極章
朝食も終わって、自分の寝室で読書をしていると、扉をノックする音がした。返事をすると、入ってきたのは使用人の再だった。
「クラスメイトの佐久間、って人から電話だよ」
彩は電話の子機を受け取り、受話器を耳に当てた。
「もしもし、響彩だ」
「よお、響。今日、暇か?」
「……佐久間。まずは用件を言え」
「バイトだバイト。花見のバイト」
三樹谷の家にいた頃から、長期休みのときに佐久間のバイトの手伝いをよくしていた。突然、呼び出されることもあったから、彩も別に驚かない。
「いつもの公園でいいのか?」
「おっ、大丈夫だな。じゃあ、そこにいますぐ来い。いますぐだぞ」
それだけ残して、通話が切れる。慌ただしかったから、かなり急いでいるのだろう。
――ドタキャンでもくらったか。
佐久間が紹介するバイトはハードだから、運動部でも音を上げるやつが多い。調子に乗って連日で入れると、次の日に動けなくなる。
そんな中、彩は佐久間と並び、連日の労働についていける数少ないメンバーだ。ほとんどのバイトに参加したので、やり方も心得ている。佐久間がよく声をかけるのも、それが理由の一つだ。
再に子機を返すと、彼は当然のように彩に訊ねてくる。
「お出かけかい?」
「そうなった。たぶん一日かかりそうだから、昼食も夕食も用意しなくていい」
部屋を出た彩に、再は並んであとをついてくる。
「なに?友達と遠くまで遊んでくるの?」
「バイトだ」
「……お金に困ることなんて、ないんじゃないの?」
「ただの時間潰しだ。三樹谷の家にいた頃から、よくやっていた」
眉を寄せいていた再は、理解を得たように「ああ」と呟く。変な勘繰りを入れられたくないから、彩は補足しておく。
「今日は人が集まらなかったんだろうな。だから、俺に声がかかってきた」
「それを、彩はあっさりオーケーしたんだ?」
やっぱりそういう流れにもっていくかと、彩は階段を下りる直前に振り返った。
「春休み中、ずっと家の中にこもっていたんだ。気分転換に外に出たっていいだろう」
「その割には、飽きもせずずっと部屋にこもって本を読んでいたよね、彩は」
彩は無表情をさらに落として、半目で再を見返す。再は笑い声も隠さず、両手を上げる。降参のポーズなのか、宥めているつもりなのか、しかし表情からはそんな深刻み、欠片も見えない。
「まあ、彩が部屋にこもっていようが外に出かけようが、使用人にすぎない僕が口を挟めることじゃないよね」
どこか引っかかる言い方だが、再が引き止めないというなら、彩もこの場に留まる理由はない。じゃあ、と階段を降りかけた彩は、しかし別の声によって引きとめられた。
「兄さん。どちらへ行かれるのですか?」
部屋に戻っていた鮮が、東側からやってきた。ご立腹とまではいかないが、やや冷たい口調。彩が断りもなく出かけようとしていることに、いくらか苛立っているようだ。
……当主様は熱心なことだ。
嘆息したいのを内心だけで抑え、彩は鮮のほうに身体を向ける。
「昇公園だ。知り合いが屋台をやるから、その手伝いだ」
ヘタに隠して押し問答で時間を無駄にしたくないから、彩は素直に答えた。
「なにかお祭りですか?」
「花見だよ。あそこの桜は有名だからな」
「ああ。もうそんな時期ですか」
もともとイベントの少ない家だから、鮮も失念していたようだ。用がなければ外出もしないし、テレビもないのだから、響家の生業に関わること以外は、とかく遅れがちだ。
冷え切っていた鮮の表情が、途端、色彩を帯び始める。
「いいですね。お花見。ぜひ行きましょう」
「いや。だから、俺はそれの手伝いに行くと……」
「かまいませんよ。お昼にわたしたちも向かいますから」
「は?」
鮮のあまりに突飛な発言に、彩はついていけなかった。基本的に、旅行などない家だ。鮮の代になっても、春休みに家族揃って出かける予定などなかった。小学生の薫でさえ、自分の部屋で大人しくお勉強中。
……それが、花見?
