3-2 その娘、委員長につき
うだるような暑さに見舞われた峰ヶ崎大学は、四月の頃と比べるといくらか活気が薄れているように見えた。道行く学生たちはひたいの汗をぬぐいながら、足早に冷房のかかった教室へと急ぐ。鳴り響く蝉の合唱が、本格的な夏の到来を告げていた。
体育館の壁にかかっている大きな時計が、あと十五分ほどで一限目の講義が始まることを示している。バスケットコート二面分のだだっ広い空間には、すでにバレーボール用のネットが二つ立てられ、暇を持て余した女子たちが黄色い歓声を上げながらボールで遊んでいた。
俺が大学において専攻しているのは経済学だが、卒業に必要な取得単位数のなかには『体育』がもれなく含まれている。ちょうど今日は、一限目からバレーボールの講義があった。
「ねぇ萩原。あんた、ここ最近学校休んでるみたいだけど、なんかあったの?」
体育館シューズの靴紐を結びながら、藤崎響子は言った。活発さを伺わせる勝気な目と、癖のないショートカットの黒髪。身長はやや高めで、手足もすらりと長い。その恵まれた体格と優れた運動神経を見込まれて、高校時代は女子バスケ部のキャプテンを務めていた。
「あぁ、まあ色々あったな。悪魔が添い寝してきたり、予知っ娘が押しかけてきたり、自称ニーデレとか名乗る女の子と共闘したり」
「……頭、大丈夫? とりあえず保健室でも行ってきたほうがいいんじゃない? それとも、嘘をついてまで隠したい事実があるってことかしらね」
自分で口にしても荒唐無稽としか思えない出来事の羅列だ。あえて嘘偽りを交えず赤裸々に語ってみたが、案の定、藤崎は冗談だと解釈したようだった。俺のとなりでじっと考え事をしていた彼女は、やがて「ははーん」と意地の悪い笑みを浮かべた。
「なるほど、そういうことだったのね。悪いけど萩原、あんたの秘密はたったいま秘密じゃなくなったから」
「は? 秘密?」
「もうっ、とぼけちゃってっ、この色男! どうせあれでしょ、可愛い彼女ができたとかそういうオチでしょ? 思わず大学をサボっちゃうぐらい、熱々の恋愛をしてると」
このこのー、と意味ありげに肘でつついてくる。ほどなくして藤崎は、打って変わって朗らかに目元を和らげた。
「ま、萩原のことだから健全な恋愛してると信じてるけどさ。ちゃんと相手の子の門限とかも気遣ってあげないとだめだかんね? なんかあったら相談乗ったげるから、いつでも言いなよ」
とてつもなく気持ちいいことを言われてしまった。実際のところ、俺を茶化したのは友人に恋人ができたことに対する様式美のようなもので、本音では純粋に祝福してくれていたのだろう。この居心地のいい距離感は、高校のときから変わっていない。
彼女と一緒にいると、いい意味で気を遣わなくて楽だ。竹を割ったようにすっきりとした性格には、しかし絶妙な塩梅で年頃の女性らしい淑やかさも散見される。男子からも女子からも好かれるのは、そうした気質が所以だろう。俺たちが高校三年の頃、クラスの委員長としてまわりを引っ張っていたのは伊達じゃない。
「そういやさ。玖凪のバカはなにしてんの? あいつも最近休みがちだよね」
「俺が聞きたいぐらいだよ。何度か連絡してるんだけど、一向に返事が来ないし」
「……はぁ、そっか。どこほっつき歩いてんのかしらね、あいつ。また余計な面倒起こさなきゃいいけど」
不機嫌そうにぼやく顔は、俺の気のせいでなければどことなく寂しそうに見えた。そんな藤崎の不安を和らげるように、あるいは心労を募らせるように、くだんの男が体育館に姿を見せた。
