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旧『ハウリング』 改定前  作者: ハイたん
参の章 【それは大切な約束だから】
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3-5 異色の晩餐


 すべての事情を説明するのに一時間近くも奔走した俺は、間違いなく今日だけで嘘と言い訳がうまくなったと思う。

 もっとも骨が折れたのは、やはりと言うべきか菖蒲のことについてだった。苦肉の策として俺が提唱したのが『じつは萩原家は高臥家の遠い親戚で、菖蒲は通学時間を短縮するために居候している』というものだった。幸いなことに萩原邸は大きく、言われてみれば名家としての風格もなくはない。実際、うっちーと委員長は半信半疑なふうだったが、これを信じると言ってくれた。女優としての資質か、菖蒲の演技と口裏あわせが抜群に上手かったのも功を奏した。

 ちなみにナベリウスは母さんの友人、美影は俺の従兄弟という設定になった。「わたしは夕貴の奴隷なのにー」とか「従兄弟。べつにどうでもいい」などと文句も出たが、それは黙殺させてもらった。

 みんながみんな、まだ完全に納得したわけじゃないだろう。それでも日が暮れ、真っ赤な夕焼けが空を染め始める頃には、萩原邸にもある程度の落ち着きが戻っていた。




 鮮烈な紅色が尾を引き、地平線の彼方に消えていく。ノスタルジックな夕焼け空は、その有りようを少しずつ群青の帳に変えていた。

 午後七時をまわる頃、リビング・ダイニングには俺、ナベリウス、菖蒲、美影の萩原家組。そして託哉、藤崎、うっちーのお客様組が顔を揃えていた。さすがに七人もいると手狭に感じるが、いままでが快適すぎただけなので、家の規模を鑑みればこれぐらいの人口密度が普通なのだろう。

 親睦会も兼ねて、みんなで夕飯を食べることになった俺たちは、それぞれ分担して支度を進めていた。


「嫌」

「そう言うなよ。たまにはいいじゃないか」

「しつこい。嫌って言った」

「せっかく藤崎とうっちーの説得がうまくいったんだ。頼むから今回だけは俺の顔を立ててくれよ」


 食事の支度そのものは滞りなく進行中である。しかし、美影は見知らぬ人間と食事をすることに抵抗感があるらしく、俺の説得も虚しく響くだけだった。長い黒髪を揺らし、三階にある自室に上がろうとする背中を必死に引き止める。


「なあ。そんなにみんなと飯を食うのが嫌なのか?」

「ぜったいに嫌」


 どうあっても美影の意志は変わらない。仕方ない。こうなったら最後の手段に出るか。本当は食べ物で釣るような真似はしたくないんだけど。


「そっかー。残念だなー。今日はしゃぶしゃぶなのになー」

「ポン酢さま……!?」


 気だるそうだった切れ長の目がきらきらとした輝きを放つ。


「夕貴、夕貴っ。それ本当っ?」

「あ、ああ。本当だぞ」


 とてつもなく嬉しそうに俺の服を引っ張ってくる美影に気圧されて、思わずたたらを踏んでしまった。いまは夏場だけど、ダイニングには冷房がかかっているので問題なく食えるだろう。ナベリウスは、美影の好物がポン酢であると知り、以前からしゃぶしゃぶをする機会を伺っていたのだ。それが偶然、今日だったというわけである。

 けっきょく、ポン酢という神の調味料(本人談)に釣られた美影は、こうして参加の意を示したのだった。それから全員が協力して食事の場を調えていった。


「……うん、こんなものね。みんな、もう座っちゃってもいいわよ。あとはわたしがご飯よそってあげるから」


 満足げな顔でうなずき、ナベリウスがよく通る声で告げる。

 ダイニングテーブルの上には所狭しと料理が並べられていた。ぐつぐつと煮立つ大鍋と、赤身と白身のバランスがほどよい薄めの肉。箸休めには、たくさんのきのこをバターや粉チーズとともに炒めてハーブで香りづけしたものや、さっぱりとした味わいのトマトとアボカドのサラダ、そして漬物が数種類。各自の手元には、ポン酢用とごまダレ用に、二つの小皿が用意されている。もちろん刻みネギや大根おろしといった薬味も忘れていない。


