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旧『ハウリング』 改定前  作者: ハイたん
弐の章 【御影之石】
43/74

2-13 乾坤一擲


 過去を振り返っても、憶えていることはいくつもなかった。

 物心がついたときにはもう、誰かを殺すことが当たり前になっていた。頼まれれば誰だって殺した。なぜなら『彼』はそれを生業とする、一匹の殺し屋だったからだ。

 呼吸をするように人を殺す『彼』を、恐れない人間などいなかった。一片の情も持たない殺人マシーン。冷酷非道の悪漢。希代の殺し屋。そうした通り名の数々が、『彼』の実力と評判を物語っていた。

 『彼』が持つ異名のなかで最も通りがよかったのは、《音無し》。

 これは『彼』に襲われた人間は断末魔を上げることもできない、つまりおとを発する前に殺されてしまう、という嘘か真か分からない風聞から囁かれるようになった異名だ。


 そんな悪名高き『彼』の人生は、一人の女と出会ったことで目まぐるしい変化を始める。

 美しい女だった。艶のある長い黒髪と、月明かりにも負けぬ白い肌。幾重にも賞賛の言葉を重ねようと足りないような、人を惹きつける不思議な魅力を持った女だった。そして、その美貌と同じぐらい女は強かった。

 二人が初めて出会ったのは、戦火の中。殺し屋であった『彼』と、同じく裏家業を生業とする女は、もともとは対立する敵として相見えた。だがそれは信念や志を伴わない、仕事上の話だ。依頼や状況が変われば、二人の関係は敵にも味方にもなる。

 そんな繰り返しの果てに、移ろう時の流れは二人の距離にも変化をもたらした。


 愛しかった。


 夜になるたびに肌を重ねて、ただただ寄り添いあった。《音無し》と忌まれた『彼』にも、心の奥底には確かな情が残っていた。

 あるとき『彼』は、女がいつも肌身離さず身に着けていた”石”を受け取ることになる。美しい光沢を放つそれは、聞けば女が幼少の頃から大切に扱っていた代物だという。


 その名を、御影石。磨けば磨くほど光る石。


 女から御影石の話を聞いたとき、まるで人の生涯のようだと『彼』は思った。『彼』の場合、すでに人生という石の磨き方を忘れ、汚すことしかできなくなっていたが、一般的な人間の人生とは普通、磨けば磨くほど光るものに違いなかった。

 いくら愛を育んだところで、当時の二人には指輪などというシャレたものは用意できなかったし、その必要もなかった。だから愛を誓った証として、真円の御影石を二つに割り、それぞれ片方ずつ持つことにした。二人は約束を交わす。すべてが終わったら、二つに割れた石をもういちど一つに合わせよう。


 だがその後、二人が共有した愛を嘲笑うかのように、戦況は悪化の一途を辿った。後に未曾有の大抗争として語り継がれる《大崩落》は、愛し合う二人の関係に小さな終焉をもたらした。

 それでも『彼』は以前と変わらず、誰かを殺し続けた。殺し屋が殺人を続けるのに理由はいらない。しいて言えば、そうやっていままで駆け抜けてきたからこそ、『彼』はただ殺し屋としての己を貫いた。

 カレンダーをめくる代わりに人を殺す。そんな日々が続き、女の顔も思い出せなくなっていた頃、『彼』のもとに一つの依頼が持ちかけられる。それは『とある有力な家系の跡取り』を始末してほしいという内容のものだった。

 仕事の期間や報酬、肝心の標的について。そうしたあれこれを吟味してから、『彼』は依頼を受諾した。


 その依頼は、『彼』を貶めんとする人間が巧妙に偽装したものだった。


 希代の殺し屋として謳われる『彼』と、裏社会に広く知られる《壱》の一族に、報復せんがために計画された陰謀。

 さすがの『彼』も、これには気付くことができなかった。無理もない。殺し屋として生きてきた自分に、まさか血を分けた娘がいるなどとは、夢にも思うまい。

 いつかの日、『彼』と御影石を分かち合った美しい女。刹那で、けれど濃密な時間をともに過ごし、深く肌を重ねたあの女が、ほんの僅かな、数少ない交わりのなかで『彼』の子を宿すとは、まさに神の誤算に違いなかった。

