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旧『ハウリング』 改定前  作者: ハイたん
弐の章 【御影之石】
46/74

2-16 才気煥発

 

 壱識千鳥は苛立っていた。


 ここ最近、《青天宮せいてんぐう》という組織の内部では大小さまざまな揉めごとが相次いでいる。それは事実として知っていたが、まさかここまで手際が悪いとは思わなかった。向こうとしても、思いのほか被害が甚大なことにひどく慌てている様子だが、それは自業自得というものだろう。


「さきほども説明したでしょう。いまさら責任の所在を明らかにするつもりはないわ。そちらの警戒網に穴があったのだとしても、それは私たちの関するところじゃない」


 抑揚のない声で、千鳥は淡々と事実を羅列する。ただでさえ萎縮していた電話相手の男性職員が、声を詰まらせた。


「元はと言えば、あなたたちの職務怠慢が原因でしょう。あるいは故意に情報を隠蔽していたのかしら。……ええ、たしかにあなた方が足りない手を私たちに求めるのは自然よ。でもそれがあの《ソロモン72柱》なら話は変わってくる。そちらの基準で言えば、前もって作戦本部を組織し、一個中隊に相当する人員を導入して事に当たるべき相手でしょう。それともまさか、あなた方は忘れてしまったのかしら。二十年前に何が起こったのかを」

『い、いや……ですが』


 相手の声を遮って、千鳥は続ける。


「萩原駿貴との契約により、彼に連なる者への攻撃は禁止されているけれど、今回はその例に当てはまらないでしょう。あまり国家の血税を無駄にしないほうがいいのではなくて?」


 《青天宮》は国家の霊的守護を担う、日本独自の退魔組織。現存している最古の資料によれば、その起源は鎌倉時代にまで遡るとされている。表向きは防衛省に属する形態をとっているが、内部部局、各自衛隊、その他の附属組織とは一切の連携を断っているため、実質的には独立していると言って構わない。


 もともとが陰陽師の集まりだったこともあり、初期の活動理念はあやしと呼ばれる存在の排除だった。しかし、近代化が進むにつれ妖の個体数が著しく減少し、年月の経過による組織形態の変遷もあるため、現代ではその活動は多岐に渡る。もちろん非現実的な現象や対象が観測された際は、手段の可否を問わず禍根を断ち切り、速やかに世の泰平を維持するだろう。


 だが、それは飽くまで《青天宮》の事情であり、外部の人間である千鳥にはまるで影響のない些事だった。そう、少なくとも《壱識》には影響しない、はずだった。


 誰かの作為があったわけではない。今回の事態は、偶然に偶然が重なっただけのこと。つまり、運が悪かったのだ。


 目的のためには手段を選ばない――そうして選ばれてしまったのが、千鳥の娘である美影だった。


「それで、”目標”の情報は掴めているのかしら」

『……こ、肯定。すでに観測班から報告を受けています。”目標”は、悪魔学における序列第七十一位に該当する《ダンタリオン》かと推測されます』

「ダンタリオン……耳に覚えのある名前ね」

『データベースに照合した結果、1881年にイングランドのカースル・クームで起きた集団失踪事件、1927年にアメリカのオンタリオ湖周辺で起きた猟奇殺人事件、その他にも多くの事件に”目標”が関与していると資料にあります。なかでも代表的なものが、1943年にバチカンで起きた惨劇です。法王庁ほうおうちょう異端審問会いたんしんもんかい特務分室とくむぶんしつの擁する精鋭部隊が――』

「皆殺しにされたのでしょう。一夜のうちに、抵抗すらさせてもらえず、ただ壊滅させられた。……正直なところ、裏に伝わる都市伝説だとばかり思っていたのだけれど、中央のデータベースに載っているのなら、信憑性のある話なのでしょうね」

