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旧『ハウリング』 改定前  作者: ハイたん
肆の章 【終わりの始まり】
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プロローグ『始まりの終わり』

この物語はフィクションであり、登場する団体、人物、組織等の名称はすべて架空のものです。

 

 悪魔。それは特定の宗教文化に端を発する悪しき超自然的存在のことを指します。世間一般の理解に当てはめて、彼らを説明するうえでもっとも適当な例をひとつ挙げましょう。


 通称、《オド》。真名を持たない低級悪魔として知られる彼らは、生身の人間にとりついて様々な怪奇現象を起こします。その症例はいわゆる悪魔憑きに近く、事実、1630年にフランス中西部で起きた《ルーダンの悪魔憑き》や、1784年にイングランドの南東部で起きた《メルファーン修道院の悪魔憑き》など、過去に世界中で散見された当該ケースの多くがオドの仕業とされています。


 ですがもちろん、彼らは厳密に言えば《悪魔》に数えられることはなく、その存在もきわめて単純なものです。


 オドは正式な名称を『Opaque Dissociative Obsession』といいます。日本語に直訳すれば『不明瞭で、分離的な、強迫観念』といったところでしょうか。彼らに取り憑かれた者は強烈かつ慢性的な殺人衝動に駆られることが語源とされています。分布的には欧州に広く見られる反面、東アジア、とくに日本にはほとんど確認された例はありません。


 諸説ありますが、オドは人間の霊魂に『Devilment Microwave』が何らかの影響を及ぼした結果、発生したものとする見解が有力的です。分かりやすく例えると、ちょっとおかしな波動で突然変異してしまった幽霊といったところでしょうか。

 

 オドはひどく無力で、それ単体ではなんの効果も及ぼしません。ですが彼らは、生身の人間にとりつくことで物理的な行動を可能とします。それは悪意というよりも、単なる生命活動に近い。我々が食事によってエネルギーを摂取するのと同様に、オドは人の魂と、Dマイクロウェーブの二つを存在するための”栄養”として探し求めています。ゆえに彼らは人間を襲い、より上位の《悪魔》を欲します。


 存在するために、そして欠けてしまった一部を補うために。たとえいびつであっても、この世に生まれ落ちた意味をまっとうするために、彼らはただ、我々と同じように、生きようとしているのです。



 

 広大な会議室に流れていた少女の声が静まると、あちこちから息を呑む気配がした。張りつめた空気がわずかに緩み、次の瞬間にはよりいっそうの緊張となって空間を呑みこむ。


 大型のミーティングテーブルを挟むようにして二つの陣営が顔を合わせていた。大勢の人間がいた。けれど、椅子に座っているのは少数で、大多数の者は壁際に控えたり、会議の進行に従事している。


 正面から見て左側、主に白人によって構成されたテーブルの上座を陣取る少女は、長きにわたったプレゼンテーションに幕を下ろすかのように、手元のミネラルウォーターで喉を潤した。


 法王庁異端審問会特務分室の室長という肩書きを背負って現れた彼女は、名をリゼット・アウローラ・ファーレンハイトといった。日本人にはない透き通った肌の白さと、エメラルドグリーンを思わせる翠緑の瞳。赤みがかった金色の髪をツインテールに結わえて、真新しいスカートスーツを着ている。年齢も容姿も、特務組織の長としては似つかわしくない人物だったが、しかし彼女の立ち居振る舞いには緊張や初々しさがまったく感じられない。


 少女の右手の人差し指には、見事な趣向が施された銀の指輪が輝いていた。


「以上のことから、オドを根本的に断絶させることは現代の科学力では不可能に近く、結果として我々は後手に出ざるを得ません。よって、最優先すべきは被害を抑えることではなく……」


