばなかった。
夢々先輩の言うとおり、彩は間宮にその話をした。――個人で捜しても意味がない、警察に任せて、気づいたことがあれば彼らに情報提供をしたほうがいい、と。
彩は返す言葉を捜して、それを口にしていく。
「そうだが……。田板が見つかるどころか、間宮までいなくなったんだ。警察があてになるとは、正直、思えない」
「それは、間宮黎深さんが夜中、危険を無視して出歩いていたのが原因ではありませんか?」
なぜだが、そのときの彩はむきになっていた。無性に、反論したかった。こんなにも、間宮を気にかける理由。響彩が、間宮黎深を捜さなければならない、その根本。
……ああ。
彩の記録と記録が結びつく。
彩が、間宮と最後に会ったのはいつだったか。担任は、間宮の失踪についてなんと言っていたか。それが繋がって、
「――――響彩くん」
夢々先輩に声をかけられた。視線を上げると、夢々先輩はじっと彩を見つめている。濃紺色の丸い瞳。その瞳が、彩の瞳を逃がさないように覗き込んでくる。
「なにか、お気づきになられたことがおありなのですか?」
彩の内に蓄積された、摩耗も劣化もない完璧な記録。その記録から必要な記録だけを集めて、並べて、彩は彼女に応えた。
「間宮は、家に戻らなかったんだ。つまり、間宮は家に帰る前に、攫われたんだろう」
昨日から帰っていないと、担任は言っていた。そして、
「昨日、帰る途中で、俺は間宮に会った」
「わたしと別れてから、ということでしょうか?」
ああ、と彩は頷いた。
「間宮と別れる前に、俺はあいつに、話をしたんだ。……田板のことで」
なんて、こと。
あのとき、彩は間宮にわからせようとしたんだ。それまでは、一言だって触れなかったというのに。――そのときに、限って。
ぴくりとも視線を外さず、夢々先輩は彩の瞳を覗き込む。
「どうなったのですか?」
「間宮は、田板が攫われたかもしれない、ってことを受け入れられなかった。いや、気づいてはいたんだ。でも、その現実を受け入れられなかった。そして…………」
「どうなりましたか?」
言い淀む彩を、夢々先輩が促す。彩は生唾を飲み込んでから、続けた。
「間宮は、走っていった。自分の家に向かっていったと思うが、入ったところは、確認していない」
――きっと。
間宮が攫われたのは、その後だ。走り出した間宮を、しかし彩は追わなかった。間宮は、拒絶したんだ。そこに彩が無理矢理わからせようとしたって、無意味だ。だから、彩は放棄した。いや、見捨てたんだ。……その結果が、これだ。
そうですか、と夢々先輩は一度目を閉じ、それから微笑した。
「響彩くんが気になさることはありません」
その笑顔に、彩は呆然となった。なおも、夢々先輩は続ける。
「響彩くんのせいでは、決してありませんから。これは、間宮黎深さんに降りかかった不幸です。――間宮黎深さんに、運がなかっただけです」
それで話は終わりなのか、夢々先輩は食事を再開する。彩もまた、継ぐ言葉が浮かばないので、食事に専念することにする。――夢々先輩の言葉を、うまく呑み込めないまま。
放課後、彩はすぐに学校を出た。彩は部活に入っていないから、夢々先輩の手伝いがなければ、すぐに帰っていた。が、今日は寄り道をしていく予定だ。
まず向かったのは、間宮邸。しかし、間宮の両親はともに不在らしく、二度ベルを鳴らしたが、誰も出てこない。
五分待っても出てこないので、彩は諦め、向かいの田板の家に向かった。ベルを鳴らすと、こちらは田板の母親が出てきた。前回会ったときと同様、やたらと覇気がない。この調子では、初対面の人が押し掛けて来たとしても、大して反応しなかったかもしれない。
彩が間宮黎深の失踪のことを話すと、さすがの田板の母親も反応を示してくれた。長話になるからと家に上げてもらって、昨日のことや間宮家のことについて話を聞いた。
