一章
世の中には節目というものが存在するらしい。長期の休み明け、新年、新学期……。あるいは、その先に待ちかまえている新年度のほうが比重は大きいのかもしれない。卒業、入学。出会いと、別れ。最上級生たちは学び舎を去り、下級生は一つ上の学年へと進級する。だが、帰宅部の響彩には、そんな上下の繋がりなど大して意味はない。
冬休みも終わって、もう一週間ほど。ほとんどの生徒たちは正月の空気など忘れ、学校の生活に戻ってきている。いや、正確には矯正されつつあるのか。いつまでもお休み気分では、授業という名の拘束には耐えられないのだろう。
もっとも、響彩には休みの間も学校にいる間も、特別な切り替えなど不要だ。そもそも、独学で大学の教養レベルを終えた彩にとって、高校の授業など聞く意味もない。ただ、出席点は必要という理由だけで、あの教室という場所にいるだけだ。
だから、今日も彩は東波高校へと向かう通学路を一人で歩いている。いや、響の家から出たばかりだから、今は一人だ。彩が生まれた響家は、この辺りでも有名な大富豪で、いま彩が下っている坂道の上半分は響の所有物のため、民家もなく、枯れた木々が等間隔に並んでいるだけだ。
しかし、残りの下半分になれば響以外の住宅地となり、その境目にはミラーが立っている。そして、そのミラーの下に、一人で立っている人間がいる。
「おはよう。響くん」
ちょうど彩がミラーの近くまで来たところで、間宮黎深は声をかけてきた。対する彩は「ああ」と返すだけで、彼女の前を素通りする。そんな素っ気ない態度の彩に、しかし間宮は特に気分を害した様子もなく、笑顔のまま彩の隣に並んで歩きだす。
彩と間宮は東波高校の二年生で、クラスも同じ。だが、こんなふうに一緒に登校するようになったのは、去年の十一月からだ。というのも、それより以前は、彩は親戚の三樹谷家に暮らしていて、そこから東波高校に通っていたからだ。
十年前、彩は病院に入院するような大怪我を負い、退院後から三樹谷家に居候することが決定した。大富豪である響家の親戚に相応しい立派な武家屋敷に、住んでいたのは三樹谷景と三樹谷梢の夫婦だけ。そこに彩が加わったわけだが、十年近く暮らしていて、会話をしたのは年に数回、あるかないか。食事も別々だったため、時間が合わないのを理由に避けられ続けていたようなもの。
――そんな遠回りな拒絶を、しかし彩は気にしない。
むしろ、望むところでもあった。響彩は、人の輪の中に入らない。それは、小学校の頃から続けていること。孤独を望み、だから群れから誘いがあっても、彩は無視か拒絶で応じてきた。
だから、三樹谷夫妻のほうから彩を忌避するなら、それは彩の望み通り。会話が必要になっても、それは必要最低として事務的に処理すればいいこと。お互いが無関心で無関与を求め、そのとおりに行動する。それこそが、彩の求めるもので、ある意味、三樹谷家での生活はうまくいっていた。
なのに……。
彩は響の屋敷に戻らなければならなくなった。その発端は、彩の実の父親であり、響家当主であった響崇が亡くなったこと。そして直接の原因は、次の当主が彩を響の屋敷に戻すことを決定したから。
それまでは響崇に勘当されていたため、退院した後も彩は響の家に戻ることができなかった。三樹谷家と響家は同じ町にあり、彩が通う東波高校を挟んでほぼ等距離の反対側にある。だから、距離的にはいつでも戻れたが、響崇の決定により、彩は十年間、一度も実家に戻ることはなかったし、崇のほうも、入院してから一度も彩に会うことはなかった。
……それを言うなら、響の屋敷にいたときから、親父は俺に会おうとしなかったがな。
だが、もはやそれも過去の――二カ月前の――話だ。新当主様の意向により、三樹谷の家を出て、響の屋敷に戻っている。登下校のルートも変わったが、なぜか引っ越した翌日から、隣にいる間宮と一緒に登校することになってしまった。
「最近になって、急に寒くなってきたよねぇ」
白い息を吐き出しながら、さも当然と間宮が話しかけてくる。
彩は一瞥もくれず、前を向いたまま口を開く。
「一月だから、寒いのは普通だろう」
加えるなら、いまが早朝ということもある。東波高校が開門すると同時くらいに着く時間に登校しているので、通学路にいるのも彩たちくらいだ。
彩自身は寒さを感じていないので素っ気ない応答になるが、対する間宮は、さも重大な問題であるとばかりに声を上げる。
「ええぇ?でも、風とか強くない?昨日の夜もすごかったじゃない」
「……まあ、音は確かにしてたな」
寒さは感じない彩だが、さすがに音くらいはわかる。まっすぐ歩くのも困難になるくらい、ここ最近の夜の風は酷い。が、それもそんなに珍しい話ではない。日中、温まった空気と、夜の冷気がぶつかって、それで強風が起きるのだ。天候によっては、そんな日もある。
間宮は厚手の手袋で顔や耳を揉み解しながら白い息を吐く。
「ここ最近、ホント寒くて寒くて。走るの大変なんだよぉ」
間宮は陸上部で、彩とともに朝早くから登校するのも、朝練があるからだ。間宮がなんの選手かは彩も知らないが、陸上の練習だ、外のグラウンドで練習しているのだろう。
「じゃあ、外で走らなきゃいいだろ」
「そうもいかないんだよ。体育館はもともと室内でやる人たちで占領されちゃってるから。交渉した人もいるみたいだけど、やっぱりうまくいかないんだよねぇ」
悔しそうに俯きながら、間宮は頻りに手袋で顔を揉んでいる。
「朝とかすごいんだよ。グラウンドの隅っこに薄い氷が張ってたりして。ああ、冬なんだなぁ、って実感できてサムイ!」
ちょうど風が吹いてきて、間宮は反射的に身を縮める。寒そうにガタガタと震えているが、彼女の恰好は分厚いダウンコートに温かそうなマフラー、そして手袋という完全装備。一方の彩は制服だけで、まるで春先のような恰好をしている。唯一防寒と呼べそうなものは両手にはめた手袋だが、それも冬用の厚手ではなく、汚れ防止のような薄いものなので、あまり効果はない。傍から見ればいかにも寒々しい姿の彩は、しかし冷風を受けても表情一つ変えない。
コートで二周りくらい膨れた間宮に、彩は半目のまま意見する。
「朝練だけでも休めば?」
うう、と唸りながらも、間宮はなんとか口を開く。
「そういうわけにはいかないのぉ。みんな朝練出てるんだからぁ」
それに、と間宮は一度身震いして寒さを抑え込むと、背筋を伸ばして彩を見返す。
「三年生はそろそろ卒業でしょ?時々面倒見に来てくれる先輩もいるけど、基本的には引退しちゃってるからね。次の最上級生であるあたしたちが、後輩の見本にならないといけないの。あたしたちがサボってたら、下級生たちに示しがつかないよ」
そんなものか、と帰宅部の彩は内心で首を傾げる。そもそも、みんなみんなと言うが、そのみんなとは一体誰を指しているのか。別に、二年生全員が朝練に参加しているわけでもあるまいと彩は思うのだが、実際のことは知らないのでなんとも言えない。
