零章
これは、失われた記憶――。
鐘の音がお店の中に響いた。毎日毎日、同じ時間に、同じ音。規則正しく稼働して、一日の終わりを告げてくれる。
顔を上げ、窓の外を見ると、外はすっかり暗くなっている。街灯がぽつぽつと、点のように白く光っている。
お店のほうから催促の声が聞こえる。素早く片づけを終えて、店締めに回る。
「今日もありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて、お店をあとにする。今日一日の分に加えて、パンを二つも分けてもらった。それだけで、帰りの足取りが軽くなる。
「ただいま」
返事はない。
部屋にいるのはわかっている。きっと、お仕事に集中しているのだ。帰りに買った野菜と、もらったパンが今夜の晩ご飯。
――今日も一日、いい日でした。
ありがとう、神様――。
鳥の鳴き声が聞こえる頃に目を覚ます。外の色はまだうっすらと暗いけれど、もう一日が始まる時間だということは知っている。着替えを済ませて、外で顔を洗うのと一緒に洗濯物も済ませてしまう。急いで家まで戻って、水気を絞った洗濯物を干していく。天気がいい日は、必ず洗濯物を干す。溜めてしまうと、臭いが酷くなってしまうから。
洗濯物を干すのは、できる限り短時間で。昨日の野菜の残りと、とっておいたお芋が、今日の朝ご飯。ちょっとお塩をつければ、それだけで気が引き締まる。お塩は高いのだけれど、それがないと体が動かないと、以前漁師の人に教えてもらった。だから、漁師さんのところにお仕事に行くときは、少しまけてもらって買っている。
「朝ご飯ができました」
向かいの部屋にも、声をかけておく。顔を出すことは滅多にないが、時々一緒に食べる日もあるから、声をかけるのは欠かさない。
……今日も、一人の朝食。
夜は一緒に食べられることが多いから、あまり気にしない。昨日も、作った料理を一緒に食べてくれた。
特に、会話はなかった。これもまた、いつものこと。美味しい、とか、今日の仕事はどうたったか、なんて会話も、当然ない。無言で突き出された手に、昨日の分を渡すだけ。……それは、いつものこと。
昔は、こっそりと貯金していたけど、知らない間に部屋を探し回られて、貯めていたお金を没収され、挙句、その夜は散々に殴られたので、極力やらないようにしている。さすがに、漁師さんのお仕事はもらえる額が多いから、見つかりにくいところに隠している。大家さんに部屋代を払ったり、病気になったときはお医者様に診せにいかないといけないから。そういう、最低限の貯金は、持っていかれるわけにはいかない。
いつ漁師さんのところに行くかは、話していない。そもそも、どこで働いているかなんて、相手は知らないだろう。いまはパン屋さんで働いているなんて、それこそ知らないに違いない。
――それは、こちらも同じことだけど。
あの人がどこで働いているのか、全然知らない。煙草やお酒の瓶がリビングに転がっていることがあるから、外には出ているのだろう。
……本当は、そんな高価なモノも買ってほしくはないのだけれど。
買えるのは、売れ残ってしなびた野菜だけ。八百屋さんとも顔馴染みになったから、安く譲ってもらっている。お肉なんて、とても買えないし、香辛料とか調味料なんて、そんな余計なものを買うお金もない。
……お洋服も…………。
鳥の声が大きくなってきたことに気づいて、急いで食事を済ませ、空になった食器を外で洗う。川の近くで洗っているが、時間が経つと他の人も外に出始めるので、気づかれてしまう。そうなる前に、洗い物は済ませておかないといけない。
洗い終えると、濡れた食器を布で簡単に拭いて、食器棚の中に戻す。テーブルには、あの人のための食事を準備しておく。
「いってきます」
閉まりきった扉の向こうに声をかけて、家をあとにする。
外に出ると、風が強い。川のすぐ近くにあるから、どうしても風が強いのだ。……なにも変わらない、いつもどおりの朝。
今日も、毎日お世話になっているパン屋さんへと駆けていく。できるだけ早いほうが、おじさんも喜んでくれる。少し遅れると、おばさんに怒られてしまう。だから、走っていく。朝は始まったけれど、まだ町にいるのは、新聞屋さんとか、ほんのわずかな人たちだけだ。
パン屋さんの仕事といっても、やることは掃除と商品を並べるくらい。裏口から荷物を運ばされることもあるけど、それはよっぽど人手がほしいときしか頼まれない。調理場にはおじさんとおばさんが入って、できたてのパンを受け取っては陳列台に並べていく。できたてのパンはとても食欲をそそられるけど、これは商品だから手をつけてはいけない。商品を並べて、値札も見える位置にあるかチェックする。以前、パンの籠で値札が見えづらかったことをおばさんに叱られて、それから注意するようになった。
お店の入口を綺麗にして、お客さんが気持ちよく店内に入れるように準備しておく。陽が昇ってくると、じーんと身体が温められて気持ちがいい。住んでいる家は日陰だから、そんなふうに感じるのかもしれない。