思いつきにしても急すぎる。だが、彩は否定できない。鮮を引きとめて彩の外出まで取り上げられたらたまらない。
「そうと決まれば、早速、お花見の準備をしませんと」
「なにを用意するか、わかっているのか?」
「うーん…………。お食事の準備でしょうか。あ、でも兄さんがお手伝いする屋台があるのでしたね。なら、お料理はいりませんね。だとすると…………」
「とりあえず敷物と、あと上着をもっていったらいい。何時間も外にいるんだから」
「そうですね。では再、そのように準備して」
「かしこまりました」
再はにこやかに一礼して、階段を下りていく。もしかしたら鮮が出てくるように、わざわざ階段の前であんなことを言ったのか?……だとしたら、まんまとやられた。
彩は視線を鮮に戻す。
「料理も少しは用意しておいたほうがいい。全部を屋台で賄おうとすると、結構かかるぞ」
「お値段は気にしていませんが、そうですね、少しくらいは用意しましょう。――それでは、兄さん。お昼にまたお会いしましょう」
楽しそうに、鮮も階段を下りていく。調理場にいる連に、お昼の相談をするのだろう。
……まったく。
ただのバイトが、とんでもないことになりそうだ。彩は溜め息を一つ吐いて、階段を折り始めた。
屋敷を出て、彩は坂道を下っていた。朝食の時間から少し経っていたが、辺りはいつもの登校時間のように、静かなものだ。春休み中のせいか、あるいは、坂道の上半分は響の所有地だからか、人一人見かけない。
半分まで下り、彩はミラーの前を通過する。分かれ道から伸びる住宅地を一瞥するだけで、彩は立ち止まらずに坂を下り続ける。
……もう、田板の家はなくなった。
夜の散歩をしているときだった。住宅地を通って山の周りを通るルートを歩いていたときに、まず、田板家がなくなっていることに気づいた。普段は通らないから、工事にも気がつかなかった。おそらく、田板の両親は息子のことに、あるていど見切りをつけたのだろう。新天地で、自分たちの生活を再スタートすることに決めたらしい。
一方で、間宮邸はいまもそこにある。が、当然、住んでいる者はいない。家をどうするかは間宮の父方の祖父母が決めるようだが、現状、ご覧のあり様。維持費もあるから、貸家にするのか、売却するかのどちらかになるだろう。だが、人が突然いなくなった家に、誰が住みつくだろうか。
――いや、それは彩が知っているからか。
田板縁も、そして間宮一家も、もうこの世にはいない。そんな大きな空洞を、しかし世間は緩やかに受け止めていく。週刊誌やワイドショーのほうでも、それほど大きな騒ぎにはならなかった。学校の噂も、三学期の期末試験に入る頃には下火になっていた。
――教会の手が入ったのだろうか。
世間がこんな感じなのだ。当事者たちも、徐々に受け入れていくだろう。それが、生きていくということ。
……でも、響彩だけは忘れない。
それは、思いあがりかもしれない。誰もが、彼らのことを忘れたわけではない。ただ、自分たちが生きていくために、彼らの消失に触れなくなっただけ。
だが、人の記憶は曖昧だ。触れる頻度が減れば、その感触が薄れていけば、どんどんと忘れていく。存在は、まだこの世界に残っているのに、人々の中からは、摩耗するみたいに掠れていく。
彩だけは、忘れない。彩は記録するから、どんな遠い過去のことでも、少しも変わらず、生きている。
――それが、響彩という存在。
彩はバス停に止まっているバスに走って乗り込んだ。ギリギリ、バスの時間に間に合った。なんとか、佐久間の要求を満たせそうだ。
昇公園はとにかく広い。公園というよりも広場に近く、遊具がない代わりに様々な木々が植えられている。春には桜、秋には紅葉。普段はほとんど人がいないのに、その時期だけは大勢の人たちで賑わう。
そんな場所だから、待ち合わせ場所も決めずに呼び出されたら、相手を見つけるのでさえ苦労するのが普通だが、そこは過去の経験から、一度も迷うことなく佐久間を見つけることができた。
「おい、佐久間。来たぞ」
「お、響。いいところに来た。すぐこっちに来い」
佐久間はいったん作業を中断して、奥でまだ起こしていないテントまで彩を連れてくる。周囲の人間にも声をかけて、これからテントを持ち上げるらしい。
「まだテントもできていなかったのか」
「仕方ねーだろ。ドタキャンが二人も出たんだから」
各自位置につき、せーので持ち上げる。外から脚を持ち上げる者と、内からテントの布の位置を合わせて紐を縛っていく者。脚も留め金にはまり、紐も全て縛り終えると、最低限の人数だけ残して所定の場所までテントを移動させる。他の作業のない彩と、この場での監督役を任されている佐久間は残り組。佐久間が案内する通りに運んで、ようやくテントを地面に下ろす。ちゃんと立ったことを確認したら、ようやく残ったメンバーも元の作業に戻れる。
「次のテントもサクサク立てるぞ」
佐久間に案内されて、彩もテントの組み立てに回る。他の者が軍手をつける中、彩はいつもつけている白い手袋のまま。佐久間も慣れているから、特に注意はしない。
脚や骨組みをまとめているロープを解いて、テントの形に鉄筋を並べていく。慣れていないと配置を決めるのも苦労するが、彩は一つも間違えず、鉄筋同士の結合まで終わらせる。
「花見は何日目だ?」
組み立てながら、彩は近くに来た佐久間に話しかける。
「今日で三日目」
「ドタキャンが出たって、二人も連日に入ったのか?」
「ああ。一人は動けないって返事があったが、もう一人は電話にも出ない。寝てるのかサボりなのか知らないが、こっちも忙しくて、相手なんてしてられねーよ」