あとそれにね、と間宮はさらに付け足す。
「いまくらいしか、練習する機会はないの。温かくなったら、大会に向けての調整に入っちゃうでしょ。基礎体力上げるとかフォームを良くするとか、そういうのはもう今だけなんだよね」
だから、と間宮は自分に言い聞かせるみたいに、拳を肩の少し下まで持ち上げる。
「いまのうちに、目一杯練習しておかないと。休んじゃったらその分、周りとの実力が開いちゃうの。それは、ちょっと嫌じゃない?」
同意を求めるように笑う間宮に、しかし彩は返答に困る。実際、返答のしようがない。
彩には、間宮のように熱心に取り組んでいるものなどない。運動はそこそこできるつもりでいるが、別段、誰よりも、なんて向上心はない。勉強もそれなりに上位の順位をとっているが、それも向上心などではなく、習慣として勉学に励んで、自然とそれだけの結果が出たということ。試験で何位になろうとも、彩は興味をもたない。
――だから。
彩には、応えようがない――。
そんなものか、と吐息する彩に、そんなものだよ、と笑って頷く間宮。
なにがおかしいのか、間宮は一方的に話を続けてくる。毎回の決まり文句のように陸上部へ勧誘してくる間宮に、彩は一切の遠慮もなく断る。そんな容赦のない彩にも、しかし間宮は少しも堪える様子を見せず、諦めも見せない。
……いい加減、諦めてくれればいいのに。
無視を決め込みたくても無視は許さないとばかりに話しかけてくる間宮に、内心では嘆息を漏らしつつも、しかし彩は必要最低限の応答だけを返す。……節目など微塵も感じさせない、いつも通りの登校風景。
東波高校に到着し、自分たちの教室に辿り着いた彩たちの行動は、これまたいつもどおり。部活のある間宮は鞄だけ置いてすぐに教室を出ていって、一人残された彩はこの尊い静寂を堪能するかのように、読書に没頭する。
三樹谷の家にいた頃からの習慣だ、早朝に限らず、休み時間のような暇な時間を、彩は読書で潰している。三樹谷家ではおじさんが朝早くに家を出る都合で、彩も早く登校するようになった。その習慣は響家に戻ってからも続いており、つまるところ、響の家でも朝食が早いため、朝早く登校して、こうして読書にあてているわけだ。
「…………」
彩の白い指が、文庫本のページをめくる。白い手袋をつけるというのも彩の習慣で、夜寝るときも、彩は手袋を外さない。唯一の例外は、入浴のときくらいのもの。それだって、出て体を拭いたらまず手袋をつけるくらい、徹底している。
十年前に、人からもらった手袋――――。
入院以降、彩はとかくモノを壊しやすくなった。別段、乱暴に扱っているわけではない。ただ触れているだけで、モノのほうが勝手に壊れていく。入院していたときは、彩が使っていたベッドが壊れ、着ていた衣服もボロボロに崩れていった。
その破壊は響彩の感覚に起因していると、その人は言っていた。そして、彩の破壊を少しでも抑えるためにと、この白い手袋を彩に渡してくれた。
なにか特別な処置を施しているらしいが、彩にはただの手袋にしか見えない。それでも、この手袋は彩が触れていても壊れないし、手袋をはめている間は、モノも壊れなくなった。
それからというもの、彩はずっと手袋をつけている。感覚が破壊のトリガーになっているということから、彩は徹底して感覚を意識から外した。感覚しない、という意識すら内に置かない、感覚そのものの排除。それを十年近く続けたせいか、暑さ寒さも、痛みさえ、響彩は感覚しない。モノだって、無闇やたらと壊してしまうこともなくなっている。
静かな読書の時間も、しかしいつまでも続く、というわけにはいかない。しばらくすると他の生徒たちが登校してきて、教室の中はガヤガヤと賑やかになっていく。しかし、感覚遮断を極めた彩だ、ちょっとやそっとの物音くらいでは少しも集中力を乱されない。このまま担任がやってくるまで読書を続けようと、可能ならそうしたいところ。
「おう、響」
なんの予兆もなく、唐突に彩の机が揺れる。すぐ目の前にいきなり人の顔が間近に迫ってきて、普通の人間なら驚いて跳び上がるところなのだろうが、しかし彩は動じることもなく、読書を続ける。……一応、目の前の人物からの音声だけは拾っているという状態。
声を聞いているのでもはや間違えようがないが、例え聞き漏らしたとしても、彩相手にこんなことをする奴は一人しかいない。――佐久間秀徳。間宮同様、極力人付き合いを避ける彩に遠慮なく話しかけてくる希有な人間の一人。もっとも、佐久間は中学からの付き合いなので、お互い、相手の挙動には慣れている。
「なに読んでんだ?」
いつものように彩の読んでいる本を上から覗き込んでくる佐久間に、彩は視線を紙面に落としたまま答えた。
「『ソドム百二十日』マルキ・ド・サド著」
「……………………おまえの中でサドってやつ、ブームなのか?」
ページをめくりながら、彩は視線も上げずに答える。
「別に、同じ作家の話を一通り読んでいるだけだ」
「だから、それがブームなんだろ。つまんねー話だったら、途中で読むの止めるだろ」
「そうかもな。――珍しいな、おまえが中身を聞いてこないなんて」
だってよ、と佐久間の声はあからさまに嫌そうだ。
「そいつのことは、もう大体わかった。わからねぇ、ってことがわかった」
これまでも、彩は佐久間に本の内容を伝えてきたが、結局、佐久間は理解そのものを放棄することにしたらしい。サディズムの語源にもなった有名な人なのに。もっとも、当時は彼が書いたものも何割か手伝って、サドは人生の大半を獄中で過ごすはめになったのだが。
「まあ、確かにこれは典型的なサドの本だな。悪趣味な金持ちたちが若い男女を金で買って、世間の目から隠れたところで色々と……」
「だーっ!わかった!わかったからやめろ!」
大声を上げる佐久間に、教室の中の何人が反応しただろうか。しかし、思ったよりも数は多くない。あるいは、振り返ったとしてもすぐに目を逸らすやつがほとんどだと、彩も予想している。
佐久間は、自身の名前を裏切るような不良少年で、同級生だろうと下級生だろうと上級生だろうと関係なく喧嘩をするようなやつだ。先生方からも目をつけられているようだが、佐久間自身は、手を出してこない傍観者には興味ないとばかりに、平気な顔をしている。
ちなみに、高校に上がってからはこのていどで済んでいるものの、中学の頃は自ら率先して喧嘩を売るような超がつく不良少年で、縄張りみたいなものでもあったのか、他校だろうと関係なく、毎日のように喧嘩をしていた。その頃を知っている彩からすれば、いまの佐久間は随分大人しくなったものだ。
とはいえ、周囲からは触れたら爆発しかねない危険物だから、クラスメイトたちはできるだけ佐久間に関わらないようにしている。その恩恵で、彩自身もあまり同級生たちと関わらずに済んでいる。
