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旧『ハウリング』 改定前  作者: ハイたん
参の章 【それは大切な約束だから】
66/74

3-14 血戦

 


「そうだっ! そうだよやりゃできんじゃねぇかっ!」


 耳障りな声が俺を出迎えた。大きく揺れる肩が、凶悪に歪んだ口元が、楽しくて楽しくて仕方がないと笑っている。フォルネウスの身体からは剣呑な鬼気が立ち上っているが、それは《悪魔》の力を解放した俺の足を止めるほどのものではなかった。


 常人には見えない、本来なら自然界には存在しないはずの波動が俺たちの中央の空間でぶつかり合う。薄っすらと外界に流出する程度の俺に対して、フォルネウスのそれは荘圏風致公園を丸ごと包み込むほど膨大だった。でも、男が一度やると決めた以上、そんな些事はまったく関係なかった。


 両手を広げるフォルネウスに向かって足を動かす。大地を駆ける脚力は、すでに人類の限界を超えて魔性の域に達していた。父さんの力は、確かに俺に受け継がれている。このほとばしる活力がなによりの証拠だ。


「いいねぇ懐かしいねえ! この感じ、てめぇの親父を思い出すぜ!」


 駆け抜けた速度を殺さず、返答の代わりに右ストレートを打った。腕力に加速を乗せた手加減なしの一撃を、しかしフォルネウスは顔色一つ変えずに躱してみせた。驚愕する俺の視線と、愉悦に満ちた悪魔の視線が交錯する。


 瞬間、ぞくりと背筋が震えた。


 言葉にせずとも、瞳を介して弾けんばかりの殺意が伝わってくる。フォルネウスの目を見ることは、おのれの無残な未来を垣間見ることと同義だった。腕が上がる。殺される。死が近づいてくる。脳髄に流れ込むネガティブの濁流から逃げ出したくて、俺は真横に跳んで仕切りなおそうとした。それは臆病な俺がもたらした失着だった。


「オイオイつれねぇなぁ! 逃げんなよ!」


 紅い悪魔は難なく後を追ってくる。いったんプラスまで開いた彼我の距離は、またたく間にゼロに戻った。戦闘能力で圧倒的に上回るこの男から逃げ出すことは、無防備な背中を見せるに等しい愚行だ。その過ちを犯した代償として、豪腕が唸りを上げ、空気を断ち割る鋭音を発しながら、迫る。


「ぐっ!」


 重荷を積んだトラックが正面衝突してきたかのような馬鹿げた膂力だった。とっさに両腕を交差して衝撃に備えたが、あえなく俺は吹き飛ばされた。骨の軋む幻聴を聞きながら、空中で体勢を整えて着地し、靴底で芝生を削って慣性を殺す。


「このっ、野郎……!」


 今度は俺から駆け出し、不気味なほど高揚しているフォルネウスに向けて拳を振りかぶる。妙手や奇策を用いず、ただ真正面から行く俺を見て、それでいいと、それでこそ面白いと、悪魔が不敵に笑った。半瞬後には渾身を込めた技が入り乱れ、人智を超えた衝撃の連続に大気が悲鳴を上げた。フォルネウスに追い縋るために肉体のギアは際限なく上がっていく。自らの限界を超えた動きに肉体が軋みを上げるが、表面上は互角の勝負を演じることができている以上、ここで手を緩める謂れはなかった。


 しかし、瓦解はすぐに訪れた。いままで培った技術や経験、そして父さんから受け継いだ力をフルに使っても、《ソロモン72柱》のまえにはあまりにも儚い。徐々に呼吸は乱れ、筋肉は休ませろと訴えてくる。それが体捌きを鈍らせて、刹那にも満たない、けれど確かに存在する致命的な隙を生み出した。


 戦闘の合間にできた不自然な間隙を、天性の慧眼によって見抜いたフォルネウスは針の穴をつくような正確さで拳打を放った。俺は体勢を立て直さず、むしろ崩れるままに身を流して片足に重心を移行し、蹴りで拳を迎撃する。次の瞬間、途方もないパワーがぶつかり合い、空気が爆ぜて、夜が震えた。遅れて発生した衝撃を利用して距離を稼ぎ、心身を少しでも回復させようと努める。場に静けさが満ちて、夜のとばりが主役に戻った。


