3-10 ソロモンの小さな鍵
俺に聞きたいことがある、とリズは言った。聖職というよりは軍隊を連想させる組織を統べる少女は、愛くるしい笑顔のなかに理知的な面影を垣間見せながら、透き通った目でこちらをまっすぐに見つめてくる。
「まずは一つ。夕貴くん。きみは《悪魔の書》がどこにあるか、知ってるかな?」
「……は? なんだそれ?」
まったく耳に馴染みのない発音だった。自分が置かれている状況も忘れて、思わず呆けた声を上げてしまう程度には。
「真実を述べたまえよ少年。これは尋問ではなく、審問だ。ひとつの嘘が取り返しのつかん結果を招くやも知れんぞ」
リズのかたわらに控える男が語を継いだ。灰色の髪に、彫りの深い顔立ち。不動の佇まいは、さながら巌のごとき存在感を振りまいている。手には鞘に収められた一振りの剣。アルベルト・マールス・ライゼンシュタインと名乗った彼は、リズから戦隊長と呼ばれていた。
アルベルトの言ったとおり、いまは下手に隠し立てしないほうが賢明だと俺のちっぽけな人生経験が訴えている。慎重に言葉を選び、警戒を怠らず答えた。
「嘘じゃない。おまえらがなにを言ってるのか、俺にはさっぱりだ」
「……そう。知らないんだね。それとも分からないのかな」
真意の掴みづらい言い回しだった。なんだかリズと出会ってから俺はペースを乱されっぱなしだ。
「じゃあ二つ目。夕貴くんはリチャード・アディソンのことを知ってるかな?」
「それは知ってる。実業家だろ?」
「そうだよ。リチャードさんに会ったことは?」
「会うどころか顔も見たことねえよ」
「本当に?」
「疑うなよ。サブマシンガンの銃口をいくつ向けられてると思ってるんだ。こんな状況で腹芸なんてできるわけないだろうが」
皮肉と、かすかな敵意を交えて反駁する。気圧されたら負けだ。飽くまで対等に接しなければ、わずかでも隙を見せれば、そこから一気に食いつかれるだろう。
「……どう思う、アルベルト」
「嘘は言っていないでしょうな。不用意に虚言を口にするほど頭が悪い男には見えません」
「そっか。これはまだ繋がってないってことで結論してもいいかな」
俺の理解の及ばないところで、なにか重要な話が交わされている。意図的に主語の抜かれた会話からは、大した情報も拾えない。俺は意を決して、こちらから質問を投げかけることにした。
「……いいか。ちょっと聞かせてくれ」
「うん? なにかな」
後ろ手を組み、機嫌よさそうに目元を和らげてリズが応える。アルベルトは口を閉ざしたまま、鋭い目で俺を見据えていた。
「おまえたちの目的はなんだ? この国で、いったい何をやらかすつもりだ?」
「まるでわたしたちが悪者みたいな言い方だね。安心して。法王庁には日本と戦争をするつもりはないから。それじゃあ本題に入るけど、夕貴くんは《ソロモンの小さな鍵》って知ってるかな」
まるで聞き覚えがなかった。押し黙った俺の反応から知識の有無を察したのだろう。彼女は、ふむ、とちょっと偉そうに頷いた。
「強大な力を持つ、ソロモンの大悪魔。遥かな昔、一人の王は、彼らを使役して古代エルサレムに聖所を建設したの。でも、古くは神々にも匹敵する威容を誇っていた七十二柱の《悪魔》は、人の手には余る危険な存在だった。だから、彼らを律するために”これ”が造られた」
リズが右手をかざす。人差し指には、精緻な紋様が刻まれた銀の指輪が、斜陽を受けて紅くきらめている。
「悪魔に対して絶大な効力を発揮する、魔封じの書物。この世界の法則とは異なるルールを用いて産み落とされた五つの法典。以下の五部から構成されるそれを、昔の人たちはグリモワールの一つから名前を取って《ソロモンの小さな鍵》と名付けたの」
一つ、《悪魔の書》
二つ、《精霊の書》
三つ、《星の書》
四つ、《天空の書》
五つ、《天元の法》
「書物の名を冠してはいるけれど、その形状はさまざまだね。わたしの所有する《精霊の書》は、このとおり指輪のかたちをしているから。夕貴くんにも分かりやすく例えるなら、シルバーブレットが近いかもしれないね」