投げやり気味に、佐久間は返す。勉学には不真面目でも、連日のバイトが無理だってことくらい、佐久間は知っているはずだ。それでも強引に二人も連日に入れたのは、それだけ人が集まらなかったということだ。
最初から彩に応援を求めていればよかったのに。佐久間なりに気を遣ったのかもしれないが、正直、それは変な気の遣い方だ。
――十年振りの我が家に戻れても、暇なときは暇だ。
久し振りのバイトも、いい息抜きになる。結局、冬休みには一度も参加できなかったんだ。今日は一日、時間を潰し切ろう。
最後のテントを持ち上げたところで、二台のトラックが公園の駐車スペースに入ってきた。
「うわっ、ヤベっ。もう来ちまった」
佐久間は場所だけ指示してトラックのほうに走っていった。すでに並べたテントの横だから、慣れていないやつでもわかる。
「――響。テーブル二つ並べとけ」
佐久間は彩に小声でそれだけ伝えたが、長い付き合いのある彩にはすぐにその意味が理解できた。他の連中に指示を出して、急ぎ長テーブルと椅子をテントまで運ばせる。ひとまず、駐車スペースからもっとも近いテントにテーブルを二つ並べて、椅子も後ろのテーブルに二席並べる。
他のテントにも同じようにテーブルを並べるように言い渡したところで、トラックの集団が到着した。残りの集団とは明らかにガタイの違う男たちが大荷物を抱え、彼らの先頭には同じく荷物を持った佐久間ともう一人、手ぶらの女性がやってきた。女性は短い茶髪で、周りの男たちと大差ない、ジーンズにジャンパーという、おしゃれとはほど遠い恰好をしている。
「なんだよ、まだ準備終わってねーのかよ」
女性は後から来た男たちに指示を飛ばす。いまの荷物を適当に置いたら、もう一往復。
「おら、ヒデ。おまえは荷物を運ばせな」
「わかってら」
佐久間はテーブルや椅子を運んでいる中から三人ほど捕まえて、たったいま運んできたばかりの荷物を運ばせる。中身は、鉄板、ガスコンロ、電子レンジ、フライパン、大鍋、ヘラ、まな板、包丁、菜箸、おたま、油、料理酒、味醂、キャベツ、焼きそば、焼き鳥、豚バラ、大根、人参、こんにゃく、ごぼう、などなど……。本日、屋台で出す料理と、必要な調理器具だ。
佐久間が動くのを満足そうに見てから、女性は彩の姿に気づく。
「よお、響。おまえも来てたのか」
「佐久間に呼ばれてな。今年も、暁海の采配か」
彼女は佐久間暁海という。つまり、佐久間秀徳の姉だ。佐久間がいま暮らしている部屋の主になる。だが、部屋にいないことが多く、泊まり込みなどしょっちゅうだと佐久間から聞いている。定職には就かず、知り合いかなにかの伝手で全国どこでも働いているとか。
佐久間が紹介するバイトも、ほとんどは暁海経由だ。だが、暁海自身が現れることは稀で、唯一、確実に彼女を見かけることができるのは、この花見だけだ。
ああ、と暁海はやたら大きな声で頷く。
「ここの桜は綺麗だからな。もうしばらくは俺主導で動かすよ。つーか、おまえ昨日一昨日いなかったじゃねーか。なんでだよ」
「佐久間から声がかからなかったんだ。今日はドタキャンが出たっていうから、仕方なく出てきたんだ」
アァン、なんてガラの悪い声を出す佐久間・姉。そんなところに、荷物運びの連中が戻ってきた。残りの食糧半分と、飲み物を大量に詰め込んだビニール袋を半分、の割合で持ってくる。
列の後ろから両手で飲み物の袋を運んでくる佐久間を見つけて、暁海はさらに大きな声で佐久間に怒鳴った。
「おい佐久間!響に声かけてないって、一体どういうことだ?」
ああ!と佐久間は荷物を運びながら怒鳴り返す。
「響のやつ、やっと実家に戻れたんだよ!家族とゆっくりしたいから、しばらくバイトは手伝えないって言うんだぜ!」
暁海の両目と口が綺麗に丸を描く。驚きのあまり、咄嗟に反応できなかったらしい。
……佐久間のやつ、かなり脚色しやがって。
妹の鮮が、できるだけ家にいてほしい、と言ったのは事実だ。だが、佐久間の言い方では、彩が望んだように聞こえる。
訂正しなければ、と開きかけた彩の口を、隣の怒号が無慈悲に塞いだ。
「おい響!なんだそりゃ?どういうことだ!」
もはや質問の内容も意味不明だ。掴みかかってくる暁海を、彩はギリギリのところでかわし続ける。
「佐久間の、言ったとおりだ。三樹谷の家から、響の家に、住むことになったんだ」
「そんな大事なことを、なんで俺に教えない!いつだ、いつから戻ったんだ?」
「去年の十一月だ。その間、あんたに会ってないだろう」
「なら、秀徳!」
彩への攻撃を止め、暁海は佐久間のほうに駆けていった。佐久間の本名がつい口から出てしまうほど、彼女は熱くなっているらしい。ようやく荷物の山まで辿りついて袋を置いた佐久間は、今度は姉からの攻撃を受けるはめになる。何度かかわしたようだが、最後には姉の手に掴まってしまう。最後の抵抗も空しく、佐久間の両手が締めあげられる。年上とはいえ、喧嘩慣れした佐久間をこうもあっさり組み伏せてしまう女性を、彩は他に知らない。
「いてて……!なにすんだよ姉貴ッ!」
「おまえが悪い!なんで俺に教えない!」
「いま教えたからいいだろう。響だって、急に引越しが決まって大変だったんだよ。そんなところに姉貴が押し掛けたら、逆に迷惑だろう」
佐久間にしては珍しくまともな意見だ。もちろん、火の向きを変えるための苦し紛れの言い訳だったことに、彩は気づいている。
パッと両手を離して、暁海は再び彩のほうへと振り返る。彩は躊躇わず、彼女との距離を一歩開けた。
「彩!」
暁海が吼える。彩は警戒に身を固めつつも、いつでも動けるように適度に力は抜いておく。