 そこまでリズが言ったところで、やおら厳然たる声音が割って入った。


「ああ、そんなことは言われずとも分かっている。なんのために我らが此度の案件の解決を諸君に委託したと思っているのだね」


 リズの対面、もう一方の上座に腰掛ける壮年の日本人男性だった。テーブルの上で組んだ手の陰からは、不機嫌そうに歪められた唇が垣間見える。


「仮称、東日本連続猟奇殺人事件。七月二日のフタヨンマルマルをもって、事件に関するありとあらゆる権限は、ファーレンハイト室長を代表とする法王庁特務分室に譲渡された。よって、諸君には相応の成果を挙げてもらわねば困るのだよ」


 すぐさま別の声たちが同意した。


「まったくだ。これは君のためのオーディションではない。既知の情報を知らされたところで、審査員でもない私たちには何のアピールにもならない。いや失敬、決して馬鹿にしているわけではないのだがね」

「我々が求めているのは常に結果であり、その過程ではない。にも関わらず、長々と語られたうえで新たに分かったことといえば、専門家たる君たちでも事態の鎮圧は不可能という事実だけだ」

「だから私は反対だったんだ。もとから彼らは事件の解決に尽力するつもりはなく、我が国の情勢を調べることが目的だったのでは?」


 にわかに騒ぎ出した日本サイドの様子を、リズはやや困り顔で見つめていた。やがて場が落ち着き始めた頃合いを見計らって、話を続ける。


「よろしいでしょうか。東日本連続猟奇殺人事件は、その規模と被害、そしてあまりの異常性から、事後処理は警察ではなく《青天宮》が担当しています。いまさら改まって言うまでもなく犯人……いいえ、諸悪の根源はオドです。ゆえに火元を絶たないかぎり、事態は悪化の一途を辿るでしょう」

「だから、自分たちでは無理だと?」

「それでは話が違うではないか! なんのために貴様らの入国を許可したと思っておる!」

「いいえ、手段はあります」


 ぴしゃりと少女は言い放った。


「先ほども申しましたとおり、本来オドは欧州を中心に分布しています。その反面、日本で確認された当該ケースは皆無に近く、数百年ほど過去を遡ってみてもそれは同様です。これは《悪魔》の主な活動域が欧州であることと、日本には独自の退魔組織と鎮魂の概念が発達していることから、オドにとって貴国の土は非常に住みにくい性質だったのが幸いした結果でしょう。

 しかし、失礼ながら近年の日本の情勢は不安定です。二十年前に起きた抗争では多数の死者が出たと聞き及んでいますし、その頃から徐々に”土壌”は形成されていたのではないかと思われます。とはいえ、もちろんそれだけではここまで大きな事態には相成りません。真の原因は、こちらでしょうね」


 リズの合図とともに室内の照明が落とされ、正面のスクリーンに資料が投影された。いくつかの写真と、びっしりと書き込まれた文字。裏世界だけでなく、表の社会にも強烈な印象を与えた事件。この場にいる全員の記憶に新しかった。


 それはつい先日、北欧の片田舎で起きた惨劇についての詳細だった。


「結論から申しますと、この惨劇を演出したのは二柱の《悪魔》であり、そして――」


 それは日本にとって決して他人事ではなかった。


「彼らを含む、現存する《悪魔》の三大勢力の一角がいま、この国で暗躍しつつあります」


 次の瞬間、会議室の空気がいままでになく揺れ動いた。ある者は驚き、ある者は立ち上がり、ある者は法螺を吹きこまれたように失笑した。十人十色の反応のなかで、《悪魔》という非現実的な響きだけが全員の脳内で共鳴していた。


 リズが語った事実をまとめるとこうだ。現在、日本で急速に増えつつあるオドに関する事件。その原因は、何柱もの《悪魔》が日本に集結しているから、という実に単純明快なもの。どこにも不可解な要素はない。


