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旧『ハウリング』 改定前  作者: ハイたん
弐の章 【御影之石】
42/74

2-12 暗雲低迷

 一人で帰宅した美影をアパートの階下で出迎えたのは、冴木だった。


「やあ、おかえり美影ちゃん」

「…………」


 へらへらとした締まりのない笑み。ほとんど手入れされていない黒髪と無精ひげ。よれよれの背広。ただ左肩から先がないことを除けば、彼はうだつの上がらないサラリーマンのような風貌をしている。

 美影がアパートから出発するときも帰宅するときも――必ずと言っていいほど、冴木はそこにいる。そして「行ってらっしゃい」とか「おかえり」とか頼んでもいないのに言ってくるのである。

 不気味というより、不可解だった。この冴木という男が何をしたいのか、美影にはまったく分からなかった。


「……ただいま」


 優しい目でじっと見つめられていることに居心地を悪くした美影は、そっぽを向いて、小さな声で応えた。


「うん? これは珍しいね。まさか美影ちゃんが挨拶を返してくれるとは思わなかったよ。これも萩原くんのおかげかな?」

「夕貴?」

「そうそう、萩原夕貴くんだ。やっぱり女の子っていうのは、年頃の異性と触れ合うことによって輝くものだからね。その証拠と言っては何だけど、萩原くんと出会ってから、美影ちゃんは優しくなったような気がするよ」

「冴木の目は節穴。私はべつに変わってない」

「そうかい、僕の勘違いだったか。ごめんね」


 あっさりと意見を曲げる冴木。照れくさそうに頭をかく彼の姿を見ていると、なぜか美影は心が落ち着くのを感じた。彼には人を和ませる才能があるのか、あるいは美影自身、本音では冴木のことが嫌いではないのか。真相は不明だ。


「そういえば萩原くんはどうしたんだい? 一緒に出かけたのだとばかり思っていたんだが」

「夕貴はいま、母親といる」

「母親?」

「うん。私の母親」

「…………」


 ほんの一瞬、冴木は悲しそうに目を伏せた。


「……そうか。美影ちゃんの母親が」


 気の入っていない相槌が、冴木の心境を物語っている。ぱちくりと切れ長の瞳を瞬きさせる美影に、彼は言う。


「美影ちゃん。最近は物騒だけど、心配はいらないよ。君は萩原くんと一緒に青春を謳歌するといい」

「……冴木?」


 普段の彼らしからぬ様子を、さすがの美影も訝しんだ。


「ハハハ、まあ萩原くんは女の子にモテるだろうから、美影ちゃんも苦労するかもしれないけどね」


 次の瞬間には、いつもどおりの冴木に戻っていた。聞き捨てならない発言に、美影はむっとした顔で反駁する。


「べつに苦労しない。夕貴とかどうでもいい」

「ほう、つまり美影ちゃんは萩原くんのことが嫌いなのかい?」

「だから夕貴とかどうでもいい」

「なるほど。どうでもいいってことは、嫌いでもいいってことだよね。やっぱり美影ちゃんは萩原くんのことが嫌いなんだね」

「ちがう。嫌いなんじゃなくて、どうでもいい」

「おかしいなぁ。僕の知っている美影ちゃんなら『嫌い』と断言していたはずなんだが……そこまでして萩原くんを『嫌い』と言いたくないってことは、まさか」

「……もういい。冴木、嫌い」


 美影は僅かに頬を膨らませて、非難するように二重瞼の瞳を半眼にして、じとーと冴木を睨んだ。それは暗に怒りを表す仕草のはずだが、彼女のネガティブな視線を受け止める冴木は、申し訳ないという気持ちよりも美影を愛らしいと思う庇護欲に支配されていた。