店先の掃除をしていると、時々挨拶をしてくれる人がいる。そういう人は、大体決まっている。そういうお得意さんは、気づけばこちらから挨拶もする。それでも、通りかかるみんながみんな、挨拶をしてくれるわけではない。おばさんのほうが、どうも他の人と声を交わすのを良く思っていないらしい。だから、挨拶をすると言っても、あまり大きな声は出さないようにしている。長話は絶対いけないので、二言三言話したら、それでお別れ。あとは、お店が開いてからまた来てくれるのを待つしかない。
時間になると、お店の前のプレートをひっくり返して、町を歩く人たちに開店を報せる。通勤中の人や通学中の学生さんたちが立ち寄ってくれるので、扉を開けて出迎える。
開店すぐに来る人は、ほとんどが常連さんだ。だから、出すパンの量も決まっている。少し残ったものはお昼までの繋ぎか、お店の人の昼食用になる。
ピークは、やっぱり朝と昼。だから、開店すぐはおじさんが会計をするけど、途中からはお客さんの相手をしないといけない。いや、最初からお客さんの相手はするけれど、お金をもらったり渡したり、というのはない。やっぱり、お金のやり取りをするのは緊張する。最初の頃は、おばさんに何度も何度も念押しされた。いまでも、知らない間に見られていたりするので、いつもひやひやしている。
……お金のことは、どこで働いてもなにか言われる。
お釣りを誤魔化さなかったか、とか、受け取ったお金を勝手に持っていかなかったか、とか。
そんなことしていない、するはずない、と言っても、疑いの目は消えない。それですぐにやめされられることはなく、本気でやめさせたいときは、訊いてこないでお金を盗んだと決めつけてくる。
お店の人だって、本気で盗んだとは思っていないだろう。着替えた服を隅々まで確認され、なにも盗られていないことがわかっても、閉店後も重労働をさせられた挙句、その日の取り分は払われずに追い出される。そうなると、もうそのお店にいけないから、次の働き先を探すしかない。
ここのおばさんも、その人たちみたいなきらいがある。あまりことを荒立てようとしてこないのは、おじさんのおかげだと、薄々気づいている。
――本当に、ありがとうございます。
――いつも、ご迷惑をおかけしてすみません。
おじさんが奥に下がって、会計を任される。朝は常連さんばかりだから、もう顔馴染みだ。声をかけてくれる人もいるし、商品を受け取ると黙って店を出ていく人もいる。
バタバタと、朝のラッシュが終わると、急に人がいなくなる。みんな仕事や学校に行くのだ。この時間で乱れた商品を綺麗に並べ直し、終われば会計席に座って店番をする。たまに人が来ることもあるけど、人が増え始めるのはもう少ししてから。
時間になると、おばさんが顔を出してきて新しく焼けたパンの運び出しをお願いしてくる。お昼よりも少し早い時間。ただ、そんな時間でも家にいる主婦の人たちがパンを買いに来るから、焼き立てのものが必要だ。この時間のお客さんはその日の気分で来る時間が違うから、運びながら会計をして、また運んで、を繰り返す。
お昼になり、時間差でまた新しく焼いたパンが大量に投下される。朝ほどではないにしても、焼き立てのパンを求めるお仕事の人たちがやって来るからだ。
朝と同じく、お客さんの相手をして、お金の受け渡しをする。いつものように、朝ほど人は来ない。でも、楽になるわけではない。人が少ないから、おばさんがお客さんとお喋りすることが増え、代わりの仕事が増える。ひどいときは朝以上の忙しさだが、今日は朝と同じくらいで済んでいる。
昼の時間が終わり、おじさんたちが昼食をとっている間に、お店番と掃除を済ませる。おなかが空いて、もう耐えられない、という頃合いで、やっとお昼の許しが出る。おじさんの好意で、ちゃんと部屋を使わせてもらっての食事。
「本当に、ありがとうございます」
小さく感謝の言葉を呟いてから、パンをいただく。お客さんがくればすぐにおばさんに呼ばれるから、できるだけ手早く食事は済ませてしまう。
夕方のお客さんは時間差が激しく、朝・昼のようにまとまって来ることは少ない。あまりお客さんの相手をしないうちに陽が落ちて、閉店を告げる鐘の音がなる。片付けと店締めを終わらせると、今日一日の分を受け取って店を後にする。
毎日おまけがもらえるわけではない。そんなことをしていたら、おばさんが気づいてなにか言ってくる。それをわかっているから、特別な日はとても嬉しいのだ。
一日分で、一日の生活費。夜の買い物は、できるだけ安く済ませている。少しでも渡す額が減ると、殴られるから。
だから、安いお店を探すようになり、そこを通って帰るようにしている。日によっては家から離れることもあるけど、安く済むためだから、足を伸ばす。帰りが遅くなっても怒られることはないから、なにも知らない頃は隣町付近まで足を伸ばすこともあった。