「……なるほどなぁ。キャンキャン喚き立てるだけの犬だと思っちゃいたが、ちっとは戦いの心得があるみたいじゃねぇか」


 首の骨を鳴らしながらフォルネウスが言う。俺は気息を整えながら、疲労を悟られぬよう平然とした顔を装って切り返す。

 

「バカにすんな。男なら喧嘩のやり方ぐらい知ってて当たり前だろ。それに」


 ふと、脳裏に浮かぶのは長い黒髪をポニーテールに結わえた少女の姿。あいつの気が向いたとき、広々とした庭で格闘の訓練をしていたことを思い出す。ああ、そうだよな美影。おまえの弟子として無様な戦いはできないもんな。


「俺にはおまえより百倍強い師匠がいるからな。こんなのウォーミングアップにもならねえよ」

「ほぉ、そりゃ結構。てめぇの次はそいつを殺してやるよ」

「次なんかあるわけないだろうが。明日の予定を立てる前に、まずは自分の心配をしやがれ」

「言うじゃねぇかよ。そこまで上等な口叩くからには楽しませてくれんだろうな――ガキぃっ!」


 フォルネウスは弾丸を思わせる不可視の速度で間を詰めてくると高速で手刀を薙いだ。もはや視認できるスピードではなく、触れただけで人体をバターのように切り裂くだろうことは明白だった。全神経を回避に専念させて辛うじて逃れられる絶世の刃だった。


 速い。いや、速すぎる。風圧だけで肌が裂けて、頬に血がつたう最中、俺は背筋が凍る思いにとらわれていた。もし仮に、これでまだ手を抜いているのだとしたら、いったいこの男の底はどこにあるのか。俺の絶望を具象化するように、フォルネウスの動きは秒刻みで加速していく。すでに目は意味をなくし、本能と反射だけが俺の命を繋いでいた。死線を紙一重で掻い潜りながら想起するのは、他でもない美影の言葉。


 ――見てから、考えてからでは駄目。勘や反射で動かないと間に合わない。


 そんなこと簡単にできるわけがない、と弱音を吐いた俺に、あいつは言ったっけ。


 ――できる。こうして何度も何度もひとつの動作を反復し、脊髄反射の行動パターンにすりこんでいく。


 自分でも本当にどうかと思うが、認めるしかない。俺がいま生き延びているのは、自分よりも小さな女の子にボコられ続けた成果が出ているからだと。しかし、生まれた頃から相応の鍛錬を積んでいる美影とは違い、一朝一夕で身に着けた付け焼刃だけで戦っている俺が、いつまでも敵の攻撃を捌き続けられるわけがなかった。いずれ遠からず限界がくるだろう。


 このままではジリ貧だと判断した俺は、多少のダメージ覚悟で前に出た。フォルネウスの蹴りがわき腹にかすり、服が裂けて血が飛び散った。痛みの報酬として、無防備なふところに入る千載一遇のチャンスを得る。神経を焼く痛覚に顔をしかめながらも、俺はがむしゃらに踏み込んで全力のパンチを叩き込もうとした。


 目が、合った。


 愉しそうに歪む瞳には余裕があった。罠にかかった獲物を見つめる狩猟者の目だった。生存本能がかき鳴らす警鐘に身を任せて、俺は拳を引っ込めると同時に地面を蹴って大きく距離を取った。遅れて噴き出した汗は、まだ命がある証だった。


「いい勘してやがる。あんな見え見えの誘いに乗るような莫迦なら、ここで一思いに殺してやろうかと思ったが」


 その声には、殺し損ねたことを悔やむ響きはなく、まだ獲物をなぶる愉しみが続くことの歓喜があった。


「……余裕だな。遊んでるつもりかよ」

「冷てぇな。遊ばせてくれよ。同族のツラを拝む機会すら滅多にないんだぜ。バアルの血を引く、それも人間と混じったガキとやり合ってはしゃがねぇほうがおかしいってもんだ」


 そう、俺に語りかける声もひどく高揚していた。絶えず吊り上がった口端は凶暴に、殺意に燃える瞳は獰猛に。


「オレがこのときをどれだけ待ったと思ってやがる。いまなら慎重すぎるグシオンも、口うるせぇアスタロトも、頭の固いベレトもいねぇ。それによぉ、ちっとばかし遊んでやったぐらいでくたばる出来損ないなら、さすがのグシオンもいらねぇって言うだろうよ」