佐久間は他人の席にまたがるように座ったまま顎を腕の上に乗せる。
「……ったく。毎度毎度、よくそんなわけのわかんねーの読めるよな。おまえ」
あんまりな言い方だが、彩は気にしない。どうせ佐久間が読めるのは漫画以上なのだ。中身など関係なく、佐久間は文字だけで拒絶反応を示すのだから、どうしようもない。
キリがいいところで栞を挟み、顔を上げて口を開こうとしたところで、チャイムが鳴った。別段、珍しいことでもない。佐久間は彩とは違って、いつもギリギリに登校してくる。多少言葉を交わす時間がある日もあるが、今日はあまり余裕のないタイミングだったらしい。
じゃあな、と佐久間が去っていってから、本当の席の持ち主が席についた。佐久間にとられることを知っていて、というより、一人黙って読書をする彩の傍にいたくない、というのが真実だろう。それが証拠に、彩の隣の席の生徒も他の生徒との会話を打ち切って席に戻ってくる。
チャイムと同時に生徒たちが席に戻るのは、この教室の担任が時間通りにやって来るタイプだから。案の定、担任は教室に入るとまだ立っている生徒たちに席に戻るよう声をかけ、ホームルームを始める。
ホームルームの意味は、生徒たちの出席確認が主だ。学校側からの連絡もないわけではないが、基本的には生徒の出席を担任が確認して、それで終わり。だからホームルーム自体もあまり時間をとらず、最初の授業のための繋ぎでしかない。
担任は一通り席を見渡し、手持ちの名簿と照らし合わせる。連絡もなく休んでいる生徒がいれば、事情を知っている生徒がいないか確認するが、ほとんどが遅刻の常習犯だったりするので、担任はすぐに窓と廊下を確認する。
「須藤ォーっ!ほら須藤!早く来い!授業始まるぞォ!」
窓の外に向けて、教師が叫ぶ。遅刻の常習犯が、ようやく登校してきたらしい。
教室内にどっと笑い声が起こり、教師は眉を寄せたまま名簿になにやら書き込んでいる。十中八九、『遅刻』という意味を書きこんでいるに違いない。一時間目が厳しい先生なら、真っ先に注意されるのが常だから。
さて、これでいつもなら出席確認も終わり、連絡も特になしでホームルームが終わるはずだ。しかし、彩はすでにその生徒の席が空席になっていることに気づいていた。遅刻の常習犯ではない。仮に欠席だったとしても、クラスメイトに対して無関心を貫いている彩が、その存在に目を止めることなど、普通はない。……それでも彩の意識にとまったのは、彩が彼のことを知っていたからだ。
「田板は休み、と」
生徒たちの笑い声の中で、彩は担任のその声を聞いた。担任はなんでもないというふうに、名簿に印をつけている。つまり、田板が休むことは、すでに学校へ連絡済み、ということだ。
――田板縁。
響の屋敷の近くに住んでいて、彩が引っ越したその日に一緒に登下校しようと、そう声をかけてきた生徒だ。
さすがの彩も、授業中に読書をするわけにはいかない。本心としては、読書で時間を潰していたい。高校レベルなど、独学でとっくに終わらせた彩にとって、教師たちの教える内容は聞くまでもないことばかり。むしろ、教え方が至極わかりにくいから、聞かないほうが有益とさえ思えてくる。
それでも、所詮、彩も生徒の一人。出席点ばかりはどうしようもない。さらに、授業を聞いているふりくらいしておかないと、変なふうに目をつけられるのは、彩だって望んでいない。ノートもとらずにじっと授業を眺め、当てられればそつなく解答する、なんて作業を四教科分終えて、彩は他の生徒たちと同様、学食へと向かう。
学食には様々なメニューがあるが、彩が食べるのはいつも決まって、自販機のハンバーガーだ。ハンバーガーなど、運動系の部活連中が部活前のおやつに利用するもので、昼食にしようとするのは、彩くらいのもの。おかげで、彩は会計の前で並ぶ生徒たちの群れに囲まれることなく、すぐに誰もいない席に陣取れる。
「おまたせしました。響彩くん」
彩が一人で席に座っていると、向かいに一人の女生徒が席に座る。リボンの色から、上級生ということはわかる。だが、三年生というより一年生だと言われたほうが納得するくらい、背が低い。顔つきも幼いから、高校に来ていることが正しいのか疑ってしまいそうになる。
それでも、彼女が三年生の先輩であることを、彩は知っている。
「じゃあ、昼飯にするか。夢々先輩」
はい、と可愛らしく頷く夢々先輩。彼女はフォークにスパゲティを巻きつけて口へと運ぶ。きのこスパゲティとサラダ、コンソメスープという、小柄な彼女に相応しい、小食なメニュー。
彩のほうも、自販機で購入したハンバーガーの包みを開ける。同級の男子の中でも背が高い彩にしては、ハンバーガー一個なんて、かなり少ないメニューだが、空腹や満腹という感覚にも疎い彩は、特に気にしない。夢々先輩に合わせて、かなりのスロースペースでハンバーガーを咀嚼していく。
「そういえば、響彩くん。お願い事をしてもよろしいでしょうか?」
食事中の歓談、ということで、夢々先輩のほうから彩に話しかけてきた。彩は口の中のハンバーガーを呑み込んでから応じる。
「内容にもよるけど、なんだ?」
はい、と夢々先輩はやや大きめに頷いた。
「わたしが図書委員というのは、以前お話しましたよね」
確かに、そんな話をされた覚えがある。冬休み前、終業式の日だったか。大量の本を抱えた夢々先輩が彩に突っ込んでくるのを、ギリギリでかわしたんだった。
ああ、と彩が頷くと、夢々先輩は笑顔のまま話を続ける。
「それでですね。先生から本の整理をお願いされているのですが、響彩くんがお嫌でなければ、どうかお手伝いをお願いできないでしょうか?」
後輩である彩にやけに丁寧に、その遠慮も表すように眉を寄せて、夢々先輩は小首を傾ける。
さてどうするか、と一瞬考えたが、しかし断る理由もないことに気づいて、彩はすぐに返答していた。
「いいぞ」
「本当ですか!」
やたら弾んだ声が返ってきた。声だけでなく、体までも前のめりになっている。どうも、椅子から立ち上がってすらいるらしい。
そんなに声を上げることか、と彩はやや引き気味に「……ああ」と承諾を示す。わあああ、っと夢々先輩の顔にさらに笑みが広がる。いや、輝いている。
一頻り感動に浸ってから、夢々先輩はようやく席に座り直して深々と頭を下げた。
「本当に、本当にありがとうございます。わたしの無茶なお願いにすぐに頷いていただけるなんて、響彩くんは大変お優しいお方なのですね」
この先輩は、普段から後輩である彩にも丁寧な言葉を遣うが、感情の起伏が激しくなると、さらに拍車がかかる。いつもは怒ったときにかなり言葉遣いが乱れるが、どうやら、喜んだときもそこそこ怪しくなるらしい。
先輩の奇態に、彩は一つ落とした半目を向けていた。