 にも関わらず、日本人たちの顔色は、会議が始まるまえよりも難色を示していた。


「悪魔だと? 冗談ではない! それがほんとうなら、一刻も早く排除するべきだ! 大体、《青天宮》の連中は何をしている! そろって昼寝でもしていたのか!」

「無理もないでしょうな。鮮遠朔夜どのがお亡くなりになって以来、あそこも一枚岩ではない。派閥争いに必死な組織など、往々にしてまともに機能しないものですよ」

「何をのんきなことを言っておる! だれが金を払っていると思っておるんだ!」

「少なくともあなたではないでしょう。いや、そもそも金をちゃんと収めているのかも不明だ。聞くところによると、また新しい外車をコレクションの一つに加えられたとか。ずいぶんと羽振りがいいことだ」

「貴様、口が過ぎるぞ!」


 言い争いを始めた者たちを見て、リズは「あのー、とりあえず喧嘩は止めたほうが……」と小さく呟いたが、となりに座っている戦隊長たる部下に静止されたため、おずおずと引き下がった。その間にも、口論はヒートアップしていく。


「そもそもシュナイダー枢機卿はどうしたのだ。このような小娘をよこさず、枢機卿カーディナルから直々に話を伺いたかったものだ」

「けっきょくのところ、餅は餅屋でしょう。権限の全てを法王庁特務分室に委託している以上、我々は傍観に徹しているしかない。もとからそういう条件で、私たちは彼らの介入を認めたのですから」

「然り。音に聞く手腕をぜひとも拝見したいものですな。彼らならきっとふさわしい成果をあげてくれるはずだ。そうでしょう、ファーレンハイト室長?」


 責任の矛先がリズに向かったとき、冷たい女性の声がした。


「くだらない。子供の言い争いならよそでやってほしいもんだ」


 さほど大きな声量でなかったにも関わらず、全員が彼女に注目した。それだけの存在感があったのだろう。


 正面から見て右側、壮年の日本人たちが腰を下ろすテーブルのもっとも端に彼女はいた。外見から推測できる年齢は若く、他の者よりも一回り以上は下だと思われた。二十代後半が妥当だろうか。漆黒の髪をうなじのあたりで一房に結わえて、すらりとした身体を紺色のパンツスーツに包んでいる。切れ長の目が怜悧な印象を与える美人だったが、いささか目つきが悪い。


 じっと腕と足を組んで権高に同郷の仲間を睥睨する彼女が気に食わなかったのか、やや肥え太った男が身を乗り出した。


「それはどういう意味だね、紫苑しおんくん。言いたいことがあるならもっとはっきり言ったらどうだ」

「その言葉、そのまま返そう松本警視正。新しい外車を買って機嫌がいいんだか知らないが、我関せずと責任をよその国だけに押し付けるのはずいぶんと虫がいいんじゃないか。ドライブを満喫したいなら、せめて自分の仕事を相応にこなしてからにしてもらいたいもんだ」

「無礼な! 無礼だぞ、小娘! いくら貴様が【如月】の人間でも、こんな無礼が許されるわけがない!」

「それは悪かった。じゃあ何か仕返ししてみなよ。ほら、一度だけは甘んじて受け入れよう」


 彼女――如月紫苑は両手を広げて受け入れる姿勢を見せたが、松本は何も言い返せなかった。禿げあがりそうな額に脂汗が浮かび、握りしめた拳が怒りと悔しさに震えていた。 


 権力や財力に目敏い彼にとって、紫苑の生家は決して無視できないものだった。”日本を影から支配する如月一族”とは、もはや政財界ではお馴染みとなった常套句だが、それを一笑に付すにはこの国において【如月】の名はあまりにも大きすぎた。