間宮の両親は共働きで、帰って来るのは夕食時の一時間前くらいだという。昨晩と今朝に間宮家が騒がしい、というのは聞こえていたらしい。要するに、間宮がいなくなって、間宮の親が警察に通報して、事情を話していた、というところだろう。だが、それ以外の物音――間宮が誘拐されるような気配――は、特になかったらしい。
ついでに、田板のことで進展があったか訊いてみたが、警察から新しい情報は入っていないらしい。
田板の母親は時折涙を流して会話を中断した。向かいの間宮家とは、間宮が話していたとおり、昔から付き合いがあったとか。子どもたちが小さい頃はよく遊んでいたと、そんな思い出話もされた。昔の遊び場所や、彼らが行きそうな場所を訊いてみたが、田板の母親はそういう場所を知らないらしい。子どもたちのすることに口出ししなかったことが、こんなところで裏目に出るとは、思ってもいなかっただろう。捜索してくれる警察のお役にも立てないと、彼女はまた泣き出した。
これ以上、彼女から有益な情報は引き出せないと判断して、彩は田板家をあとにした。辺りが薄暗くなっていたから、五時くらいだろうか。夕食の時間に間に合えばいいと、彩はこの近辺を歩いて回った。
基本的には住宅ばかり並ぶが、時折、公園や保育園などが姿を現す。さらに奥、民家から離れたところまで来ると、途中から舗装がなくなり、山道に入る。先まで進むと、木々が晴れ、町を見下ろす形となる。その頃にはすっかり暗くなって、町からの明かりがぽつぽつと見える。
しばらく眺めてから、彩は道を戻り始めた。誰とも擦れ違わなかったし、舗装もないから誰かが最近通ったのかもわからない。山の中を捜すにしても、こんなに暗くなってからではもう遅い。
山を下りた彩は、さてこれからどうしようか、と悩んでいた。辺りは暗くなってしまったが、何時頃なのかはわからない。時計も携帯電話もないから、確認のしようがない。こういうとき、感覚を遮断していると大体の判断もできないから不便だ。
仮に捜せたとして、どこを捜すというのか。ほとんど帰りかけたそのときに、彩は公園の前を通りかかり、その場所に気づいて足を止めた。以前、間宮に田板の家を教えてもらったあとで連れてこられた公園だ。奥まったところにあるせいか、街灯もほとんどない。さらに、木々に覆われているような場所だから、中央の広場でさえも暗幕を垂らしたように暗い。
――間宮に案内された場所、か。
田板と関係あるかはわからないが、少なくとも、間宮が知っている場所だ。そのうえ暗いし、人気もない。
「…………」
彩は公園の中へと歩を進める。警察、という単語が浮かんだが、それは却下だ。あくまで可能性の一つであって、確証はなにもないのだ。警察だって、こんな危なげな場所、調査済みのはずだ。
実際、公園の中は闇に支配され、ほとんど見通せない。中央の広場をざっと見渡し、それから外周に散らばった遊具を一つずつ見て回る。ブランコ、ジャングルジム、そして彩と間宮が座った平均台にも、人の姿はない。他の遊具も一つ一つ、影になりそうなところまで目を通したが、誰も見つけることはできない。
――あとは…………。
公園の奥、社の前で、彩は足を止める。社の手前には幅のある溝があり、向こうへ渡れるよう、左右に橋がかけられている。手擦りのない、簡素なものだ。
社側に渡ると、そこには靴を覆うていどの雑草が生えていた。ほとんど手入れがされていないのか、地面が剥き出しになっている広場とは対照的だ。
手入れがされていないどころか、そもそも人が入ることを想定されていないらしい。雑草が伸び放題なのは当然として、地面も凹凸が多い。社を建てるだけあって、山道ほどではないが、だが目の前の公園に比べれば、ここは大雑把だ。しかも、街灯から離れ、木々で覆われているから、一メートル先を見るのがやっと。
社の裏側に回っても、周囲の様子は変わらない。雑草が生い茂り、闇は一層に深い。公園側からは見えなかったが、社の中に入るための階段がついている。が、階段の先にある唯一の入口には、南京錠がぶらさがっている。念のため確認したが、開かれた痕跡がないどころか、長く使われていないらしい。扉に耳を当ててみたが、なんの気配もない。