「……グシオン」


 今日聞いたばかりなのに、どこか懐かしい響きのする名だった。リズたちの話によれば、現存する《悪魔》の三大勢力の一角を率いているという。とは言え、そのグシオンとやらがどれほど強力な能力を持っていたとしても、戦いを至上とするフォルネウスが誰かの後塵を拝するとはとても思えないが。


 逆に言えば、この男が曲がりなりにも忠誠を誓うほどのカリスマを、グシオンは備えているのだろう。


「やっぱり、おまえらが日本に来た目的は《悪魔の書ゴエティア》ってやつを手に入れることなのか?」


 訊ねると、フォルネウスは酷薄とした顔で笑った。


「……《悪魔の書ゴエティア》ねぇ。アレはいいもんだ。桁外れの事象を引き起こす点ではアガレスの力と似ちゃあいるが、その本質は破壊にだけ特化してるときた。まったく、バアルの野郎も面倒な代物を遺してくれたもんだぜ。なぁ?」

「父さんが、遺した……?」

「聞かせろや。おまえはアレがどこにあるか分かるか?」


 予想していなかった質問に言葉が詰まる。そういえば先の展望台で、リズもまったく同じ質問を俺に投げかけたことを思い出す。一度だけなら偶然で済ませることもできるが、立て続けに訊かれては何らかの必然を疑ってしまう。どちらにしろその存在を今日知ったばかりの俺に、くだんの書物の在り処など分かるはずもないが。


「はあん。そうかよ。まあハナから期待しちゃいなかったがな」


 沈黙をつらぬく俺の様子からおのずと答えを得たのだろう、フォルネウスは嘆息した。


「おい、勝手に納得すんな。いったい、おまえらは……」


 あの子は、リズは――


「俺に何を期待してるんだ? 父さんが遺したってどういう意味だ?」

「さあねぇ。どうしても聞きたけりゃ力づくで吐かせてみな。――そろそろいいだろうが」


 変化は唐突に訪れた。気配が変わり、夜の闇がいっそう深くなる。初めは錯覚かと思ったが、違う。ついさっきまで夜空に点在していた月や星々は見えなくなり、見渡すかぎりの世界は混じりけのない黒一色に染められていく。


「あんまり懐くなやガキ。いつまでもペラペラとお喋りなんざ退屈なんだよ」


 フォルネウスの輪郭がゆがみ、少しずつ曖昧になっていく。キィン、と甲高い耳鳴り。物理法則を冒涜する異能の力が顕現しようとしていた。


「ナベリウスの助けは期待すんな。ガキの子守に夢中な女を見逃すほどベレトは甘くねぇ。目障りな法王庁の連中も、ソロモンによく似たあの女も、ここには来ねぇ……いや、もうだれも入ってこれねぇよ」


 波動の流出が、爆発的に膨れ上がっていく。俺は直感した。フォルネウスにとっての遊びは、もう終わったのだ。いや、ここから始まるのか。


「そういやぁ……ずっと昔、バアルに言われたぜ。”戦いの目的ではなく行為そのものに意味を見出すおまえは、いつか戦いに裏切られる”ってな。抜かせよクソが。くたばったのはてめぇだろうが」


 忌々しげに吐き捨てるフォルネウスの顔は、どこか寂しげに彩られていた。


「オレは死なねぇ。どいつもこいつも、邪魔する奴ぁ一人残らず消してやる。まずは手始めにバアルの血を引くてめぇを殺して――」


 直後、影が狂奔した。


「オレたちを裏切ったソロモンに証明してやるよぉ! 野郎の血よりもオレのほうが強ぇってなぁっ!」


 昂ぶった咆哮に呼応して、暗黒の衝撃波が吹き荒れた。大地を駆け抜ける一陣の疾風は、あらゆる自然を蹂躙しながら広がっていく。巻き上がった土埃に視界は支配され、広場は混沌に包まれた。


 舌打ちとともに駆け出した俺は、フォルネウスから距離を取りつつ逃げの一手に甘んじる。こちらから仕掛ける余裕など微塵もなく、完全な防戦一方を強いられる。それでも諦めずに活路を見出さなければならない。無茶だとしても、無理だとしても、ここで俺が死ねば悲しむ人がいるのだから、弱音なんて吐けるはずがなかった。


「ガキが。甘ぇんだよ」


 しまった、と息を呑んだときにはもう遅かった。吹き荒れる影を隠れ蓑にした接近と、巻き上がった砂塵が晴れるほどの神速の踏み込みだった。反応は間に合わず、前蹴りが無防備な俺の腹に突き刺さる。気が遠くなるような激痛に晒され、口から血反吐を撒き散らしながら、俺は地面をバウンドして転がっていく。