だが、数年前からルートは決まってきている。お店の人とも顔馴染みで、みんな優しい。おまけをくれるところも多く、申し訳なくなるけれども、限りあるお金でやりくりしないといけないから、ついその好意に甘えてしまう。
慣れた街並み。店が閉まり出す時間だから、外を歩く人は、いつもは少ない。『いつもは』がつくのは、ここ最近、広場のほうで人だかりがあるからだ。
最初に気づいたときは、不思議に思って、けれど遠くから眺めるだけで、近づくことはしなかった。
……知らない人に近づくのは、恐いから。
みんな、綺麗な服を着ている。少なくとも、汚れた服を着ている人はいない。好き好んで汚い服を着ているわけではないけど、新しい服を買うお金など当然なく、修理するための布地だって買えない。だから、汚れてボロボロの服でも、大事に使わないといけない。
とはいえ、毎晩毎晩、同じ場所で人だかりを見続けて興味が湧かないはずもない。遠くから、人の隙間から見えないかと粘りに粘って、ようやくそれを見ることができた。
――白く光る蝶が飛んでいた。
人々から歓声が上がる。蝶はしばらく人だかりの頭上を舞った後、夜空に溶けるように消えてしまった。
「はい、ありがとう。…………さあさあさあ!どうぞご覧あれ!」
人だかりの中に、横に大きな人がいた。人だかりが減ってきたおかげでもあるが、その人の声は遠く離れた位置でもよく聞こえた。
どうも、大道芸の一団らしい。よくよく目を凝らすと、その大男以外に大道芸人の人たちがいるようだが、暗すぎてなにかが動いているくらいにしか見えない。きっと、様々なパフォーマンスを披露していたのだろう。
遠くでは、光る蝶くらいしかはっきり見えなかったけれど、人々の歓声、熱狂は留まることを知らない。
……ここ最近、ずっとやってたんだ。
それなのに、いまだこの人だかり。蝶以外にどんなすごいことをやっているのか、興味はある。けれど、近づくことの恐怖心のほうが強かった。人だかりがなくなったときには、大道芸の人たちも立ち去っているのが常。
この日も、人々が散っていくまで眺めていた。彼らは楽しそうに談笑しながら、家路に向かっていく。大道芸からのプレゼントなのか、人々は手に手にお菓子の包みを持ち、中には食べながら歩く者の姿もあった。
次の日も、パン屋さんで仕事をさせてもらえた。朝お店に出て、仕事服に着替えてからお店に出るまでの緊張感は、いつも抜けない。実際、やめさせられるときは唐突で、思いがけない瞬間だから。
時間通りに店に行って、完璧に仕度を済ませても、なにか悪いところを指摘されると、弁解の余地なく悪者にわれてしまう。そうなったら、それまで。その日一日、それを理由に散々こき使われ、最後はお給料もなし。次の日はなにがなにでも新しい仕事を探さないといけない。
――一日働いて、一日の生活ができる。
仕事がなくなると、一日お金がなくなるだけでなく、次の仕事先で信頼を得るために、まずはタダ働きをすることが多いから、二日分の生活ができなくなる。
そうなったら、こっそり貯めている蓄えから吐き出すか、親切にしてもらっているお店で繋ぎの雑用をして、代わりに食料をわけてもらう。親切なお店は、近くに昔働いていたお店があるから、長く続けることができない。
今日のお昼は、朝以上に忙しかった。学生が多いから、今日は週に一度、学校が半日で終わる日のようだ。おばさんは、店の奥に引っ込んでしまった。どうも、学生の相手をするのが嫌いらしい。
おじさんと一緒にお客さんの相手をするが、学生からの視線は、確かに好きになれない。なにか、珍しいモノを見るような、明らかに意図のある視線。できるだけ多くのお客さんを相手にして、一人あたりの時間を少なくするようにしている。
学校には行ったことがない。子どものうちは学校に行くものだということに、薄々気づいてはいるが、その余裕も許しも得られないだろう。
だから、文字を読むことも、お金の計算をすることも、本当はできない。しかし、それでは仕事にならないので、必要最低限のことは覚えた。なにも知らない頃は文字から値段を読むことにも苦労したし、足し算・引き算だけでも精一杯だった。
三年くらい前に掛け算というものを人から教わって、それから値段を数えるのが大分楽になった。その人はとても親切な人で、モノの名前についても教えてくれた。ただ読むだけではなく、書き方も教えてくれた。あまつさえ、本なんていう素晴らしいものまでくれると言ってくれた。しかし、それはさすがに無理だった。家に持って帰ったなら、部屋を探し回られたときに見つかって、きっと怒られるだろう。盗んだモノなのかどうなのかとやかく訊かれ、盗んだモノじゃないと言っても没収されるだろう。きっと、あの人の仕事のたしにされるに違いない。だから、折角本をくれると言ってくれた人の親切は嬉しかったけど、最後まで受け取ることはしなかった。
とても優しい人だったから、いつまでもこの人のもとで働きたいと、そんなことを夢想した。けれど、その人は少し頑張りすぎるところがあって、最後には働きすぎて死んでしまった。