軋る床板を踏んで、社の外周を回る。公園側に扉のようなものが見えたから、念のため確認しておく。
――まあ、開かないよな。
当然のように鍵がかかっていて、中を見ることはできない。こちら側からも耳を当ててみたが、当然のようになんの気配もない。
階段を下りて、改めて社の裏側を見渡してみる。といっても、暗過ぎて細部まで見通すことは不可能だ。奥を捜そうにも、どこまで続いているのかわからない。
――本気で捜すなら、明るい時間だな。
いまからの捜索では、大して成果はあげられないだろう。とりあえず、なんの手掛りも得られなかったということで、今日のところは引き揚げよう。
――――茂みのざわめきが聞こえた。
風の音、ではない。そんな微かな音ではないし、他の、木の枝が揺れる様子もない。
「……!」
彩は反射的にその音がした方向に目を向ける。彩の記録力なら、たった一瞬でも間違えはしない。いまはぴくりとも動きがなくても、彩は迷わずその一点を見据えることができる。
十秒以上待っても、それ以上の動きはない。犬かなにかだったとしたら、こんな動き方はしないだろう。彩は警戒しながらも、一歩を踏み出そうとして、
――また、音。
いや、
腕だ――。
闇の中から、腕がだらりと垂れ落ちた。いや、腕だけではないはずだ。その先の胴体は、まだ茂みの中に隠れていて、見えていないだけ。
「誰だ?」
警戒に足を止めた彩は、その影に向けて声をかけた。
田板か、間宮か、あるいはそれ以外の誰かなのか。暗過ぎて、この距離ではそれも判別できない。近づく前に、可能なら確認しておきたい。
「…………」
茂みが、揺れた。奥にいる相手が動いたのか、声を出そうとしたのか。しかし、地面に落ちた腕が微かに前後しただけで、声は全く聞こえない。
どうやら反応はできるらしい。腕を出したのも、彩の存在に気づいたからかもしれない。
一分近く、腕の動きはなかった。もちろん、その間に声も聞こえない。だから彩は警戒して、相手の出方を窺っていた。
ようやく、向こうが動き出した。だらりと垂れていた腕が、地面を掴むように手を押しつける。地面を這うように、腕が茂みの影から出てくる。あまり動けないのだろうか。なら、近づいて手を貸すべきか。しかし、相手が誰かもわかっていないのに、不用心に近づくのは危険だ。相手の動きを見守っていると、三十秒ほどかけて、闇の中から顔が半分だけ現れた。
彩の記録と、その顔が一致した。闇は深く、距離もあったが、それだけの情報があれば、彩も間違えない。
地面に横たわった顔に、彩は動揺を押し隠して、呼んだ。
「田板、か……?」
地面に倒れた田板は、小さく荒い呼吸を繰り返していた。息をするだけでも辛いらしく、彩のほうへ顔を上げたのは、彩が声をかけて十秒も経ってからだ。
「…………響……くん…………」
弱々しい、田板の声。変声前の、高い声。間違いなく、田板だった。小動物を思わせる雰囲気も変わらずだが、いまは瀕死に近い。
「大丈夫か?」
とても大丈夫には見えなかったが、確認の意味で、彩は田板に訊いた。
田板は、返事をしない。荒い呼吸を繰り返すばかりで、言葉を出さない。なにか口にしようとするたびに、呼吸が乱れて喋れていない。
「待ってろ。いま、人を呼んでくる」
「…………ま、って……」
公園へ続く橋に向かおうとしたところで、田板が呼び止めてくる。田板の目の前を通り過ぎようとしたところで、彩は振り返った。弱々しく、苦しんでいる様は変わらないが、その表情には切迫した、必死な様子が見て取れた。
「一人に……しないで…………。辛い、し…………恐い、んだ…………」
彩は、そのまま橋を渡ってしまうことを躊躇った。本当に、田板は誰かに攫われたのだろうか。いまここにいるのは、隙を見て犯人から逃げ出せたからなのか。一週間以上もどこかに閉じ込められていたんだ、無事、とはいかないだろう。恐い、というのも、この小動物系の田板なら無理もないか。
――間宮も、同じやつに誘拐されたのか?