「そんな大げさな……。というか、そんなに大変なら、同じ図書委員の下級生にでもやらせればいいだろう」
あははは、と夢々先輩はなぜか乾いた笑みを漏らす。
「他の子たちにも、先生から色々とお仕事が与えられているんです。それなのに、わたしだけが、前々からのお仕事をサボっていまして……。だから、自分の担当分を終えている子たちに、先輩であるわたしがお願いをするというのは、こう、先輩の威厳として…………」
なんて漏らす、夢々先輩。まあ、言わんとすることはわかる。実際、夢々先輩が本当にサボっていたのか、教師のほうが無茶なお願いをしたのか、彩自身は判断できないが。
そういえば、と彩は記録の中にあったもう一つの情報も確認しておく。
「本の整理って、三学期始まる前に終わらせる予定だったんじゃないのか?」
そう、夢々先輩本人が口にしていた。そのために、彼女は終業式のときに、大量の本を運んでいたのではないか。
と……。
「あっはっはぁー…………」
乾いた笑みを漏らして、そっと視線を逸らす夢々先輩。
――確信犯か。
無言で――半目で――睨む彩に、夢々先輩はわたわたと手を振って弁解を始める。
「い、いや、だってですね!倉庫から本を運ぶだけでも結構大変でしたよ。頑張りましたよ、わたし!終業式の一日だけで全て運びきるなんて、相当努力したと公言しても言い過ぎではないと思うんですよ。事務員の人も早く帰りたかったところを、無理を言って遅くまで開けていてもらったんですよ。それでもその日の内に終わったんですよ」
だから、と夢々先輩力強く主張する。
「しばらくお休みをいただいても、決して過ぎたる望みではないと思いますよね?思いますよね!」
「…………で?」
一方の彩は、しかし半目のまま低く問うた。途端、勢いを失ってしゅんと項垂れる夢々先輩。すでに大体の状況が推測できるから、彩は彼女の代わりにそのとおりを口にした。
「また図書室の教師から催促が来た、と」
さらに申し訳なさそうに、夢々先輩は俯く。溜め息も隠さず、黙り込んだ彼女に代わって彩は言葉を続ける。
「そんなに大変なら、最初から一人でやらなければいいのに」
俯いていた顔を上げて、夢々先輩は笑顔を向けてくる。その笑顔がどこか引きつっているのを、彩は見逃さなかった。
「ほら、わたし、受験がありませんでしょう?だから他の上級生よりも下級生よりも時間があると、つい公言してしまって…………」
「――自業自得だ」
しゅんと、また項垂れる夢々先輩。
帰宅部の彩が唯一知っている先輩だが、ここまで彼女の地が見れたのは、これが初めてだ。後輩である彩にも丁寧な物腰で、怒ったときはさらに言葉遣いがおかしくなる。背が小さいので、あまり先輩らしく見えなかったが、中身も外見通り、いくらか幼いところがあるらしい。
……それも含めて、面白い人だよな。
彩は半目を解いて、口元も緩めて、俯いて黙り込んでしまった先輩に、自身の決定を改めて口にする。
「まあ、いまは俺も暇だし。放課後なら、夢々先輩の手伝いはできる」
というか、この人一人で任せて、大丈夫な気がしない。もう了解はしたんだし、ちゃんと終わるまで面倒を見てやろう。
ぱあっと、夢々先輩は表情を明るくして彩を見上げる。
「あ、ありがとうございます、響彩くん。もちろんっ、授業時間までお手伝いさせるわけには参りませんっ。当たり前ではありませんか!」
「どうだかな……」
口元に意地悪な笑みを浮かべて、彩はぽつりと漏らす。
「夜中までやらないと終わらないっていう、そういうやつだろ?」
「そ、そんなことはなさせさせませんよ!響彩くんは一体わたしめをどんなふうに御覧になられていらっしゃるのですか!」
いつも以上に言葉遣いがおかしくなる夢々先輩。必死に抗議する先輩を微笑で眺めながら、彩は昼食を再開する。
午後の授業も、いつものように聞き流すだけで終わった。聞き流すといっても、彩自身は一度経験したことを忘れないから、浪費という言葉がぴったりだろう。掃除の当番でもないので、すぐに図書室へ向かおうと、廊下に出た。
「わっわっわっ……!」
目の前から突っ込んでくる生徒がいたので、彩は反射的にかわして衝突を回避した。向こう側は止まることもかわすこともできなかったので、そのまま彩の目の前を通過していく。
三メートルほど流れて、相手はようやくブレーキをかけて彩のほうへと振り返る。
「響くん……!ごめん……!」
相手は間宮黎深だった。猛ダッシュと急ブレーキの直後だというのに呼吸一つ乱れていないのは、さすが陸上部といったところか。
対する彩も、平静のまま口を開いた。
「どうした?そんなに慌てて」
ええっと、と二秒ほど迷った末に、間宮は口を開く。
「急いで行かなきゃいけないところができて」
慌てていたのだから、それは彩にもわかる。だが、と彩は間宮の恰好をよくよく眺める。運動着の袋は持っておらず、代わりに鞄を持っている。普通の生徒ならそれでもおかしくないが、彼女の場合、それはちょっと普通ではない。
「部活じゃないのか?」
「……うん。今日は休み」
明らかな帰宅姿。朝練も出るほどの真面目な彼女が、放課後の練習を休むなんて珍しい。だが、まあ、そんな日もあるのだろう、と彩も特に追求しない。そうか、とだけ残し、彩が図書室へ向かおうとして、
「ああ……!そうだ、響くん!」
半歩進んだところで、後ろから間宮に呼び止められる。彩が振り返ると、間宮はすでに彩の背後、一メートルの距離にいた。
さらに一歩進み、間宮は周囲に人がまだいないことを確認してから、
「響くんも、田板のお見舞い、行く?」
小声で、そんなことを訊いてきた。
即座に、彩は合点がいった。間宮が彩と毎朝登校するようになったそもそものきっかけは、田板にある。彼が彩と一緒に登下校したいと申し出て、しかし朝早く起きれない田板は来ないで、代わりに朝練のある間宮がその約束を続けている状態だ。
家も近くで、昔からの知り合いなのだろう。だからか、田板が今日休んだことを、間宮は心配しているらしい。…………が。
「なんで?」
「なんで、って……」
「俺は田板と親しいわけじゃない。あいつの家も知らないし、行ったところでなにも話すことがない」
彩自身は、田板とそれほど親しいつもりはない。放課後の下校だったら田板と帰る日もあるが、それも田板が一方的につきまとってくるだけで、彩はほとんど無視を決め込んでいる。病人の家に上がり込んで、結局相手に話をさせるだけなら、行かないほうがいいだろう。――それが、彩の判断だ。
彩の冷たい物言いをどう感じたのか、間宮はすぐに彩から距離を離して、笑って返した。
「そうだよね。変なコト訊いたね。ゴメン。いまの、なかったことにして」
それだけ残して、間宮は走っていった。まるで逃げるように、という彩の感想は、決して思い込みではないだろう。
……だとして、俺にどうしろと?