明るめに脱色した髪が、窓から差し込む光芒に輝いている。引き締まった端正な顔立ちは、だらしなく緩んだ口元のせいで本来は抱くはずの好印象を台無しにしていた。左耳に空いたピアスがその最たる例だろう。身長も高く、体育館にいる学生のなかでも目立っていた。
玖凪託哉。それが俺の親友であり、藤崎響子の同級生でもある男の名だった。
「よぉ夕貴ー。実はこないだ、街でOLのお姉さん二人をナンパしちゃってさー。初めは手応えなかったんだけど、夕貴の写メ見せたら途端に連絡先教えてくれちゃったりなんかして……」
さっそうと現れた託哉は、しかし藤崎の姿を認めると笑顔のまま見事に石化した。そして、くるりと背を向ける。
「あー、なんかオレもうすぐ急用できるっぽいから帰るわ。んじゃ、そういうことで……」
「待てこの女の敵。あたしに挨拶もしないなんて、ちょっと冷たくない玖凪くん?」
不自然なまでに優しい声とともに藤崎は手を伸ばし、逃亡を図った託哉の首根っこをつかんだ。実にいつもの光景である。託哉は肩を落とし、これみよがしに渋面を作った。
「ちっ、口うるさい委員長に捕まっちまった。夕貴ちゃん。OLのお姉さんのうち一人は食べてもいいから、オレを助けてくれよ」
「……藤崎。こいつの性格を存分に矯正してやってくれ。なんなら俺も手伝うから」
久々に会ったというのに、いきなり友人をちゃん付けときた。なんて失礼な態度だろうか。心配して損した。もう俺は託哉のことなんて知らないのだ。
「よろしい。あたしに任せなさい。玖凪を真人間にしてあげるから」
「おいおい。せっかくの楽しいキャンパスライフなのに勘弁してくれよー」
唇を尖らせて文句を言う託哉のことなどお構いなしに、藤崎は話を進める。
「そんで、あんたはなんで学校休んでたのよ? 面白くないこと言ったら許さないからね」
「べつに何でもいいじゃん? どうしてもオレが大学を休んでた理由が欲しいってんなら、巨乳の美女と一夏のアバンチュールを楽しんでたってことで納得してくれ」
「バカ。調子のいいことばっか言ってるとしまいに怒るよ?」
「へー、もしかして嫉妬してんの委員長? 自分には男がいないからって、幸せを掴もうとしている人間の足を引っ張るのは止めてもらいたいんだけどなー」
「うっさい! あんたにだけは、あたしの恋路についてとやかく言われたくないね! あとその委員長っての止めな! あたしが委員長だったのは、三年の前期だけ! 後期は武山だったでしょ! 大体あんた、いまから体育なんだから早く着替えてきなさいよ」
この体育館に集まっている学生は、俺や藤崎も含めてみんな運動に適した服を着ている。でも託哉は、なぜか普段着のままだった。女子バスケ部の主将を務めていた藤崎からすれば、それは見過ごせないことなのだろう。
「いや。オレはこのまま講義を受ける。着替えるの面倒だし」
素っ気無く言って視線を逸らす。藤崎が、やれやれ、と肩をすくめてため息を漏らした。
「ようやく大学に来たかと思えばすぐこれなんだから。朝から無駄なカロリー使わせないでよ。もう子供じゃないんだから、ワガママ言ってないで早く着替えてこいバカ凪」
「考えてみろよ。オレの露出が増えれば、女の子たちが運動どころじゃなくなるだろ?」
「寝言ほざいてないでとっとと着替えろー!」
とうとう堪忍袋の緒が切れたのか、藤崎は託哉の服に手をかけると無理やり脱がそうとした。いまさらこの両者の間に恥じらいなんて上品なものがあるはずもない。が、その瞬間、託哉の顔に浮かんでいた人懐っこい笑みが消えた。息を呑む気配。普段の軽薄な振る舞いからは想像もできないほど素早い動きで、託哉は、面倒見のいい委員長の細い腕をつかんだ。でも、それは少しだけ遅かった。