間宮のことも気になったが、いまは訊かないことにした。顔半分しか見えていないが、田板の体調は、あまりよくない。ひとまず、公園まで連れ出して休ませるほうが先だろう。
そう決断した彩は、田板の傍まで近づいた。感覚遮断を弱めて、周囲の気配を探ってみる。犯人の罠、というのも考えられるからだ。
……誰も、いないか。
闇も深く、茂みだらけだから、正確なことはわからない。だが、急襲されたときに咄嗟の反応ができるていどに、身体は自由にしておく。警戒を維持した足取りで、田板のすぐ傍まで近づいた。
「立てるか?」
一応の確認で声をかけたが、どうやら顔を上げるのも辛いらしい。想定はしていたから、彩は膝を折って、茂みから出ている田板の腕を掴んだ。同い年の男子とは思えないくらい、田板は軽い。田板は小柄だから、それも仕方がない。田板の脇に自分の腕を通して「持ち上げるぞ」と声をかけてから、身を起こす反動で田板の身体を持ち上げる。どうせ軽いから、肩を貸すよりも担いだほうが楽だ。そのとおりに、彩は田板を担ぎあげた。
とん、と軽い衝撃がきて、
―――― ガ ァ ヴ
と、鋭い感触。
首筋から深く侵入りこんで、
「――――ッ」
肘を突き上げるようにして、彩は田板を突き飛ばした。ずるり、と首から引き抜かれる感触。即座に感覚を遮断しようとして、
――ぐらりと、視界が失せた。
自分は、どうやら地面に倒れているらしい。だが、立っていたときから倒れるまでの、その間の時間が空白だ。いまだって、倒れているような気がするだけだ。どんな姿勢なのかは、確認できない。
いや、自分の体だけではない。闇が一層濃くなって、周囲を見ることさえ叶わない。まるで、眼の機能を剥奪されたみたいだ。
「――、――――。――――、――――――――」
それでも、耳の機能までは失わなかったらしい。なにか、音は聞こえる。いや、声なのか。意識を集中しようとしても、
――■■■■、■■■■、■■■■、
内で暴れる感覚が邪魔をする。
仕方なく、彩は暴れる感覚に引きずられながら、時折、漏れ聞こえるその声を拾う。視界は、一向に闇で閉ざされている。
「響くんも俺を捜してくれてたんだ。間宮さんから俺がいなくなったこと、聞いてたの?」
彩からの肘打ちを受けた田板は、あるていど痛みも引いて、ゆっくりと立ち上がった。もう、直前までの弱々しい様子はない。汚れを払って、何事もなかったように彩を見下ろしている。
「聞こえてない?聞こえていたとしても、話せないかな。聞こえているなら、いまのうちにいろいろと説明しておきたいんだけど」
地面の上でうずくまる彩は、しかし田板には反応しない。まるで毒薬でも飲まされたみたいに身悶えているが、動き自体は鈍い。
「まあ、確実なほうをとったほうがいいよね。聞こえていたとしても、意識が断片的かもしれないし」
田板は口の中を自分の唾液でゆすいで、飲み干した。……血の味がする。彩と、田板自身のものだ。
味の違いはわからない。ゆすいでもまだ血の味がするのは、切れた頬の内側の傷が、まだ塞がっていないからだ。切ったのは、田板自身の歯だ。間違って、ではない。思った以上に深く切り裂いてしまったのか、さっきから何度も嚥下している。
――痛みは、そんなに感じなかったからいいけど。
あと良いところといえば、夜目が利くところと、歯が強くなったことか。だが、傷の治りが遅いのは困りものだ。追々、補強していこう。
それにしても、と田板はもう一度飲み込んでから、口を開く。
「響くんはすごいよ。素質、なのかな。この辺りの人払いはしているんだよ。それなのに、結界を無視して侵入ってくるんだもの」
もともと人が寄りつかないからここを選んだ、というのも、もちろんある。だが、当然のように、念には念を入れている。田板はポケットから小石を取り出す。河原から拾ってきた、角のない丸い石だ。灰色に黒い砂を含んだ、どこにでもあるような小汚い石。
なんの変哲もないその石を、しかし田板の眼は違う色も見ている。――空を映した、川の色。その色が石の中で、泡のようにくるくると回っている。
田板は視線を上げる。月明かりも届かない闇の中で、しかし田板は木々に隠された道や、公園を囲む人の道まで、見通すことができる。そして、公園と外の道との境界に、石の中と同じ色が、まるで滝のレースのように揺れている様子が見て取れる。
うん、と頷いてから、田板は石をポケットの中に戻す。
「まだ壊れていないね。切れかかっているわけでもない。それなのに侵入ってくるなんて、響くんはすごいね。素質、なのかな」
眺め見下ろす田板には、しかし彩は倒れた姿にしか見えない。……こればっかりは、仕方がない。田板には『人』を視る素質はないのだから。
諦めて、田板は首を振りながら苦笑する。
「予備はまだあるから、もうしばらく隠れていられる。食事も、一カ月は我慢できそうだ。本に書いてあったとおりだね。これまでの食べ物じゃ、ちっとも満たされない。『貯蓄』はあるから、飢えは感じないけど」