「くそっ、たれ……!」


 目がかすむ。脚が震える。拳がうまく握れない。だが、寝てるわけにはいかない。口元の血も拭わず立ち上がるのと、フォルネウスがふたたび肉薄するのは同時だった。バカの一つ覚えか。フォルネウスは真っ向から向かってきて、右腕をまっすぐ突き出した。いくら速くても、フェイントも交えず同じ動きを何度も見せられてはさすがに対処もできるってもんだ。


「がはっ……!?」


 しかし、フォルネウスの腕は何事もなかったかのように俺を捉えた。軌道を予測し、腕をいなそうとしたはずなのに、どうして――


 喉の奥からこみ上げてくるものがあって、俺は蹲ったまま何度もえずいた。生臭い鉄の味を口腔内に残しながら、嫌味なほど赤い血がくちびるからこぼれ落ちる。たった二発食らっただけで、俺の身体はあれだけ溢れていた活力をなくしていた。もし俺がただの人間だったら、もう何度死んでるか分からない。


「そんなもんか? 違ぇだろ。おまえの親父はもっと強かったぜ」


 血の海に溺れてもがき苦しむ俺を、じっと見つめる双眸があった。見下ろす視線は冷たく、そこにはかすかに退屈の色が浮かんでいた。紅い髪が風にゆれ、均整の取れた四肢は静かに眠っていた。


「やっぱり人間の血がまずかったみてぇだな。どこぞの薄汚い野良犬と交わったせいで、産まれたのはチンケな雑種になっちまったってことか」

「雑種……だと」


 犬を彷彿とさせる四つんばいの体勢で地に伏したまま、俺は搾り出すように言った。


「そうさ。てめぇは雑種だ。最高の雄と、野良犬の牝から産まれた半端者だ。そうして這いつくばってんのが何よりの証拠だろうが」

「野良犬の牝、って言ったのか、おまえ……」

「気に入らねぇなら言い方を変えてやるよ。いい男を見つけたら股を開いて子種をねだる淫売ってな」

「……取り、消せ」

「あ?」

「取り消せっつってんだぁっ!」


 湧き上がる怒りに任せて駆け出した。肉体の限界を超えた動きに関節が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。痛みのあまり視界は赤く染まり、すでにガタガタだった骨や内臓は激痛というかたちで無言の抗議を訴える。知るか。いまは黙れ。ありとあらゆる無理を気力でねじ伏せて、血に濡れた拳を振り上げる。噛み締めた奥歯が砕けた。


「興ざめだなぁ、オイ」

 

 だが、現実は非情だった。俺の想いは、紅い悪魔のまえには無意味だった。両手をポケットに突っ込んで気だるげに佇むフォルネウスの身体を、俺は立体ホログラムを透過するようにして、ただ、通り過ぎた。触れることすら叶わなかった。


 肩越しに背後を見ると、そこには闇に揺らめく輪郭があった。まだだ。まだ諦めるわけにはいかない。おのれを鼓舞して振り向きざまに裏拳を放つと、俺の手はフォルネウスを空振った。当たったはずなのに手応えはいつまで経っても訪れない。そのまま惰性で何度も何度も仕掛けてみたが、恐怖とともに振るわれる俺の四肢には人のぬくもりも、悪魔の冷たさも、なにも伝わってくれなかった。


「――ぁ」


 堰を切ったように圧倒的な絶望感が襲ってくる。いままでの俺は手加減されて、遊ばれて、いいように戦ってもらっていただけなのだ。その気になったフォルネウスは実体を持たない闇そのものになる。物理攻撃の一切は通じず、不死身に等しい正真正銘の怪物に。


 出鱈目すぎる。こちらからは指一本触れることもできないのに、あちらからは好きなときに好きなだけ攻撃することができるなんて。俺はなにを思いあがっていたんだ。戦闘能力に差がありすぎるなんてもんじゃない。こんなの初めから勝負にすらなってないのに。


「継いでるのは血だけか。どうやらバアルの力は、あの野郎だけのもんらしいな。くだらねぇ。これじゃグシオンの計画にも不備が出そうだな」


 つまらなそうに言って、おもむろに脚を上げる。蹴りがくる、と頭では分かっていても、それを避けるだけの能力と、戦いを続ける意志が絶対的に不足していた。上段蹴りを側頭部に食らい、俺はあっけなく地面に転がった。悲鳴を上げるだけの力もなく、芝生のうえにうつ伏せに倒れこむ。