「……え?」
驚きが、か細い吐息となってこぼれる。生き生きとしていた藤崎の表情が、あっという間に曇っていく。まるで青天の霹靂だと思った。いまにも雨が降りそうなほどに、彼女の瞳は不安げに揺れていたから。
「あんた、それ……」
まくれあがったカットソー。託哉の上半身。幾重にも巻かれた白い包帯。ちょっと道端で転んだ、という度合いではありえない、物々しい治療の痕跡がそこにはあった。ここ最近、託哉とはまったく連絡が繋がらなかった原因がこれなのだろうか。
「そろそろ離せよ。さすがのオレも、公衆の面前でストリップする気はねえって」
「で、でも、それって……大丈夫なの、あんた?」
弱々しい声。いつも人の目を見て話をする彼女が、いまはひっきりなしに視線を泳がせている。託哉が衣服の下に隠していたのは受療の名残。他人のデリケートな領域に踏み入ってしまったのだ。藤崎にしてみれば申し訳なさでいっぱいだろう。
「大丈夫じゃなかったら学校に来るわけねえだろ。それに、こりゃあれだ。車に轢かれそうな美人のお嬢さんを身を挺して庇ったときにできた傷だったりするんだよ」
「……その、ごめん。あたし、あんたが酔狂で学校サボってるって勘違いしてた。配慮が足りてなかったよ」
藤崎は頭を下げて訥々と謝った。不和により生じた沈黙が、重苦しい空気に拍車をかけている。そこかしこから聞こえる賑やかな喧騒が、俺たちの間に流れる静寂をより顕著なものとしていた。
藤崎響子という女の子は、いつも眩しいぐらい正しい。責任感が強く、自然とみんなから慕われるような人柄。高校の頃、素行に問題のあった託哉を厳しく、そして優しく叱りつけて彼女なりの道を示そうとした。俺も何度か、困ったときは相談に乗ってもらったりした。クラスメイトとはいえ、他人のためにここまで親身になれるのは珍しい。
でも、だからこそ自分が間違ったときは強く反省する。それも今回のケースは、託哉の事情を知らずに藤崎が勝手に非難した形だ。沈痛な面持ちになるのも頷ける。
「はっ。なに女みたいなツラしてんだよ委員長」
可笑しくてたまらないと、託哉は吹き出した。この状況で笑うのは、いささか緊張感が足りていないかもしれない。だが付き合いの長い俺には分かる。こいつの口からこぼれた笑いには、嘲りの意などこれっぽっちもないと。こいつは意味もなく嘲笑などしないと。少なくとも、可愛い女の子のまえでは。
「いいか、響子ちゃん。さっきも言ったように、これは悪党に命を狙われる大人っぽい美女を助けたときに負った傷なんだ。いわゆる名誉の負傷ってやつ?」
「……さっきと言ってること変わってるじゃない」
「まあ細かいこと気にすんなよ。女が悩んでいいのは、惚れた男が浮気してるかどうかって案件だけだぜ?」
おどけるように託哉が破顔する。その人懐っこさに毒気を抜かれたのか、藤崎は短く切りそろえた黒髪を気だるげに掻き上げながら相好を崩した。
「……はは。あんたと話してると、落ち込んでた自分が滑稽に思えてくるから困るね」
「それでいいんじゃねえ? 響子ちゃんは、落ち込んでる顔よりも笑顔のほうが可愛いと思うけどなー」
「バーカ。あたしを口説こうなんて百年早いよ」
「ちっ、バレたか。この機会に響子ちゃんを一人前の女にしてやろうかと思ったのによー」
「だから馴れ馴れしく下の名前で呼ぶな! バカ凪のくせに!」
そうこうしているうちに、また中身のない、けれど決して無駄でもない喧嘩が始まった。実のところ俺は、この二人の関係が好きだったりする。遠慮のない男女間の友情って、見ていて気持ちいいよな。まあ本人たちは「友情じゃない!」と否定するだろうけど。
