TIME LIMIT 2
【鏤められた星空の帰り道】
大学の正門を出て、なだらかな長いポプラ並木の坂道を下って来ると、下りきった辺りの住宅街に、彼の学生用アパートが有ります。
話しをしようと言った割には、彼女は先ほどまでの口論を穿り返す訳でも無く、ただ世間話をするくらいで、穏やかに彼と並んで歩いていました。
話した事と言えば、彼女の名前は、Judie Hokeと言うのだそうです。
お爺ちゃんが韓国系のクォーターらしく、何となく日本人好みの東洋系な雰囲気がある理由がわかりました。
そうこうする内に彼のアパートのある十字路に差し掛かりました。
これ以上は付き合いきれんと、じゃあまた、と挨拶をしょうと彼女の顔を見たら、眉毛が困った角度にハの字になっていて何かを目が訴えていたのです。
その表情が彼には何ともほって置けなくて、どうかしたの?と聞いてしまいました。
ほって置ける訳ないじゃないですか。
どうやら例年の如く、大学の裏山で、最近また羆に人が喰われたニュースを結構気にしていて、バスが無いから歩いて帰るしか無いと、少し怖がっている様でした。
なるほど。
と、いう訳で、彼のアパートを通り越して、彼女の家まで送る事にいつの間にかなってしまったのでした。
何が、と、いう訳で、なんだ?
何でこんな奴、送らなきゃなんね〜んだろ?
今の今まで、彼を犯罪者として退学させようとしていた張本人です。
顔を真っ赤にしながら青筋立てて仁王立になり、講師達にひるむ事無く自分に非は無いと主張し続けていた訳ですから。
不本意ではありましたが、彼は根っから気が優しくて、生まれながらの紳士、敢えて言えばお人好しだったのです。
頻出している羆に喰われる危険もあるしぃ、彼女を一人で帰すほど冷酷にはなれないっしょ、と、思わず送ります、と、自ら進んで申し入れたのでした。
っうか、それでもやっぱり、一目惚れした恋しい女の子とふたりっきりでやっと話せるという、しょ〜もない男心が見え隠れしている訳ですが。
彼女のホームステイ先は、街の東の外れの高級住宅街にあり、歩けば1時間半はかかります。
昼間なら1時間に2本程度の市営バスが走っているのですが、8時で最終バスが出てしまうのでした。
内地の様な都会ではないので、道は何処までも暗くまっすぐ果てしないのです。
冬場ならかなりしんどい道のりですが、初夏を迎えようとしているこの時期なら、比較的快適な散歩道ではありますが、行き先は正面に点の様に見えるはずなんですが、なかなかそこまで辿り着けない訳です。
羆に遭遇しやすいエリアにはほんの少し外れているので、襲われて臀部を食べられる危険も比較的少ないとは言えるでしょう。
そうです。
なぜか羆は臀部を狙って食べます。
柔らかくて美味しく栄養価が高いのを本能的に知っている様です。
立ち上がれば3mは悠にある、本物のグリズリーです。
出逢ってしまったら、あのデカイ前脚のカウンターパンチでザクッと顔面の皮と肉が柘榴になり、ヒョイと簡単に喰われます。
お気をつけください。
ま、気を付けても死んだふりしても、出会っちゃえば、喰われます。
人生そんなもんです。
街の中心の酪農高校の裏通りを歩きながら、この道をまたひとりで歩いて帰るのかと今更ながらに溜息が出ました。
酪農高校の広大なトウモロコシ畑には全く柵というものが無く、刈り取りの時期には溢れかえるほどの実を付け、脇道から手を伸ばすだけで捥げてしまうのですが、誰ひとり盗もうとはしません。
家畜の餌や肥料用なので、味の無いクソ不味いトウモロコシだという事は、ジモピーなら誰でも知っているからです。
ジモピーでない新入生達が、新歓コンパで急性アルコール中毒で救急車で運ばれた奴を除いて、帰り道にゲロ吐きながら、酔った勢いでそのクソ不味さの洗礼を受けさせられたりします。
酪農高校を過ぎると市営の中央公園があります。
馬鹿でかい、としか言いようの無い、広大過ぎる公園で、見渡す限り、が敷地です。
この辺には当たり前ですが人家というものがありません。
ま、この辺りでは、それが普通です。
公園の中心にある池のほとりまで来た時、手頃なベンチがあったので一休みする事にしました。
都会なら、取り敢えずドトールにでもってとこですが、此処は北の果てまるでシベリアなんで、そんなシャレオツな場所は駅前ににしか無く、そこまで足を伸ばせば気の遠くなる様な遠回りになるのでした。
「遅くなっちゃった」
「門限、あるの?」
「11時。でも鍵は開いてるから大丈夫です。」
遅くしたのはお前だ!とは、一切言わず、まるで初々しい恋人同士の様にベンチに並んで腰掛けました。
意外にオシャレなガス灯を真似た照明が完備されていて、そこそこ明るく健全な公園なのでした。
「何時から日本に来てるの?」
「1年と5ヶ月になります」
「気が付かなかったなぁ」
「上級生のクラスを担当してました。仲間が一人帰国したので、あなたの学年を臨時で担当する事になったのです」
正しい日本語。
言葉は大事だよなぁ。
彼女はユタ州のブリガムヤング大学から留学していているそうだ。
どうやら私立の名門ミッションスクールらしい。
「さっき一目惚れと言っていましたね?」
直球だなぁ。
「う、うん」
「本当ですか?」
「またその話かい?もう終わった事なんだから、恥ずかしいからぶり返さないでよ」
「あ、ごめんなさい」
「い、いや、いいんだけど」
「英語、よく勉強しているんですね」
「って言うか、元々英語は好きなんだ。カンバセーションの講義はなかなか面白いよ」
「私を見ていたんですか?」
またまたどストレートだねえ。
「ゴメン、誤解させて」
「あ、いえ、私の勘違いでした。私の方こそ、ゴメンなさい。本当はその事を、一言謝りたかったんです」
初めて謝ってくれました。
ま、いいかぁ。許しちゃおう〜かなぁ〜。
彼女のホームステイ先は、市立の小学校通りに面した大きなお屋敷です。海外からの留学生の受入れには申し分の無い環境の様でした。
時間はもう11時をとうに回っていました。
さて帰ろうかと挨拶しようとした時、彼女が小学校の正門を指さしました。
「ちょっとあそこまでいいですか?」
へ?