 しばしの葛藤の末、松本警視正は年長者ゆえの寛容さという名目で怒りを収める体を見せたが、それが強がりに過ぎないことは初見の特務分室の面々ですら看破していた。


「……まあ、いい。だが紫苑くん。そこまで言うなら君にはなにかいい案があるのかね?」

「買い被りすぎだよ。わたしごとき小娘がそんな力を持っているわけがない」

「きみはあの【九紋】の連中と兄弟同然に育ったと聞く。奴らを動かせばどうとでもなるのではないか?」


 その名が出た途端、日本人の多くが顔色を変えた。それは活路を見出したがゆえの変化ではない。あえて言うなら、この国の頂点に君臨してきた十二の家系に対しての畏敬、そして裏社会で数多の屍を築いてきたことに対する畏怖。この国において【九紋】は忌み名であり、死にもっとも近い言葉だった。


「正直、わたしの個人情報を暴露されているようでちょっと気持ち悪いが、それはできない。こちらにも事情があるからな」

「それではいったい、どうするというのだ!」

「少しは自分の頭で考えて頂きたいものだが、そうだな、あえて答えるとしたらねずみ退治だ」


 紫苑の発言に、多くの者が首を傾げた。


「現状、我々がもっとも憂うことはなんだ。多発する殺人事件か? 《悪魔》か? いや違う。ふたたび国のバランスが崩れ、さらなる国力の低下を招いてしまうことだ。《大崩落》の影響で失われた諸々が、十六年かけてようやくここまで回復したのだから」


 いまから数えて二十年前に起きた《大崩落》と呼ばれる抗争。あの地獄の四年間は、日本に決定的な変容をもたらした。かつての泡が膨れて弾けるような景気はまたたく間に崩壊し、表社会の経済は大打撃を受けた。抗争のおりにばら撒かれた銃器やクスリは、当時の膨大な供給が仇となり、裏社会だけでは処理しきれなくなった”商品”の在庫の一部が表にも流れ込む有様だ。刻一刻と変化する国内情勢と、その影響で起こったさまざまな社会問題。


 治安大国と呼ばれたのも過去の話だ。暴力団は当然のように拳銃を携帯し、警察との癒着も問題視されている。犯罪の低年齢化も進み、世論の後押しを受けて、ついには少年法も改正された。


 日本はいま、数多くの負債を抱えている。獅子身中の虫は早々に取り除かねばならない。


「なるほど、ねずみ退治ですか」


 リズがくすくすと笑って言った。


「言い得て妙ですね。一匹見たら三千匹はいると思え。日本のことわざでしょう?」

「それはゴキブリの話だが、まあ、あながち外れているとも言えないね。ねずみだろうがゴキブリだろうが駆除する対象に変わりはないからな。つーか、そんなにいたらやばいよ。普通に逃げるよ」


 リズと紫苑はそれぞれ笑みを浮かべている。だが、目は笑っていなかった。ぶつかり合う視線に火花が散った。


「紫苑様には何かお考えがあるご様子。ですが、日本政府から一切の権限を委託されている以上、あとは我々の管轄です。どうかお気になさらぬよう」

「ああ、それじゃあそちらのねずみは君たちに任せるとしよう。わたしは悪魔退治なんて柄じゃないからな」


 あっさりと引き下がる紫苑。それに一瞬とはいえ安堵してしまったリズがいけなかったのか、それとも初めから陥穽があったのか、紫苑の話には続きがあった。


「じつはわたしにも個人的な仕事があってね。いやなに、君たちのそれに比べれば些末なものだ」

「仕事……?」

「改まって説明するほどのものでもないよ。ねずみと呼ぶのも身に余る不作法者が、近頃この国でこそこそと動き回っているらしくてね。肥え太るだけが能の甘い蜜の味を覚えた政治家や官僚を取り込んで、ただでさえ腐敗しきった政財界にさらなる歪みをもたらそうとしている。このまま遊ばせておけば、間違いなく日本に大きな混乱が訪れるだろう。