思いつくままに語っている間に、田板もようやくその異常に気づき、眉を寄せる。
「響くんは、結構時間かかるんだね。相性、悪いのかなぁ?それとも、量が足りなかったのかな?そんなことはないと思うんだけど。意識はすぐになくなるって、本に書いてあったんだけどなー……」
なんて口に出していながら、田板自身は、それほど困惑していない。これも、個人差というやつだろう、くらいに考えている。
なにもかも、わからないことだらけだ。いや、動物実験はやっているから、想定の範囲内ではある。だが、お試しと本番では、その重みが違う。失敗してしまったら取り返しが利かないという、緊迫感。だが、一番重要な本番だけは成功しているから、そこまでは焦らない。
……いや。
と。
田板は自分の手を見つめながら、思う。
夜目が利いて、歯が強くなった以外は、なにも変わっていない。それ以外の特徴も、あるにはあるが、どれも覚悟していたマイナス要素ばかり。期待していたプラス要素は、その二つだけだ。身体が強くなったわけではない。傷の治りは、人並みていど。
それでも、田板が落ち込まず済んだのは、その期待にそれほど重きを置いていなかったからだ。自分が最も頼みとするモノは、ポケットや、隠れ家に用意してある。それをいままでどおりに使えるなら、自分にとっては十分だ。練っておいた計画を、そのまま実行できるのだから。
やれやれ、と首を振って、思考を振り払う。結界に綻びはないから、時間を気にする必要はない。さすがに、夜明けまでかかるとか、そんな長時間にはならないだろう。一時間もかかったら、それでも十分長すぎるというレベル。なら、このまま彼が落ちつくまで待っていよう。
……と。
呻き声がやんだ。地面をかく音も、聞こえない。
ようやく落ち着いたかと、田板が目を開けると、
――音もなく、響彩は立ち上がる。
最初、田板は唖然とした。意識を取り戻すのが、早すぎる。個人差があるとはいえ、三日から一週間は昏睡状態が続くと、本には書いてあった。実際、田板が目を覚ますには一週間かかったのに。
「……そうか」
本に書いてあったその記述を思い出して、田板は納得した。同時に、驚愕と感動が田板の胸に込み上げてきた。
「逆、だったんだね。響くんは相性が悪いんじゃなくて――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――相性が、良すぎたんだ」
すぐに馴染んだから、意識を失うこともなかったのだ。しかも、書き換えが完了したらすぐに立ち上がるなんて…………すごい。
…………響彩くんは、やっぱり、すごい。
最初に会ったときから、その思いはあった。去年の十一月、田板が西波高校の生徒たちにかつあげされているところを、彩に助けてもらったときだ。
西波高校は、ガラの悪い生徒たちがいることで有名だ。喧嘩、乱闘、恐喝、暴走行為……。挙げ出せばキリがない。そんな西波の生徒たち三人に、田板は絡まれた。
別に、田板はなにもしていない。間宮と一緒に帰る途中で、彼らに声をかけられて、そのまま空き地に連れ込まれたのだ。間宮とは時々、一緒に下校している。間宮は陸上部で、田板は帰宅部だから、一緒に帰れるのは偶然でしかない。
……そんな、ときに。
誰も近寄らないはずの空き地に、彩は現れた。道端に捨てられた空き缶を見るような、そんなどうでもよさそうな瞳で、西波高校の生徒たちを見ていたのが、印象的だった。
いや、その後の出来事は、より強烈に田板の記憶に灼きつけられた。彩はたった一人で、ガラの悪い西波の生徒たち三人を倒してしまった。しかも、ほとんど一撃で、彼らを意識不明にしていた。
なにがなんだか、わからなかった。演武みたい、とでもいうのだろうか。流れるように、三人の生徒たちが次々と倒れていく。彩は呼吸一つ乱さず、座り込んだ田板を見下ろしていた。
――あんなに、強いんだもの。
もちろん、力の強さが相性に関係しているとか、そんなことはない。だが、田板はそのとき、彩の内に眠る才能を見たのだ。
……だから、登下校を一緒にしようって、そう申し出たんだ。
結局、彩とはそんなに何度も一緒になれなかったけれど。それでも、彼との繋がりがこの結果に繋がったのなら、田板の選択は正しかったということだ。
ああ、なんだかとても嬉しい。こんなにもコトがうまく進んで、喜ばないほうがどうかしている。
そうだ、と田板はあることを思いついた。折角だから、本に書いてあったことを一つ試してみよう。起き上がったということは、全てうまくいったということだ。なら、田板がやることも、問題なくできるはずだ。
「ねえ、響くん」
だから、田板はいまだに意識が不安定な彩に声をかけた。
「こっちに来てよ」
俯いたまま、彩は田板の命令通りに、前進を始める。意識が戻っているかは怪しいが、動きはしっかりしている。ふらつくことなく、田板のすぐ前までやってくる。