 美影本人は気付いていないが、あまり感情を表に出さない彼女の拗ねた顔は、周囲の人間にはとても微笑ましく映るのだった。

 だが美影が拗ねてしまったことは事実なので、冴木は機嫌を取るために媚びた笑みを浮かべた。


「ごめん、美影ちゃん。僕としたことが大人げなかったみたいだ」

「むー」


 猫のような唸り声である。

 結局、その後すぐに萩原夕貴という名の緩衝材が帰宅したために、美影と冴木のあいだにわだかまりが残ることはなくなった。しかし美影は部屋に上がるそのときまで不機嫌を崩さなかったし、冴木はそんな美影をどこまでも温かい目で見つめていた。

 それは、アパートの隣人同士の、本当に、なんでもない、ただの会話だった。





 繁華街のなかでも性風俗産業が集まる――俗に歓楽街とも呼ばれる――区域に、鳳鳴会の事務所はある。

 ビルの二階から五階まで鳳鳴会の息がかかった金融会社のテナントが入っており、そして、最上階である六階に彼らはいた。

 部屋には拳銃や刃物などが無造作に置いてある。普段なら慎重に慎重を期して隠しているはずの麻薬も、テーブルのうえに堂々と積まれている。それは警察に踏み込まれれば言い逃れのできない有様だった。

 しかしいまの彼らには、保身を考える余裕はなかった。むしろ警察に捕まったほうが、あの《悪魔》から開放されるという意味では、遥かに魅力的に思えた。

 応接間にあるソファに腰を下ろし、二人の人間が向かい合っている。一人は、《鳳鳴会》の若頭である壬生みぶという男。質のいいスーツと、ポマードで固めた黒髪。その鋭い目には、表の人間にはない狡猾な光が宿っている。

 壬生と話しているのは、渡辺と名乗る青年だった。


「……そのネタ、本当なんだろうな?」


 壬生は得心のいかない顔で問いかけた。彼の背後には血の気の多そうな男が数人、控えている。


「ほ、本当、ですよ……おれ――あ、いや、僕は、絶対……う、嘘は言いません!」


 渡辺の様子は明らかにおかしかった。やたらと汗をかき、目は虚ろで、手足はぶるぶると震えている。もちろんそれには暴力団に対する恐怖も、成分としては多分に含まれているのだろうが、それ以上に、執念のようなものが渡辺から正気を奪っていた。


「あ、あなたたちが追ってる、女の、居場所……知ってるんです、僕!」

「…………」


 これだ。

 もともと渡辺が《鳳鳴会》の事務所を訪れたのは、壱識美影という少女についての情報を密告するためだった。

 暴力団の情報網(まあダンタリオンに組織の幹部を皆殺しにされたせいで、以前よりも数段、情報収集能力が落ちているのだが)を以てしても補足しきれなかった獲物の所在が、こんな精神に異常をきたしていそうな男からもたらされたのだ。壬生が疑うのも当然だった。

 実のところ、このまま渡辺が情報をタレこまなければ、美影と夕貴は鳳鳴会に見つかることはなかった。

 あの『住めば都』というアパートは、基本的に住人を募集していない。もちろん部屋が空いているかぎり新入居には歓迎的だが、大体的に募集をかけているわけではない。

 だから『住めば都』に入居するためには、なんらかの偶然により情報を手に入れるか、現住人からの紹介に頼るしかない。

 渡辺の場合は、クスリを売った対価として『住めば都』の情報を聞いた。たかが薬物の売人に過ぎない彼が、暴力団ごときでは影も踏めないアパートに辿りつけたのは、まったくの偶然だった。奇跡と言ってもいい。まだ宝くじで大金を当てるほうが確率的には高いはずだった。

 どんな違法行為も認める『住めば都』だが、ただ一つだけ原則として禁止していることがある。


 それは、住人同士の干渉。


 本来なら会話するのも褒められたことではないが、それは黙認されている状態。渡辺や冴木は、美影があの《壱識一門》の人間だと知っているが、それもおなじ建物で共生する上でどうしても知ってしまうことなので、あえて口に出さなければ問題はない。