 わざわざ調べるまでもなく、そいつの正体は分かった。なにせ外国人であるうえに有名人だからな。室長様も聞いたことがあるだろう。そいつの名前は――」


 紫苑がその名を口にした途端、リズの眼差しが鋭くなった。


「一代で巨万の富を築き上げた若き天才実業家。情報処理の分野において画期的かつ斬新なアイデアで大きなシェアを獲得した時代の寵児。公表されている年齢は二十七歳。イギリスのウィンブルドン出身。オックスフォード大学に入学するも二年で中退。……と、少し調べればいかにもそれらしいデータが上がってくるが、残念ながら二十七年前のウィンブルドンにこの男が生まれた記録はない。しかし、こいつが表社会に大きな影響力を持っていることだけは確かだ」


 だれかの心臓が、どくんと跳ねた。


「禍根は断つ。例外はない。我が【如月】の紋にかけて、悪しき輩には早々に退場してもらおう」


 直後、紫苑の言を遮るように、まるでそれ以上は言わせないとでもいうように、日本陣営の上座に腰掛ける男が口を開いた。


「そこまでだ。慎みたまえ、如月紫苑。我々は君の私情を聞くために集まったわけではない」

「これは失礼。ただわたしは、なんとなくこの話をこの場にいるみなさんにも聞かせて差し上げたいと思ってね」


 紫苑は苦笑して、かぶりを振った。日本人席、ひとりの男が小さく舌を鳴らした。


 それからも滞りなくとは言えなかったが、会議は予定されていたとおりに進んでいった。


 静かに、静かに、時間が終わっていく。


 リズは無感情な顔で時計を見つめていた。紫苑は氷のように冷徹な目で誰かを見ていた。


 窓のそと、ブラインドに遮られた向こう側で、ゆっくりと雨が降り出していた。




 その夜、高臥菖蒲は父の知己が催したパーティに参加していた。高臥宗家の直系である菖蒲は、お家柄、こうして父や母とともに招宴に預かることがあった。


 すれ違う人々はみな華やかなドレスに身を包み、優しい笑顔を振りまいている。優雅な仕草でグラスを傾け、久方ぶりに顔を合わした面々で楽しげに談笑していた。飛び交う声にはお世辞や社交辞令が多分に交じっていたが、こうした場では本音を建前で隠すのがルールでありマナーだ。別にだれも間違ったことをしているわけではない。


 父に連れられて大体の挨拶回りを済ませた菖蒲は独り、壁一面に張られた窓から階下に広がる夜景を見つめていた。高級ホテルの上階を貸し切って行われているこのパーティは、おそらく、この街でもっとも月に近い夜会と言えるだろう。


 落ち着いたドレスをまとい、髪を結いあげた自分の姿が、よく磨かれた窓ガラスに映っている。色素の薄いとび色の髪に、いつも夕貴から眠そうだなと言われる二重瞼の瞳。均整の取れた手足に、大きくふくらんだ胸元。きれいに、きれいに着飾って、父からも褒めてもらった装い。


 でもほんとうに見せたかった相手はここにはいなくて、誰かと話している間も気を抜くと上の空になってしまって、いけないとは思いつつもため息は止まらなくて。そんな自分に嫌気が差しつつも、不思議と胸はぽかぽかと温かくて、知らずのうちに唇が緩んでいて。


 だめだ、これではだめだ、と菖蒲は頬を軽く叩いた。淑女として、そして【高臥】の人間として、与えられた努めはしっかりと果たさなくてはならない。まだまだ夜は長いのだ。


「いやぁ、ご機嫌そうですなぁ」


 背後から声をかけられた。振り向くよりも先に、ガラスに映った半透明の姿が、相手の様相を教えてくれる。


「一年振り、ですかな。いやはや、ますますお美しくなられましたなぁ。お母さまによく似てこられた」

汐見うしおみ様……お久しぶりです。汐見様もお元気そうで何よりです」


 とっさに菖蒲は気が利いた言葉を言えなかった。あにはからんや、近づいてきた男――汐見幸造からはあまりいい評判を聞かなかったからだ。それでも彼の娘である汐見清夏さやかは、愛華女学院における菖蒲の同級生なので、いままでそれとなく言葉を交わしたことはある。