『はい。このことから法王庁は、現存する《悪魔》のなかでも《ダンタリオン》を最重要殲滅対象として推奨しています』

「……そういうこと。でも話を聞けば聞くほど、あなた方の手際に異を唱えたくなってくるわね。そんなバケモノの入国を許しただけでなく、いまのいままで満足に捕捉すらできていなかったのだから」


 彼女の言葉はおおむね正論だが、一概にそうとも言いきれなかった。ダンタリオンの異能は他者の目を欺くことに特化している。《青天宮》が人間によって運営されている以上、索敵がうまくいかないのは仕方ないと言えるだろう。

 電話越しの喧騒が強くなったのは、そんなときだった。


「どうしたの?」

『……いや、すまないね、《壱識》の』


 返ってきたのは千鳥の知らない、若い女性の声だった。


『さっきまで電話口にいた男は、つい先月に研修を終えたばかりの新人なんだとさ。だからあんまり怒らないでやってくれ。ここからはわたしが代わりに指揮を執らせてもらう』


 ふう、と深呼吸にも似た吐息が聞こえた。おそらくタバコでも吸っているのだろう。

 千鳥は訝しみながらも誰何した。


「あなたは? 状況はどうなっているのかしら」

『さてね。わたしが何者かは横に置くとして、状況は芳しくないな。《青天宮》の練度も落ちたものだよ。低コストによってリスクを最小化することが現代軍事の基本とは言え、これだけ金と人員を惜しんでいては話にならん』

「…………」

『そう警戒するなよ。元はと言えば、おまえらが好き勝手に暴れた尻拭いをわたしたちがしてやってるんだぞ。感謝されこそすれ非難される覚えはない。先の質問に答えてやる。わたしは――』


 その女性の名を聞いた瞬間、千鳥はすべてを納得した。



****



 俺たちがホームセンターに忍び込んでから、不気味なほど静かな時間が続いていた。

 しっかりと掃除の行き届いた空間には、たくさんの商品が綺麗に陳列されている。大きな陳列棚がいくつも並んでいる光景は、どこか図書館にも似ている。

 このホームセンターは、小さな子供が隠れてしまえばまず見つけられないぐらい大きく、闇に目が慣れないと満足に歩き回ることすらできないほど薄暗かった。

 あれからダンタリオンの姿は見ていない。隠れた俺たちを探しているのだろうか。……でもあの狡猾で用心深い男にしては、動きがなさすぎる気がするけど――


「……それにしても寒いな。雨に濡れたままだから風邪引きそうだ」

「うん。でも私は温かいからいい」

「おまえ、それカイロじゃねえか。どこから持ってきたんだよ」

「さっき見つけたから持ってきた」

「……一個しかないのか?」

「うん」


 一人でぬくぬくと暖を取る美影が羨ましくてしょうがなかった。

 俺と美影は、清算レジカウンターのなかに身を潜めていた。わざわざ正々堂々と戦う必要はないので、なにか上手い戦法はないかと相談しているところだ。


「そういえば、夕貴のチカラってなに?」


 ふと思いついたように美影が言った。


「ああ、説明してなかったっけ」

「うん」


 美影としても俺の能力を把握し、作戦視野を広めておきたいのだろう。

 いまさら隠すことでもないので手短に説明しておくか……といっても俺自身、まだ完全には分かっていないのだが。


「俺の能力は、まあ端的に言うと『鉄分に作用する力』だよ。……たぶん」

「鉄分? ……たぶん?」

「いや、ごめん。”たぶん”ってのは置いといてくれ。自分でもまだよく分かってないんだ。まあ基本的には金属や血液を操ったりできる感じなのかな? ちなみに銃弾を逸らしたのもこの力だ」

「……ああ」


 美影が得心した面持ちで頷いた。


「もうすこし詳しく説明しておくと、銃弾の軌道を変えることはできても、銃弾をそのまま跳ね返すことはできない。ナイフとかカッターとか工具とか、手に持てる程度の大きさの物体ならサイコキネシスのように操ることもできるけど、自動車クラスの大きさや重さになると動かすことすらできない」