やがて講義開始を告げるチャイムとともに、名簿をわきに抱えた体育教師がやってきた。集合の合図がかかる。
「なあ託哉。おまえ、その怪我どうしたんだ?」
「んー?」
散らばっていた学生が一箇所に集まる最中、退屈そうにあくびをする託哉に声をかけた。
「藤崎にはああ言ってたけど、さっきの包帯の巻き方を見るに、ちょっと転んだとかじゃないよな?」
「まあな。これは建物の屋上から落ちた美少女を颯爽と抱きとめたときの傷だ。羨ましいだろ?」
「ふざけるなよ。ここ最近、ずっと連絡が取れなかったし……」
「オレのことがそんなに心配か、夕貴ちゃん?」
「……あのなぁ。俺は真面目な話をしてるつもりなんだぞ」
「安心しろよ。核ミサイルか隕石でも降ってこないかぎり、おまえらのことはオレたちが護ってやるから」
おまえらのことは、オレたちが護る。これだけ聞けば格好のいい台詞だが、しかし俺は騙されない。託哉が手を尽くすのは、きれいな女の子が関わっている案件だけ。事実、菖蒲が誘拐されたときも今までにないぐらい協力的だった。つまり。
「おまえらって……どうせナベリウスと菖蒲だけが目当てなんだろ?」
「惜しい! 大本命は小百合さんだったりして。あの人、マジで美人だよなー」
「んだとコラぁ!? てめえ俺の母さんに指一本でも触れてみろ! そんときは冗談じゃなくマジでぶっ殺すぞ!」
わりと本気で怒鳴ったのだが、ぬらりくらりとかわされてしまう。相変わらずキャラが掴みにくい野郎である。結局、怪我の理由も聞きそびれてしまった。
こいつは女好きで、何を考えているか分からなくて、俺の母さんの入浴シーンを覗こうとしたこともあるぐらいアホなやつだけど、それでも大切な親友なのだ。もし困っていることがあったら、俺は相談に乗る。解決まで導いてやる。たとえ託哉にどんな事情があったとしても、俺たちが親友であることに変わりはないのだ。
「……なるほど。やっぱりか」
あごに手を添えて託哉がつぶやく。その目に宿るは怜悧な光。視線の先には、抜群の運動神経で華麗に活躍する藤崎の姿。体育館中にいる男子が、いや女子ですら、きらきらとした汗を流しながら動く藤崎に見蕩れていた。
「どうしたんだ? そんなにマジな顔して」
「夕貴。あれを見てみろ」
有無を言わせぬ迫力に負けて、俺は託哉の指示に従った。藤崎が跳ね回るたびに、白い半袖のシャツがまくれあがり、ちらちらと滑らかな腹部が見える。
「バっカ。ちがうちがう。それじゃねえ。あれだよ、あれ」
「だからどれだよ。藤崎のことじゃないのか?」
「もちろん響子ちゃんのことさ。んでもって、オレが注目してんのは――」
そこでようやく気付く。いまは夏場。気温はかるく三十℃を越えている。つまり運動をすれば相応の汗を流す。藤崎のすらりとした身体にシャツがぴっちりと張り付き、薄い水色のブラジャーが透けている。どうりで体育教師までニヤけてるわけだ。
「オレの下着予報によると、今日の委員長は水色系統のブラとショーツをつけるはずだったのさ。どうよ? この絶対の的中率。まあ近いうちに、響子ちゃんはオレの指示する下着しか身に着けられなくなるぐらいオレに夢中になるから、そんときはもっと――」
そのとき。凄まじいスピードで飛来してきたバレーボールが、得意げに俺のほうを向いていた託哉の横っ面にクリーンヒットした。託哉は無言のまま床に沈んでいく。
「――丸聞こえだっつーの! 死んでもあんたにだけは夢中にならないわよ! そこで講義が終わるまで反省してろ、バカ凪!」
なんとも見事なスパイクだった。ただし得点は、藤崎の相手チームに入った。