「はい、そこでストップ」
田板の言葉通りに、彩は直ちに歩みを止める。二人の距離は、五十センチメートルていど。彩のほうが背が高いから、どうしても見下ろされるような恰好になってしまう。しかし、俯いた彩の視線は田板の胸よりも下で、しかもぼーっとしていて、見えているかも怪しい。
……でも、俺の言うことは聞くんだ。
それだけで、田板の心は得も言われぬ快感で満たされる。自分なんかよりも遥かに強い存在を、自分の意のままに操ることができる――――。
ならば、と。田板はもう一つの思いつきを、楽しそうに笑いながら口にした。
「――――自分で自分を殴ってみてよ」
彩は、確かに強い。田板も、先ほど突き飛ばされたからわかる。咄嗟のことだったから、加減もなかった。喧嘩なんてしたことない田板には、防ぐこともできなかった。
……これは、その罰だ。
ついやってしまったことだと、田板も理解している。けれど、今後はそんなこと、あってはならない。――ここで、ちゃんと覚えてもらわなければならない。
さあ早く、と目を輝かせて、田板は彩を見上げている。彩の腕が、顔のすぐ隣まであげられる。
――そう言えば、響くんはなんで手袋なんてしているんだろう。いつも、しているよね。潔癖症なのかな?それとも、ひどい怪我でもしているのかな?喧嘩、強いからね。俺には、包み隠さず話してもらいたいな。
あとで問い質してみよう。そんなふうに、新しい命令を考えていると、
――――ゴオォ!
と。鈍い。音。
骨まで容赦なく突き抜けたような、重い響き。あまりの見事な一撃に、目を閉じることさえ忘れてしまった。呆気なく身体が吹き飛んで、地面に倒れた。倒れたときの音も痛々しいはずなのに、殴打の瞬間が強烈すぎて、どこか空虚で、遠くのビルから人が飛び降りるのを眺めるような、そんな非現実感。
ああ、殴られるっていうのはすごく痛いんだろうな、って、まるで他人事のような感想を抱いて…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………田板は地面に倒れたまま意識も失わずに、突っ立ったままの彩と、彼の拳を見上げていた。
いつの間にか、彩の感覚は治まっていた。いや、感覚の源が壊れてしまったからなのか。とにかく、彩の感覚はいつもどおり、遮断された。
田板の話し声は結局、断片的にしか聞き取れなかった。素質、だとか、本に書いて、だとか。意識が安定して、外の景色を視界に捉えられるようになって、彩は即座に立ち上がった。立ち上がって、状況を把握する必要があると、そういう判断だ。
田板は、どうやら無事のようだった。どころか、具合悪そうにしていたのは、どうやら演技だったらしい。相性がどうとか、よくわからないことを口走っていた。その後の、こっちにこいとか、そこで止まれとかいうのも、まだ許容できた。
だが、その後の田板の言動は、完全に彩の許容を逸脱していた。いや、あれは指示とか命令とかいうレベルか。そんな態度で、あの内容だ。彩も容赦をする必要はないと、そう決断した。
手心は加えなかった。騙そうとしていた相手に情けをかけるなんて、知り合いにだって、彩はしない。なのに……。
「――――、――――、――――、――――」
田板は歯の隙間から息を漏らして、彩を見上げている。……意識を、失っていない。
気絶させるつもりで、彩は殴った。顎を横から強打したのだ、普通なら脳震盪を起こしている。小柄で喧嘩慣れしていない田板は、防ぐこともできずに、あっさりくらっていた。
……なのに。
気絶していない……。
顎を抑え、地面に倒れたまま、涙目で彩を呆然と見上げている。なにをされたのか、まだ理解できていないのだろうか。痛みに耐えるように歯を食いしばって、口を開くこともできない。
彩もまた、理解が追いついていない。気絶しなかったのにも驚いたが、田板がなにをしたのか、それも不可解だ。田板は、ただ彩に噛みついてきただけだ。だが、人間の歯があんなに奥深くまで食い込むものだろうか?噛まれただけで、視野狭窄や意識の混濁なんて、起きるはずもないのに……。
なにか、田板の身体に異変が起きているのだろう。それを確かめるために、彩は一歩、倒れたままの田板へ近づく。
「――――ッ。ひぃ…………!」
田板の瞳が、瞬く間に恐怖に染まる。田板の狂態を警戒して、彩は動きを止める。だが、田板は彩に向かってくることなく、奥の茂みに逃げ込んでしまう。
「……っ。待て……!」
田板を追って、彩も茂みの中に入っていく。体力測定で田板の足の速さを知っているから、すぐに追いつけるとふんでいた。しかし、茂みの中は全く人の手が加えられておらず、しかも暗闇だから、時折、足を踏み外して、何度も足を止めなければならなかった。彩がもたもたしているうちに、田板はすっかり遠くへ行ってしまい、微かに茂みをかき分ける音が聞こえるていどまで離れてしまった。
――こんな暗闇で、よく平気に走っていられるな……!