 自分たちの遺伝子を受け継いだ幼い娘の姿を、『彼』は写真を通して初めて見た。それに手垢がつき始めた頃には我慢ができなくなり、現地に潜入し、遠目に娘を観察する日々が続いた。

 娘を見るたびに胸のうちには温かな感情がわき上がり、氷のように冷たかった殺し屋の顔にぎこちない笑みが浮かんだ。娘が生まれ、一人の”親”となってしまった瞬間、一匹の”殺し屋”として生きてきた人生は『彼』のなかで否定された。

 何のことはない。あれほど冷酷で非道だった薄汚い男にも、性根のところには人間らしい感情が残っていた。これは、ただ、それだけの話。


 だが娘を護るのは、さすがの『彼』にも難しいことのように思えた。もとから『彼』に恨みを持つ者が仕掛けた罠だ。保険として『彼』以外にも多くの殺し屋を雇っているに決まってるし、他にも二重三重と罠を張っていることだろう。

 苦悩することはなかった。愛する我が娘の名を知った途端、悩むことが馬鹿らしくなった。二人にとって御影石は、互いを愛し、未来を誓い合ったことの証明。それとおなじ名前を娘に与えたということは、まだ女は『彼』のことを想っているという証拠に他ならない。

 多くの人間に恨まれる二人の娘は、生まれながらにして幾多の困難に苛まれていた。これまで標的の家族や恋人を人質に取ったこともある『彼』としては、娘が危険に晒される可能性を考慮せずにはいられなかった。


 だから、護ろうと思った。


 御影石とおなじ名前をした娘の人生は、きっと磨けば磨くほど光るに違いないのだ。なんの罪もない娘に、自分たちの咎を負わすのは間違っている。いままで平然と人を殺してきた自分のセリフでないことは分かっていたが、それでも『彼』はそのエゴを貫こうと思った。

 決意すると、あとの行動は早いものだった。まず『彼』は、自分に依頼を持ちかけた相手の素性を調べつくした。やはり『彼』以外にも複数の同業者が、『とある有力な家系の跡取りを殺す』という依頼を受けているらしい。まず間違いなくそいつらは、『彼』が失敗したときの保険だった。

 手始めに、自分以外の同業者を皆殺しにした。娘に危害を加える可能性のある人間は、誰であろうと殺した。ある程度の脅威を排除したあとは、娘を殺しに行くフリをした。


 そこで『彼』は数年ぶりに女と再会することになる。恋人でも夫婦でもなく、ただの敵として。


 『彼』の事情は把握していたのだろう、女はなにも聞かなかった。会話らしい会話さえなかった。

 娘を殺そうとする『彼』と、娘を護ろうとする女。それが表向きの構図だったが、実際のところは女とおなじぐらい『彼』も娘のことを護ろうとしていた。

 もしかするとこれは罰なのかもしれない、と『彼』は思った。いままで多くの人間を殺してきた自分は、こうして愛する女性と殺しあい、苦しみでもしなければ採算が取れないのではないかと。

 女と戦闘する最中、『彼』はあらかじめ用意していた仕掛けを使い、自らの死を偽装した。自分が死んだと匂わせる”証”を現場に残してきたので、不備はないはずだった。

 そうして『彼』の任務は、母親である女に返り討ちにされる、という結末になるわけだが、それは『彼』の人生が終わったと換言はできない。

 『彼』は世間的に死んでみせたあと、自分に娘を殺すよう仕向けた依頼主を抹殺した。それだけではない。思いつくかぎり、探し出せるかぎり、自分と女に恨みを持つ人間を見つけては例外なく殺した。