「みんなグラスは持ったね。それじゃあ乾杯しようじゃないか。僕たちの期末試験を祈って、そして菖蒲ちゃんと出会えた奇跡を祝って――乾杯!」


 うっちーがコーラの入ったグラスを掲げて声高らかに叫ぶ。さきほどまで狂ったように涙を流し、菖蒲を困惑させていた青年の姿はすでにない。普段から場を盛り上げることの多い彼は、緊張やら葛藤を押し殺し、こころよく乾杯の音頭を引き受けてくれたのだ。

 号令に合わせて、そこかしこでグラスをぶつけ合う小気味よい音が響き、談笑する声とともに笑顔が咲いた。乾杯して十秒も経たないうちに、盛り上がりは最高潮に達していた。


「はぁ、ほんと綺麗ですよね、ナベリウスさんって。プロポーションも信じられないぐらい整ってますし。あたしもこれぐらい美人に生まれたらよかったのになぁ」


 藤崎が恍惚とした顔でつぶやく。おなじ女として、ナベリウスの完成された美貌に憧れてしまうのかもしれない。でも藤崎は知らないのだ。悪魔の本性を。


「それほどでもないわよ。わたしなんて、大したことないし」


 お褒めに預かったナベリウスが、さらさらとした銀髪を耳にかけながら上品に微笑んだ。まさに天使と呼ぶに相応しい、洗練された美である。もちろん俺は騙されないが。


「うわぁ、謙遜するなんて大人だ。まるで欠点が見当たらないですね。これはさすがの萩原でも釣りあいが取れないでしょ」

「待て待て。さっきから思ってたんだけど、もしかしておまえ、俺とナベリウスが付き合ってるって勘違いしてねえか?」

「だって事実じゃん。大学を休んでたのも、ナベリウスさんと熱々の恋愛をしてたからじゃないの?」


 こいつ、体育のときの勘違いをまだ引っ張ってるのか。あのとき即座に訂正しなかったことが、ここまで尾を引くとは。さっきから”彼女”とか”付き合ってる”とか声に出るたびに、菖蒲がびくっと身を竦ませて、俺のほうを『し、信じてもいいのですよねっ?』みたいな弱々しい目で見てくるから凄まじく気まずい。

 ここは穏便に事を済ませるためにも、慎重に訂正しなければならない。が、いつだって場を引っ掻き回すのは銀髪悪魔だと萩原家では相場が決まっていた。なにを思ったか、ナベリウスは雪のように真っ白な頬をほんのりと紅潮させてわざとらしく俯いた。いつもどこかで見るような光景だった。


「彼女か……うん、そう呼ばれてたこともあったかな。でもいまは、ただ夕貴の欲望を受け止めるための肉人形でしかないから……」

「え」


 ぴたり、と藤崎の動きが止まった。


「に、に、にに、肉人形って……どういうことですか?」

「そのままの意味よ。わたしに自由なんてないの。ご主人さ……いえ、夕貴にいっぱいご奉仕するのが、わたしの仕事だから」

「萩原ー! あんた、そこに正座しなさい! 健全な恋愛してると信じてたのに、その結果がこれ!? 見損なったわ!」

「お、落ち着けよ。俺は悪くないんだ。おまえがナベリウスに騙されてるんだよ」

「男はみんなそう言うのよ!」


 両手を振って無実をアピールするが、藤崎の顔から怒りが薄れることはなかった。口元を手で抑えて、ぷくく、と笑っているナベリウスに、あとで説教してやろうと俺は心に決めた。結局、なにも悪くないはずの俺が謝り倒すことによって、藤崎に許してもらった。なんて理不尽だろう。もういい。こうなったら男らしくやけ食いしてやるのだ。