「……ちくしょう」


 あまりの悔しさに涙さえこぼれそうだった。伸ばした手はなにも掴めず、傷ついた身体では護りたいものも背負えない。舐められたままでは終われないと言っても、他人を見返すだけの力がない。両親を侮辱されても満足に言い返せない。


 ふざけんな、と自分に対する怒りが爆発する。上等な口を叩いたくせに、いざ戦いが始まるとこのざまだ。おまえは誰かの背に護られてるだけのガキじゃないか。いままでだってそうだった。櫻井彩のときはナベリウスが助けてくれた。菖蒲が誘拐されたときは参波さんと託哉が一緒だった。ダンタリオンのときも美影とともに戦った。


 おまえは仲間の力を借りてようやく生き延びてきた、ちっぽけな男だ。この十九年間、いったい何をしてきたんだ。努力しても、そこに結果が伴わなくては意味がないのに。


 つまりは簡単な結論。


 これまで俺が積み上げてきたものは、すべて無駄だったと――


「……んなわけ、ねえだろうがっ」


 絶対に認めてやるわけにはいかなかった。ここで下を向いたら全てが無駄になる。しっかりしやがれ萩原夕貴。ちょっと劣勢に立たされたぐらいでなに弱気になってやがる。


 ふらつきながらも身体を起こす。この暴力に満ちた非日常の最中、まぶたの裏に蘇るのは慌しくも幸せな日常。口ではなんだかんだと文句を言いながらも、俺はあの陽だまりが大好きだった。ナベリウスに大切なことを教えてもらい、美影に無理を言って訓練に付き合ってもらい、疲労した心身を菖蒲に癒してもらった。彼女たちと触れ合う日々のなかで、こんな俺でも目の前にいる人たちを護ることぐらいならできると思った。護りたいと、強く思った。


 それを、勘違いで終わらせることだけはしたくない。


「頑丈だな。まだ立つかよ」


 ゆっくりと立ち上がった俺を、フォルネウスは無感情な目で見つめていた。すでに獲物から興味を失いかけてる目だった。


「さすがに《悪魔》の血を引いてるだけのことはあるか。パパに感謝しとけよガキ。ただの人間なら、もうとっくに死んじまってるぜ」


 そう言って笑うフォルネウスの身体は依然として闇に揺らいでいた。この男の真の恐ろしさは、戦いに熱狂しながらも完全には冷静さを失っていないところだ。猪突猛進な戦闘狂かと思いきや、こと戦いに関しては非常にクレバーときた。いまだって注意深くこちらの挙動を伺っている。唯一、俺が付け込める可能性のあった実力差がゆえの慢心も期待できそうにない。


「おまえに、言われるまでもねえよ……父さんにはいつだって感謝してるさ」


 父さんがいなければ、俺はこの世にいなかった。二十年前に何があったのかは知らない。なぜ父さんは死んでしまったのか。ちょうどその頃に起きたと聞く《大崩落》と関係があるのか。すべてを知っているはずのナベリウスは黙したまま何も語ってくれない。それでも、いつかは知らなければならないという確信があった。父さんの血を引く俺にしかできないことが、きっとあるはずだから。


「いいぜ。おら立てよ。こんなもんで終わりじゃねぇだろう」


 好戦的な笑みを浮かべて、ゆっくりとこちらに歩いてくる。ほとばしる威圧は、ただ面と向き合って対峙することもままならないほどだった。まったくもって底知れない。ただ、フォルネウスはまだ力の半分も出していないことだけは漠然と理解していた。それも無理からぬことだろう。つい先日まで最近は不景気だなとか、将来はどんな職業に就けるのかとか、そんなことをぼんやり考えていた俺が、絶えず闘争と付き合ってきたフォルネウスに勝てる道理はないのだ。