 そうしてある程度、娘の平和を確立することできた。

 だが油断してはいけない。まだまだ娘に仇なす輩はあとを絶たないのだから。ゆえに少しでも娘に危害を加える可能性のある者には、不幸な死を遂げてもらうことにした。それはただひたすらに自分という存在を殺し、影ながら娘を護り続けるという守護霊を連想させる生き方。

 そんな名も無き亡霊が、いまも愛する娘を護るためだけに活動している、という事実を知る者は、誰もいない。




 喉の奥から湿った笑いを漏らしながら、渡辺は夜道を歩いていた。


「くひひ……やった、これで……」


 さきほどまで鳳鳴会の事務所にいた彼は、壱識美影に関する情報のすべてを暴力団に提供した。渡辺は凡庸な男だったが、その執念と用心深さだけは大したものだった。

 これから渡辺はあのアパートに戻り、美影の動向を観察する。安物の指向性マイクがあるから、それを使えば美影が部屋にいるのかどうかぐらいは分かる。そうして隙をうかがい、美影を襲撃しようとする《鳳鳴会》とうまく連携を取る予定だった。

 なるべく人気のない道を選び、帰路を急ぐ。


「……美影ちゃん……あぁ」


 想像するとよだれが止まらなかった。

 初めて彼女を見たとき、渡辺は本当に、心の底から、純粋な気持ちが湧き上がってくるのを感じた。あの美しい黒髪も、月明かりによく映える白い肌も、憂いを湛えた泣きぼくろも、その全てが渡辺を惹きつけて止まない。渡辺にとって壱識美影という少女は女神のような存在だった。

 古い医者の家系に生まれ、子供の頃から医学に関連する知識のあれこれを強制的に学ばされてきた彼は、やがて自分を『家を継ぐ道具』としか見ていない両親に絶望した。

 高校を卒業すると同時に家を飛び出し、悪事に手を染めるようになった。

 皮肉なことに、彼がこれまで頭に詰め込んできた薬物に関する知識は、あらゆる非合法が通じる裏社会でこそ本領を発揮した。実家と縁を切るとき、彼の財布のなかに入っていた二万円が、いまではその数百倍にまで膨れ上がった。

 だがいくら金があっても、美影の心だけは買えなかった。年頃の女子が好みそうなプレゼントを見繕っても、彼女は見向きもしなかった。

 しばらくして渡辺は悟った。ああ、美影ちゃんは俺が手を出していいような子じゃないんだ。あの子は誰のものにもなっちゃいけないんだ。彼女は孤高だからこそ美しいんだ。だから俺は、遠くから美影ちゃんを見ているだけで満足なんだ。

 そう思い、ずっと美影のことを見守り、妄想のなかで汚し続けてきた。しかし。


「……あの、クソ野郎……」


 女のような顔をした男が脳裏をよぎる。アパートの階下で、その男と美影が寄り添っていた光景が、まぶたの裏に焼きついて離れない。

 これまで美影を見続けてきた渡辺には分かるのだ。


 きっと美影にとって、あの男は特別な存在になってしまう、と。


 閑散とした夜道を進む。もともと人との関わりを避けて生きる傾向のあった彼は、いつもの癖で、たとえ誰かが殺されてもすぐには気付かれないような薄暗い道を選んで歩いていた。それが絶対の悪手であるとも知らずに。


「こんばんは」


 ふと背後から男の声が聞こえた。渡辺は怪訝に思いながらも振り返った。すると不思議なことに、そこで彼の人生は終わった。


「ひゅっ――!」


 空気の抜けるような呻き声とともに、渡辺の喉から勢いよく鮮血が噴き出す。そこらのコンクリートに真っ赤な潤いが与えられていく。

 あまりに唐突な出来事ゆえに渡辺の理解も追いついていなかったが、それでも自分の身体を濡らしていく温かな血が、どこから出ているのかは分かっていた。喉仏のあたりから迸る灼熱。ああ、どうりで声が出ないわけだ。