その人がこっそりと雇ってくれていたから、家族は誰も知らない。あんたなんて知らないの一点張りで、仕事場から追い出された。
それから何件か働いた末、いまのパン屋さんで落ちついている。けれど、この場所にいつまでいられるかはわからない。
――優しい人が、いつまでも優しいとは限らない。
――優しすぎる人が、いつまでもいるとは限らない。
それは、一人の人間がどうにかすればどうにかなる、という問題ではないらしい。いつの間にか、その人の考え方が変わっている。いつの間にか、その人の体調が悪くなっている。……そうなるように、お店や町の様子が、見えないところで変わっている。
学校には、結局、行けないけれど、そういう小さな――目に見えない――悪魔がいることを、識っている。
……そう。
悪魔だ……。
本を見せてくれた人の、その本に書いてあった。
この世界には、神様と悪魔がいる。神様はこの世界をお創りになり、人々が幸福になるようにと、働きかけてくださいます。悪魔は、この世界や人々に悪さを働いて、人が不幸で嘆いているのを陰で笑っています。
だから、人は神様にお祈りします。――今日も良い日を、ありがとう。――豊かな食物を恵んでくださり、ありがとう。――親切な人を遣わしてくださり、ありがとう。
感謝は――祈り――。
だから毎日、感謝の言葉を忘れない。本当は、食事のときにもお祈りは必要だけど、パン屋さんも、お家でも、そんなことは許されない。黙って目を閉じて、お祈りで手を組んでいたら、おばさんかあの人か、必ず叱責が飛んでくる。
……だから、夜寝る前にだけ。
その時間だけが、与えられた自由。誰の目も気にすることのない、ささやかな瞬間。
――だから、今日も頑張りましょう。
神様は、いつでも御覧になっておられます。努力は、いずれ報われるのです。辛くても、諦めてはいけません。
――だって。
神様は、いつでもお傍におられるのだから――。
その日は夕方も、お客さんの数が多かった。夕飯用のパンを買う人はいるが、ここまで多いのは珍しい。ピークの時間全てがフル回転で目が回りそうだが、手を緩めるわけにはいかない。お客さんの相手をしつつ、追加のパンを運ぶのと並べるのもこなす。
ふと、パンの残り具合と、ここ最近の売れ行きから、もう少し焼いておいたほうがいいような気がしてきた。おばさんはお客さんと話すのに夢中だから、その隙にそっとおじさんに伝える。おじさんは「わかった」と応えてくれて、調理場に戻っていった。
相変わらず、おばさんは常連のお客さんとのお喋りに夢中で、代わりに会計をこなす。お客さんが買う前にパンがなくなってしまわないか、途中から冷や冷やしていたが、おじさんが新しいパンを出してくれて、なんとかお客さんを帰らせないで済んだ。おばさんはお話に夢中だったから、パンを並べて、並べ終わったらおじさんと会計を代わった。
鐘の音が聞こえて、ハッと顔を上げる。いつの間にか、閉店の時間になっていた。
調理場のほうに向かって、おじさんに「お店を閉めます」と声をかける。おじさんが返事をしたら、陳列台の上に並んだトレーを奥に下げていく。ここのところ、売れ残りは少なくなっている。パンはできたてが一番美味しいから、日をまたいだモノはもう商品にならないらしい。おじさんとおばさんが夕食と朝食にするか、あるいはご厚意でくれたりもする。
でも、ほとんどは知り合いの農家に回してしまう。家畜の餌にするのだ。農場は遠いから、行ったことがない。時々、馬車で運ばれていく羊さんや鶏さんを見かけたことがあるくらい。農場とはどんなところなのか興味があるが、遠くて力仕事がほとんどだと聞いているので、ちょっと無理かもしれない。
トレーを調理場に戻したら、お店の掃除に出る。店の中と、外。中は埃を掃いて、モップがけして。外は頑張ってもすぐに汚れるから、あるていど掃いたところで終わりにする。看板をひっくり返して、お店の中に戻る。掃除用具を片付けて、他にやることを言われなければ、今日の仕事は終わり。トレーの片付けも、おばさんだけで大丈夫なようだ。
「今日もありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて、お店をあとにする。今日の分に加えて、なんとパンを四つももらった。もちろん、申し訳なくて断ったのだが、夕方のときアドバイスをくれたことへのお礼だと言われて、半ば強引に渡された。
そんな感謝されるほど、大したことをやったつもりはない。ただ、いつもお会計の席に座って、ただお客さんの様子を眺めていて、それで気づいたことを言っただけだ。それでおじさんが信用してくれて、そのとおりにしてくれるかは、別問題。さらに、それでうまくいくかどうかは、もっと別の問題だ。――でも、どうやらうまくいったらしい。
――本当に、ありがとうございました。
――本当に本当に、ありがとうございました!