「……でも、だからって逃げる理由にもならないよな」


 肝に銘じよう。ここで諦めたら、俺はもう可愛いとか女々しいと言われても何の反論もしないと。そう決めたら不思議と腹を括るのも楽に思えた。


「覚悟しろよ、クソ野郎。いまから、おまえの顔面に一発ぶち込んでやるからな……」

「はっ、そうかよ」


 風と形容するのもおこがましい脚力で接近してきたフォルネウスに殴り飛ばされる。腕で防御は間に合ったのに、脚を踏ん張る力も残っていなかったものだから、俺の身体は宙を舞ってから芝生に落ちた。満身創痍の身体を必死に起き上がらせると、間髪入れずに腹を蹴られてまた倒れこむ。もう何度目かも分からない血反吐を吐きながらもがき苦しむ俺の頭を、フォルネウスが踏みつけた。


「退屈だな。期待が大きかった分、余計に冷めるぜ」


 靴底から伝わる力はあまりにも強烈だった。地面が少しずつひび割れ、頭蓋骨はミシミシと軋みを上げる。


「バアルも莫迦な野郎だ。よりにもよって、どうして人間を選びやがった。こうなることは分かってただろうによ。人間の女にたらしこまれるとは、さすがの野郎も落ちぶれたか。いや、ここは《悪魔》を誑かせた女のほうを褒めるべきか?」

「て、めえ……」


 その母さんをバカにするような言い方が。


「さっきから気に食わねえんだよっ!」


 怒りが爆発した。どこかから活力が溢れてきて、傷ついた身体の痛みを無理やり消し去った。頭を踏みつけている脚を全力で払う。だが、そのまえにフォルネウスは飛びのいていた。


「ほぉう……」


 広場を占拠していたフォルネウスの波動に対抗するように、俺の身体からいままでにない勢いで《悪魔》の力が流れ出す。もう少しだけ、あとほんの少しだけ、戦える。


「身内をおちょくられるとキレるタイプか。おもしれぇ。火事場の馬鹿力でもイタチの最後っ屁でもなんでもいい。せいぜい楽しもうや」

「黙れよ。おまえだけは絶対に許さねえ。もう二度と俺たち家族をバカにすんな」


 おまえになにが分かる。懸命に生きてんだよ。大切に想ってんだよ。ずっと二人で生きてきた。誰も助けてくれなかった。きっと母さんは想像を絶する苦しみと戦いながら俺を育ててくれたはずだ。なのに過去を振り返っても、憶えているのは優しい笑顔だけなんだ。父さんを失った悲しみを背負っているのに、俺のまえでは見せないんだ。


 なあ。泣きながら笑うことがどれほど難しいか、分かるか?


 それを知ってなお、母さんをバカにすることができるのかよ?


「にしても、解せねぇな。ここまできて力の差が測れねぇほど戦いを知らないわけじゃねぇだろ。どうして立ち上がった? 勝てるとでも思ったのか?」

「……特別サービスだ。おまえにいいことを教えてやる」


 勝てるとか負けるとか関係ない。もう小難しいことを考えるのは止めた。力の差なんて推してまで知りたくもない。だから、もう単純でいいだろ。


「まず一つ。俺はこう見えても男らしいんだよ」


 女の背に隠れてるだけのガキとか不名誉なこと言われたら、そいつのツラに全力の一撃をかましてやりたくなる程度には。


「そしてもう一つ。これはいままで誰にもバレてないとっておきの秘密なんだけどな」


 ぐっと親指を立ててから、それを下に向けた。


「俺は、マザコンなんだよ」


 母さんをバカにされると頭に血が上って支離滅裂になる程度には、だけどな。


「だから、おまえをぶっ飛ばす。菖蒲や美影にも言ってない秘密を知られたんだ。このまま黙って帰すわけにはいかない」


 腰を落として構えを取る。フォルネウスはしばらく喉のおくでくつくつと笑っていたが、やがて右腕を前に伸ばした。


「そうかい。もう死ね」


 鍛え抜かれた体躯が夜にかすんだ。強烈な耳鳴り。俺に向いたフォルネウスの腕から、禍々しい闇の奔流が放たれた。黒い火炎としか形容できないそれは、空間を根こそぎ侵犯しながら俺を消し去ろうと迫る。津波や台風にも似た、大自然の猛威を感じる。速く、重たく、昏い。


 真横に跳んで軌道上から逃れたが、着地した俺を狙ってすぐさま次弾が解き放たれた。先の跳躍で酷使した脚の筋肉にさらなる鞭を打ち、ふたたび回避運動を取る。しかし、三度目の正直か。脅威から脱して顔を上げた俺の目に映ったものは、焼き直しのような怒涛のごとき闇だった。奔流の向こうに哂うフォルネウスが見えた。