間宮に田板の家まで連れていってもらっても、やっぱり彩から話すことなんてない。間宮と田板の会話を後ろから眺めていろと?そんな無駄な時間を過ごす気は、毛頭ない。
間宮もいなくなり、他の生徒たちが廊下に出てきたので、彩は溜め息を一つ残して、図書室へと向かった。
東波高校の図書室は、購買部の上にある。購買部までは生徒たちの姿を見かけるが、その一つ上の階に来ただけで、途端に人の姿は消え失せる。
……図書室に用がある生徒はそうそういない、ってことか。
彩も図書室の場所くらいは知っていたが、ここに来るのは入学したときから数えて二度目だ。一通り校内の様子を見て回ったときに一度見ただけで、それ以降は近寄りもしない。
それもそうだろう。学校の図書室なんて古い本がある場所に行くよりは、駅前の本屋に行ったほうがいい。蔵書量でも、市の図書館のほうがずっとある。あらゆるところで、東波高校の図書室は中途半端なのだ。
図書室の扉を開けると、ただ一人の生徒を除いて、人の姿は皆無だった。
「ようこそ、響彩くん」
本を読んでいたらしい夢々先輩は席を立って彩を迎える。先に来ておいて仕事のほうをせず読書に専念する辺り、この先輩も肝が据わっている。
「他の生徒は?先生も」
「しばらく図書室はお休みです。本の整理中、ということにしてありますので。でも、週に一度だけは通常通りの貸し出しを行いますので、その日だけは、わたしたちの作業もお休みです」
「一日だけで終わる量じゃない、ってわけだな」
無表情のまま彩が皮肉を口にすると、夢々先輩は引きつった笑みを浮かべて拳を握る。
「目標は一週間、最悪でも二週間で終わると思いますので、その間、ご協力をお願い致します」
深々と頭を下げる夢々先輩。ただでさえ小さい先輩が、一層小さく見える。
苦笑を漏らしつつも、彩は気安く請け負う。
「いいさ。そのくらいは覚悟の上だ」
「ありがとうございます、響彩くん。でも、覚悟だなんて、そのようなご大層なことのようにお考えになられておいでだったのですか?」
頬を膨らませて睨み上げてくる夢々先輩を軽く宥めて、彩は彼女と一緒に奥の部屋へと向かう。その部屋は、彩も知らない場所だ。図書委員にだけ特別に教えられる部屋だろうか、夢々先輩はなんでもないように扉を開けて、彩を中へと案内する。
そこは、図書室を似せたような部屋だ。奥に空の本棚が並び、その手前に図書室同様、読書用のテーブルがあり、すぐ目の前の空間には乱雑に本が敷き詰められている。
「こちらの準備室に、学校中に散らばっていた図書をまとめておきましたので、それを棚に戻していきます」
きっと、いま足元に広がっている本たちが、その戻すべきものなのだろう。積まれているのはまだいいほうで、基本的には読み散らかしてそのまま、といった風情。
「ほとんどのものは背表紙に番号が貼ってありますので、本棚と、前後の本を確認して、あるべき場所に戻してください」
なんて簡単に夢々先輩は言うが、この量だ。一人でやるには、気が滅入るような作業だと予想できる。
内心の感想は表に出さず、彩は無表情のまま夢々先輩に訊ねる。
「ただ戻せばいいのか?」
「はい」
「こういうのって、誰が持ち出したか記録するようになってるんじゃないのか?」
笑顔だった夢々先輩は、そのまま硬直する。黙ってテーブルの上のパソコンに向かって、そこでなにやら操作を始める。「あれ?あれれれ?」なんて不吉な呟きを漏らすこと、約五分。ようやく東波高校図書室の貸し出しシステムに辿り着いた夢々先輩は、引きつった笑顔のまま彩へと振り返った。
「…………そうみたいですね。記録していますね」
だろうな、と彩は溜め息も隠さない。
「じゃあ、本を戻すときにパソコンの状態も合わせないとダメだろう」
「……………………そう、ですね」
たっぷり十秒、笑顔で固まっていた夢々先輩の顔から笑みが消えた。困りきって、いまにも泣きそうな子どものような彼女の顔は、こう語っている。――どうしましょう、と。
内心の溜め息だけでなんとか耐え、彩は手近の本を手にとって確認する。ついでに、夢々先輩の横からパソコンの画面を眺めて、どういう管理がされているのかもチェックする。
「『か』とか『て』とかあるから、まずは五十音でわける。それが終わったら、その下の桁、数字のほうで並べ替える。それから、パソコンで本の状態を確認する。棚ごとで表示ができるみたいだからな。『貸出中』とかだったら、全部『書架』にしていく」
「実は、ラベルがないのもあるのですが。そういうのは、どうしましょう?」
「それはさすがに俺たちじゃどうしようもないから、図書室の教師に聞くしかないだろう」
「では、そちらのほうはわたしから聞いておきます」
夢々先輩の申し出に、彩は頷きを見せる。彩は図書室の担当教員を知らないから、知っている夢々先輩に任せるのが妥当だ。
テーブルの上には、ちょうどよく紙やペンが置いてある。それらを手元に引き寄せながら、彩は方針を決める。
「じゃあ、作業を始めるか。分類わけだけでも一日以上かかりそうだし。紙にラベル名を書いて、そこに本をまとめていくぞ」
紙を半分、ペンを一本、夢々先輩に差し出す。はい、と彼女も頷いて、二人して仕分けを開始する。
「響彩くんは、冬休みをどう過ごされていたのですか?」
作業を開始してからしばらくして、夢々先輩が彩に話しかけてきた。二手にわかれて、大体半分ずつを担当している。作業にも慣れてきて、口を利く余裕ができていたということか。
彩は手元を見たまま、振り向きもせずに答える。
「ずっと家にいたな」
「どこかにお出かけは?」
「いや。喪中だから、初詣とかいうイベントもない」
夢々先輩がいったん言葉を切る。無理もないか。身内の不幸なんて、そうそう経験することではない。
「親戚の方が、誰かお亡くなりに?」
「いや。俺の父親だ」
いつもどおりに受け答えをする彩に、しかし夢々先輩の言葉はまた止まる。しばらく葛藤があったのか、ようやく出てきた言葉は、やけに固かった。
「……お悔やみ申し上げます」
彩は一時作業を止めて、彼女のほうへと振り返る。夢々先輩は完全に手を止めて、彩の背中に向かって頭を下げている。
……まあ、普通はそういう反応をするか。
しかし、彩にとってはそれほど重い内容でもないので、少し砕けた調子で返しておく。
「といっても、十年以上も勘当されてたから、あまり実感がないんだが」
夢々先輩は一瞬目を上げたが、しかし彩の視線に気づいて再び俯いてしまう。
「……申し訳ありません。変なことを話させてしまいましたか?」
そんなふうに恐縮されると、彩のほうが対応に困る。
……十年近く勘当されてたってのは、事実なんだが。
もっとも、事実だけでは納得しにくい内容でもあるだろう。ついでだからと、彩は勝手に会話を続けた。
「俺の家は響で、まあ、この辺りじゃそれなりに有名でさ」
「わたしも存じております。坂の上の、響のお屋敷でしょう」
なんて、すぐに夢々先輩から返事が来た。――それくらい、響家は有名だということか。