 続いて振るわれた銀のきらめきが、渡辺の左胸を抉っていた。血液の源、内臓の核となるもの。よく研がれたナイフの刃先が、心臓に突き刺さる。

 唐突に見舞われた激痛のショックにより声さえ――否、それを言うなら、すでに最初の一撃で喉は破壊されていたので、断末魔を上げるだけの機能すら彼には残されていなかった。

 複数の急所を刺して、確実に仕留める。これは訓練を受けた者ならば誰だって知っているような、ナイフを用いた模範的な殺害方法だ。

 それから数秒もせぬうちに、渡辺の身体は血だまりのなかに倒れていた。全身は血を失い、力が抜け、熱が冷え、命が消え、魂までもが霧散していく。

 すこしずつ近づいてくる死の足音。

 渡辺は恐怖と寒さから、ひたすら身体を震わせた。


「ちょっと遅かったか。まあいい」


 薄暗い闇のなかから誰かの声がする。冷たい、殺人マシーンのような男の声だ。

 おまえは誰だ、なぜこんなことをする――そう問いかけようとしたが、無理だった。渡辺の喉は、鋭い刃物によってぱっくりと切断されている。あと数分の命すらもない彼に、誰何する余裕などあるはずがなかった。

 意識が遠のく。仄暗い深淵が迫ってくる。ああ、寒い。とても寒い。誰かに温めて欲しい。どうしてこんなに孤独なのだ。どうして自分のとなりには誰もいないのだ。


「……み、……か、げ……」


 死の間際、命を賭けても惜しくないほどに愛した少女の名を呼んだ。そのせいで寿命が数秒縮まったが、だからとうしたという話だった。

 しかし、渡辺が美影の名を呼んだことが不快だったのか、闇のなかに佇んでいた人影は、手に持っていたナイフを渡辺の頬に突き刺した。それは内部の舌を串刺し、反対側の頬まで貫通した。これで物理的に、渡辺が発声することは不可能になった。

 最後の力を振り絞り、渡辺は目の前にたたずむ何者かの足に縋りついた。血に濡れた手で、相手の足首を掴む。それすらもあっさりと払われてしまう。どう足掻いても一矢報いることは無理そうだった。

 間もなく、渡辺という男は、死んだ。

 一切の慈悲なく渡辺を殺した人影は、入念に彼が死亡しているという事実を確認してから、なんの後始末もせずにその場をあとにした。






 周囲をよく俯瞰することのできる見晴らしのいい建物の屋上に立ち、『彼』は最後の仕上げをしようとしていた。

 その手に握られているものは、独自のルートで入手し、『彼』なりの工夫と改造を施した起爆装置。先日、オフィス街のビルを爆破したのとまったく同じタイプのものだ。

 『彼』は街の北にある浅ヶ丘と呼ばれる高級住宅街を見据えている。そこに立地する武家屋敷を――鳳鳴会の本拠地を、いまから爆破するつもりだった。

 『彼』が爆弾にこだわるのには二つ理由がある。一つは高い威力があり、広範囲をまとめて吹き飛ばせるから。もう一つは、この犯行が自分の仕業なのだと気付かせないためだ。以前の『彼』は、もっと静かな暗殺を好んだ。だから自分が生きていると悟られぬよう、あえて爆弾を使った派手な殺し方をしている。

 本来であれば、繁華街にある事務所のほうも同時に破壊する計画だったが、もうその必要はない。いましがた《玖凪一門》の人間が、事務所を制圧したからだ。現在の『彼』と《玖凪》のあいだに繋がりはないので、あちらにもあちらなりの因縁があったということだろう。


 これでいい。

 これでいいのだ。

 あの《悪魔》は爆殺した。娘の情報を密告した渡辺という男もさきほど殺した。念には念をということで、アパートのほうも焼却処分した。だから、あとは暴力団の本拠地を爆破すればいい。それで全てが終わる。