 一か八かだ。俺は最小限の動きだけで闇を避けてみせた。おかげで掠った左腕に焼けつく痛みを感じたが、男の意地で我慢して駆け出した。あれほどの力を三度も立て続けに使ったのだ。逃げ回る一方だった俺が無謀にも攻めに出るとは思わないだろうし、さすがの奴も多少の消耗はしているだろう。裏をかいたとも言えない稚拙な特攻だが、長期戦は望めないいまの俺にとって、ここで打って出るしか道はなかった。


「よぉ。久しぶりだな」


 前方、ほんの十メートルと離れていない距離に悪魔がいた。俺と同様に、向こうも地を蹴り加速していたのだ。殺意に酔った目が、お見通しなんだよ、と告げていた。


「くっ……!」


 いまさら止まることはできない。ここで退いてしまったら、そのときこそ俺は死ぬだろう。中途半端な躊躇いは、デッドヒートの途中に急ブレーキを踏むようなものだ。であれば、初めから全力でぶつかったほうがいい。たとえ、結果が玉砕だとしても。


 そのとき、視界のすみに銀色の軌跡が見えた。


「――っ!?」


 驚きは誰のものだったか。衝突しようとする俺とフォルネウスの中央に、なにか小さな物体が投げ入れられた。それは《悪魔》の波動に反応するや否や、青白い輝きを発し、邪悪な闇に呑まれていた広場をまばゆく照らし上げた。


「こりゃあ……《精霊の書テウルギア》!」


 歪められていた物理法則が是正されていく。満足に目も開けていられないほど鮮烈な光が視界を満たす。その聖性を帯びた極光の最奥に、ひどく懐かしいものがあるような気がして俺は手を伸ばしたが、それに触れる寸前で指輪が一際強く輝き、巻き起こった衝撃波によって俺は地に墜とされた。


 ほどなくして精緻な紋様が刻まれた指輪は、芝生のうえに音もなく落下した。太陽よりも地上を照らしていた星が潰えたことによって闇は蘇ったが、そこにあるのは俺のよく知っている夜だった。きれいな月明かりと、黒天を彩るまばらな星々。もう禍々しさはどこにも残っていない。


 ぞっとするほど冷たい表情を浮かべたフォルネウスが広場の端にたたずむ人影を睨む。


「……驚いたぜ。何しにきやがった、クソガキが」


 絶対零度よりも冷え切った声は、言外に興がそがれたと伝えていた。俺はゆっくりと彼女を見つめる。ここまで走ってきたのか、自慢だと言っていたストロベリーブロンドの髪はひたいに張り付いていた。ミニスカートから伸びる脚線は疲労を訴えるように弱々しく身体を支えている。夜風にツインテールの房が揺れていた。


「……リズ」


 リゼット・アウローラ・ファーレンハイト。法王庁特務分室の室長という肩書きを持つ少女は、切羽詰った表情でこちらをじっと見つめている。


「なんで……」


 フォルネウスが怒り心頭に発したならば、俺はただただ戸惑っていた。なぜこの場にリズが現れたのか、まるで意味が分からなかったからだ。彼女があの指輪を投げたのは、状況から見て俺を助けるためなのは明白だったが、曲がりなりにも《悪魔》の血を引く俺に法王庁が手を差し伸べるとは思えない。アルベルトや他の隊員の姿が見えないのも気がかりだった。


「よかった、間に合った……」


 俺の顔を見ると、リズはひたいの汗を拭いながらほっと息をついた。


「夕貴くん、わたしね……約束したの」


 いきなり何を言い出すんだ。いまは約束なんて関係ないだろう。それよりも早く逃げろよ。ちょっとぐらいなら俺が時間を稼いでみせるから。いくら敵対するかもしれない組織に属しているとはいえ、女の子が傷つくところなんて見たくない。

 

「わたしには、どうしても見届けたい世界がある。頭のよさそうな肩書きなんて関係ない。使命と理想はべつだもん。……うん、だから、なんていうか、わたしは」


 言いにくそうに視線を泳がせてから、リズは笑みを浮かべて言った。


「夕貴くんに、いなくなってほしくない」


 翠緑の瞳に親愛の情を乗せて、ぶれることなく見つめてくる。俺の混乱はますます深まるばかりだったが、彼女がなにかの冗談を口にしているようにも思えなかった。まるで真意が掴めない。彼女は俺を騙したいのか、助けたいのか、利用したいのか。こうして笑顔を向けてくるのも、俺の警戒心を解くための計算なのか。考え出せばキリがなかった。


 リズ。きみはいったい何を考えて、なにを為そうとしてるんだ……?