まるで道が視えているかのような、迷いのなさだ。怯え、取り乱しているとは、とても思えない。
もう見失いそうなくらい距離を離されてなお、彩は田板のあとを追った。走ることは叶わないから、着実に進むことだけを意識する。見えない足場を確かめ、茂みの影に隠れた枝や岩肌を避けていく。
どれくらい進んだだろう。茂みを抜けた彩は、森の中にいた。遊歩道になっているらしく、おぼろげに段差らしきものが見える。
――この先を、行ったのか?
耳を澄ましても音は聞こえない。距離を離されたせいかもしれないが、無闇に茂みの中へ入っても、距離を詰められるとは思えない。道に沿って、彩は山を上っていく。
木々の隙間から月明かりが差し込んでいるせいか、さっきよりは明るい。が、夜の山道だ、道の先を見通すのは難しく、道の外はなにも見えない。
急峻な山道を上って、彩はどうやら開けた場所に出たようだ。木々の隙間が広くなったため、少し遠くの場所まで見ることができる。巨大な岩か、崖の一部か、行く手を阻まれて、これ以上、上ることはできない。代わりに、平坦な空間がそこにはあった。公園の広場ほどではないが、十メートルていどの奥行きがあるだろうか。
――誰も、いないか。
呼吸を整えながら、辺りを見回す。木々の隙間を覗き込めば、遥か下のほうに道が見えるのみ。下り坂なんて生温いものではなく、ほとんど崖のようになっている。
崖擦れ擦れを回って、なにか見えるもの、聞こえるものはないかと、辺りを窺う。ここからも町の様子は見えるらしいが、住宅地の明かりが数件見えるだけで、なにも見えないようなものだ。昼間でも、大して見えるものはないだろう。
さらに奥まで進むと、木々がほとんどない、突き出た岩場があった。そこから外を見渡すと、さっきよりは景色が広がる。が、住宅地のほうしか見えないから、それほど変わり映えしない。すぐ隣に巨大な岩があって、傾斜も緩いから、なんとか上れそうだ。だが、上ったところで景色なんて大して変わらないだろう。下を見下ろしても黒い木々に囲まれて、なにも見えやしない。
とはいえ……。
すでに道はない。足跡も見つけられず、物音も聞こえない。完全に見失ってしまった。なら、最後にやれることをやりきって、山を下りよう。こんな奥地に来ることは、もうないだろうから。
彩は岩に上って、辺りを見渡した。前方だけでなく、後方――賑やかな町のほう――まで見通せる。だが、視線を落としても山の外観か車道くらいしか見えず、仮に田板が逃げ込んだとしても、見つけることはできないだろう。
ほとんど諦め気味に、彩は前方へと視線を向ける。住宅地はもう何度も見ているから、すぐに視線を落とした。木々の中に、そこだけ穴が開いている。そこも、こちらと同じように広場になっているのか。じっと目を凝らせば、地面が剥き出しになっている。こちらが雑草に覆われているのに対して、向こうは公園の広場に似ていて、なにもない。
そこに――。
彩は我が目を疑った。いや、見間違いでは、ないと思う。だが、その現実が、どうも受け入れ難い。
彩は岩から下りて、崖を下り始めた。立って歩けるような傾斜ではないから、重力に任せて滑り下りる。
一分もかけて、その広場に辿り着いた。広さは、上と変わらないていど。だが、こちらは岩肌が目立って、草は生えていない。
――田板縁が、地面に磔られていた。
その様は、打ち捨てられた操り人形を想像させる。両手・両足の関節が、本来ならあり得ない方向を向いている。まるで芝居を失敗して、そのまま放り出されてしまったように、歪で、滑稽だ。
どうして手足がねじくれているのか、彩はすぐに気づいた。この明るさで気づけないほうが、どうかしているというもの。
四肢の動きを決定する関節が、完膚なきまでに破壊されているのだ。パンチで穴を開けたみたいに、両手・両足の関節がくり抜かれ、辛うじて引き千切られずに残った肉だけで繋がっている状態。
いや、くり抜かれているのは、なにも手足の関節だけではない。へそから少し下に逸れた箇所に一つ、心臓のあたりに一つ、そして右目をくり抜いて、頭蓋が破壊されている。見下ろせば、確かに地面が見通せるまで、貫通している。
……なにが、起きた?