 汐見家は、大戦後に急激に成長した、いわゆる成金と陰口を叩かれる家系だった。とは言え、その成長力は驚異的で、現在では莫大な財力と影響力を持っているのも事実である。ただ汐見幸造は、目的のためなら手段を選ばない人物だともっぱらのうわさで、彼の成功の陰で血の涙を呑んだ者も少なくないと聞く。


 なにより伝え聞いた話によると、どうも彼は、他ならぬ【高臥】にもちょっかいをかけてきているらしく、菖蒲としてはいろいろな意味で面白くない相手だった。


「どうやら娘が世話になっているようで、これはあいさつの一つでもと思いましてな」

「いえ、わたしのほうこそ清夏さんにはお世話になっていますから」

「とんでもない。娘が菖蒲さんに何か迷惑をかけてないかといつもヒヤヒヤしておりますよ。ええ」


 汐見幸造は芝居がかった声をあげて、わざとらしくペコペコと頭を下げた。なんとなく嫌な気持ちになる。


「ところで……うまくやられましたな」

「はい? うまく、ですか?」


 いきなり小声で意味の分からないことを言われたので、菖蒲は呆けた声を上げた。


「ええ。高臥さんは実に手広く事業をやっておいでだ。いろんな業界にも顔が広い。私も一実業家として感服しております。ただまぁ、そんな高臥さんも芸能には疎かったんですな。つい先日までは、ですがね」

「……はぁ、そうなのですか」

「さすがは音に聞こえた高臥重国氏です。彼ほどの傑物はこの先もしばらくは現れんでしょう。まさか自分の娘まで利用するとは思いませんでしたが」

「え、利用……?」


 ここでようやく菖蒲は彼の言わんとすることに気付いた。


「ま、待ってください。わたしはそんなつもりで……いえ、わたしのことはどう思われようと構いません。ですが、父に対しての発言だけは取り消してください」

「まぁまぁ、そうムキにならんでもよろしいじゃありませんか。私は褒めているのですよ。私にはそのような真似はできませんからなぁ」


 菖蒲の反論など聞こえていないとでもいうように笑う汐見幸造。もっと反論したかったが、怒りと悔しさのあまり、うまく言葉もまとまらないほどだった。それにここで菖蒲が衆目を忘れて口論でも始めようものならば、彼女だけでなく家の名にまで傷をつけかねない。いままで立派に育ててくれた父や母の顔に泥を塗るような真似だけは避けたかった。


 菖蒲はぎゅっと唇をかみしめて、ひたすら堪えた。堪えることにした。自分さえ堪えればいいのだ、と決めてしまったら、それは意外と楽なことのように思えた。


「お久しぶりだ、汐見殿。ご機嫌いかがかな」


 ひどく険のある声。けれど、それは菖蒲にとって何よりも親しみ深い声だった。


「おぉ、これはこれは……まさかこんなところでご挨拶ができるとは思っておりませんでしたよ、高臥重国さん」


 ついさっきまで嫌らしく笑っていた幸造も、さすがに高臥家の現当主をまえにしては表情を引き締める他ないらしく、動揺を示すかのように目がせわしなく動いていた。


 高臥重国。菖蒲が心から尊敬する実の父であり、名付け親でもある。老いを伺わせない豊かな髪を櫛でなでつけ、妻が仕立てたスーツを折り目正しく着こなしている。四十代半ばとまだ若いが、身にまとう貫禄は並大抵の者なら恐れ戦いてしまうほどに強大だ。婿養子でありながら名実ともに【高臥】の頂点に立つその手腕は怪物と言わざるを得ない。そして彼は。