強い力を持った人狼や悪魔も銀の弾丸にはめっぽう弱い、という西洋の言い伝えがある。無敵の怪物にも弱点の一つはあるものだ。《悪魔》にとってのシルバーブレットが、リズの持つ指輪ということなのだろうか。
「夕貴くんがこの指輪に――《精霊の書》に苦手意識を抱いたのは、きみのなかに流れる《悪魔》の血が原因なの。いま言った四つの書と一つの法は、それぞれが異なった効力を持ち、人智を超えた力を持つ《悪魔》を抑止してきた。例えば……」
言いかけて、彼女は口を噤んだ。翠緑の瞳をすっと細めて、油断なくあたりを見回す。リズだけでなく、白い軍服を着込んだ男たちもまなじりを吊り上げて周囲を強く警戒した。
心身を凍えさせる圧倒的な冷気が、夕焼けに照らされた空間に満ちる。急速に低下する気温。真夏にも関わらず空を染める白い雪。風に揺られていた若葉が次々と凍っていき、自然の息吹が停止した。石畳のうえには薄い霜が張り、唇からこぼれる吐息は驚くほど白い。ここらで凍てついていないのは俺たち人間ぐらいのものだった。
《絶対零度》と、誰かが小さな声で言った。
寒気と殺気のせいで肌が粟立つ。顔を見なくても、言葉を聞かなくても分かるぐらい、この凍結現象をもたらした者は怒っていた。その怒りの主は、神の審判のごとく展望台にいる全員に対して平等に敵意を振りまいていながら、例外として俺という個人だけには慈しむような感情を向けていた。
「法王庁の狗が……よくもやってくれたな」
響いた重たい声音は、耳に心地いい女性のものだった。冷たい氷に覆われた背の高い樹木、その枝のうえに見知った人影が立っていた。銀色の目が怒りに凍えている。普段の彼女とは似ても似つかないぐらい、ナベリウスは怒りをあらわにしていた。
「不愉快だな。貴様ら、誰に向かって銃口を向けているつもりだ」
ナベリウスが目を細めて、武装した男たちの手元をぐるりと見渡す。ただでさえ歪んでいた美貌が、ここにきて氷点下に達した。まずい。ナベリウスは臨戦態勢に入っている。このまま放っておけば一秒後にでも攻撃しかねない勢いだ。
しかし、俺は積極的に殺し合いをするつもりはない。リズたちは俺を威圧したが武力行使には乗り出さなかった。ならば、平和的とまではいかないかもしれないが、血を流さずに済む可能性もあるんじゃないか?
「待てよ、ナベリウス! 俺はまだ何もされてない!」
「ありがたく思えよ無知蒙昧ども。弁えぬおまえたちに、いま一度だけ教えてやる」
どうやら思っていた以上にはらわたが煮えくり返っているらしい。俺がどれだけ静止の声をかけても、ナベリウスは踏みとどまろうとしない。
ちょっと、イラっときた。
昨日の夜はあれだけ俺のことをバカにしたくせに。今朝は家出しようとする俺を「どうせ夕方頃には帰ってくるんでしょ? おみやげよろしくー」と見送ったくせに。いつも人の頭を悩ませるぐらい奔放なのに、どうしてこういうときだけ過保護なんだ、こいつは。
俺は拳をつよく握り締めて、高みから見下ろすナベリウスをねめつけた。
「心して傾聴しろ。そこにおられる方は、我らが偉大なる《バアル》の血を引く――」
「――うるせえバカ! おまえはちょっと黙ってろ!」
不気味なまでの静けさに支配されていた空間に、俺の怒声が響き渡る。そこでようやく彼女は言葉を紡ぐのを止め、こちらに注目した。凛としていた面持ちが、へなへなと歪んでいく。
「で、でも、こいつら夕貴に危害を加えようとしたんでしょ? 夕貴はわたしのマスターだから、こうして護るのは当たり前で……」
「うるさい。言い訳すんな。おまえが怒るのも分かるけど、俺はリズと話がしたいんだよ。だから、黙ってろ」
あえて冷たく、権高に告げた。ナベリウスのことは好きだけど、だからといって、いつも振り回されてばかりの俺じゃない。たまにはガツンと言ってやらないと男が廃るというものだ。