 とは言ったものの、ルールは無実有名ではなく、しっかりと生きている。住人同士が意図的に素性を探りあったり、他の住人の情報をよそに持ち込んだりするのは、重大なルール違反。

 これが表の世界ならば、ルールに抵触しても罰金や懲役で済む。だが裏の世界では、それこそ凄惨な『罰』が存在する。アパートを追い出される、なんて甘い夢を抱いてはいけない。いまの渡辺は、ルールを破った者として殺されても文句は言えない状態だった。

 だから渡辺にとって美影の情報をリークするのは高いリスクを伴うことなのだが、それを承知のうえで彼は鳳鳴会に足を運んだのだ。命を賭けても惜しくはないほど愛した少女を、手に入れるために。

 そんな事情を知らない壬生が、招かれざる客である渡辺に一定の警戒心を持つのは、至極当然のことだった。


「あんたの目的が何なのかは知らねえが――もう冗談じゃ済まねえぞ?」


 壬生がそう言うと、彼の後ろにいた部下たちがふところに手を忍ばせた。男たちがスーツの下に武器を隠し持っていることは一目瞭然。つまり、脅しだ。


「ほ、本当です! 僕は、美影ちゃんの、居場所を知ってるんです……!」

「それがガゼだったら死ぬぞ、あんた」

「分かってます」


 壬生が本気で脅しにかかっても、渡辺は平然としていた。見た目よりも胆力や根性があるのか、あるいは持ち込んだ情報に絶対の自信があるのか。


「壬生さん、どうします?」


 進展しない状況に業を煮やした部下のひとりが、壬生から考える時間を奪っていく。壬生は文武両道の優秀な男だが、この分岐路だけは、いくら考えても正しい答えが分からなかった。

 しかし手をこまねく余裕がないのも、確かである。

 いま思えば、あの夜が彼らの運命を決定付けた。

 街の北に位置する高級住宅街には、鳳鳴会の総本山ともいえる大きな武家屋敷が建っている。そこには今代の会長とその家族や、組織の大幹部、住み込みで働く末端の構成員などを始めとした、鳳鳴会の主要なメンバーが大勢、暮らしていた。

 たしかに鳳鳴会は『仁義』よりも金銭的な利益を重視する一派で、決して薬物には手を出そうとしない古いタイプの暴力団とは反りが合わず、この界隈でも疎まれていた。

 だが、これまで狡猾な手段を用いて障害を取り除いてきた彼らも、身内の結束は固かった。自分たちが非道なことをしている自覚はあったが、それでも壬生は鳳鳴会という家が嫌いではなかった。

 あの夜、繁華街の事務所にいた壬生が連絡を受けて駆けつけた頃には、もう全てが終わっていた。代々受け継がれてきた大きな屋敷も、専属の庭師を雇って手入れをしていた豪勢な庭も、この世のものとは思えない地獄と化していた。ダンタリオンと名乗る《悪魔》が、なにもかも奪い去ってしまった。

 もちろん多くの部下がダンタリオンに従うことをよしとせず反抗したが、その結果は悲惨なものだった。さすがの壬生も、人間の身体を素手で引きちぎるという解体ショーを目の当たりにしたときは、胃の中のものを一切合財ぶちまけた。

 もう壬生には――鳳鳴会の残党には、ダンタリオンに逆らう意志と気力は残っていない。

 どうせ進退窮まっている。自分たちは無茶をしすぎた。このまま無能の体を晒し続ければあの悪魔に殺されるだろうし、そうでなくとも警察に捕縛されてしまうだろう。ならば賭けに出るのも悪くない。いや、賭けに乗るしか、道は拓けない。


「……いいだろう。あんたの話を信じてやる。だが信用の担保は、あんたの命だ。妙なマネしやがったら、その場で殺るぞ?」


 壬生の答えを聞いた渡辺は、満足そうに頷いた。少年と少女の与り知らぬところで、確かな悪意が動き始めた。


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