のどかな事に、セキュリティシステムや塀の類いは何処にも無く、誰でも自由に出入りできるのでした。
そこそこライトアップされた校舎の向こうに広々としたグランドがあり、それを見下ろす土手の木陰に促されて座りました。
「ここはね、私が一番大好きな場所です」
「へぇ〜そうなんだ?」
「私だって、たまにホームシックになる事もあります。ここで一人で泣いた事もあります。それにー」
「それに?」
彼女が顔を上げて空を見上げ、嬉しそうに笑いました。
「星が一番綺麗に見渡せる場所なんです」
グランドはそこそこ暗く、地平線から真上の空一面に、天の川もはっきり見えるほどの星が鏤められていました。
「本当だねぇ」
「ここに誰かを誘ったのは、初めてです」
へ?
本当?
「何で誘ってくれたの?」
「いろいろあったけど、嘘つきでない人だという事が分かったし、今日はちゃんと家まで紳士的に送ってくれたから」
「普通でしょ」
「紳士で無い、日本人も、いました」
そうなんだ。
ま、これだけの美少女なら、そういう不届き者も居たんだろうな。
どこのどいつだ!
「俺は、紳士だけど、恋したらただの男の子になっちゃうよ」
「それは、たぶん、みんな同じでしょ?」
そりゃそうだ。
「キスしたい」
「え?」
「好きになったから、キスしたい」
「はい、いいですよ」
えええ〜!
いいのかい!
さすがはアメリカ人はフランクやなぁ〜
首を傾けてみたら、彼女も傾けて来ました。
わ、全然嫌がっていません。
それから肩を抱いてキスしました。
何も邪魔しないし誰も見ていないのでゆっくり繰り返し唇を重ねました。
食生活の違いから、外人さんは体臭がするって聞いていましたが、日本の生活が長いせいなのか、全く匂いが無く逆に女の子の優しい匂いがしました。
でも、舌を入れた時、彼女が身を引きました。彼女のキスは唇を窄めて歯を閉じていたのです。
「友達のキス、じゃ、無くなるから」
なるほど、アメリカ人は友達同士でもキスするんだったな。
国民性の違いなんだぁ〜
「一目惚れって、友達の感情じゃ無いっしょ。恋したから、好きになったから、キスしたいんだ」
「逢ったばかりでしょ」
「俺の事、嫌い?」
「ううん、そんな事は無いです。きちんと好意を持っている事を言ってくれたし。でも、あなたの事、まだよく知りません」
「大事なものに巡り合った事に気付かないと、一生後悔しちゃうよ〜」
「巡り合ったんですか?」
「世界に一人しか居ない奴」
「あなたが?」
「そうそう」
「その自信が凄いですね」
彼女が笑う。
笑うと幼く見えて、可愛い。
「恋人の様な、キスしたい」
「それは駄目です」
「どうして?」
彼女は、遠くを眺める様な目をして暫く考えている様でしたが、彼の手を取り握り締めました。
「ソルトレイクシティを知ってますか?」
何処かで聞いた事はあるけど詳しくは無い、と答えたら、ユタ州で一番大きな都市で、彼女の実家があるそうです。
「来月帰国するんです」
え?
「帰っちゃうの?もう日本には来ないの?」
「まだ、わかりません」
一度帰国して直ぐに今度はUCLA(カリフォルニア州立大学)の大学院に通うそうだ。
日程を聞いたら、もう1ヶ月もありませんでした。
何だよ、そりゃ無いべさぁ。
「だから?」
「好きになったら、辛くなります」
「それでも、恋には、落ちちゃうんだよ」
I fell in love with you.
このくらいの英語は、暗記してる。
受験英語のついでに覚えたんだ。
いつかは役に立つかも知れないって。
備えあれば憂いなし。
発音には自信無いけど。
彼の英語に、彼女が思わず見つめ返して来ました。
言葉って、大事っしょ。
また唇を重ねました。
今度は少しだけ歯を開いています。
舌を入れてみたら、少しだけ彼女も舌を出して、彼の舌先に触れました。
誰もいないし何者も邪魔するものがいないので、ふたりは繰り返し繰り返し唇を重ねました。
何億と鏤められた空一面の星たちが、ふたりを包み込んでいます。
ふたりの密やかな恋の始まりを、キラキラと輝きながら羨ましそうに見守っているのでした。
(つづく)