「はーあ。これからは玖凪だけじゃなくて萩原の動向も観察しないといけないのか。あんたさぁ、お母さんがいないからってハメ外しすぎじゃない?」

「俺は健全だって言ってんだろ! それに母さんは実家に遊びに行ってるだけだ。もうすぐ帰ってくるよ」

「……それそれ。前から疑問に思ってたのよ。この際だから言わせてもらうわ」


 藤崎は怪訝顔をした。


「まずひとつ確認しておきたいんだけど、萩原のお母さんっていつから家を空けてるんだっけ?」

「……今年の四月だけど。それがどうかしたのか?」

「つまり三ヶ月以上もいないってわけね」

「ああ。里帰りなんだから、こんなもんだろ?」

「なに寝惚けたこと言ってんのよ。はっきり言うわ。長すぎる」


 それは断言だった。


「いくらなんでも、三ヶ月以上も里帰りするなんておかしいんじゃない?」

「そうなのか? ……俺、昔から親戚とかいなかったから、そのへんの感覚がよく分からないんだけど」

「ま、なにか特別な事情があるならべつだけどさ。とにかくあたしはおかしいと思うよ。もう大学生になったはいえ、一人息子を置いて長いあいだ家を空けるなんてさ」

「でもたまに連絡くれたりするぞ?」

「じゃあ事故とか病気になってるわけじゃないのね。それならよかった。あたしも高校の行事のときに何度か萩原のお母さんと会ったけど、すっごく綺麗でいい人だったしね」


 んー、と何かを思い出すようにして藤崎は言った。一方、俺は顔が緩むのを抑え切れなかった。母さんが褒められると何でこんなに嬉しいんだろう。もういちどだけ他人の口から母さんのことを聞きたくて、俺はたずねた。


「……そ、そうか? 母さん、優しくて綺麗だったか?」

「さすが萩原のお母さんって感じだったよ。よく似てた」

「いやぁ、なんか照れちゃうなぁ。俺が母さんと似てるのは当たり前だし、母さんが優しくて綺麗なのはもっと当たり前だけど、やっぱりあらためて言われると照れるなぁ……」


 母さんと似てる。それは他人から言われてもっとも嬉しい言葉のひとつだ。胸がぽかぽかと温かくなる。ただ、それとはべつに、藤崎の言葉が俺の脳裏にずっと引っかかっていた。


 ――いくらなんでも、三ヶ月以上も里帰りするなんておかしいんじゃない?


 ずっと母さんと二人で生きてきたから、世間的な常識のことは知識でしか知らない。たしかに漠然と、帰ってくるの遅いなぁ、とは思っていたけど、母さんだから大丈夫だって盲目的に信じてた。いや、それはいまでも信じてる。母さんが俺を放って、いなくなったりするわけがないんだから。

 ……まあ、考えていても仕方ないか。とにかくいまは飯を食おう。

 グラスに注がれたコーラを半分ほど飲んでから、お預けを食らっていた空腹を満たそうと、小皿にポン酢を注いでいく。実を言うと、俺はごまダレがそんなに好きじゃない。

 ふと気付くと、となりに座っている美影がとても満足そうな顔でこちらを見ていた。どうやら俺がポン酢を選んだことを喜んでいるらしい。よくよく見れば俺だけではなく、美影は、ここにいる全員がポン酢とごまダレのどちらを選ぶか確認しているようだった。偶然か、ほとんどの者はポン酢派らしく、ごまダレには見向きもしない。どうやら惨劇は回避できそうである。

 美影の小皿には、当然のようにポン酢が注がれている。ちなみに刻みネギがたっぷりと盛られていたりするが、なぜか定番の大根おろしは入っていなかった。


「おまえ、大根おろしはいらないのか?」

「あれは邪道。真のポジョリストは、ネギちゃんとポン酢さまと肉くんだけで食べる」

「…………」


 突っ込むな。ここで突っ込んだら負けだぞ萩原夕貴。なんか美影が俺の反応を伺うかのようにこちらをちらちらと見ているが、あえて無視を決め込んでやるのだ。


「夕貴、夕貴」


 くいっくいっと服を引っ張られる。


「……なんだ?」

「ポン酢さまと将来を誓い合うまでの領域に到達した者を、人は畏敬を込めてポジョリストと呼ぶ」

「聞きたくなかったー!」

「夕貴がどうしてもって言うなら、私がポン酢さまのイロハを教えてあげてもいい」

「いらねえよ! ポン酢が美味いことぐらい知ってるわ! それに俺も母さんも、萩原家は昔からごまダレじゃなくてポン酢派だから安心しろ」

「……そう」


 どことなくつまらなさそうに呟き、ちびちびとオレンジジュースを飲む美影。どうやら自分の手で、俺にポン酢さま……いや、ポン酢の素晴らしさを説きたかったらしい。


「いやぁ、僕ってポン酢はだめなんだよね。やっぱりしゃぶしゃぶと言ったらごまダレだろう」


 俺と美影がポン酢について語り合っていると、対面の席から不穏な発言が飛び出した。菖蒲にコーラのお代わりを注いでもらって上機嫌のうっちーが、ほこほことした顔で”ごまダレ”の入った小瓶に手を伸ばす。彼の正面には、ちょうど美影が座っていた。いまだかつてない悪寒が総身を駆け抜ける。次の瞬間、上機嫌だったはずの美影から表情が抜け落ちた。