 あらかじめ予定していた時刻になったのを確認してから、『彼』は起爆装置を作動させた。もしここに電子戦を想定した特殊部隊がいたとしても、『彼』が作った複雑な暗号を備えた電波を妨害することは不可能だろう。つまり爆破は、避けられぬ運命だった。

 次の瞬間、いつかの夜と同じように、晴れた夜空に轟音が響き渡った。


「……終わった、か」


 なるべく周囲の民家には被害が出ぬよう火薬の量は抑えたが、それでも爆発の規模は大きかった。武家屋敷は完全に倒壊。

 ダンタリオンに襲撃されたことにより、武家屋敷には以前ほど人が残っていなかったが、それでもまだ結構な人数がいた。それに銃火器や薬物の類も、たくさん秘匿されていたはずなのだ。そうした脅威となりうるものを排除するのは大切なことだった。

 とにかく、これで全ては終わった。

 今回はすこし無茶をしすぎたので、しばらくは身を隠したほうがいいかもしれない。爆薬を調達するために使ったルートも今後は使用を控えたほうがいいだろう。個人の足取りを追ううえで金の流れほど分かりやすいものはないからだ。

 聞けば、娘の母親も――『彼』を愛し、『彼』が愛した女も、この街に来ているという。いまだに『彼』の愛は薄れていなかったが、それでも会いたくないのは事実だった。

 あらかた仕事を終えた『彼』は、身を翻した。


「ようやく見つけましたよ」


 しかし、この街から去ろうとする『彼』のまえに立ちはだかる男がいた。金色の髪、縫いつけたような糸目、場違いな神父服。以前、『彼』が爆殺したはずの《悪魔》が、そこに立っていた。


「いやはや、実に見事な手際ですねえ。この崇高な僕としたことがまったく気付きませんでしたよ。僕がこの街に来てからずっと感じていた殺気は、あの小娘のものではなく、貴方のものだったとは」


 芝居がかった身振り手振りを交えて長広舌を振るう男――ダンタリオンは、心の底から感服しているようだった。

 ダンタリオンが生きていると知っても『彼』は驚かなかった。むしろ、いまからどのようにして殺してやろうか、と頭のなかでシミュレートが始まっているぐらいだ。その演算の最中、一つだけ疑問に思ったことを『彼』は口にした。


「……まさか、武家屋敷と、そこに残っていた連中をおとりにしたのか?」

「はい。あの高層ビルの爆破から、崇高な僕を狙っている何者かがいるのは分かりました。しかし、この広い街のなかで、その不届きな輩を探し出すのは骨でしょう? だからあの……鳳鳴会、でしたっけ? とにかくその蛆虫どもをエサにしたんです」


 自分が利用し、最後まで道具のように扱った暴力団を思い出し、ダンタリオンは唇のはしを吊り上げた。


「貴方ほどの優秀で用心深い男が、爆破する瞬間を自分の目で見届けないはずがありません。まあ、今回も貴方が爆破という手段に訴えかけるかどうかは一種の賭けでしたけどねえ」


 このあたりで例の武家屋敷を見渡せて、かつ逃走経路もじゅうぶんに確保できる場所は、いま彼らが立っている建物の屋上だけだった。『彼』がこのスポットを選んだのは、そうした理由があったからである。そしてダンタリオンは、それを読んだのだ。何十人もの人間を見捨てて。


「さあ、もう御託はいいでしょう。貴方が血を望んでいる以上、死合いは避けられない。もっとも、その身体でどこまで戦えるのかは知りませんがね」

「…………」


 こうして一つの戦闘が幕を開ける。

 愛する娘を護るために、元殺し屋の男は、命を賭けた死闘に挑んでいった。



****



 夜も深まった頃、その異変は唐突に訪れた。

 俺たちが美影の部屋で休んでいると、どこからともなく上がってきた火の手が、またたく間にアパートを包み込んだのだ。

 鉄筋アパートが自然に燃えるわけがないから、これは明らかに何者かによる放火だった。火のまわりが尋常じゃないぐらい早いのは、恐らく火薬かなにかを使っているからだろう。