「そう」


 いままではホテルの屋上や駐車場で戦っていたので能力を使う機会に恵まれなかったが、ここは天下のホームセンターだ。金属製の、武器になりそうなものが大量に貯蔵されている。なにか探せば使えるものがあるかもしれない。

 その旨を美影に伝え、俺は歩き出した。すぐさま後ろに彼女が続く。

 俺たちは細心の注意を払いながら、薄暗い店内を進んだ。濡れた衣服から落ちる水滴が、微かな音を立てる。

 陳列棚には本当に色々なものがラインナップされている。木材や建材、工具、塗料、金物、電材、家庭雑貨、置物、インテリア、暖房用品、園芸用品、エトセトラ、エトセトラ……。


「目ぼしいものはあったか?」


 俺は赤色の塗料を噴射するラッカースプレーを手に持ったまま、美影に声をかけた。


「ううん」

「だよなぁ……」


 そう簡単に使えそうなものが見つかるはずもないか。

 どうする。

 俺はどうすればいいんだ。


「夕貴?」


 こんなガキの宝探しみたいなことをしていて、本当にダンタリオンに勝てるのか?


「夕貴、夕貴」


 くいくいっと服を引っ張られたが、それに構わず俺は自分の世界に没入していった。

 さきほど、その場の勢いみたいなもので俺と美影は、無策のままダンタリオンに挑んだが――これはどう考えても無謀だった。反省しよう。

 だが失敗を重ねることは無駄なんかじゃない。

 トライ・アンド・エラーを繰り返すことは、成功するパターンを見つける近道だ。

 さきほど、俺たちは『真正面からではダンタリオンに勝てない』という失敗のパターンを経験した。これを学習し念頭に置いた上で、もっと違う方法を考えないとだめだ。

 急がば回れという言葉もあるが、追い詰められたネズミに等しい俺たちに、そう何度もパターンを増やしていくことはできない。言ってしまえば拳銃みたいなもんだ。残された弾丸は、あと一発か二発。それがなくなれば殺されるだけ。

 彼我の戦力差は絶望的と言っていい――こちらは攻撃を当てるどころか、ダンタリオンの姿を捉えることさえできず、仮に攻撃が当たったとしてもそれは一切通用しない。

 これじゃワンサイドゲームどころの話じゃないな。


「どうすればいい……もっと考えろ……」


 根本的な問題は、有効的な攻撃手段がないこと。それは火力不足というよりも、《静止歯車》という異能のせいで上手く照準を絞ることができないのが痛い。あのチカラを使われると、俺たちはダンタリオンを知覚できなくなるから。

 ……じゃあいっそのこと、照準を絞る必要性を失くすのはどうだ?