空洞からは白い煙が立ち上っている。銃器で撃ち抜かれたのか。ほんの少し前、数分の間にやられたように見える。
だが、彩は銃撃の音を聞かなかった。この穴の大きさだ、ただの拳銃ではなく、ショットガンとか、そんな大型の代物だ。……音が聞こえないはず、ないのに。
彩は、ただ呆然と田板の骸を見下ろしていた。近づいて確認するまでもなく、田板は絶命している。心臓を失って、頭蓋を破壊されて、それで生きている人間がいるか?
――と。
彩はその異変にようやく気づいた。
心臓の空洞が、最初に見たときよりも大きくなっている。いや、早く気づきべきだったのは、それ以外。手足の関節は、穴ではなくなって、すでに千切れていた。身体から切り離された手先・足先は、いまにも消えてしまいそうだ。まるで空気に溶けていくように、煙はいつまでも上がり続ける。
――そんな……!
彩は混乱した。だって、そうだろう。目の前で、人間が一人、跡形もなく消えようとしている。人間なんて大きなモノを消し去るのは、かなり難しい。焼却には何時間もかかるし、燃やしている間にもひどい異臭がするから、誰にも気づかれずに始末するのはほとんど不可能だ。
だが、目の前のモノは白い煙を出すだけで、異臭もしない。煙だって、数秒のうちに消えてしまって、身体を覆うほどではない。それこそ、換気扇を回して焼き肉でもやっているようなものだ。――しかも、無臭ときている。
――田板が、消える……?
関節から先、両手・両足は骨も残さず、完全に消えてしまった。胴体も、まるで芋虫のように腕と脚を失って、ハンバーグのように楕円の肉塊に成り果てていく。だが、顔が溶ける速度は胴体よりも遅いらしく、空洞から涙を流すように口へと煙が伸びていくが、まだ頬をほとんど失っただけで、口の形はまだある。
彩は咄嗟に手を伸ばした。駆け寄ったところで、彩にはどうすることもできない。すでに絶命していて、いま消えかけようとしているその肉体に触れたところで、響彩はなにもできない。
だが、ただじっと田板が消えゆく様を眺めていることに、耐えられなかった。まるで、田板縁という存在が消滅していくみたいだった。彼は誘拐され、社会から消えた。誰も、彼を見つけることはできない。
失われていく――――。
――――パン、と。
乾いた音がした。風船を割ってしまったような、そんな軽い響き。
だが、砕けたモノは、そんな薄っぺらくも脆くもない。…………田板の、頭だ。
スカスカの土塊を砕いたみたいに、破片は辺りに飛び散った。びちゃ、と湿った音が地面に落ちる。赤い粘度のあるモノが闇の中に浮かび上がり、その中に黒と白を含んだモノが転がる。
その凄惨な光景も、しかし永遠には続かない。そこからも白い煙が上がり、急速に元の風景へと戻っていく。――なにもない地面に、還っていく。
それから田板縁という存在が完全に消滅するのに、十秒もかからなかった。白い煙は三十秒近く立ち上っていたが、それだけだった。もはや彼がここで横たわっていた痕跡も――殺された事実も――なにも残っていない。
彩だけが、記録する――――。
――――いや。
彩は視線を上げて、辺りを見回した。こんなときでも、彩の記録は遜色なく、砕けた瞬間の、破片の飛び散る様を記録している。だから、なにか飛来物があったであろう方向を特に重点的に調べてみたが、怪しい気配は見当たらない。その後も十分近く周囲を見て回ったが、謎のスナイパーは謎のまま、見つけることができなかった。