やがて十数秒ほど沈黙が続いたあと、ナベリウスは観念したように体重を預けていた枝のうえから弱々しく飛び降り、俺のとなりに着地した。ふわりと舞い上がる銀髪とは対照的に、滑らかな線を描く肩はひどく落ち込んでいた。
「ご、ごめん。わたしが悪かったから、そんなに怒らないでよ……」
こっぴどく叱られた仔犬みたく、彼女は俺のほうを上目遣いでチラチラと見ながら言った。よほど堪えたのか、ひどく殊勝な態度だった。もっと憎まれ口が返ってくるかと思っていたので拍子抜けしてしまう。そこらじゅうを侵食していた氷が、ぱりん、と澄んだ音を立てて消滅した。
「……いや、俺も言いすぎた。べつに怒ってるわけじゃないんだけどな。むしろ、おまえが来てくれて助かったぐらいだし。ただ俺は、もっとあいつらから話を聞きたかったんだ」
「夕貴は甘いわ。こいつらは話が通じるほど頭の柔らかい連中じゃ……」
そこでナベリウスはぴたりと動きを止め、アルベルトに視線を集めた。背後にリズを覆い隠すようにしてたたずむ彼も、じっとナベリウスのことを睨んでいる。
「へえ。どこかで見たことがある顔だと思ったら、アルベルト坊やじゃない。ずいぶんと老けたわね。二十年振りぐらいになるかしら?」
「正確には二十三年振りだ。相変わらず奔放な女だと見えるな、貴様は」
「ひどい言い草ね。こう見えても、わたしって淑やかさには自信があるんだけど」
「自己に対する評価をオブラートに包んで認識しているところは変わっていないらしいな。まずは自分を見つめなおすことから始めたほうがいい」
挑発的な笑みを浮かべるナベリウスと、険しい眼差しを崩さないアルベルト。どうやらこの二人は、遠い過去に会ったことがあるらしい。だがあまり友好的な間柄ではないらしく、両者ともに隙あらば噛み付こうとする思惑が感じ取れる。
味方が敵の情報を知っているのなら話は早い。俺が尋ねると、ナベリウスはアルベルトの着ている軍服をじっくりと観察してから言った。
「どうやら出世したみたいね。あの略綬や肩章は、法王庁特務分室の戦隊長である証だし」
「戦隊長?」
「そうそう、戦隊長。ありのままに説明するなら、実動部隊の一つを率いる指揮官ってところかな。とにかく偉くて強い奴とでも思っておけば万事オッケーよ」
「さすがにアバウトすぎるだろ、おまえ……」
けっきょく、俺が想像していた以上の情報は得られなかった。こんな状況なのに平時のごとく鷹揚と話をするナベリウスは、大物か馬鹿のどっちかだと思う。
「べつにアバウトじゃないよ。いまの説明に間違いはないからね」俺たちの会話に清らかな少女の声が割り込んだ。「ただ真実のすべてってわけでもないけど」
アルベルトの大きな背に隠れていたリズがぴょこっと横に一歩踏み出し、年頃の女の子らしくお洒落した姿を斜陽のもとにさらした。
「こんばんは、《ナベリウス》。わたしはリゼット・アウローラ・ファーレンハイト。法王庁特務分室の室長だよ」
首を傾げて微笑む。下手をすれば数秒後には血と悲鳴が飛び交うかもしれない切迫した状況なのに、リズは飽くまで自然体だった。対して、ナベリウスはなにかありえないものを見るかのような目でリズを凝視してから、震える声で呟いた。
「あんた……なに?」
弱々しい誰何だった。ついさっきまで堂々と胸を張っていた彼女とは似ても似つかない。こんなナベリウスを見るのは初めてかもしれなかった。
「なにって聞かれても困るなぁ。わたしはわたし。他の何者でもないよ。それとも、もしかして、わたしの顔に見覚えでもあるのかな?」
「……いえ。わたしはあんたのことなんて知らない。知っていたらダメなのよ。絶対に」
「そうだね。ソロモンの《悪魔》が、まさか十八才の小娘を知ってるわけないもんね」
ナベリウスの様子がおかしい。あのダンタリオンを前にしても鈍らなかった覇気が、いまは見る影もない。人間の小娘を相手に、歴戦の大悪魔が戸惑うのはなぜだ?