 ひとつの的をピンポイントで狙撃するのではなく、散弾銃のようなものを使って的を含めた空間そのものを打ち抜いてしまえばいい。

 つまり点ではなく、面の攻撃。

 どんなにパンチをかわすのが得意なボクサーでも、リングごと吹き飛ばされたらどうしようもない――だから要は、そういう状況を作り出せばいいんだ。

 爆弾でもあれば話は早いし、簡単な作り方なら知ってるけど、さすがにそれは素人が知識だけで製作に乗り出すのは危険すぎる。

 ナベリウスの能力なら、点でも面でも自由自在に攻撃できる上に火力も文句なしなのだが――いつも姉か恋人のように俺を護ってくれた彼女は、ここにはいない。

 だからこそ、あの銀髪悪魔に「わたしがいないと何もできないのね」とか、そういういかにもお姉さんぶったセリフを言わせるわけにはいかないのだ。

 ダンタリオンという『的』を含めた面そのものを攻撃する。大体の方針は定まったが、肝心の方法だけがどうしても思い浮かばない。

 貫通力に優れたライフルと、範囲力に優れた散弾銃。この二つの特性を併せ持った方法を思いつき、実行に移し、成功させねばならない。

 美影の『糸』なら広範囲を攻撃することは可能だと思うが、それだと恐らく火力が足りない。あの『糸』では、ダンタリオンの肉を裂けても骨を絶つことは難しいだろう。

 いったい俺はどうすればいい――


「……ん?」


 ぼんやりと周囲に視線をめぐらせると、ふと気になるものがあった。

 てのひらサイズの小さな玉が、専用のケースに収納されて、綺麗に並んでいる。


「ピンポン玉か……」


 なんともなしに手にとって裏面を見てみると、材質はプラスチックではなくセルロイドと書かれていた。


「……セルロイド製。珍しいな。最近だとプラスチックのほうが主流のはずなんだけど」

「なにそれ?」

「硝酸セルロースってやつだよ。ニトロセルロースとか樟脳から合成できる。プラスチックよりも燃えやすい反面、しなやかさがあり、透明性や吸湿姓に優れてて……」

「……夕貴?」

「いや待て。セルロイドだと?」


 たしか以前、科学か物理か忘れたけど、なにかの本で読んだ記憶がある。しょせん子供騙しの実験程度にしか捉えてなかったが、いま思うとやりかた次第ではいけるかもしれない。

 これを使えば――あるいは。

 深い闇のなかに一筋の光明が差したような気がしたが、その先にあるものが何なのかはまだ見えない。


「……てい」

「痛っ」


 いきなりわき腹にパンチされてしまった。あまり痛くはなかったが、意味が分からない。


「なにすんだよ、美影」


 非難の目を向けると、彼女はいかにも拗ねてますといった風な顔をしていた。

 どうやら俺は、一人の世界に没入しすぎていたらしい。そういやさっきから何度も美影の呼びかけを無視しちゃってたっけ。


「……夕貴、嫌い」


 つまらなそうに唇を引き結び、美影はぷいっと顔を逸らしてしまった。ここは素直に謝ろう。


「わるい、ちょっと考え事を――」


 言いかけて、美影が手に持っているものが気になった。


「おまえ、それ……」

「……? 懐炉がどうかした?」


 俺たちの体は雨に濡れて、かなり体温が下がっている。だから美影は、宝物でも扱うみたいにカイロを握っている。

 カイロのなかには、大量の鉄粉が入っている。鉄は年月の経過とともに錆びるものだが、これは空気中の酸素と鉄の分子が反応し、酸化鉄になるからであって、れっきとした化学反応なのだ。