いまにも飛びかかろうとする姿勢で、暁海はなおも声を荒げる。
「家族とゆっくりしたい、ってのは、本当か?」
口調とは真逆の質問に、彩は正直、面食らってしまった。
……いや、正確には違うんだが…………。
佐久間の誇張だと言っても良かったが、地面に倒れた佐久間からの「頷け!いいから頷け!」という熱い視線に、彩は仕方なく頷いた。
「……まあ、間違いじゃない」
彩の返答をどう受け取ったのか、暁海は目を瞑り、まるで咀嚼するように「そうか」と頷く。
ゆっくりと、佐久間は起き上がる。そんな弟に向かって、暁海は再び怒鳴る勢いで声を上げる。
「ヒデ。おまえは荷物運びに回りな。響も一緒だ」
突然の指示に、彩も佐久間もともに面食らう。彩はまだちゃんとした仕事がないのでいいが、彼女が来るまで指示を出していた佐久間は、全くついていけなかった。
「いや、姉貴。俺はこっちの担当だって……」
「心配するな。俺が代わりに新入り組みの面倒をみてやる」
「……無茶して壊すなよ」
さあ行った行った、と手を振る暁海。大丈夫だとこちらを安心させるためのものなのか、さっさと行けと追い払うためのものなのか、いまいち判別しづらい。だが、すでに彼女の中では揺るぎない決定事項のようだ。彩たちは大人しく、駐車スペースに留められたトラックへ向かった。
まだ暁海の大声は届くが、こちらからの声が聞こえないほどの距離まできて、彩は隣を歩く佐久間に話しかける。
「あいかわらずだな。暁海のやつ」
「その台詞、そっくりおまえに返すよ」
意味がわからず、彩は首を傾げる。呆れたように、佐久間は溜め息を吐く。
「姉貴にため口利けるのは、おまえくらいだ」
「それはおまえだって同じだろ」
「当然だろ。実の姉に敬語なんて使えるか。気色悪ぃ」
駐車スペースまで来ると、トラックは一台だけになっていた。どうやら、一度に乗せきれなかった荷物をもう一回取りに行ったらしい。発電機やバーベキューセットなどは運び出され、残ったのは地味に重い飲み物ばかり。後から来た人数ならもう一回で終わるが、どうやら暁海は彼らをテント組に合流させたらしい。残りの飲み物の袋を、佐久間と彩は何度か往復して運ぶはめになった。
九時をすぎた頃からぽつぽつと人が集まり出し、十時、十一時になるにつれ、公園の中はかなり賑やかになってっきた。シートを敷いて場所取りをしている者から、料理を運ぶ後続部隊が合流するグループまで。花見を楽しむメンバーも揃い出し、そろそろ始めようとシートに座る者の姿も、ちらほら見える。
そうなれば、屋台も本格的に活動を開始する。何人かは声かけのために店の外に出る。すると、花見目的の人たちだけでなく、たまたま通りかかった通行人も、目を止めていく。まだ料理を買っていく人は少ないが、十二時をすぎ、花見が本格的に始まると、屋台を知っている人間は料理を買い求めにやってくる。
あとは、どれだけ人並みを維持できるかだ。行列は短いほうがいいが、少なすぎると人目につかない。そのための呼び込みは欠かさない。できあがった料理があれば、できたてを誇張する。焼き鳥などは目の前で焼くと、匂いに誘われて人が止まりやすい。
ビニールプールに入れた飲み物も人の見えるところに置いて、キンキンに冷えていることを主張する。春先ということもあるから、温かい飲み物も欠かさない。定番の飲み物から、最近の流行りまでを揃えている。こういった品揃えは、去年までの売れ行きなどから決めているらしい。
店が回り始めて、売り込みも売り手も、あるいは料理の造り手も、どこもかしこも忙しいが、とりわけ忙しそうに飛びまわっているのが、屋台全体を取り仕切っている佐久間暁海その人だ。
「焼きそば二つに、豚汁二つですね。焼きそば二、豚汁二!」
注文を受けていたと思ったら、注文受けに慣れている人間にいったん任せて、野菜切りやパックの開封が終わった新人二人を捕まえて、外で売り込みをしている者のほうを指差す。
「ほら、あっち行って列整理を手伝ってこい」
その声に、裏でできあがった料理のパック詰めを終えた新人が駆け寄ってくる。
「おまえらは会計を手伝え。人が多くなってきたから、回り切れてないだろ」
あるいは、別の店から人を連れてきたり、長時間立ちっぱなしになっている者には声をかけて休憩をとらせる。
裏手で料理を作っている彩は、料理の手は休めないまま、そんな慌ただしい暁海をぼんやりと眺める。
「暁海のやつ、大分はりきってるな」
「他のバイトのときは奥でふんぞり返ってるのにな。このお祭りは、本当に楽しいんだろうよ」
祭なんて、そんな大したものではない。ただ人々が集まって、好き勝手に花見をしている。自分たちで持ち寄った料理を食べたり、あるいは屋台の料理を買ったり。そんな賑やかさに、通行人たちもふと足を止める。屋台で焼きそばや焼き鳥を買って、花見を楽しむ。中にはビールを買って本格的に花見を始める人もいる。
――小さなお祭り。
だから自分たちでこの空気を創りだしている――。
焼き鳥を焼き終えて、彩は大皿の上にできたものを上げていく。あとは他の人間の作業だ、彼らが客に出せるようにパック詰めをしていく。佐久間のほうも焼きそばを作り終え、一度火を止める。
作業に区切りがついて、二人がそろそろ休憩をとろうとしていたときだった。
「あ、お兄様です」
聞き覚えのある声に、彩は振り返った。いや、記録する彩が忘れるはずもない。それは間違いなく、十歳も年の離れた弟の薫だ。
声のした場所を見つけると、確かに薫の姿があった。当然、他の人間の姿もあるわけで。
「本当です。兄さぁん!」