本人に直接問いただそうと思った。だが、その沈痛な横顔が「なにも聞かないで」と言っている気がして、俺は喉まで出かかった言葉の嚥下を余儀なくされた。
かなり長く話し込んでいたのだろう、あれだけ街を紅く染めていた太陽もずいぶんと地平線の彼方に沈み、もう間もなく黄昏が終わろうとしていた。空には深い黒と、かすかな赤が混じっている。夜が訪れるのも時間の問題だった。
「それで、法王庁特務分室が日本に来た目的はなに? あらかじめ言っておくけど、もし夕貴にちょっとでも危害を加えたら、わたしはあんたたちを潰すから」
ナベリウスはきっぱりと宣言してくれた。その言葉が嬉しく、同時に悔しくもあった。男って生き物は、やっぱり女を護ってナンボだと思うのだ。いつの日か、俺がナベリウスを護ってやりたい。そんな渇望を抱き始めたのはいつからだろうか。
「むー、怖いね」ぷくっと頬を膨らませるリズ。「でも安心して。わたしたちは《バアル》の血が目的じゃないから」
「そのわりには夕貴に接触してきたじゃない。あんたたちのせいでわたしは怒られちゃったんだから。この責任はどう取ってくれるつもり?」
「そうだね。じゃあ見返りは情報提供ってことでどうかな」
リズの右手がゆっくりと上がる。
「質問に答えてあげる。わたしたちが来日した目的の一つが、これだよ」
女の子らしい細い指には、きれいな指輪がはまっている。じっと見てるだけで吐き気がしてきた。苦手意識なんて生温い言葉では説明できない、もっと根源的な恐怖が湧き上がってくる。
「……《精霊の書》。ずっと所在が不明だったって聞いてるけど、まさか法王庁が秘匿してたなんて」
「なあ。ずっと気になってたんだけど、あれって何なんだ?」
さきほどリズから説明されたが、いまいちよく分からなかった。ナベリウスはしばらく考え込むような素振りを見せたあと、「そうね。実際に見せたほうが早いかな」と言って、空中に氷で形成された槍を何本か生み出した。尖った先端が、リズを向いている。
「バカっ、おまえなにを――!」
声を荒げる俺を手で制したナベリウスは、流し目で氷槍を見やった。それが合図だったのか、冷たい凶器が一斉に滑り出し、少女を穿たんと宙を奔る。次の瞬間、俺の目に信じられない光景が飛び込んできた。
生温い大気のなかを疾走していた絶対零度の氷が、リズの眼前で停止した。まるで不可視の障壁に阻まれたかのように。
リズの指にはめられた指輪が強く発光している。太陽に代表される自然的な光とは根本から異なる、不思議な輝きだった。バチバチ、と音を立てて周囲に青白い電荷が走り抜ける。《悪魔》の波動を帯びた氷槍は、どれ一つとしてリズに届くことなく砕け散っていく。やがてナベリウスの氷は破片すら残ることなく消滅した。もし魔法なんて陳腐な言葉が許されるとしたら、俺は遠慮なく口にしていただろう。
「見たでしょ。あれが《精霊の書》の力よ」
呆然とする俺を一目も見ずに、ナベリウスは言った。
「わたしたち《悪魔》の異能を無力化し、無効化する。どんなに強力でも、どんなに膨大でも、それが《悪魔》によって発生した力なら、アレはことごとく消し去って見せるわ」
それぞれの書が異なった能力を持つなかでも、リズの持つ指輪は『悪魔の異能を無力化し、無効化する』という性質を持つ、と銀髪悪魔は語る。
でたらめすぎる、と否定することはしなかった。ここ数ヶ月ほどの間に立て続けで起こったさまざまな出来事が、一般的な常識を信じて不可思議な現象を否定するだけの小賢しさを奪っていた。ぶっちゃけ、菖蒲が俺の家に訪ねてきたときのほうがインパクトとしては上だったし。
「ようやく夕貴くんにも分かってもらえたみたいだね。百聞は一見にしかず、だったかな。日本のことわざって的を得ているものばっかりだよね」