「俺は、十年前に入院して。それが、どうも大富豪の名に傷をつけたらしく……。そのまま、勘当。去年の十一月まで、親戚の家で暮らしていた」
病院に運び込まれたときには意識もなく、彩が目を覚ましたのは、入院から三日後だ。それだけ大きな怪我を負ったのに、父親はもちろん、見舞いに来る人間は誰もいなかった。
退院する日になってやって来たのは、今まで会ったこともない親戚の三樹谷夫妻。これから三樹谷家で暮らすことになったのだと告げられて、彩は父親の――当主の――意思をなんとなく察した。
「去年の十一月に、親父が亡くなって。――ああ。響って、いまでも当主なんていう、家のトップを決めるシステムがあって。それで、次の当主様は、俺を響の屋敷に呼び戻した。だから、響の屋敷に戻って、ちょうど三カ月になる」
「新しいご当主様は、お母様ですか?」
「いや。俺の妹だ。母親は、ずっと前に亡くなっている」
彩の母親も、十年前のその日に亡くなったのだが、そこは話す必要はないと、彩も誤魔化す。そこまで話すと、なんらかの関連性とか、面倒な話をしなければならないからだ。
「では、いまご実家には、ご兄妹だけですか?」
「妹と、あと弟がいる。それと、使用人が二人。親父の頃は、親戚連中がいたそうだが、妹は関係ない他人が響の家にいるのを嫌がってな。それで、いまは俺も含めた五人だけで、あの広い屋敷を使ってる」
思案気に俯いてから、夢々先輩はまた口を開く。
「わたしは、噂でしか聞き及んでおりませんが。どれくらいの広さがあるのですか?響のお屋敷は」
「本館と、東館、西館が一つずつ。あと、本館のすぐ裏に離れが一つと、森を挟んで、奥にもう一つ離れがある」
本館はもちろん、離れ一つとっても、十分一軒家として機能する大きさをもつ。それが五件で、さらに、広い庭ではなく森が敷地の中にあるのだから、安い想像でも、それなりの広さだということが分かる。
「すごい、大豪邸ですね」
「そんだけ広いから、親戚たちがいても余裕だったんだ。いまじゃ、全員本館で暮らしているけどな」
親戚たちがいたといっても、彼らの生活の場は東館に限定されていたらしい。西館は封鎖されていて、使用人たちは離れで暮らしていたとか。だから、響の人間は相変わらず、本館で生活していたことになる。
でも、と夢々先輩は不思議そうに小首を傾げる。
「それだけ広いお屋敷に、使用人の方がお二人だけでは、足りないのではありませんか?」
「かもしれないが、そこはいまの当主が決めたことだ。俺がとやかく言うことじゃない」
「妹さんがご当主になられたのは、またどうしてですか?」
まあそうなるよな、と内心では思いつつ、不必要な箇所は伏せて、彩は答えた。
「まあ、そこは家の事情だな。昔っから、俺は当主候補から外されていたらしい。妹は本館で、俺は西館で生活させられていたから、そういうことなんだろう、って小さい頃から思っていた。だから、入院したことが決定打になっただけで、その前からそうするつもりだったんだろう」
そもそもの問題は、当主だった響崇に、妻が二人いたことだ。
――彩は、妾の息子で、長男。
――妹は、正妻の娘で、彩の一つ下。
その事実が、響家の跡注ぎ問題を面倒にした。親戚たちも響の敷地内にいたから、それぞれの利権なり思惑なり、色々とあっただろう。
だが、響崇は早いうちから結論を出していた。
……だから、長男であるはずの彩は、西館なんて場所に隔離されていた。
西館には、親戚たちはおろか、響の人間さえいない。いるのは、彩の面倒をみる使用人たちだけ。彩の生活は完全に西館で完結させられ、外に出ることは許されていなかった。
明に禁じられていたわけではない。しかし、聡い彩は気づいていた。部屋から出ていいのは、食事か入浴か、トイレのときだけ。それ以外、不用意に部屋の外をうろついていれば、使用人たちに部屋に戻される。彩の居場所として定められた、小さな部屋。ベッドがあり、勉強机があり、あとは本棚に囲まれた、狭い部屋。そこで、彩は毎日一人で、勉学に励んでいた。小学校に上がる前までしかそこにいなかったが、十年前の大怪我がなかったら、きっと、ずっとあの部屋で生活を送らされていたのだろう。
色々と省略した説明に、夢々先輩のほうでも気づくことがあったのか。それ以上、響家の事情には触れず、彼女は柔らかく笑って彩を見返していた。
「響彩くんは、とても波乱万丈な人生を歩まれておられるのですね」
突然のことに虚を衝かれて、彩は返答に戸惑った。
「そうか?」
そうですよ、と夢々先輩は大きく頷いて、続ける。
「大富豪のご家庭に生まれることなんて滅多にありませんし、その後、十年も他のお家に居候されるなんて、とても稀なことです」
「……まあ、そうかもな」
傍から見れば、彩の経歴は非常に特殊だろう。三日も意識を失うような大怪我を負うのも、それで奇跡的に助かるのも。その後、実家から追い出され、父親が亡くなったかと思えば、実家に呼び戻されて……。
だが、それが彩の経験したものだ。それ以外の、世間では普通と呼ばれそうな生活を、彩は送っていない。だからだろうか、自身の経歴が稀だと言われても、そんなものかと思うのが精々。
うんうん、と何度か頷いて、夢々先輩は身を乗り出すように彩に微笑みかける。
「いまは、ようやっとご実家に戻れたということで、安心しているところでしょうか」
「…………どうだろう」
「あまり、嬉しくはないのですか?」
彩の漏らした低い声に、夢々先輩はきょとんと目を大きくする。単純に不思議そうに、彩の意図がわからずに途方に暮れている、そんな印象だ。
彩は口元に自嘲めいた笑みが浮かぶのも隠さず、彼女に応えた。
「話したろう。家を追い出される前から、俺は隔離されていたんだ。十年振りに実家に戻ったといっても、それはもはや別の家だ。同じ敷地内だろうと関係ない。使用人しかいない西館から、本館へ。今まで会ったこともないような人間が、いきなり家族だといって迎えてくる。正直、十年前の退院時に、三樹谷の連中がやって来たのと、そう変わらない」
彩は、記録する。それは、記憶なんていう、時間とともに色褪せるような、そんな曖昧なものではない。十年経っても、彩の記録は記録として摩耗せず、過去と現在を等価なものとして比較することができる。
だから、気づいてしまう。そこは、十年以上前に彩が暮らしていた場所ではない。本館なんて、入ったこともない。彩の部屋だと通された場所には、なんの記録もありはしない。食堂も、浴場も、そこは高校二年生の彩には未知の場所だった。
では、と夢々先輩が両目を丸く開いたまま、彩を見つめる。
「響彩くんは、妹さんがお嫌いですか?」
え、と反射的に訊き返した彩は、しかしそれ以上の言葉が出ない。彼女の濃紺の瞳が、じっと彩を凝視して離さない。
止まってしまった彩に、夢々先輩の問いかけはなおも続く。
「弟さんのことは?お屋敷にいらっしゃるという、お手伝いのお二方は?」
なぜだろう。夢々先輩の視線から、目を離すことができない。いつになく真剣な彼女の姿勢に、つい気圧されてしまったのだろうか。