鮮も彩に気づいて手を振ってくる。バスケットを提げている連と、ビニール袋を抱えた再も、鮮のあとに従っている。
……とうとう来たか。
朝、彩も認めてしまったことだから、いまさら悲観しても仕方がない。絶対に嫌というわけではないが、バイトの姿を見られるというのは、どうもいい気がしない。
佐久間に断りを入れて店を出ようとして、しかしその佐久間のほうが彩よりも先に口を開いた。
「兄さん、って。えっ、なに?あれ、おまえの妹!」
なぜか驚愕に目を見張る佐久間に、彩は「ああ」と頷くしかない。半分だけだが、彩とは血を分けた妹だ。なにも間違っていない。
彩の返答に、佐久間は「はぁ……」なんて声を漏らしながら、再び視線を鮮たちのほうへ戻す。佐久間がなににそんなに驚いているのか、彩には一ミリも理解できない。
だが、店の傍まで鮮が来ると、佐久間の対応は速かった。鮮が何事か話すより先に、彩との間に割り込むように前に出る。人目も気にせず、佐久間はいつもより音量を上げて鮮に話しかける。
「響の妹さん?今日、響にバイトをお願いした佐久間秀徳です」
後ろの再が「ああ、電話の人」なんて納得しているが、佐久間の視界には鮮しか入っていない。
「今日はすいません。急に響を借りちまって。今日バイトに出るはずだったやつが、体調を崩して休んじまったから。それで、よくバイトに誘っていた響に声をかけたんだ」
突然現れた佐久間に最初は戸惑っていた鮮も、状況を呑み込めて、すんなり佐久間の相手をする。
「そうだったんですか。わたしは響彩の妹で、鮮といいます。兄さんは学校でのことをあまり話さないので、バイトのことはわたし、全然知りませんでした」
「ああ。あいつは自分のこと、あんま話したがらないからな」
「あなたとは、よくお話しになるんですか?」
「まあ、話す、っつうか。こっちが色々訊くんだよ。黙っていたって、あいつは自分のこと話さないから」
ああそれでも、と佐久間は思い出したようにその話題を口にした。
「引越しのことは、珍しくあいつから話してきたな」
「――そうなんですか」
鮮は佐久間の言葉を噛みしめてから、笑顔で彼に返した。
「これからも兄さんのこと、よろしくお願いします」
「お、おう。まかせとけっ」
淑女然と頭を下げる鮮に、佐久間はたじろぎながらもなんとか胸を張って答えている。
……ああ、そういうことか。
ようやく、彩は佐久間の下心に気づいた。佐久間はもっと年下っぽい感じが好みだと思っていたのだが。確かに鮮は年下だが、そんな甘さや柔らかさとは無縁な印象だ。もっとも、それは三カ月も一緒に生活をする彩だから出る意見なのかもしれない。初対面の佐久間からすれば、十分にストライクゾーンということか。
――あるいは、まだ鮮の『本性』をわかっていないだけか。
さっさと鮮を連れて、この場から離れたほうが良さそうだ。彩は声をかけようとするが、それを佐久間の大きめな声が遮ってくる。
「鮮ちゃんは花見に来たの?」
「はい。兄さんがバイトで向かわれるということで、折角なので、家の者たちと来たんです」
鮮が弟の薫と、使用人の連と再を紹介する。うんうんと、佐久間は聞き流すように頷いて、すぐに鮮との会話に戻る。
「料理は持ってきてる?良かったら、うちのとか持ってかない?」
「はい、そのつもりです」
「そう!ならなら……」
店に案内する佐久間を、しかし横から伸びた手が妨害した。
「うわっ、なに?……って、姉貴!」
佐久間の首を掴んだのは、姉の暁海だった。暁海は上から下まで鮮を見定める。突然の闖入者に一瞬驚いた鮮だが、しかし相手の姿を目にすると、鮮は受けて立つとばかりに会釈する。
ニッ、と暁海は粗暴にならないていどに快活な笑みを鮮に向ける。
「秀徳の姉の、佐久間暁海だ」
「響彩の妹の、鮮といいます」
うんうん、と頷いて、暁海は佐久間のほうに目を向ける。
「ヒデ。このお嬢さんのために取っておきの料理を渡してやれ。御代はとるな」
「へ?」
「そ、そういうわけには……」
暁海の突然の申し出に、佐久間も鮮も困惑する。だが、発言者である暁海は当たり前のように話を続ける。
「おまえの兄である響彩は、よくバイトを手伝ってくれてたんだ。こっちとすればありがたい話だ。だが、あいつはいつも『金なんていらない。時間を潰せればそれでいい』なんて嘯きやがる」
暁海の話しは色々と省かれているが、確かに暁海に『なんで響はこんなきついバイトに毎回参加してくれるんだ?そんなに金がないのか?』と訊かれるたびに、そう答えてはいる。
「そんな響が、実家に戻れたからしばらくバイトはできないと言いやがる。――家族とゆっくりしていたいんだと」
暁海の話に、鮮は言葉を失ったように固まってしまう。
……いや、だから色々と省きすぎた。
なんだか話がおかしな方向に流れている。だが、彩が止めに入る隙などなく、暁海は話を終わりにもっていく。
「もしも御代が気になる、って言うなら、今日の響のバイト代から引いとくよ。どうせあいつ、金なんていらない、って言うんだしさ」
いいよな響、なんて宣う始末。大富豪の家に暮らす彩にとって、バイトの金を必要としていないのは事実だ。だから彩も「好きにしろ」と投げやりに返す。
うんうん、と暁海は楽しげに頷く。
「じゃあ、鮮ちゃん。お花見を楽しんでくれ。料理のおかわりが必要になったら、いつでもまたおいで。ヒデにできたてを渡させるから」
響も午後は来なくていいぞー、なんて言いながら、暁海はその場を後にする。暁海の背中に、ようやく我に返った鮮が「ありがとうございます」とお礼をする。
……ひとまず、丸く収まった、のか?