 消火する時間など欠片もなかった。

 ただ大きなバッグに美影の衣服や貴重品を詰めこんで運び出すのが、俺たちにできる精一杯だった。

 幸いなことに冴木さん、渡辺さんはアパートを離れていたので、心配はいらない。俺と面識のないほかの住人の方々も全員留守だったらしく、結果的に被害者はゼロだった。

 ごうごうと燃え盛るアパート『住めば都』を、俺たちは黙って見つめていた。圧倒的な熱と光が、周囲の闇を削っていく。まるで地上に太陽が生まれたかのようだった。これで目と喉に痛い黒煙さえなければ、素直に歓迎できたのに。

 仮にも自分の家が燃えているのだ。あまり感情を表に出すことのない美影も、今回ばかりはさすがに寂しそうな顔をしていた。


「美影……」

「夕貴。早く、ここを離れたほうがいい」

「ああ、さすがに人が集まってくるだろうからな」


 俺に弱みを見せたくないのか、美影は気丈に振舞っていた。小さな肩と背中が微かに震えている。吹き荒れる熱風が、長い黒髪を忙しなく揺らしていた。

 類稀なる身体能力を持ち、戦闘に耐えうるだけの鍛え抜かれた身体をしていても、その心は年頃の少女のものなのだ。

 ただの、十六歳の女の子が、そこにはいた。


「……逃げよう、美影」

「うん」


 どうしていいか分からなかったので、とりあえず慰める意味も込めて、美影の頭にぽんと手を乗せてみた。

 滑らかな黒髪をゆっくり撫でる。シャンプーかリンスの甘い香り。


「……ん?」


 そこでふと思った。

 いままでも何度か美影の頭を撫でたことはあったけど、そのたびにこいつは不機嫌そうに「んー」とか唸って、俺の手を払いのけていたはずなのだが。


「夕貴。どうかした?」


 眉間にしわを寄せる俺を見て、美影は小首を傾げた。ちなみに現在進行形で、俺は美影の頭をナデナデしている。


「いや、どうかしたっていうか……」

「ん」

「まあ、その……なあ?」

「……?」


 ますます小首を傾げる美影。

 この際だから、思い切って聞いてみることにした。


「おまえ、さっきから俺に頭を撫でられてるけど……いいのか?」

「…………」


 美影は自分の頭に乗っている俺の手を、恐る恐るといった風にチョンチョンと突いた。

 そして、ようやく不覚を取ったらしいことに気付くと、美影は「んー」と不愉快そうに唸って、俺の手を払いのけた。


「……触るな。ヘンタイ」


 以前よりも、いくらか棘のない罵倒だった。

 暗くてよく分からなかったが、美影のほっぺたが微妙に赤くなっているような気がした。

 それは空元気かもしれなかったが、やっぱり美影は落ち込んでるよりも、この憎たらしいほうが合っていると思うんだ。


「はいはい、俺はヘンタイだよ」


 なぜか俺のなかには大人の余裕が生まれていた。

 どうやら美影はそれが気に食わなかったらしい。


「むー」

「さあ、はやく行こうぜ。まずは安全な場所に逃げよう」

「むー」

「ニーデレ」

「うん分かった」


 自分の考案した名前で呼ばれた途端、美影の顔から険が消えた。だんだんこいつの扱い方が分かってきたような気がする。ちなみに美影曰く、ニーデレとは”普段はニートだけど、いざというときにデレデレする人”のことらしい。ただのアホとしか思えない。

 それから俺たちは美影の荷物が入ったバッグを持って、燃え続けるアパートに背を向けた。


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