パン屋さんのおじさんに感謝します。常連のお客さんに感謝します。新しいお客さんに感謝します。――神様に、感謝します。
辛くはありません。辛いのは、誰かが気づいてくれて、そして幸福をお与えくださいます。……だから、幸福です。
いつもの帰り道、中央の商店街の脇を通ると、また人だかりがあった。しかも、今日は学生が多い。制服を着ていたので、すぐにわかった。どうやら、お昼にパンを買った後、町で遊んで、夜遅くになって戻ってきたばかりのようだ。
……あまり、近づきたくない。
昼間の視線もあるが、理由はもっと根源的な部分。――彼らは、学校に通えるから。
それが、当たり前だ。子どものうちは、学校に通って勉強する。教育を受け、学力を身につけないといけない。それで、ようやく一人前になれる。
……だから。
学校に行けない者は、いつまで経っても、半人前のまま……。
半人前だと、ちゃんとした仕事は任せられない。お掃除ができて、品物を並べられて、文字も読めて、お会計ができるといっても、半人前だと雇っても大丈夫なのか、怪しまれる。
なかなか首を縦に振らない人には、一日だけでも試してくださいと、そうお願いをする。一日試して、それでも駄目なら、今日の分はいらないと、そうやって頭を下げる。それならと試す人は多いので、その日一日頑張って、仕事をさせてもうらことを許してもらう。
それが、半人前。学校を出たという証がなければ、いつまでもその扱い。
だから、学校に行っている人には、どうしても近寄れない。……彼らは、違う存在。……彼らは、遠い存在。
同い年、年上、あるいは年下でも、遥かに遠い。なぜなら、彼らは別世界の存在だから。違うところに行けるのだと、そう、約束された存在だから。
学校にさえ、行ければ……。
一体、どんな場所なのだろう。勉強とは、一体どんなものなのか。文字や計算の方法を教えてくれた人みたいに、誰かから教わるのだろうか。文字の読み方だけでなく、書き方だけでなく、足し算・引き算だけでなく、掛け算だけでなく…………。
それは、とても面白そうだ。本も持てるのだろうか。きっと、そうに違いない。以前、喫茶店の前を通ったとき、本を広げた学生たちがいたから。あれは一体どんな本だったのだろうか。あまりジロジロ見て変に見られるのが嫌だったから、通りがけにちらと見ただけだ。……けれど、買い物に必要な単語がわかるだけでは、なにが書かれているのかもわからない。
そんな――恐ろしい――学生たちの群れ。
きっと、中央ではあの大道芸の人たちが様々な芸を披露しているのだろう。人々の歓声に、興奮に、興味が惹かれないはずがない。
……でも、近づけない。
芸が終わって、学生たちがお菓子を食べながら去っていくのを見送るしかできない。
――また、直接、見ることができなかった。
溜め息を零し、帰ろうとしかけたとき、人だかりがあったその場所に、なんと大道芸が残っていることに気がついた。
改めて見ると、妙な恰好だった。座長以外、全身、白と黒の縞模様の洋服を着ている。いや、あれは洋服なのだろうか。身体にぴったりと張りついて、遠目では全身に白と黒のペンキを塗ったようにも見える。だが、よくよく見れば、確かにあれは服だった。ゴムみたいな生地で指先から頭の先まで覆い隠して、どんな顔かはわからない。
そんな人たちが、何人もいる。身体の模様はほとんど同じだったけど、顔は人によって違う。顔まで身体と同じ縞模様の人もいれば、額のところに目玉みたいな模様を書かれた人、蛙のように目玉の大きな人、口だけ開けて顔を真っ白に覆われた人…………。
他にも、彼らの特徴は様々だ。両手の指の間にキャンディを持った人、お菓子を詰め込んだカートの裏にいる人、大きな口を開けて座り込んでいる人、両手を広げてポーズをとったり踊ったりしている人、板と何本かのナイフに挟まれている人…………。
つい、足が大道芸一座のほうへ向いてしまう。もう人々の姿はない。学生たちの姿はない。周囲には、自分と奇妙な恰好をした人たち以外に、誰もいない。
「やあやあ、お嬢さん。いらっしゃい」
いや、もう一人、普通の恰好をした人がいた。座長さんは笑顔で声をかけてきた。
にいい、っと大きく笑ったその人は、髭の下の口を大きく動かし出した。
「どうだいお嬢さん。美味しいお菓子はいかがかな?異国の国から汗をかきかき運んできた、珍しい珍しいお菓子だよ」
「ぁ……お金、ないから…………」
しどろもどろに、そう返すのが精一杯。人と話をするのは、いつだって緊張する。知り合いならまだしも、初めての人の前では、思うように口が動かない。
座長さんは破顔する。
「それなら、一つ芸を披露いたしましょう。最後の最後、今日の本当の最後!御代はいらない、もってけ泥棒!見なけりゃ一生の後悔だ!」
さあ!と座長さんは奇妙な恰好をした人の中から、一人に向けて手を突き出した。紹介されたその人は、足踏みみたいな急ぎ足で前に出てきた。
背は、頭一つ分小さい。けれど、横幅は二周り近く大きい。急いでいるようでも、体が大きいからあまり早くは動けない。前に出るだけで、息を切らしたように俯いてしまう。