 そしてカイロは、この化学反応を利用した商品だ。袋のなかに入っている鉄粉は、空気に触れると急激な化学反応を起こす。この際、人肌にも負けぬほどの強い熱が発生する。

 だが俺が注目したのはカイロではなく、その中身――鉄粉である。


「そうか。これを使えば――」


 どうやっても完成させることのできなかったパズル、その最後のピースがいま、ぴったりと当てはまった気がした。


「夕貴?」


 不審げに尋ねてくる美影に、俺は言う。


「なあ美影。協力してくれ。上手くやればダンタリオンに一発ぶちかますことができるかもしれない」


 美影の顔つきが変わる。

 茫洋としていた瞳に、鋭い光が宿る。

 至極真面目に彼女は言った。


「マージョリー?」

「もっちー竹原だ」


 などと日本語をバカにし尽くしたような掛け合いをしてから、俺たちは本格的に行動を開始した。

 あのクソ野郎は、俺の大切な父さんと母さんを侮辱しやがった。

 口は災いの元なんだって――絶対に思い知らせてやる。



****



 静まり返った店内を、悠然と歩く影があった。


「……やれやれ、よくもまあ童心に返る余裕があるものだ。鬼ごっこの次はかくれんぼですか」


 嘆息交じりの呟きは、そこかしこに充満する闇に吸い込まれて消えた。

 萩原夕貴と壱識美影の行方を見失ったダンタリオンは、店内のどこかに潜んでいるであろう二人の登場を今か今かと待ち続けていた。

 ここにきて少年と少女が尻尾を巻いて逃げるとは、微塵も思っていない。

 むしろ、こうしているあいだにも彼らは、自分を倒すための算段を立てているのだとダンタリオンは考えている。

 自分のほうから彼らを探し出す、などと不粋で味気ない真似をするつもりはない。

 慎重であり、狡猾であり、そして用心深いダンタリオンだが、彼にはここぞというときに遊んでしまう悪癖があった。


「いや、悪い癖ですねえ」


 癖とは本来、無意識下で行われるもの。もし自覚していたとしても、染み付いたそれを拭い去るのは、なかなかどうして難しい。

 それにダンタリオンは、もとより少年を殺すつもりなどない。

 彼の真の目的は、バアルの血を手に入れて、絶大な戦力を持つ《マルバス》、《バルバトス》、《グシオン》という三柱の悪魔を出し抜くことだった。

 また、最大の懸念であったナベリウスは、おそらくここには来ない。

 あのとき――高層ビルが爆破されたとき、運はダンタリオンに味方した。爆弾が仕掛けられていたのは、ナベリウスが立っていた給水塔の真下だった。

 つまりダンタリオンからは最も遠く、ナベリウスに最も近いところで爆発は起こったのだ。

 ナベリウスの異能なら爆発を防ぐことも容易のはずだが、ダンタリオンに気を取られていた彼女が、あの咄嗟に防御できたとは思えない。

 間違いなく彼女は生きているだろう。だが間違いなく身動きはできない。そして間違いなく、いまのナベリウスに戦闘する力は残っていない。

 だから、ダンタリオンを脅かす外敵は、ここにはいない。


「さて。此度はどのようにして楽しませてくれるのか。待った甲斐があるといいのですがね」


 やがて彼は立ち止まる。その口元には確かな愉悦が浮かんでいた。


「もういいでしょう。姿を見せては如何です? ――ああ、そう警戒せずとも構いません。花とは散るからこそ美しい。その刹那的な時の歩みを止めるような真似などしませんよ」


 事実、彼には《静止歯車》を使うつもりはなかった。

 その理由は、簡単に言ってしまえば”強者の余裕”に尽きるが――美影の壊れた瞬間を見たいと望むダンタリオンとしては、ゼンマイの切れた人形を相手にしても面白くない。やはり花とは、手折る瞬間が最高なのだ。

 彼が《静止歯車》を殺傷目的に使うのは、気に入らない相手を掃除するときだけ。その証拠に、鳳鳴会の本拠地を護っていた暴力団構成員たちは、みんな自分が死んだと気付く間もなく、殺された。

 ダンタリオンの言葉がきっかけだったのかは分からない。

 ただ、店内にふたたび静寂が戻ったときにはもう、彼の背後に少女がひとり立っていた。

 後頭部の高い位置で結われた長い黒髪と、白い肌。見目麗しい容姿。黒のタートルネックとデニム。さきほどまで雨に打たれていたせいで全身は濡れており、いまもなお磨かれた床のうえに水滴が垂れ落ちている。