「……ごま、ダレ……?」


 小さな手から箸がこぼれ落ちる。それが床に落ちる前に、俺がギリギリで拾い上げていた。美影は俯いたままぷるぷると震えている。まるで極寒の吹雪にさらされているかのようだ。


「おい! しっかりしろ!」

「……ポン酢さまを、見捨てた……ポン酢さまを……裏切った……」


 なだらかな肩をつかんで揺さぶるが、まったく反応してくれない。美影は物憂げな表情で、ずっとうわごとのように呟いていた。目元の泣きぼくろが、色白の肌に映えて、より一層の憂いをもたらしている。


「うん? どうしたんだい? きみは……たしか、美影ちゃんだったよね」


 伊達めがねを押し上げて、うっちーが言う。


「うっちー。悪いことは言わない。今日だけはごまダレじゃなくて、ポン酢で食べたほうがいい。でないと、おまえの命が危ないかもしれない」


 ひとりの友人として、おなじ女優を応援する同志として、そして心からの善意で、俺は忠告した。しかし、うっちーは朗らかに笑うだけだった。


「ははは。萩原も大げさだね。たかが調味料の話じゃないか」

「止めろ! それ以上は言うな! おまえは命が惜しくないのか!?」

「おいおい、どうしたんだい萩原くん。冷静になってよく考えてみてくれよ。ポン酢だろうがごまダレだろうが大差ないだろう?」

「俺がなんとか美影を抑えるから、だれかうっちーの口を塞いでくれー!」

「……夕貴。もういい」


 美影の肩に乗っている俺の手に、細くて白い指が重ねられる。美影はいままで見たこともないような寂しげな目で、俺をじっと見つめていた。


「めがねくんも、気にせず食べて。もういいから」


 謎の名称を口にする美影。うっちーは苦笑した。


「えっと……めがねくんっていうのは僕のことかな、美影ちゃん?」

「うん。もういい、ごまダレで食べて。もういい」

「み、美影……?」

「もういい。ごまダレでいい。私だけがポン酢さまの素晴らしさを理解してるから。もういい。ポン酢さま、ポン酢さま、ポン酢さま……」

「美影が壊れたー!」


 小皿に注がれた黒い液体を見つめる美影からは、なにか不吉なオーラのようなものを感じた。不気味である。ぐつぐつと煮立つ鍋が、ほんの一瞬、黒魔術のための釜に見えたのは気のせいだろうか。

 しかし美影の乱心も長くは続かなかった。肉をしゃぶしゃぶして、ポン酢に浸し、それを口に含んだ瞬間、世にも幸せそうな顔になったからである。

 

「……おまえ、本当にポン酢が好きなんだな」


 思わず破顔した。美影の唇は、いや、口はその体格を裏切らない小ささだ。ハムスターのように頬を膨らませて食べる姿は、なんとも愛らしい。父性本能みたいなものが湧き上がってきた俺は、思わず美影の頭に手を伸ばすが、指が触れる寸前で「んー」と不機嫌そうに払われてしまった。


「触るな。ヘンタイ」


 などとお決まりの罵倒も追加された。


「いや、それは言いすぎだろ。不用意に触ろうとしたことは謝るけど、俺のどこがヘンタイに見えるってんだ」

「全部」

「……え、マジで?」

「もっちー竹原」


 瞬間、ダイニングの空気が凍った。楽しそうに談笑していた全員が、箸を止め、美影を見つめる。当の本人は、なぜ自分が注目されているか分からず、きょろきょろと周囲を見渡していた。しばらくして現状を理解した美影は、