実際とは反する箇所も散見されるが、彩は無理に修正しようとは思わなかった。面倒だというのが一つと、藪蛇になるのを恐れてだ。もしも不都合があれば、そのときに訂正すればいい。
佐久間が鮮に料理を差し出して、使用人の再がそれら、大量の料理を受け取っていく。連もいくつか持とうとするが、そこは小学生の薫が代わりに持った。
「ほら、彩。おまえも持てよ」
佐久間が差し出してきた飲み物の袋を、彩は受け取る。アルコール類が紛れ込んでいないことを確認してから、彩は鮮たちと一緒に、佐久間に教えられた場所に向かった。
会場が賑わい出してしばらく経ったから、ほとんどの場所は埋まっている。だが、佐久間に教えられた場所は、店からも人々が陣取った場所からも遠く、それでいて、少ないながらも桜のすぐ傍にシートを敷ける、そんな穴場だった。
「いい場所を教えていただけましたね」
周囲の桜を一通り眺めてから、鮮は彩に振り返る。飲み物の袋を置いて、彩も彼女に応じた。
「そうだな」
人混みから離れたのも、彩としてはありがたい。本気で佐久間に礼を言ってもいい心持ちだが、調子づいて鮮に手を出されるのは嫌なので、口に出すつもりはない。鮮を取られるというより、佐久間に「義兄さん」なんて呼ばれたくない。
……いや、考えすぎか。
彩は再を手伝って、シートを広げていく。細かいところは薫も手伝って、シートがめくれないように荷物を置いていく。五人が座って、荷物も置いて、それで多少動くスペースがあるくらいの、ちょうどいい大きさ。
「はい、彩様。どうぞ」
使い捨ての銀皿に料理を盛って、連が各自の食事を配っていく。連が用意したのは、サンドイッチとポテトサラダだ。
「飲み物も、はい」
プラスチックのコップに、再が飲み物を注いでいく。
薫が屋台からもらった料理の袋を繁々と眺め、誰にともなく訊いた。
「これはどうします?」
「真ん中に出しておきましょう。皆さんが取りやすいように」
連の言葉に、薫は頷いて袋から焼きそばと焼き鳥を出していく。なんとなく、花見という雰囲気になってきた。
「それでは、準備ができましたね。それではいただきましょう。乾杯!」
鮮の音頭に従って、各自がコップを中央に伸ばす。乾杯!という唱和とともに、カップが触れ合って、水面が揺れる。
飲み物を一口、連のサンドイッチを一つ食べ終えたところで、鮮が彩に話しかけてきた。
「兄さんは、またバイトに戻るのですか?」
「暁海が来なくていいと言っていたから、戻っても追い返されそうだな」
面白い冗談を聞いたように、鮮は笑う。
「暁海さんも秀徳さんも、とてもいい人たちですね」
「ああ、あれは鮮専用だ。俺のときはまた別の対応をされる」
人遣いの荒さには彩も慣れたが、隙を見ては詮索やお節介をしようとするのは、姉弟揃っての悪癖だ。
鮮は微笑を浮かべるように目を細める。
「それって、とても仲が良い、ということですよ。兄さん」
気を遣わないということは、もう他人なんて距離ではないということ――。鮮の意図を察して、彩はただただ憮然とする。
ポテトサラダを呑み込んでから、鮮はごく自然な疑問を口にする。
「兄さんは、またどうしてバイトなんてされていたのですか?」
暁海が彩の回答を口走っていたが、鮮にはその意味が理解できていないらしい。どう返したものかと悩むこと数瞬、しかし、それを説明するのを疎んで、彩は誤魔化すように、しかし平然として鮮に返した。
「バイトは三樹谷の家にいた頃の話だ。鮮は、できるだけ家にいてほしいんだろ?」
「そうですけど……。その言い方、わたしが兄さんを拘束しているみたいに聞こえます」
口を尖らせる鮮に代わるように、隣の薫が彩を見上げてくる。
「バイトというのは、そんなに楽しいものなのですか?」
彩がやり続けていたのは、楽しいからに違いない――。子どもらしい、単純な発想だ。
……別に、楽しいからやっていたわけではないんだが。
だが、彩にはそもそも、その疑問自体が当てはまらない。だから、あくまでバイトがどういうものかを、幼い薫に説明してやる。
「楽しいかどうかは人それぞれだと思うが……。まあ、大雑把に言えば、お手伝いみたいなものだ」
「お手伝いというと、再や連みたいな?」
使用人の連や再を交互に目にする薫。急に話を振られて、連も再も返答に困る。兄である再が、やや口元を固くしながらも返答を口にした。
「バイトも正社員も、仕事をしてるという意味では、同じでしょうか」
違いを説明するのを放棄して、再は簡単にまとめる。確かに、雇用のシステムをこの場で説明することは、あまり意味がない。
うんうん、と薫は黙ったまま頷く。少し、理解が進んだらしい。彩に向き直って、小首を傾げる。
「お兄様は、お外で再たちと同じようなことをなさっていた、ということですか?」
「暁海が斡旋してくるのは、力仕事ばかりだ。重いものを言われた場所に運ぶ。それを一日中だ」
へえぇ、と薫は感心したように声を漏らす。正確に理解したかは謎だが、とにかく納得してくれたようだ。
代わりとばかり、また鮮が彩に質問を投げる。
「それで、兄さん。兄さんとしては、どちらが良いですか?屋敷で休みを過ごされるのと、バイトで外に出られるのと」
なにか、問い詰めるような質問だ。二択を迫って、彩からはっきりとした回答を得ようとしているのが見え見えだ。
それでも、彩は律義に考える。別に、バイトをしたいとは思わない。暁海が言ったように、ただの時間潰しでしかないのだから。
だが、屋敷のほうが良い、というのは、なにか彩の感性に合わない。それらを勘案して、彩は次のように答えた。
「人数が足りないとかじゃなければ、家にいる。あと、急な用事が入らなければ、な」
選択としては、響の屋敷をとった。その事実に、鮮は少しだけ表情を和らげる。うん、と頷いて、意地悪っぽく彩を見返す。
「それなら兄さん。可能なら、急な用事を持ってこないようにしてくださいね」
彩が予告も断りもなく出かけることへの当てつけだろう。悠然と食事を再開する鮮に、彩は半目で「……善処する」と返すのがやっとだった。
最初はシートに座って、食事のついでに花を眺めていたが、普段の量を各々が食べ終わると、小学生の薫はじっと座っているのに飽きて、外を歩き回りたいと言い出した。一人で行かせるわけにはいかないと、再が薫の付き添いをすることになり、鮮はその場に残って水筒に入れてきた紅茶を飲みながら花見を続ける。
一方の彩は、薫や再とは別行動で散歩をしている。お手洗い、なんて嘘を吐いてきてしまったが、そうでもしなければ一人になれない。
「今日は午前中からずっと他人と一緒にいたからな」
人混みを嫌う彩には、例え顔見知りが相手でも、息苦しさのようなものがある。当然、彩はそんな感覚を抱くわけではない。だが、身体の強張りがとれないとか、そんな変な緊張が残ってしまう。気分転換は必要だ。
そんな彩が散歩コースに選んだのは、公園の中心から外れた周りの道だ。公園中に桜が咲き乱れるように、歩道の傍にだって桜はある。車の通る大通り側では、歩きながら花見を楽しむ歩行者だっている。もちろん、彩は大通りではなく、河原付近の細い道を歩いている。大通りに惹かれて、こちらは全くと言っていいほど人がいない。桜との距離が遠い、というのもある。だが、これはこれで綺麗だと、彩は素直に思う。
往路の三十分は、一人で散歩を満喫することができた。おかげで、身体も楽になったようだ。これ以上先に行くと完全に桜が見えなくなるので、彩は引き返すことにした。
道を戻り始めてから十五分。その道で、彩は初めて人を見かけた。
――珍しいな。
これまでだって、バイトの休憩でこの道を使ってきたが、人を見かけるのはこれが初めてだ。それくらい、公園内や大通りの桜は有名だ。こんな穴場、そうそう使われることはないのに。
彼女たちは二人連れだった。中学生くらいの少女が車椅子に座っていて、それを母親らしき女性が押している。車椅子の少女はとても快活で、桜をじっと見たまま、時々、手を伸ばしてなにかを指差している。後ろの女性に何事かを話して、女性のほうはそんなおおはしゃぎの少女に笑顔で頷き、言葉を交わしている。
――足が不自由なだけか?