「おや? 彼はどうしたんです?」


 予想に反して、現れたのは美影だけだった。


「知らない。おまえの相手なんか私一人でじゅうぶん」

「ふうむ。君たちが何を企てているかは判然としませんが、貴女がそう仰るのなら信じましょう」


 まさか夕貴が逃げ出すはずもないので、これも一つの作戦なのは間違いなかったが、それを理解したうえでダンタリオンは大仰に頷いた。

 あの少年が、いまから何を見せてくれるのか――そう考えるだけで、ダンタリオンの心は躍った。


「最後の決戦と参りましょうか――お嬢さん」


 芝居がかった言動で、うやうやしく礼をするダンタリオンと、


「だまれ。ヘンタイ」


 取り付く島もなく一蹴する美影。

 正真正銘、最後の決戦が幕を開けた。





 深夜のホームセンターは、さながら台風の一過となんら変わらぬ様相を呈していた。

 《壱識》の少女と、《悪魔》の男――両者の戦闘は、下手をすればホームセンターそのものを破壊しかねない勢いだった。

 すでに壁、柱、天井、床などはひどく傷つき、陳列棚のほとんどが倒れ、綺麗に陳列されていたはずの商品はそこらにぶちまけられている。

 荒れ果てた店内を、壱識美影は一陣の風となって駆け抜ける。

 彼女の手から伸びる極細の『糸』が、そこらの棚や柱に絡みつく。暗闇を縫いつけるように奔る『糸』は、まるで獲物の自由を奪うための蜘蛛の巣だった。


「ほう……」


 ここにきてダンタリオンは、美影の技量に心から感服していた。他者を見下す傾向にある彼が、ただの人間、それも年若い少女に賛辞を送るなど前代未聞と言っていい。

 確かにダンタリオンは前から美影のことを求めていたが、それは飽くまで『おもちゃ』として見目麗しい容姿をした女を欲しただけ。もともと対等とは思っていない。偉大なる大悪魔にとって、人間の小娘など羽虫も同然なのだから。

 しかしダンタリオンはいま、美影のことを『おもちゃ』ではなく『一人の敵』として認めていた。だからこそ、楽しみも増す。


「くっくっく……」


 ダンタリオンが唇を歪めるのと同時、彼の足元に無数の『糸』が這ってきた。軽やかな足運びでそれをかわす。

 美影の操る『糸』は、壁や床に触れるたびに鋭い刃物で切りつけたような傷を生んだ。


「素晴らしい。実に見事だ。その若さで大したものですよ、お嬢さん。よほど殺しの素質に恵まれていると見える。あなたの両親は、さぞかし卓越した腕だったのでしょうねえ」

「両親は――」


 幼少の頃から心身に叩き込まれてきた《壱識》の操糸術。実の母に何度も殺されそうになりながらも体得したそれが、いま彼女を脅威から護っている。


「――関係ない!」


 手を振るう。腕を動かす。幾重にもばらけた『糸』が、銀の奔流となってダンタリオンを追い詰める。


「関係なくはないでしょう? 人間は無力な生き物です。誰かと寄り添いあわなければ生きていけない。かくいう貴女も、あの男の命を犠牲にして生き永らえたというのに」

「……っ!」


 これまで湖水のように静かだった美影の瞳に、確かな怒りが浮かび上がった。


「おや、気に障りましたか?」

「べつに普通」


 美影は平然と言ってのけたが、その表情はすこし硬い。本人にも内側から湧き上がる感情がなんなのか、よく分かっていないようだった。

 当然であろう。

 美影にしてみればアパートの隣人を引き合いに出されただけ。それで怒るほうがおかしいのだ――が、しかし実際に彼女は怒っている。

 認めるしかあるまい。美影はきっと冴木のことが好きだった。彼はいつも美影に「おかえり」だの「行ってらっしゃい」だの言ってくる変人だったが、それでもあの笑顔を見ていると不思議と心が落ち着いたから。

 少なくとも美影は、ダンタリオンにあの冴えない男をバカにさせるのは不愉快だと思った。あれをバカにしていいのは自分だけだ。


「どうしました、お嬢さん。もう終わりですか?」

「だまれ!」


 裂帛の声。

 美影は『糸』で牽制しながら間合いを詰め、神速の回し蹴りを放った。あっけなく避けられる。続いて振り返りざまに逆の足を跳ね上げる。これも届かず。


「ちっ――」


 舌を打っているあいだに悪魔の腕が薙ぎ払われた。美影は身を屈める。頭上を旋風が通過し、逃げ遅れた黒髪が数本、断ち切られた。


「いい反応だ」


 天から降ってくるダンタリオンの声。

 美影が反駁しようとするよりも早く、ダンタリオンの足が動いた。それは鋼鉄をも蹴りぬくような一撃。

 美影はたわめていた脚の筋肉を開放し、真後ろに向けて跳んだ。目標を見失った悪魔の蹴りは、すぐ近くにあった陳列棚に命中。重量のある棚が、発砲スチロールのように吹き飛んでいく。耳をつんざく轟音。多種多様な商品が宙にばら撒かれた。