「あ、もっちー竹原とは、”もちろん”という使い古された言葉にコメディ風味を加味したもので、これからの時代を担うに相応しいセンシティブな……」

「つまんねぇな。そんなもんが流行るかよ。変わってねぇのは発育皆無なナリだけじゃないんだな」


 バカにするように託哉が言う。美影の頬がかすかに膨らんだ。


「……相変わらずうざい。死ねばいいのに」

「そうツンケンすんなよ。胸が絶望的なんだから、せめて器ぐらいはでかくいこうぜ」

「黙れ。全身生殖器」


 よく分からないが、とてつもなく剣呑な雰囲気である。もしやこの二人、知り合いなんだろうか。気心が知れてるとは言いがたいけど、微妙に顔見知りっぽい空気を醸し出しているのだが。


「とにかく、もうつまんねえこと言うのは止めとけ。せっかく上等な容姿に生まれたんだ。口を開いて損するのはもったいないぜ」

「……もっちー竹原はつまらなくない。きっと流行る」

「どうだか。みんなの意見を聞いてみろよ」


 託哉は肩をすくめて、一同をぐるっと見渡した。


「う、うーん。僕には美影ちゃんのセンスは斬新すぎてちょっと理解できないかなー」

「わたしはノーコメントで」

「ナベリウス様、ずるいです! ちゃんとコメントしてあげてください! 人はそうやって成長するものだと、お父様も言っていました!」


 うっちーが、ナベリウスが、菖蒲が、とりあえず否定する。それを見た美影は、唇を尖らせたまま、なにかに耐えるようにじっと俯いていた。オリジナルの流行語を否定されるのは、自分の子供をバカにされるような気分なのかもしれない。


「へぇ、可愛いじゃん。これからはあたしも使わせてもらおっかな」


 そのとき、ずーんと重くなった場に明るい声が響いた。気まずい雰囲気のなか、藤崎だけが興味ありげな顔で身を乗り出している。


「美影ちゃん、だったよね。他にもなんかないの? よかったら教えてほしいんだけど」

「……!」


 こくこく、と凄まじい勢いで美影の首が縦に動く。よほど嬉しいのか、ほっぺたに赤みが差して本来の年齢よりも幼く見えた。俺は萩原家の長男として、美影の居候を認めた者として、藤崎に聞いておかねばなるまいと思った。


「確認させてくれ。おまえは、本当に、心の底から……”もっちー竹原”を可愛いと思ったのか?」

「そうよ。なにか文句でもある?」

「ち、ちなみにどのへんが?」

「語感とか可愛いじゃない。それに”竹原”ってチョイス、絶妙だと思わない? きっと山田とか佐藤だと、これほど人の心の琴線には触れないわよ」

「そもそも琴線に触れてるのは藤崎だけのような気が……」


 言わぬが花、という言葉を思い出した俺は、あえて口をつぐんだ。もういい。そっとしておこう。ここから先は、俺たちが入っちゃいけない領域だ。

 すでに美影は藤崎に懐いてしまったようで、二人は楽しそうに会話している。あの他人に気を許すことが少ない美影が、まさか菖蒲以外に懐くとは。聞くところによると藤崎には弟がいるらしいし、長女なだけあって年下から好かれやすいのかもしれない。

 一緒に食事することは、お互いの心の距離を近づける効果があるらしい。かつて何かの本だったか番組だったかで聞いたその説を、俺はいま強く実感していた。当初、あれだけ混沌としていたのが嘘のように、萩原邸のダイニングには心地いい空気が流れている。


「でもさぁ、ほんとびっくりしたよね」


 それなりに打ち解け、皿に乗っているしゃぶしゃぶ用の肉がほぼなくなった頃、藤崎がぽつりと言った。


「まさか萩原が、あの高臥菖蒲と一緒に暮らしてるなんてさ。あんた高校の頃から、ずっと高臥菖蒲のこと好きだって言ってたよね?」


 みんなの視線が、俺と菖蒲に集まる。いずれ焦点の当たる話題だとは思っていたが、とうとう来たかという気分だった。やっぱり遠い親戚という設定は、ちょっと無理があったのかもしれない。ここはうまく誤魔化さないと。すべての真実を告げるには、さすがに話が長くなりすぎるし、ともすれば彼女たちを巻き込まないとも限らないから。