……どう、だろう。
これは自嘲ではなく、自身への問いかけだ。
彩は、記録する。――だから、覚えている。
西館に隔離されていた小さい頃に、彩は妹に会ったことがある。本当は、それすら許されていなかったのだろうが、使用人の子どもたちの手によって、彩はこっそりと西館を出て、森の中で彼女に会っていた。
彩と妹と、使用人の子どもが二人。
――彼らだけが、今でも響の家に残っている。
幼い日に、こっそりと屋敷を抜け出して、ともに遊んだ四人の子どもたち。
当時の妹は人見知りが激しく、また運動も苦手で、すぐに息を切らして休んでいた。それでも、彼女は滅多に合わない兄のことを、ずっと見ていた。
彩と彼女を引き合わせた使用人の子どもたち。十年経って成長し、いまでは主と使用人という立場になってしまったが、それでも、彼らには幼い頃の面影がある。
弟だけは、彩が家を追い出された後で生まれたので、当時の記録にはない。それでも、当主となった妹が、彩も含めて家族の一員だと、そういうのならば、それで十分だろう。
――家族は一緒にいるべきです。
それが、妹の想いであり、願い。そう、彼女が願ったから、彩は響の屋敷にいる。響の屋敷に居座っていた親戚たちを追い出すなんて、強硬手段をとってまで。
だから、さすがの彩でも無視できない。いくら人との関わりを疎む彩でも、そこで拒絶を貫けるほど、非道なヤツにはなれない。
夢々先輩から視線を逸らしたくて、しかし逸らせないまま、彩は何度か口の中で迷って、ようやく言葉を作った。
「……嫌いじゃあ、ないが…………」
そんな中途半端な返答でも、しかし夢々先輩には十分だったらしい。ぱあっと笑顔を顔中に広げて、それなら、と夢々先輩は声を大きくする。
「良いではありませんか」
は?と固まった彩に、しかし夢々先輩はなぜか嬉しそうに言葉を続ける。
「響彩くんは、わたしの質問に悩みました。それは、悩むだけの想いが、ご家族の方にはあると、そういうことでしょう?」
彩は返答に窮した。ちゃんとした回答にできていなくても、夢々先輩は良いと言っている。その回答を作ろうと、そう思い悩んだ過程があるなら、それは尊いものなのだと。
視線の重圧がなくなって、彩はふいと視線を逸らす。そんなものか、と低く呟き、しかし耳聡い彼女から「そんなものです」と笑顔で返されてしまう。
どうもペースが悪いと、彩は彼女の手元に転がっている本を指差した。
「夢々先輩、そこの『お』の本、とってくれ」
きょとんと、夢々先輩は彩の指す方向を追って「え、あ、はい!」と急ぎ本を渡してくる。お返しに、彩は近くにあった本を夢々先輩に差し出した。周囲の本は適当に散らばっているだけだから、こういうやり取りは何度もある。
彩が黙って作業に戻ると、夢々先輩のほうも作業に集中し出す。しかし、黙っているのは性に合わないのか、時々、夢々先輩から話を振ってくる。もう余計なことは話すまいと、彩は適度に相手をして作業を優先する。夢々先輩のほうも、会話を続けつつも、作業の手は止まらないようにしていく。
今日の作業を終えたのは、周囲もすっかり暗くなってからだ。締め切った部屋で仕分けをしていたのでちっとも気づかなかったが、下校時間間際だったらしい。
……こういうとき、彩自身の感覚遮断というか、無頓着さには悩まされる。
いろいろなものを感じないということは、時間の流れすら、意識から外れるということだ。だから彩は、急いで帰らなければならない時間になっているということに、夢々先輩から指摘されるまで気づかなかった。幸運なのか、見回りの教師はやって来なかった。むしろ、気づかれないまま門を閉められていたかもしれない。そう考えると、幸運とも言い難い。
もともと本の整理中だったから、片付けるもなにもない。鞄を持って、戸締りを終えると、すぐに校舎から出た。
「今日はありがとうございました、響彩くん」
校門を出たところで、夢々先輩が頭を下げてくる。一月ということもあって、彼女は革のブルゾンを着ている。色も鮮やかな赤のため、かなり目立つ。
対する、制服だけの彩は皮肉気に口元を吊り上げる。
「言っても、明日も続きがあるんだろ?」
顔を上げた夢々先輩は「そ、そうですけど……」なんて困った顔をするのは、予想どおり。彩が微笑を浮かべたままでいると、彼女は一度咳払いして、なんとか威厳を取り繕う。
「全部終わった暁には、お食事をご馳走致しますので、楽しみにしていてください」
「別にそこまでしなくていいんだが……」
いいえ、と彼女は頑として譲らない。
「そういうわけには参りません。一方的にお仕事をお願いして、それで報酬も労いもないというのは不公平です。バランスがとれません。ぜひ、わたしめに奢らせてください!」
ともすれば闘志すら宿りそうな瞳で見上げられては、彩も遠慮し続けるわけにはいかない。ここは先輩からの好意をありがたく頂戴するのが、後輩としての務めだろう。
にっこり笑った夢々先輩は、途端、気づいたように口を円く開く。
「響彩くん。折角ご実家にお戻りになられたのですから、どうかご家族の傍にいてあげてください」
唐突な話題に、彩は面食らった。いや、図書室での会話の続きだということはわかるが、それをもう一度振ってくるような、そんな流れは一切なかった。
「妹さんのご尽力で、響彩くんはご家族と一緒にいられるんですから。あまり蔑ろにしていますと、妹さん、泣いてしまわれますよ」
あるいは、夢々先輩にとってこの話題はそれくらい重要だったのか。だったら、話題を逸らして正解だったと思いつつ、しかし、いまの彩は口元に笑みを浮かべるだけの余裕があった。
「じゃあ、まっすぐ帰ることにする。夕飯の時間に遅れたら、なにを言われるかわかったものじゃない」
「申し訳ありませんが、もうしばらくご協力をお願い致します。お夕飯の時間には間に合うように致しますので」
「気にしなくていい。俺が了解したことだ」
ありがとうございます、と夢々先輩は笑った。
「では、わたしはこちら側ですので」
「ああ、じゃあな」
校門前で、互いに反対の道を行く。なるほど、夢々先輩の家は三樹谷のほうだったのか。朝は早いから無理でも、下校時は擦れ違っていた可能性もあったのか。といっても、いままでそんな偶然はなかった。時間が合わなかったということだろう。帰宅部の彩は遅くまで学校に残ることをしないから。
彩は響の屋敷に向かう坂を上り始める。坂の下半分は民家が並び、周りも暗くなっているから、家の明かりが目立って見える。
坂の中間地点であるミラーの下まで来て、彩は不意に足を止める。
……こっちに、間宮や田板の家があるのか。
坂道から逸れた住宅地。他の生徒たちの家もあるだろうが、彩が知っているのは間宮と田板のことだけだ。
田板は、今日は休み。大方、風邪だろうと思うが、それにしては間宮の心配の仕方は大袈裟すぎはしなかったか。それとも、友人であるならあれが普通の反応なのだろうか。家も近く、昔から見知った相手が風邪で寝込んでいたら、すぐにでもお見舞いに行く。それが、普通なのか?