 美影は空中で体勢を整えながらも、ダンタリオンに向けて『糸』を放った。それも結果的にかわされてしまったが、反撃の意志を示すことが重要だった。

 いまのところ戦況は、ギリギリ五分と言っていい。ただし、美影が持てる技のかぎりを尽くしているのに対し、ダンタリオンは手加減しているうえに異能を使っていない、という注釈がつくが。

 ゆえに、これは茶番。

 あらかじめ勝敗の決められた出来レース。

 どう足掻いても変えることのできない未来と運命。

 そう。

 美影には勝ち目がないはずだった。



 萩原夕貴という少年が、いなければ。



 息つく間もなく繰り広げられる攻防の最中、どこかから『何か』が大量に投げつけられてきた。

 それがダンタリオンの頭上に到達した瞬間、

「……夕貴、おそい」

 美影は憔悴した面持ちで『糸』を振るい、その『何か』をバラバラに切り刻んだ。

 ぱらぱらと、黒い粉が降り注ぐ。


「……これは」


 ダンタリオンは、自分の体に降りかかった黒い粉を怪訝そうに見つめていた。投げつけられてきた『何か』が市販のカイロであり、黒い粉の正体が『鉄粉』であるという事実を、彼は知る由もない。

 ダンタリオンが視線を前に向けたときにはもう、新たな異変が生じていた。

 濃淡な闇をかき消すような、白い霧。


「まさか、煙幕……?」


 またたく間に視界を埋め尽くした白煙。これが裏でこそこそと策を弄していた夕貴によるものだということを、ダンタリオンは即座に見抜いた。

 目ではなく感覚を頼りに周囲を探ると、すでに美影の気配は消えていた。あるのはただ空間に充満する白い煙だけ。


「くっくく、はははは――」


 右手で顔を覆い、ダンタリオンは乾いた笑いを漏らした。


「これが貴方の策だとでも言うのですか? 本当に? こんな子供騙しが?」


 煙幕で視界を奪い、相手の混乱に乗じて不意を衝く――なるほど、それは確かに単純だが有効的な戦法だろう。だが《バアル》の血を継ぐ者が、まさかそんな使い古された策に頼るとは。

 どこにいるかも分からぬ少年に向けて、黄金の大悪魔は声を張り上げる。


「まったく――とんだ期待外れですね。いや、あるいは期待した僕が愚かだったのか。どうやら貴方は《バアル》の名に泥を塗るだけの出来損ないらしい」


 これではナベリウスも報われない、とダンタリオンは彼女に同情の念を抱いた。


「少しは頭が回るかと思えば……やれやれ」


 まさか夕貴は失念しているのだろうか。ダンタリオン固有の異能である《静止歯車シームレス・ギア》を。

 これがあるかぎり彼らは、ダンタリオンに触れることすら叶わぬというのに。


「……つまらん。興醒めもいいところだ」


 どうやら少年は、《悪魔》よりも人間の血を強く受け継いでいるらしい。これは正直、大きな誤算だった。

 こうなったら萩原夕貴という人格を徹底的に壊してやり、自分に都合のいい人形として扱ったほうが早いかもしれない。

 もはや手心を加えるつもりはない。遊ぶ気などとうに失せた。一気に決着をつけてやろう。

 ダンタリオンの全身から迸る悪魔の波動――《静止歯車》と呼ばれる異能がいま、発動した。これで夕貴と美影に成す術はなくなった。彼らはもうダンタリオンを知覚することさえできない。