「どうやら娘が世話になっていた様子。これは父として挨拶の一つでもしておかなければ気が済みません」


 自他ともに、いや、他は認めるがあまり自覚はない、かなりの愛妻家にして子煩悩だった。


 重国は菖蒲のとなりに立ち、愛する娘の肩を優しく抱き寄せた。それだけで安心してしまう菖蒲も、あまり自覚はないが、きっと父のことが大好きで大好きで仕方ないのだろう。


「ほぉ、あなたほどのお人が、私ごときに構ってくださるとは。身に余る光栄だ。帰ったら娘に自慢できますなぁ」


 白々しい言い草に、重国は小さく鼻を鳴らす。無理もない。裏では【高臥】の管轄に土足で上がりこもうと画策しているのに、いざ面と向かえば必要以上にへりくだるのだ。これではまともに相手をするのもバカらしい。


 それから汐見幸造は、嫌味を交えた社交辞令を繰り返したが、重国は顔色一つ変えず全てを受け流した。責任ある立場として、そう易々と挑発に乗ることは愚の骨頂。重国はただ娘のそばに支え木のように力強く寄り添うだけで、まるで反駁はしなかった。うんうん、と菖蒲は頷いた。わたしのお父様は心の広い人なのだ。


 やがて業を煮やした汐見幸造は、ウェイターから受け取ったグラスを一気に煽ると、赤みがかった顔で言い捨てた。


「いやはや、今日は大変貴重な話が聞けましたわ。今後とも、高臥さんとはぜひ仲良くやっていきたいもんですな」

「ええ、そうですね。あなたとは今後とも良いお付き合いをお願いしたいものだ」

「ふん、良いお付き合い……ねぇ。老婆心ながら忠告しておきますよ、高臥さん。余裕をかましていると、いずれふところに火がつきますよ。そのとき、ボヤ程度で済めばよろしいですがね」


 それっきり彼は、もう興味をなくしたと言わんばかりに踵を返した。やっと終わるんだ、と菖蒲は安堵した。


「あぁ、高臥さん。もう一つアドバイスです。せいぜい娘さんを利用するとよろしい。せっかくの美しい娘さんだ。業界関係者の中には涎を垂らしている者もそりゃあおるでしょうからな」


 あまりにもひどい発言だった。菖蒲はズキンと胸が痛くなるのを感じた。小馬鹿にした高笑いだけがやけに耳に響く。


 でも我慢だ、ここで我慢しなくてはどうする。父を見習え、菖蒲。父はどんなことを言われても平然としていたのに、ここでおまえが挑発に乗っては意味がない。そうだ、落ち着くのだ。


 自分に言い聞かせてから、菖蒲はゆっくりと深呼吸した。そして父にお礼を言おうと思った、まさにそのときだった。


「……ほう。よくもまあ口が減らないものだ」


 地獄の門がゆっくりと開くような、低く重たい声。空気が瞬時に凍った。あれ、何かがおかしいぞ、と菖蒲は首を傾げた。


 見上げると、重国の顔からは微笑が消えていた。感情を映さない双眸が、圧倒的な敵意を乗せて幸造を捉えている。


「……いい顔ですなぁ。そうです、その顔が見たかったのですよ、高臥さん」


 ねっとりとした笑みを浮かべて、汐見幸造はもういちど重国と対峙した。だが、重国から発せられるプレッシャーに圧されたのか、その顔には脂汗が浮かんでいる。


「やっぱりあなたは面白い方だ。興ざめしていたところでしたが、これなら存分に……」

「言いたいことはそれだけか。くだらん。老婆心ながら、もっと時間を有意義に使うことをお勧めしよう」


 周囲にいた者たちが振り返る。それほどまでに重国の放つ威圧感は大きかった。汐見幸造は、自分が無意識のうちにあとずさっていることに気付いていただろうか。もはや滑稽なほどに役者が違いすぎた。


