表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旧『ハウリング』 改定前  作者: ハイたん
弐の章 【御影之石】
41/74

2-11 思案投首

 美影の部屋で一夜を過ごし(もちろん男女間に起こりうるトラブルは欠片としてなかった)、軽く朝食を摂ったあと、俺たちは駅前に向かった。

 街の空気はいつもよりも浮ついていて、どことなく祭りのそれに似ている。まあ無理もない。自分たちの住んでいる街で、原因不明の爆発事故――いや、ここは爆発事件といったほうが正確か――が起こったのだから。

 俺たちも今朝、ニュースを見て事件のことを知ったので、詳しくは分からない。昨夜の深夜過ぎ、オフィス街の一角にある高層ビルで起こった、爆発。

 警察としては”何らかの火種がヘリポートにあった航空燃料に引火したのではないか”という線から捜査を進めているらしいが、これは恐らく、裏の人間が粉飾した『シナリオ』だろう。

 ただ爆発とは言っても、実質的な被害は高層ビルの屋上に設けられたヘリポートだけに留まった。時間が時間だけにビルの内部はほとんど無人で、死者どころか軽傷者も出ていない。爆発によってコンクリート片が階下に散らばったために周辺道路は封鎖されていて、作業には少なくない時間がかかるとのこと。

 かなり衝撃的な事件だったのは確かだが、テロにしては爆発規模と犯行時刻が中途半端すぎるうえに犯行声明も出ていないので、犯人の意図がまったく読めず警察の捜査は難航しているのが現状。

 多くの人が行き交う大通りを歩く最中、俺はとなりを歩く少女に声をかけた。


「なあ美影。あの爆発って何だったのかな?」


 自称ニーデレは、しばし考え込むように「んー」と唸ってから、


「知らない。私が聞きたい」

「やっぱりか。まあ冴木さんも知らないみたいだったからなぁ」


 俺たちがアパートを出るとき、もはやお決まりのように階下にたたずむ冴木さんと挨拶を交わした。そのとき爆発事件について情報を交換したのだが、やはりと言うべきか、冴木さんもニュースで報道されている以上のことは知らないようだった。


「でもさ、ちょっと気になるよな。このタイミングで高層ビルが爆破されるとか、偶然にしては出来すぎてると思うんだよ」

「まあ、母親だったら爆発のことも知ってると思う」

「……お母さん、か」


 俺たちが駅前まで出てきたのは、美影の母親と会うためである。これは昨日の今日で入った緊急の所用ではなく、数週間も前から予定されていた案件らしい。なんでも美影の”仕事”に関するリアルタイムの近況を、定期的なスパンで報告する必要があるのだとか。 そうした事情があって、俺たちは美影の母親に会いに来たわけなのだが……。


「どうかした?」


 歩く速度を落とした俺に、美影が改まって声をかけてきた。


「いや、そりゃどうかするだろ。だって俺とおまえは出会ってから数日も経ってないんだぞ? 愛どころか恋すら芽生えてないんだぞ? なのにいきなり美影のお母さんと顔を会わせるとか、俺には荷が重過ぎると思うんだよ」


 まだ菖蒲のお母さんと会ったこともないのに。ぶっちゃけ胃が痛い。俺という見知らぬ男を連れてきた美影を見て、彼女の母親はどう思うだろう? 怒るのか、悲しむのか、喜ぶのか……まあとりあえずテンパるのは間違いないだろうな。俺だって自分の娘が男を連れてきたら、確実に理不尽な怒りをぶつける自信がある。


「夕貴は母親と会うの、イヤ?」

「イヤってわけじゃないけどな。ただ申し訳ないっていうか」

「イヤじゃないならいい。もう時間を過ぎてるから、急ぐ」


 てくてく、と俺の前を歩いていく美影。その背中には、腰にまで届く尻尾のようになったポニーテールの房が揺れていた。


「……はぁ」


 覚悟を決めるしかないか。それから俺たちは足早に、待ち合わせ場所へ向かった。

 どの街においても鉄道駅の周辺は、必然的に経済的発展が進む傾向にある。それだけ電車は利便性の高い移動手段として現代では重宝されているということだろう。具体例を挙げると、いわゆるオフィス街と呼ばれる会社などの事務所が集中して立地する区域や、この街一番のデパート、大きなモニュメントの建てられた中央広場、バイパス道路やロータリーなども、やはり駅を中心とした半径のなかに収まっている。そうした諸々の総和が、この俗に『駅前』と呼称される場所に、都会的な喧騒をもたらしていた。

 美影が足を運んだ先は、デパートのすぐそばにある喫茶店だった。日当たりのいいオープンテラスの隅のほうに腰掛けていた女性に、美影は近づいた。


「来た」


 小さな文庫本を開いていた女性は、読みかけのページにしおりを挟んで、それをテーブルのうえに置いた。


「そう。遅かったのね。五分の遅刻よ」


 美影に勝るとも劣らない平坦とした声で応え、こちらに振り向く。

 腰のあたりまで伸びた長い黒檀の髪と、陶磁器のごとく滑らかな白い肌。綺麗な卵形の輪郭、どこか冷めた二重瞼の瞳、ふっくらとした瑞々しい唇、整ったプロポーション。年齢は二十代後半ぐらいだろうか。妙齢の美女といって差し支えないだろう。彼女は貴婦人めいたシックな服装に身を包み、お洒落なストールを肩にはおっていた。その胸元には、美しい光沢を放つ宝石をあしらったペンダントが揺れている。