それを言うなら的を射るだろ、と訂正しようと思ったが、日本のことわざを口にする彼女の顔がちょっと嬉しげだったので俺はなにも言わないことにした。知らぬが仏だ。
「この指輪そのものに殺傷力はないけど、純粋な防御だけならずば抜けてるし、なにより四書一法のなかでもっとも小さいの。おまけに可愛いしね」
それが《ソロモンの小さな鍵》か。また面倒な代物が出てきやがったな。できるなら俺の人生とは一切関わらずに海の向こうで勝手に大活躍していてほしいところだ。
「いま説明したことをすべて踏まえて、夕貴くんにどうしても聞きたいことがある。正直に答えてね。きみは《悪魔の書》がどこにあるか、分からないかな?」
「そんなの分かるわけないだろ。なんで俺に聞くんだ」
呆れ半分にかぶりを振る俺を、じっと見つめる視線があった。どうやら冗談の類ではないらしく、リズの顔は真剣そのものだった。
「……夕貴、与太話に耳を貸す必要はないわ」
俺のまえにナベリウスが立った。華奢な背中には艶やかな長い銀髪が揺れている。なぜか、彼女は拳をぎゅっと握り締めていた。なだらかな肩はかすかに震えていた。
「与太話なんかじゃないよ。わたしたちが面倒を冒してまで夕貴くんに接触した理由が知りたいんでしょ、ナベリウス?」
「……前言を撤回するわ。べつにあんたたちのことなんて知りたくない。それに夕貴はなにも知らないわ。知ってるわけない。ううん、知らなくてもいいのよ」
小さな声で自分に言い聞かせるように言う。ナベリウスはリズから視線を逸らし、唇をきゅっと引き結んでいた。憂いを湛えた横顔から目が離せない。いつも俺を護ってくれる彼女の大きな背中が、このときは生まれたての赤子よりもか弱く見えた。しばらく押し黙ったあと、リズは「そっか」と短く相槌を打った。
「我々が、法王庁特務分室が、この極東の島国を訪れた目的は大きく分けて二つある」
会話の間隙を見計らって、アルベルトが厳かに言った。
「まず一つ。現在、日本のどこかにあるとされる《悪魔の書》の発見、および回収。これは五つの書物のなかでも特異かつ最悪な力を持っている。その性質は、純然たる破壊にのみ特化しており、悪意を持って使用すれば甚大な被害をもたらすこともできる」
「……そう。《悪魔の書》が」
まだ日本にあるのね、と。ナベリウスは俺にしか聞こえない、小さな、本当に小さな声でつぶやいた。いまにも泣き出しそうな顔に心が痛む。俺は直感的に確信した。きっとナベリウスは、その《悪魔の書》という書物に深い因縁があるんだ。それも、憎悪に値するような縁が。
「そして二つ。こちらのほうが重要度では上だろう。《悪魔》の三大勢力の一角を率いるグシオンが、この極東の島国へ入ったという。奴らを牽制し、予想される闘争を未然に防ぐための抑止力となることが、我らの最重要任務だ」
「グシオンがこの国にいるなんてね。ちっとも知らなかったわ。まあ、あいつは他の二人と比べると温厚なほうだから下手に暴れることはないでしょうけど」
「おおむね同意だが、しかしアレは強い野心家でもある。油断はできまいよ」
俺は二人の会話を聞きながら、かつてダンタリオンが言っていたことを思い出していた。
”加えて、我らが同胞のあいだにも派閥があります。まあ現時点では《マルバス》、《バルバトス》、《グシオン》が率いる三大勢力が抜けていますがね。彼らはこぞって貴方のお父上である《バアル》、ならびにその従者二名を血眼になって捜索していたようですが、ついぞ行方は掴めなかったという話です”
ナベリウスやダンタリオンと同等以上の力を持った連中が、すでに日本の土を踏んでいるだって? 俺たちが平凡な日常を謳歌している間にも、そして今このときも、そいつらは裏で暗躍してるってのか?