 ダンタリオンは大きく両手を広げて、この煙幕の向こうにいるであろう少年に、言った。


「さあ、幕を引きましょうか」



****



「ああ。もう終わらせてやるよ、ダンタリオン」


 煙幕の向こうから聞こえてきた声に、俺は小さな声で応えた。

 準備を整えるのに手間取ったが、なんとか間に合ったのでよしとしよう。美影のやつも俺の指示通りに動いてくれたみたいだし。

 ……とは言ったものの、美影のやつ、ダンタリオンの挑発に乗って真正面から戦いやがった。あれだけ《静止歯車》を警戒しろと忠告しておいたのに。

 この白い煙は、ピンポン玉から発生したものである。ピンポン玉はセルロイドという非常に燃えやすい合成樹脂で出来ている。これを細かく切り刻み、切れ目を入れたアルミホイルで包んで下からライターで炙ると、大量の煙が出るのだ。

 わざわざ煙幕を作ったのには、ふたつ理由がある。

 ひとつは、ダンタリオンの体に降りかけた『鉄粉』から注意を逸らすため。あんな黒いだけの粉と、この視界を奪う白煙だったら、後者に警戒するほうが自然。

 目を閉じて、神経を集中させる。

 体のなかを悪魔の波動が駆け巡っていく。鼓膜を震わせる、かすかな耳鳴り。俺だけが持つ《ハウリング》がいま、発動しようとしている。

 どうやらダンタリオンも《静止歯車》を発動させているようだが――いまの俺には、あのクソ野郎の位置が手に取るように分かる。


「もうおまえの力は通じねえよ」


 ダンタリオンの体に付着した大量の鉄粉が――否、鉄分・・が、俺のDマイクロ波に共鳴してダンタリオンがどこにいるのかを教えてくれる。

 話は戻るが、俺が煙幕を作ったもう一つの理由は、『武器』を隠すためだ。

 さっきまで美影が派手に大立ち回りを演じてくれたおかげで、綺麗に陳列されていた商品は床のうえにばら撒かれている。人間の手では持ち運ぶことのできない膨大な量の、工具や金具が。

 俺は右手を前に伸ばした。

 この、てのひらの先には――俺の大事な父さんと母さんを侮辱しやがった、ソロモンの大悪魔がいる。

 百か二百にも届こうかという量の、ナイフ、カッター、スパナ、ドライバー、包丁、ペンチなど、その他諸々の『武器』が宙に浮かび上がり、ダンタリオンという『的』を完全包囲した。

 俺の《ハウリング》が、金属製の物体を、ことごとく支配する。


「……っ」


 ずきん、と左胸が痛む。

 過剰な労働を強いられた心臓が、もう無理だと悲鳴を上げてる。

 俺は右手を前に伸ばしたまま、左手で心臓のあたりを強く押さえた。頼むから、もう少しだけ我慢してくれ。


「……はっ、子供騙しで悪かったな、ダンタリオン」


 白煙の向こうにいる男に、俺は言った。


「おまえは大切なことを三つ忘れてる。それが何だか分かるか?」


 脳髄を直接揺さぶる、強烈な耳鳴り。


「一つ目は、ここがホームセンターだということ」


 ホテルの屋上でも駐車場でもない、俺のチカラを最大限に生かせるフィールド。


「二つ目は、俺にも《ハウリング》が使えること」


 ひたいから流れてくる汗が、頬を伝い、顎から落ちて――床に触れた。

 それが、合図。

 俺の《ハウリング》によって宙に浮かんでいた様々な金属製の『武器』が、一斉に動き出した。まるで時計の中心にいるダンタリオンに対して数字が牙を剥くように、数多の刃が襲い掛かる。逃げ道はない。上も下も左も右も、振り向けば刃物しかないから。


「そして――」


 目が霞む。息切れも酷い。それでも絶対に許せないことがあった。


「三つ目は、俺の父さんと母さんに言った侮辱を取り消してないことだ。……やはり口は災いの元だったな、ダンタリオン」




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