近くに大きな病院はあるが、普通に歩いたって二十分以上はかかる。なにより、少女は入院患者のような寝間着姿ではないから、自宅で生活しているのだろう。
と。
突風が道の上を走った。隣が大きな川だから、ここはよく風が吹く。それでも、この突風はいつになく大きかった。
車椅子から乗り出すように身体を前に出していた少女は、その風に咄嗟に反応することができなかった。彼女が被っていた丸い帽子が、風に煽られて空に舞った。
「あっ……」
少女は宙に浮いた帽子に手を伸ばそうとした。が、それ以上、車椅子の外に出ることができない。女性のほうも、少女が落ちないようにするのが精一杯で、帽子のほうには手が回らなかった。
「……!」
反射的に、彩は走った。帽子は川のほうに飛んでいく。重さがあるからすぐに下降を始める。河原に落ちるか、それともその先の水に落ちてしまうのか、そんなギリギリの飛行。
彩は傾斜のある緑地を走って、石ころの上で態勢を立て直しながら帽子を追った。川に落ちようとした、ところを、彩は手を伸ばして帽子を掴んだ。
彩は一息ついて、身体を持ち上げる。間一髪、着水は防いだ。道のほうを見上げると、女性は安堵したように胸を撫でおろし、少女は驚いたまま両目を瞬いている。
「はい、これ」
道に戻った彩は、少女の頭に帽子を返してやる。少女は帽子のつばを両手で握って、不思議そうに彩を見上げてくるだけで、なにも言わない。代わりに、女性のほうが彩に頭を下げる。
「どうもありがとうございます」
「いいえ。ここはよく風が吹くから、そんなふうに帽子を抑えていたほうがいいぞ」
彩の忠告に、やはり少女は返事をしない。そうですね、と彩に応えたのは、やはり女性のほうだった。
「何度か注意したんですが、熱がってすぐに帽子を持ち上げてしまうんです。次からは気をつけないと駄目ですよ」
女性に優しく諭されて、少女はようやく「はい」と小さく呟いた。少女はすでに、彩から顔を背けて俯いている。
口を利いてくれない少女をそのままにして、彩は女性と会話をする。
「家はこの近く?」
「いいえ。駅の向こうなんです。主人に、車で送ってもらいました。……この娘、人見知りが激しくて、バスはまだ駄目なんです」
視線を落とすと、少女は帽子を深く被って彩と目を合わせようとしない。確かに、重度の人見知りのようだ。
「今日は、お花見に?」
「ええ。この公園は桜で有名でしょう。開花したとニュースでやっているのを見ていたら、珍しくこの娘が行きたがって」
普段はテレビだけで満足するのに、と女性は嬉しそうに微笑む。
「ここよりも、公園の中のほうが綺麗だ」
河原側の桜は距離があるので、いくらか物足りない。この公園の桜を満喫するなら、中に入ったほうが断然いい。
女性は困ったように眉を寄せて、頬に手を添える。
「そうなんでしょうね。でも、この娘にはまだ、人混みは辛いんです。最初は大通りのほうを通ったんですが、人が多すぎて……。それで、こちらの道に来たんです。人がいなくて、この娘も喜んでいたんです」
大通りで人が多いといっても、町中を歩くよりはずっと少ない。道幅もあるので、十分擦れ違える。
それでも、この車椅子の少女にとっては負担らしい。彩がいるだけで顔を伏せてしまうのだ、大通りどころか、普通の道もまだ歩けまい。
車椅子の中の少女を見る彩に、女性は少し躊躇ってから、しかし決心したように口を開く。
「この娘、二月の頭まで、ずっと意識がなかったんです。もともと身体が弱かったんですが、八歳のときから、急に意識がなくなってしまって……」
突然の告白に、彩は戸惑ってしまう。意識不明で、寝たきりだったという少女。外見は中学生くらいだが、実際はもっと年上かもしれない。八歳の頃からというと、一体何年、眠り続けたのか……。
「いまは何歳?」
「十七歳です。ちゃんと学校に行けていたら、高校三年生です」
「じゃあ、俺と同い年だ」
そうなんですか、と女性は複雑そうに呟く。彩だって、それ以上なんて続けたらいいのかわからない。そこまで大きくなった少女には、もう学校をやり直すこともできないだろう。
考えた末、彩はようやく会話を継いだ。
「身体が弱いってことは、意識が戻ってからも病院に?」
自宅には帰れたようだが、検査のため、頻繁に病院に通っているのだろうと、彩は想像した。だが、女性の反応は彩の予想した悲観的なものではなかった。
「それがですね。目が覚めてからこの娘、とても元気になったんです。お医者さんが言うには、ちゃんと食べて体力がつけば、普通の生活ができるそうです。まだ立つ練習をしているんですが、それでも立とうとすることはできるんです」
女性の顔は確かに喜んでいたが、どこか困惑の色が見て取れた。それもそうだろう。小さい頃から病弱で、十年近く意識不明だった。それが、急に良くなるなんて……。
だが、彩はそこには触れない。その喜ぶべき話にだけ、彩は手放しで歓迎する。
「そうか。じゃあ、来年までに元気になって、公園の中を歩けるようになったらいいな」
ええ、と女性のほうが少女の代わりに頷く。女性もまた、彩の言葉を受けて嬉しそうに微笑む。
「――――来年も」