――だとしても、俺には関係ない。
再び、彩は坂道を上り始める。坂自体は急ではないが、響の屋敷まではそれなりの距離がある。民家もなく、一際暗くなった帰り道を、彩は一人で歩いていく。
坂の終点にあるのは、時代錯誤かと思うような立派な門。そして、ぐるりと敷地を取り囲む塀のために、中の様子までは窺い知れない。しかし、見上げるまでもなく、突き出した立派な屋敷は西洋のお城かなにかみたいだ。
辺りはすっかり暗く、そのうえ明かりもほとんど点けていないから、屋敷の輪郭だけがぼおっと浮かび上がるようで、季節外れの幽霊スポットにもなりそう。だが、中の庭は綺麗に整備され、屋敷の煉瓦一つとっても荒んだ印象はない。間違いなく、ここには人の気配がある。
門から屋敷の入口までたっぷり十メートル以上歩いて、彩はなにも気負うことなく扉を開けた。屋敷の中もまた、外観から想像されるとおりの立派な造りをしている。玄関だけでも、普通の家なら一部屋はあろうかという広さ。すぐ目の前には二階へと繋がる立派な階段があり、四人くらい並んでも平気な横がある。手すりにも、当然のように凝った装飾が施されている。ただでさえ広い空間なのに、三階までの吹き抜けだから、もはや天井は見上げるほどの高さ。
こんな大昔の貴族のような屋敷が、響の家。三カ月前から戻ってきた、彩の実家だ。響の本館で、昔の西館よりも豪勢だといっても、もはや受け入れるしかない。
もう夕食の時間ではあるけれど、まずは自分の部屋に戻って鞄を置いてから、
「――――兄さん」
なんて彩が歩き出す前に、目の前に一人の女性が立っている。いや、相手は彩の一つ下なのだから、まだ高校一年生だ。だが、身にまとっている衣装と、その立ち居振るまいから、さらに屋敷の雰囲気と相まって、より大人びた印象を与える。
淑女然とした彼女は、腕を組んだまま冷やかな視線を彩に向けている。対する彩は、事前に予想ができていたから、動揺も見せずに半目のまま問うた。
「なんだ?鮮」
ぴくっ、と鮮の眉が微動した。どうやら彼女の怒りに油を注いでしまったようだが、すでに破裂寸前だから仕方ないと、彩も気にしない。
響鮮――。彩の一つ下の妹で、響家の現当主。高校生という若さではあるが、崇の次は彼女だと、小さい頃から決まっていた。彼女も、当主となるための教育を幼少の頃から積んできたから、いまを当然と受け止めている。……むしろ、これまで響の屋敷で暮らしていた親戚たちを追い出すほどの革新的な当主様である。
そんな鮮は、兄である彩にさえ一歩も引かない。
「『なんだ?』ではありません。兄さん。一体、いま何時だと思っているのですか?」
彩は玄関にある柱時計を一瞥して、答えた。
「まだ夕食前だろう」
「ええ、そのとおりです。ですが、こんな遅くになるまで帰って来ないなんて、なにか特別な事情があったのでしょう」
さあ言い訳がおありなら聞きましょう、とばかりに、鮮の視線は一向に冷たく、鋭い。
内心は溜め息を吐きたくて仕方がないが、なんとか吐息を漏らすていどに抑えて、彩は妹の鮮を見返す。
「知り合いの手伝いで、学校に残っていたんだ。まだかかりそうだから、しばらく帰りは遅くなる」
対する鮮は、微動だにしない。まだ納得できない様子が、ありありと伝わってくる。しかし、彩にはこのくらいの説明しかできないし、嘘は言っていない。
「教師からの頼まれ事らしくてな。一人では大変だからって、頼まれたんだ。別にいいだろう?夕飯には間に合うようにするから」
無言で睨みつけること、五秒。根負けしたのか、諦めたのか、鮮は腕を組んだまま溜め息を漏らす。
「……自覚がおありならいいですが。でも、兄さん。そういうことは事前にお話してもらわないと、こちらも心配になります」
「仕方ないだろう。今日言われたことなんだから」
「でしたら、放課後の時間にでも、こちらに一報入れてください。わたしがいなくても、連や再はいるのですから」
「……わかった」
鮮が了承してくれたので、彩もその小言には頷いておく。
夕食も入浴も済ませて、ようやく彩は自室で落ちつくことができる。自室といっても、彩が部屋として利用しているのは寝室だけだ。大富豪である響の屋敷では、個人の部屋は二つあり、最初に普段の生活用に勉強机や本棚などが置かれた部屋があり、その奥に寝室が用意されている。当然、各部屋だけで一高校生には十分すぎるほどの広さがある。
十分に過ぎるから、彩が利用するのは奥の寝室だけ。三カ月も経ったので、引越しのときの荷物は整理を終えているが、もはや時間潰しの読書しかやることのない彩にとって、表向きの勉強机など必要ない。これまた広すぎるベッドの上で読書に専念する。
小さい頃からの、響の英才教育の賜物で、一人で勉学に励むという習慣は身についている。すでに独学で大学の教養レベルが終わっているから、いまの彩は読書で時間を潰すしかない。もちろん、教養以上のことを独学していれば、高校の間の時間潰しにはなるだろう。
だが――。
――将来、どんな職に就くかも決まっていないし。
彩の頭脳なら、医者になることも、弁護士になることも、研究者になることもできるだろう。あるいは、会社でも起こして社長になるか。響の伝手をあたればいくらでも企業はあるだろうが、自分で初めから立ちあげるというのも、一つの手だ。
……どれも興味はないがな。
そう、興味がない。知識があり、あらゆる可能性を持っていようと、可能性だけではなにも得られない。
――だから、探している。
響彩が存在しても良い場所を――。
彩はページをめくった、その白い指に目を向ける。
あらゆるモノを破壊してしまう、彩の感覚。その破壊を抑えるためのお守りとして、この手袋はある。
「この世界に存在しているものには、必ず意味がある、か――――」
それは、この手袋をくれた人の言葉。
……むやみやたらに破壊してしまう存在なら、いないほうがいいと思った。
……自分の意思とは関係なく、ただ触れただけで壊してしまう、そんな存在なら、いないほうがいいと思った。
入院して、目覚めたばかりの彩は、そう、思っていた。
――君のその性質も、必ず意味があるんだから。
自分という存在を呪い続けた彩を、その女性は優しく抱きしめてくれた。
――その意味を見つけるまで、簡単に自分を壊してはいけないわ。
近くにいるはずなのに、その感覚は遠かった。けれど、その温もりは、確かに在った。
「…………」
無言で、彩は自分の手を眺め続ける。彼自身を包み込む、白い手袋。
だから、彩はまだこの世界に存在している。自分の居場所。自分がいても、良い場所――。
ふと、彩は天井近くにかかった時計に目を向ける。……そろそろ、日付が変わる。
どうしようかと、彩は思案する。彩には、夜中に散歩に出る習慣がある。習慣といっても、これは毎晩のことではなく、気分によっては寝る時間まで読書をしていることもある。
さて、今日はどうしようかと考え、
――折角ご実家にお戻りになられたのですから、どうかご家族の傍にいてあげてくださいね。
なぜか、夢々先輩の言葉が浮かんできた。
「…………」
いや、あれは寄り道せずに家に帰れと、そういうニュアンスだろう。夜中に散歩をするなとか、そういう意味は含まれていないはずだ。はず、だが…………。
「まあ、いいか」
彩は栞を挟んで本を閉じると、ベッドすぐ隣のテーブルに本を置いた。椅子の上に置いておいた寝巻に着替えて、布団の中に入る。当然、手袋はつけたままだ。
……気分が乗らない。
いつもより早い時間だが、読書を続ける気分でもなくなったので、もう寝てしまおう。電気を消し、自身の意識も手放すと、彩はあっさりと眠りに就いた。