「日本はさまざまな利権が複雑に絡み合っており、身動きのしづらい国だ。にも関わらず、わざわざグシオンが来日したのは、まず間違いなく《悪魔の書》を手に入れるためだろう。ローマ教皇庁の権威が及ばないこの国なら、我らの戦力も大幅に限定される。ゆえに今しばらくはそちらの対処で手一杯になると予想される」
「つまりあんたらは、俺やナベリウスに構ってる暇はないって言いたいのか?」
「端的に言えばそうなる。すでに貴様らがグシオンと接触していたのであれば、この場で排除することも考えていた。しかし、いずれグシオンは、少年に接触を試みるだろう」
なるほど。俺たちは見逃されるわけではなく、泳がされるということか。でもそれは見方を変えれば、リズたちと殺し合わなくても済むということだ。俺たちが《グシオン》と繋がらないかぎりは。
あらかた話が終わる頃には、世界はすっかりと夜に包まれていた。太陽が沈んだ代わりに、漆黒の帳が下りている。展望台からは美しい夜景が見渡せて、点在する明かりが人の営みを教えてくれた。地上に現れた星空だった。
「――楽しそうな面子じゃねぇか。オレも混ぜてくれや」
そのとき、横柄ながらもよく通る声が響いた。俺たちは揃って宵闇の向こうに目を向ける。静かな足音。深い闇のなかから、ナベリウスに匹敵する強大な存在感がほとばしる。
「ほぉう、懐かしい顔がいやがる」男が感心したように言う。「相変わらずいい女だなぁオイ。たまにはグシオンの野郎の言うことも素直に聞いてみるもんだ」
血に濡れたように紅い髪が夜気のなかに揺れている。非の打ちどころがない整った相貌は、本来なら美丈夫という言葉がよく似合うのだろう。だが好戦的に吊り上った口端を見れば、彼がただの色男ではなく血に飢えた肉食獣に類似するものであると瞬く間に看破できた。なんの変哲もないジャケットと、ダメージの入ったジーンズ。紙巻き煙草を咥え、両手をポケットに突っ込みながら、こちらに歩いてくる。
「うわぁ、最悪。よりにもよって、なんでこいつが日本にいるのよ」
ナベリウスが柳眉を歪めて悪態をついた。無理もない。俺でも分かるんだ。あの紅い髪をした男の、圧倒的なやばさが。
美味そうに紫煙を吐き出しながら、男はゆっくりと歩み寄ってくる。愉悦に満ちた双眸が、紅い髪を透かして輝いている。
俺は漠然と、避けられない殺し合いを予感した。
・《ソロモンの小さな鍵》
ソロモン72柱の力を抑制するために産み落とされた五つの法典。書物の名を関してはいるが、その形状はさまざまである。例として、リゼット・ファーレンハイトが所有する《精霊の書》は本ではなく指輪のかたちをしている。
それぞれの書が異なった能力を持つ。四書一法という隠語で呼ばれることもある。
・《悪魔の書》
現在、日本のどこかにあるとされる書物。能力は不明だが、アルベルト曰く『純然たる破壊にのみ特化しており、悪意をもって使用すれば甚大な被害をもたらすこともできる』とのこと。
これを発見、および回収することが法王庁特務分室の目的。また《悪魔》の三大勢力の一角を率いるグシオンは、この書物を手に入れるために来日したと目されている。
・《精霊の書》
リズが所有する指輪のかたちをした書物。『悪魔の異能を無力化し、無効化する』という能力を持つ。四書一法のなかでも純粋な防御だけならトップクラス。
・《星の書》
所在、能力ともに不明。
・《天空の書》
所在、能力ともに不明。
・《天元の法》
所在、能力ともに不明。