「――おいコラ、クソガキ。オレの許可なくしゃしゃり出てきた挙句、なに頭の弱いことほざいてやがる」


 殺気が目に見えて増大していく。怒りが手に取るように分かった。


「てめぇのツラを見てるだけでも吐き気がするってのに、盛り上がってんとこに水差しやがって。そんなに混ざりてぇならそこにいろや。バアルのガキをぶっ殺したあと、そのツラで生まれてきたことを後悔させてやるからよぉ」


 抑揚のない声とは裏腹に、弛緩した身体から溢れる波動は吐き気を催すほどの密度だった。純粋なプレッシャーなら、ナベリウスやダンタリオンよりも遥かに上だろう。おそらく、戦闘において枷を外したフォルネウスは最強だ。


 肉食獣を連想させる、余分なものが一切ない四肢がぎりぎりと引き絞られる。感情の見えない目からは醜い肉塊と化した数秒後の俺が見えた。ここから先は戦いではなく、一方的な狩りだ。捕食者が獲物を殺して食らう、自然界では日常的に見られる当然の摂理。


 リズの介入は、俺の死を先延ばしにしただけで、結果はより残酷なものとなるだろう。もちろん責めるつもりなど毛頭ないが、彼女はフォルネウスを怒らせただけで根本的な解決をもたらすことはできなかった。


「……ナベリウス、ごめん」


 夜空を穿つ月を見上げて、ここにはいない彼女を想う。諦めるつもりなんてない。でも、たぶん俺は殺される。だから、あの美しい銀髪を連想させる月明かりに祈っておこうと思った。せめて彼女が、俺を護れなかったという呵責にとらわれませんように。


 俺が死を覚悟した正にそのとき、ふいに聞き覚えのある唄が耳に届いた。


 思わず対峙している敵から目を離して、ふたたび広場の隅を見た。もう遠い昔にも思える記憶が蘇る。俺たちが出会ったときとまったく同じだ。リズは目を閉じ、両手を組み合わせて唄を歌っていた。悪魔の支配する死地と化した広場において、少女のきれいな声は呆れるほど場違いであるがゆえに戦慄を鎮める効果があった。


 俺はこれを知ってる。だって、ずっと昔、母さんが子守唄として聞かせてくれたから。リズと母さんが共通した旋律を知っているのは偶然なのだろうか。俺には特別な符合があるように思えてならない。


「……ははは、ははははは」


 リズの唄に同調して、決定的な変化があった。静かに激昂していたはずのフォルネウスがてのひらで顔を覆いながら、乾いた笑い声を上げているのだ。


「……なるほどなぁ。そうか、そういうことかよ。おかしいとは思ってたんだ。その顔。その身体。その声。その魂の在り方。そして、この唄。相変わらず人をおちょくるのが好きな女だ。いまさらになって、よくオレのまえに現れやがったもんだぜ」


 俺が怪訝に思い、ぶつぶつと独り言を漏らすフォルネウスに呼びかけようとしたときだった。


「答えろや――なぁっ!」


 荘厳と屹立する霊山が突如として噴火するように声を軋らせると、フォルネウスは大地が陥没するほどの踏み込みとともに疾走した。害意が凝縮されきった双眸に映るのは俺ではなく、ひとりの小さな少女だった。


「くそっ……!」


 事態の深刻さに気付いた俺も一拍遅れて走り出したが、明らかに間に合わない。超絶に加速して一条の雷鳴と化すフォルネウスに対し、ここまで誤魔化してきたダメージが一気に返ってきたのか、俺の足取りは鈍重だった。まだ立っていられるだけでも奇跡に近いのに、悪魔を上回る脚力を望むのはさすがに無謀だった。これ以上、父さんの血が俺を甘やかせてくれることはないだろう。


 それでも、早く、早く、もっと早く。頼むから間に合ってくれ。自分の無駄に豊かな想像力が恨めしい。どうしてフォルネウスがリズの心臓を抉り出している未来が視えるんだ。


 そんな俺の心情を知る由もなく、真紅の大悪魔はリズに向かって問いかける。 


「ソロモンっ! なぜオレたちを裏切りやがったっ!」


 叫びにも似た詰問をまえにしても、少女は透き通った声で唄を紡ぐだけだった。



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