「…………大丈夫?」
見ているほうが心配になってしまう。その人は手を前に突き出して「大丈夫」とジェスチャーしているのかもしれないが、何度も肩で息をついて、とても大丈夫そうには見えない。
……と。
ぽーんと飛び上がって、着地を決める。頭一つ分飛び上がっただけで、大したことはないのだが、さもしてやったり、みたいにポーズを決めるから、なんだか面白い。
声を上げて微笑っていると、パンパンと頭の上で手を叩きだす。なんだろうと見ていると、すぅっと合わせた手を目の前に持ってきた。
一体なにをするのか、と見ていると、開いた手から光が飛び出してきた。
――花、だった。
いままで見たことないような、光輝く花が一斉に咲き乱れたのだ。
「わあああ…………」
と、見入ってしまう。
だって、こんな綺麗な花はいままで見たことがない。手から花が生まれた、なんて不思議より、その美しさに目が離せなかった。
しかし、その花はいつまでも咲き続けられるわけではなかった。まるで空に還っていく雪みたいに、光は薄れ、花は小さく消えていった。
「あ……」
それでも、一輪だけ手の中に残った。もう光はないけれど、それはいまにも輝きだしそうな白い花だった。
見惚れていると、その人は掌から花を引き抜いて、花を摘まんだその手を差し出してきた。
「くれるの?」
ウンウン、と何度も頷く白黒縞模様の人。
「ありがとう」
花を受け取って、その美しさに見入る。こうやって見ると普通の花にしか見えないけど、さっきのあの輝きは、決して幻などではない。
「ありがとう、お嬢さん。こいつはほんのお礼だ」
花に見惚れていたところに、座長さんがお菓子の詰まった包みを差し出してきた。驚いて、半歩だけ下がってしまった。
「えっ……?」
「こいつの一世一代の芸を見てくれたんだ。こいつはお礼だ。御代なんかいらない。ささ、もってけもってけ」
断る間もなく、包みを握らされてしまった。返そうか迷っていると、下から縞模様の人がウンウンと何度も頷いているので、返すのが躊躇われた。
「じゃあな、お嬢さん。家に帰ったら、たんと召し上がれ。今夜はきっといい夢が見られるよ!」
それだけ残して、大道芸の一座は去っていった。腕にお菓子の包みを抱えたまま、彼らの後ろ姿を呆然と眺めて見送った。
家に着いて、無言で中へと入っていく。いつもなら「ただいま」と声をかけるのに、今日は咄嗟に声が出なかった。
……なんだか、今日はたくさんのものをもらってしまった。
お金だったら外に隠しておけるが、食べ物はそうはいかない。部屋の中に隠すにしても、どこに隠したらいいだろう。床下か天井裏か、床下が楽だけど、それではすぐに見つかってしまう。天井裏は、隠すのも取り出すのも大変だけれど、見つかる可能性はぐっと少なくなる。ネズミがいるから、なにか箱にしまっておこう。部屋の中に、ちょうどいい箱はあっただろうか。
できるだけ足音を立てず、それでも急ぎ足で部屋へと急ぐ。この先のリビングを突っ切れば、もうすぐだ。自分の部屋に引っ込んでいるから、そこにはいないはず。
――いや、本当に?
そっと扉に手をかけて、うっすらと隙間を開ける。
今日は帰りが遅くなってしまった。不審がって、すぐそこにいるんじゃないか。いや、そんなことは一度もなかった。でも、今日ほど遅く帰った日もなかった。もう、辺りは真っ暗だ。いや、あの人も遅くなることがあるじゃないか。だから、そんな気にしなくても………………。
「……………………」
そっと、扉から手を離した。
やっぱり、わからない。リビングにいる可能性だって、ゼロじゃない。一時的にでも外に隠して、そしていないことを確認してから動いたほうがいい。あるいは、部屋の外のほうが見つかりにくいのではないか。うん、そうかもしれない。
そうと決まれば、と振り返り、
――背後で、勢いよく扉が開いた。
身体が、硬直して動けなかった。恐る恐る、首だけでも動かして振り返ろうとすると、ちらと後ろが見えただけで頭を鷲掴みにされた。
「ちくしょう……!」「あいつら、いきなり来やがって……」「ちくしょう……!」「全部持っていっちまいやがった……」「ちくしょう……!」「あいつら、ズルして俺をはめたくせに……」「ちくしょう……!」「昼飯も食えなかったんだぞ……」「ちくしょう……!」「なんでテメーだけ……」「ちくしょう……!」「ここは俺の家だぞ……」「ちくしょう……!」「俺が住まわせてやってるんだ……」「ちくしょう……!」「テメーだけこんな食って……」「ちくしょう……!」「俺のモンだ……」「ちくしょう……!」「俺のモンだ……」「ちくしょう……!」「俺の……」「ちくしょう……!」「俺の……!」「チクショオ……!」
あれから後のことは、あまり覚えていない。気づいたときには、そこには誰もいなくて、静かだった。あと真っ暗だったけれど、それはいつものことなので気にすることではない。
「………………」
身体が熱くて、重くて、ダルい。少し疲れて休みたいけど、まだ夕食の支度をしていないことに気づいて、体を持ち上げる。
――ここはどこだろう?