それは、女性の声ではなかった。下を見ると、少女が彩を見上げている。なにかを決心したように、彩の視線を受けても、少女は目を逸らさない。
「あなたは、こちらにいらっしゃいますか――――?」
なんだか、やけに仰々しく訊ねられてしまった。
……それが可笑しくて、彩は笑ってしまう。
少女の瞳が、不安に揺れる。怖がらせてしまっただろうか。だが、それは少女の勘違いだ。それを伝えたくて、彩は笑ったまま彼女に答えた。
「ああ、いるよ。また、桜の咲く季節に」
少女は、また大きく目を見開いた。困惑?驚愕?よくわからない。だが、彩にはその瞳に涙が溜まっていくような、いまにも泣き出してしまいそうに、なぜか見えた。
……でも、そんなのは錯覚だ。
彼女は、泣かない。だって、そんな理由は、どこにもない。
初めて逢って、また逢う約束をしただけ。その刻まで、お互い待ち続けると、誓っただけ。
――その瞬間までに、あなたに相応しい自分になれますように。
少女は急に顔を伏せてしまう。恥ずかしくなったのか、やや頬を上気させて、後ろの女性に振り返った。
「お母様。わたし、少し疲れてしまいました」
「それでは、家に帰って休まないといけませんね」
女性は笑顔で、少女の申し出に頷いた。屈んだ背筋を元に戻した女性に、彩は先手を取るみたいに提案した。
「公園の中で休んでいったらどうだ?人が少ない場所は知っているし、中には屋台があるから、食べ物も飲み物もある」
どうします?と女性は少女に訊ねる。少女は、女性のほうを向いたまま、彩とは一瞬も目を合わさずに首を横に振った。
すまなそうに、女性は顔を上げる。
「お気遣いありがとうございます。でも、もう帰ろうと思います。こんなに外に出ていたのは初めてだったので、この娘も疲れてしまったんです。家に帰って、ゆっくり休もうと思います」
「そうか……」
そこまで言われたら、彩も無理にとは言えない。道を譲ると、女性は感謝の言葉とともに頭を下げ、車椅子を押して進みだす。
遠く離れても、少女は最初に見かけたときのように、車椅子から身を乗り出そうとしない。後ろ姿は、ずっと女性しか見えない。
「来年――――」
なんて、曖昧な約束。来年は、彩も大学生だ。この町にいるのかも、わからない。
……でも。
約束だ……。
彩も、約束は大切にする。なにも得られない、創みだせない彩だから、触れたものは、大事にしたい。壊してしまわないように、優しく、優しく…………。
「それに――――――――」
「珍しいですね。人見知りのあなたが、初めて会う人とお話するなんて」
車椅子の震動が、少女の身体を細かく揺する。病院の中や家の中とは違う、アスファルトの感触。
大通りを通ったときは、ずっと俯いていたから嫌だった。まるで、人の視線が針になったみたいに、少女の身体を執拗に打つ、そんな感じがした。
でも、いまは……。
少女は前を向いたまま、母親の笑い声を聞く。まだ、胸が高鳴っている。頬にも、熱が残っている。
熱くなったらすぐに帽子を上げてしまっていたのに、いまは動きたくない。この熱が逃げてしまうと思ったら、とても動く気にはなれない。すると、頬から耳の後ろにかけて風が吹いてくる。ひんやりしているけれど、この熱を冷ますには、まだ弱すぎる。
「初めてではありませんよ。わたし、あの方とお会いしたことがあります」
母親の声が、少しだけ遅れる。それもそうだろう。少女が人と出会う機会なんて、病院くらいのもの。彼女の病室は個室で、基本的に他人の出入りはない。会う人といえば、看護師さんかお医者さんくらい。他の入院患者さんや、その家族の人なんて、少女が見かけるはずもない。頻繁に少女の病室を訪れていた母親なら、そんなことくらい百も承知だ。
「まあ、どこで?」
やっときた、母親からの疑問。いつも優しい母親が本気で困惑しているから、それが少女には可笑しかった。これ以上に母親が吃驚することを想像して、少女の口からはついつい、忍び笑いが漏れてしまう。
それはねえ――――。
――――夢の中、ですよ。
数秒の静寂。してやったり、みたいな顔をしていた少女は、母親が噴き出すのを耳にして、慌てて振り返った。予想に反して、母親は珍しく爆笑していた。少女の母親らしい上品な笑い、だけど、今度ばかりはなかなか収まらない。
まあまあそうですか、という母親の声を聞いて、信じてもらえていないことに、少女は気がついた。少女は頬を上気させて、母親に反論する。そんな子どもっぽい少女の態度に、母親は大人の対応で少女を宥める。
……まったく、信じてもらえていない。
それならいいと、少女は外方を向く。母親の笑い声が聞こえる中、ふと少女が視線を上げると、そこには桜が並んでいる。
――また、桜の咲く季節に。
そう、彼は約束してくれた。
彼は、気づいていたのだろうか。……気づいてくれていたと、そう信じたい。
ベッドの中、遠い昔に見た夢は、ほとんど覚えていないけれど。でも、その夢だけは、いまでも覚えている。――これからだって、忘れたりしない。
――――ありがとうございます。響彩くん。
――――わたしの悪夢を、壊してくれた人。