「だが、そういえばさきほど面白いことを言っていたな。ふところに火がつく? ボヤだと? 笑止だよ、汐見幸造。この俺がその程度で済ませると思うのか」


 彼は言った。


「火の海にしてやってもいいんだぞ」


 ひっ、と幸造は息を漏らした。そして何事か分からない捨て台詞を吐いて、足早に人ごみのなかに消えていく。幕引きはじつに呆気ないものだった。


 しばらく静寂が続いた。菖蒲は心配そうな顔で父を見上げる。やがて重国は、小さなためいきとともにかぶりを振った。菖蒲には分かる。目に見える仕草ではそれほどでもないが、いま重国の頭のなかは後悔と自己嫌悪でいっぱいのはずだ。


 家長として、一人の娘の父として、重国は軽率な真似をしてしまった。喧嘩は片方が相手をしなければ成立しないのだから。


 でも、菖蒲は。


「……お父様、ありがとうございます」


 そんな不器用な父が愛おしいと、この人の娘でよかったと、心の底から思うのだ。


 重国はわずかに目を見開いたあと、自嘲気味に笑って菖蒲の頭を撫でた。いつもとは違い、やや力強い撫で方だったが、それが嫌いではなかった。


 父と別れた菖蒲は、ひとりで会場を見て回っていた。もうじきこの華やかな夜も終わる。そうなると不思議なもので、ついさっきまでは早く萩原邸に帰りたいと思っていたのに、なんとも言えない寂しさのようなものを感じるのだった。


 当てもなく歩いていると、ひときわ目を引く人物を見つけた。


 何人かの人間に囲まれて談笑している男性。まだ若い。外見年齢だけで言えば、ナベリウスよりも少し上ぐらいだろう。やや長い金色の髪をうなじのあたりで結わえている。雪のように白い肌と、深い青の瞳。背は高く、平均よりは頭一つ分ぐらい抜けている。髪や肌の色から、恐らく異国の人間なのだと思われた。


 だが、菖蒲が目を奪われたのは、彼の顔立ちだった。美しい。まるで神が己の持てる力の全てを注ぎ込んでまで造形したのではないかと思うほどに、美しい顔立ちだった。


 しかし菖蒲が感じたのはときめきではなく、純粋な恐ろしさだった。直感と言ってもいい。あそこまで美しいのは普通ではない。人間を超えた、どこか非現実的な――


「失礼。私になにか用かな、お嬢さん」


 はっと我に返った菖蒲の正面には、さきほどの男性が立っていた。思わず顔が赤くなる。遠くにいた彼の意識に引っかかってしまうほどに、菖蒲はじっと見つめていたのだろう。


「あっ、いえ、その……何でもありません」


 失礼にならない程度にあとずさりながら、菖蒲は必死に微笑んだ。なんとなく、なんとなくあまり近づいてほしくない気がしたから。


 菖蒲の様子を気にしたふうもなく、男は優しく微笑んだ。


「そんなに怖がらなくてもいいのに。いや、無理もないかな。私が無礼をしてしまったんだから」

「そんな……無礼だなんて」

「いや、女性にそう言わせてしまう男など、無礼以外の何物でもないよ。気を遣わせてしまったね。だから、これは私の非だ」


 透き通るほどにきれいな声で言ってから、男は菖蒲の手を取った。目が合う。ぞくりと悪寒が走る。心の隅々まで見透かされているような錯覚。体中を視線という名の糸で縛り付けられていくような感覚。冷たい汗が背中を流れる。


 女性と比べても見劣りしない、白く滑らかな指先。触れ合う肌から伝わるのは温もりではなく、得体のしれない冷たさ。男は壊れ物を扱うような手つきで、ゆっくりと菖蒲の手の甲に口づけをした。


「申し遅れたね。私の名はリチャード・アディソン。以後、お見知りおきを。美しいお嬢さん」


 なぜだろう。分からない。いくら頭を捻っても答えは出てこない。それでも、このとき、菖蒲は、ただ、ひたすら。


 心の底から、怖かった。



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