辺りを見回しても、すぐにどこだかわからなかったが、扉の位置関係から、ここがリビングであることがわかった。
ひどい荒れようだった。真ん中のテーブルはなくなって、床にはたくさんの、よくわからないものが散乱している。壁も、なにかで引っ掻いたみたいに傷だらけで、汚れている。
――あそこにあるの、テーブルかな。
リビングの隅に、真中から割れたテーブルの残骸が転がっている。足に見覚えがあるから、きっとそうだ。
奥のほうを見ると、台所が見えた。いつもは布で仕切りを作っているのに、その布も引き千切られて、奥が丸見えだ。
台所もひどかった。リビングの床に散乱している細かな破片に気をつけながら、台所の戸口まで歩いた。中では、食器棚が倒れて、食器がバラバラになって飛び散っている。調理器具が無事か確認したいが、あまりの惨状に、全部は把握しきれない。少なくとも、鍋は食器棚に押し潰されて凹んでいた。
あと、隅に置いてあったお芋も踏み潰されている。籠ごと踏み抜かれたようだ。まだ食べられそうなものを探してみたけど、半分くらい欠けたのを数個見つけるだけで精いっぱいだった。
……ゆう、しょく。
まずは台所を片付けないといけないけれど、今日は疲れすぎて動けそうにない。パン屋さんで分けてもらったパンと、大道芸さんからもらったお菓子を夕飯代わりにしよう。
そう思って胸元を触り、そこに衣服がないことに初めて気づいた。
「……あれ?」
片方の肩には衣服がかかっていたが、しかし首元からお腹にかけて、洋服は裂けていた。振り返ると、リビングの入口に千切れた布切れが散らばっていた。歩いている途中でズボンも落ちてしまったらしく、千切れて用をなさなくなった布が床の上にあった。
衣服を回収し、まだ使えそうな大きさの布切れを体に巻き付ける。他になにか落ちていないか確認すると、帰りに買った野菜は無事だった。けれど、パンとお菓子は、どこを探しても見つからない。
……あの人が、持っていったんだろう。
部屋には、顔を向けない。いまは静かだから、もう寝たのか、それともお仕事に夢中なのか。――少なくとも、声をかけても相手にされることはないだろう。
だったら、部屋に戻ろう。野菜を抱えて、もう一つの部屋に入る。
……そこも、ひどい状態だった。
誰かに荒らされたとわかるくらい、徹底して壊され、引っ掻き回されていた。
その様子が、少しだけおかしかった。
――なにも、盗るモノなんてないのに。
この部屋を荒らした誰かも、そのことに気づいたのかもしれない。荒らし方は徹底していたが、こちらは布団も服も無事だった。
着替えて、水を汲みに行って、夕飯の支度をしたほうがいいのだろうか――?
――お腹空いていないし、いいよね。
あの人なら、きっとパンとお菓子を食べて、満足しているだろう。そういえば、お昼を食べていないとか言っていたかな?だったら、パンを四つに、お菓子も食べたんだし、お腹いっぱいだよね?三日分くらいの食事なんだもの。いままでで、一番たくさん食べれたよね。
もう、寝てしまおう。お腹は空いていないから、食事を作る必要もない。野菜は、朝ご飯用。明日は、早く起きないと。台所を片付けて、リビングで食事をできるように整えて……。
……もう、寝よう。
考えるのも、億劫。
もう、今日は疲れた。明日早く起きて、やればいい。着替えも、明日起きたときにやろう。布団にくるまっていれば、それで十分。周りは暗いし、目を閉じればすぐに眠れるだろう。
……今日も一日、いい日でした。
ありがとう、神様……。
真夜中に目が覚めた。夢の途中に起こされたみたいで、頭がぼんやりする。
……なにか…………音…………?
どこかから、音が聞こえる。唸るような、吠えるような音だった。風の音かとも思ったが、それにしては家の軋みがない。
――なんだろう…………。
布団を身体に巻きつけて、部屋の外に出る。足元に気をつけながら、音の出所を探る。
唸るような、吠えるような音……。
自然と、顔がそちらのほうへ向く。どうも、扉の向こう側のような気がする。なんだろう。まだ頭をふらふらとさせながら、すぅぅっと手を伸ばして、
――ガァン!
と、衝撃。
「……っ!」
一気に、目が覚めた。
なんだろう。すごい音がした。それに、扉がこちらに向かって跳ねてきた。隣の部屋、あの人がいる部屋。唸るような音、吠えるような音。吠えている。吼えている。吼えている!
「……っ」
引っ込めた腕で、毛布をきつく抱きしめる。なにが起きている?よくわからない。でも、どこか苦しんでいるような気がする。こんなときはどうしたらいい?本当はいけないことだけど、部屋の中に入ったほうが……。
――ガァン!