「……あの、響子様。先にも申しましたとおり、萩原家は、我ら【高臥】の遠い親戚筋に当たります。なんでしたら親族の者に連絡して裏を取っていただいても構いません」


 弱々しい表情で菖蒲が言う。大きくふくらんだ胸元に手を当てて、儚げに目を伏せながら。ほんのりと赤らんだ頬が、衣服からのぞく白い肌が、やけに艶かしく映る。


「いや、ごめんごめん。べつに疑ってるわけじゃないんだけどね。ただ驚いただけっていうか……」


 藤崎は罰が悪そうに苦笑したあと、あごに手を当てて、ぶれることなく菖蒲を見つめた。


「な、なんでしょう? わたしの顔になにか……?」

「いや、べつに不満とか文句はないんだけどね。むしろその逆っていうか、菖蒲ちゃんを見てるとおなじ女として自信がなくなるっていうか」

「……?」

「だーかーら、菖蒲ちゃんは美人だって言ってんの。ちょっとはあたしにも分けてもらいたいもんよ、特にその胸とか。大人しい清楚な顔立ちしてんのに、こんな凶悪なおっぱい持ってたら、そりゃ男が騒ぐのも無理ないよね」


 頭の後ろで手を組み、あははと観念したように笑う。藤崎は、俺の次ぐらいに男らしいさっぱりとした性格をしているのだ。


「うぅ……響子様、その、あまりこういう場で胸のことを言うのは……」

「あ、そうだね。配慮が足りてなかったよ。ここには男子が三人いるのに」


 藤崎の発言のせいか、託哉もうっちーも食い入るように菖蒲の胸元を見つめている。年相応のあどけなさを残した顔立ちに似つかわしくない豊満な乳房は、ほとんど強制的に男の目を惹きつけてしまう。

 菖蒲は、両腕でやんわりと胸元のあたりを隠していた。照れているのか、頬が妙に赤い。そんな仕草でさえも周囲の者の目を奪って止まなかった。


「くっはー! や、やばいぞ萩原! 頼むからちょっと僕の胸に手を当ててみてくれ。人間の心臓がこれほど早く脈打てることにびっくりするぜ……」


 うっちーは深呼吸を繰り返しながら、やたらと興奮した様子だった。気持ちはよく分かる。初めて菖蒲がこの家を訪ねてきたときは、俺もまったく同じ症状に陥ったから。まともに喋れるようになるまで時間がかかるんだよな。


「そこまで言うなら、菖蒲ちゃんとメールアドレスでも交換してもらえよ」

「な、ななな、なにを大それたことを言っているのだね!? この僕に神様を殺すなんて恐れ多い真似ができるわけないだろう!」


 託哉の提案に、うっちーが慌てて立ち上がって反応する。どうやらうっちーにとって菖蒲にメールアドレスを聞くことは、神殺しと同列に並ぶほど恐れ多いことらしい。


「すでに僕の人生には一度、奇跡が起こっているんだぞ!? 本物の菖蒲ちゃんと会えただけでなく、こうして一緒にご飯を食べて、挙句の果てに言葉さえも交わしたというのに、この上さらに連絡先を交換するなんて……くっ、しまった! 改めて数えてみたら、奇跡は一度じゃなくて三度も起こっているじゃないか! 僕のバカ!」


 ひとりで楽しそうに悶えるうっちー。勝手に神格化されている菖蒲は、とにかく困っていた。嬉しさと気恥ずかしさが入り混じって、素直に喜べないようだ。うっちーの熱意に、俺と菖蒲は目を合わせて苦笑した。


「萩原? なに菖蒲ちゃんと見つめあってんのよ」


 不思議そうに藤崎が指摘してくる。


「あ、いや、べつになんでもない」


 俺は短く言って、ふたたびうっちーに視線を向けた。藤崎はじっと考え込んでから「ま、いっか」と呟いた。

 まわりの後押しもあって、菖蒲とうっちーはメールアドレスを交換することになった。いや、彼女らだけではなく、携帯を持っている者はみんな互いの連絡先を交換した。仲良きことは、それだけで尊いことだと思う。母さんも「友達は大事にするのよ」って言ってたし。まあ美影だけは頑なに男性陣と触れ合おうとせず、藤崎とだけアドレスを交換したのだが。

 できることなら、こんな幸せな時間がいつまでも続けばいいなと。そんなガキの夢みたいなことを俺は真摯に思うのだ。

 


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