ダメだ。中で暴れている。こんなところで入っても、どうしようもない。
「お医者様を……!」
そうだ、お医者様だ。いまはみんな寝ている時間だけれど、そんなことを言っている場合ではない。こんなに苦しんで暴れているんだ。とても危ない病気かもしれない。
「早く……!」
リビングを突っ切ろうとして、途端、足の裏に鋭い痛みが疾る。うずくまって、悲鳴を飲み込む。……そうだった。片付けていないから、床は気をつけないといけないんだった。
いまので、足裏が切れてしまったかもしれない。大きな波が引いても、まだドクドクと痛みが残っている。
唇を噛んで、なんとか立ち上がる。こんなところでうずくまっているわけにはいかない。早くお医者様のところに行かないといけない。早く――――――ッ!
――ガァン!
それは、扉が砕け散る音だった。
ハッとなって振り返り、しかし、決して振り返ってはいけなかった。
……ナンダ、アレ?
わからない。決して、アレは人間じゃない。人間のはずがない。
人間の腕が、あんな形をしているか?人間の腕は、あんな動き方をするものか?胴体も、脚も、とても人間とは呼べない。人間という原型が、無残に崩れ去っていく。
……恐かった。
恐かったのに、動けなかった。逃げなきゃいけないのに。もう、お医者様を呼んでも無駄だと、わかったのに。
その顔は……。
――ソレは、咆哮した。
ビリビリと、背筋が震える。
「……っ!」
喉の奥から悲鳴が沸騰した。なのに顎は固まって動かず、歯だけがガタガタと震動している。
廊下を五歩駆けて、しかしそれが限界だった。――ソレが覆い被さる。
「いやぁ!いやぁ――――ッ!」
目を閉じたまま、腕を滅茶苦茶に振った。嫌な、感触だ。皮を剥いだ魚の肉を触っているような感触。それが、覆い被さってくる。
「…………ッ」
身動きを封じられた。腕とお腹に重みを感じる。目は、開けない。……とても、見る気にはなれない。
生温かい風。これは、吐息だろうか。ものすごい臭気に、呼吸を止める。
――いやだ。いやだよぉ…………。
「ぉ、と、ぅ……」
「おやおや――――」
重さが、なくなった。顔にかかる嫌な熱気も、風とともに吹き飛んだ。
「え――?」
目を開けた。同時に、遠くでガシャとかグシャという嫌な音が聞こえた。……そう、嫌な音だ。
さっきまでのしかかっていたものは、いなくなっていた。一体なにが起こったのかと、身を起こそうとして、
「いけませんねぇ」
真っ暗な顔があった。いや、明かりがないから暗く見えるだけだ。普通の、人の顔。顔いっぱいに破顔した、それはあの大道芸の座長さんだった。
悲鳴を上げて固まってしまったのにもかわまず、座長さんはニコニコ笑う。
「わたしはお嬢さんにあのお菓子をあげたのに、こんな汚い爺さんに食わせるなんて。それとも、お嬢さんから無理矢理奪ったんですかねぇ。なら、お嬢さんは悪くない悪くなーい。見るからに、ごうつくな爺さんだなぁ」
この人がなにを言っているのかわからない。そもそも、なぜこの人はここにいるのか。家を教えてなんか、いない。つけられていたにしても、このタイミングで現れる意味がわからない。
それでは、と座長さんはなおも笑い続ける。
「お嬢さんはわたしが直々に調整して差し上げましょう。大丈夫。痛くなーい痛くなーーーいですからねぇ」
座長さんの顔は笑ったまま、ソレの口が開いた。
ボタンの外れた上着の隙間、洋服が綺麗に横に退いて、赤くて真っ暗な口が開いた。胸の少し上からおへその下まで一直線に切れ目が走り、白い歯――牙――が縦に並んでいる。
――イヤダ。
口は、利けなかった。声が出ないどころが、喋ろうとしても、その意思が口まで届かない。ただ真っ直ぐ、その虚ろな闇を見つめるだけだった。
――助けて。神様。
圧倒的な恐怖を前に、しかし神に祈ったりはしなかった。
――お願いします神様助けてください神様なんでもしますなんでもしますどうか助けてくださいお願い神様お願いお願いお願いお願い…………!
なぜ、という言葉が脳裏をよぎった。なぜ、神はお救いにならない?これだけの危機に瀕しているのに、なぜ手を差し伸べてはくださらない?目の前にいるのは、悪魔だ。あの人を殺し、いまさらなる殺人を犯そうとしているコイツは、紛れもなく悪魔だ。
神はすぐ隣にいるのではなかったか?辛いときに幸福を授けてくれる存在ではなかったか?
――誰でもいいから、助けてよ。
だから、呪った。
――もうイヤなの!なんでこんなことになるの?こんなに働いているのに。あの人のために稼いでいるのに。全部持っていくの?なにもかも奪っていくの?もうイヤよ、こんなの!イヤイヤイヤ!なにもかも、イヤァ――――――――ッ!
――なら。
無が触れた。
身体が動かない。なにも視えない。なにも聴こえない。なにも感じない。匂いもなく、暑くも寒くもない。――心も、動かない。
全部、無かったことにしてあげましょう――。
無に、喰われた。
なくなっていく。亡くなっていく…………。無くなっていく……………………。
これは、喪われた記憶――。
――誰にも語られない、存在の破片。