「……この人が」


 美影の、母親か。たしかに彼女は、美影によく似ていた。というより、美影が彼女に似ているのか。

 もちろん泣きぼくろの有無とか、身長とか、胸の大きさとか、他にも大きなところでは美影が髪をポニーテールに結っているのに対し、こちらの女性はストレートのまま下ろしているなど、よく見れば細かな差異はあるのだが、それの分を差し引いても、顔立ちや雰囲気がそっくりだった。

 でも母親にしてはずいぶんと若く見える。学校の三者面談に赴いたら「美影ちゃんのお姉さんですか?」と聞かれそうなレベルだ。

 もしかしたら彼女は、若作りなのではなく、本当に若いのかもしれない。きっと出産の適齢期よりも早くに美影を産んだのだろう。


「あら。そちらの方は?」


 予定外の同伴者である俺を認めた彼女は、小首を傾げて意外そうな顔をした。細かい仕草まで娘とよく似ている。

 さて、ここからが正念場である。

 やっぱり第一印象が肝心だからな……失礼のないように紳士的な対応をしないと……あれ、でも俺は美影と付き合ってるわけじゃないんだから、べつにそこまで気張らなくてもよくないか?

 とかなんとか俺が脳内で忙しく一人会議をしていると、先制攻撃と言わんばかりに、向こうが先に口を開いた。


「初めまして、かしら。私は壱識千鳥いちしきちどり。この子の母親よ」


 美影によく似た黒髪の美女、壱識千鳥さんは、娘と瓜二つの無表情な顔と抑揚のない口調で自己紹介をした。

 ……やばい。色々と余計なことを考えすぎて、上手く言葉が出てこない。こういうシチュエーションだったら普通、俺のほうから挨拶するのが自然なのに。このままでは俺の評判ばかりか、美影の男を見る目までが信用できない、と間違った烙印を押されてしまう。


「……? あなた、は……」 


 俺の顔を一瞥した千鳥さんが、かすかに目を見開いた。それは千鳥さんのなかで、俺という男の株価が暴落したことを表明するジェスチャーなのだろう。ファーストコンタクトは、成功とは言えなかった。少なくとも俺のなかでは。

 ようやく脳が機能を取り戻し、口が言葉を紡げるようになったのは、それから数秒後のことだった。


「あの、俺は萩原夕貴といいます。先に名乗らせてしまってすいませんでした」

「……ふうん。萩原と言うの、あなた」


 どこか含みを持った言い回しだった。千鳥さんは顎に手を添えて、じっと思考に没頭していた。一体どうしたんだろう。俺の名前に引っかかりを覚えたようだが……でも萩原って名前、べつに珍しくないよな?


「母親。どうかした?」


 娘から見ても千鳥さんの様子は訝しく見えたのか、美影が疑問の声を上げた。


「……いえ、なんでもないわ。萩原夕貴さんと言ったかしら。どうぞ、あなたもおかけになって」


 千鳥さんは迷いを断ち切るようにかぶりを振って、俺に空いた席を勧めてくれた。でも気のせいでなければ、その男を惹きつけて止まない千鳥さんの物憂げ横顔からは、複雑な想いを人知れず内心で整理しているような趣が感じられる。

 とにかく、こうして俺と美影と千鳥さんという異色の組み合わせによる会合が始まったのだった。





 テーブルのうえには淹れたてのコーヒーが三つと、しおりを挟んだ文庫本が一つ。まわりの席では人々が談笑しているというのに、俺たちの席にはぎこちない空気が流れていた。

 美影と千鳥さんは事務的な、ともすれば無機質ともいえる会話をしていた。外見だけならば親子に見えるが、その関係は冷え切っているというか、互いが互いに関心を持っていないように見える。


「状況は?」


 優雅な振る舞いでコーヒーカップに口をつけて、千鳥さんが切り出した。


「べつに普通」


 対する美影は、すこしも逡巡することなく返してから、


「あの爆発、なに?」


 そう短く続けた。


「さあ。私にも分からない。方々に手は尽くしてあるけれど、詳しい情報が集まるのにはもうすこし時間がかかるわ。少なくとも例の爆発事件に、私たちは関与も介入もしていない」


 どうやら千鳥さんのほうでも、まだ爆発事件の詳細は掴めていないらしい。

 美影は千鳥さんの言葉に反応せず、ぼんやりと虚空を見つめていた。それが美影なりの、思考しているポーズだと俺は知っている。見方によれば自分を無視している風にも見える娘の態度に顔色一つ変えず、千鳥さんは頷く。


「それで、私に協力できることはあるかしら」

「ううん。母親の手は借りない」

「でしょうね。私も力を貸すつもりはなかったし。いまのは聞いてみただけ」

「わかってる」

「ただ、どうしても無理なら先に言っておきなさい。よその人間に話を通すわ。《青天宮》のほうからも矢の催促があるし、他にもいくつかの案件が切羽詰っているから」

「大丈夫。一人でも平気」

「そう。なにか私に言っておくことは?」

「ない」

「遺言はいらないのね」

「うん」

「じゃあいいわ。ただし、死なないでね。また一から仕込むのは面倒だから」

「わかった」


 それだけ。本当にそれだけだった。

 出会ってから五分と経っていないのに、注文したコーヒーには口をつけていないのに、美影は席を立った。千鳥さんも引きとめようとはしない。ただ淑やかにコーヒーをすすっているだけ。

 俺は愕然とした。

 これが、親子の会話なのか?

 なにより千鳥さんは『遺言』って言った……それって美影が死ぬ可能性も考慮してるってことだよな?

 普通、お母さんってのはもっと子供のことを愛するもんだろ?

 子供ってのはお母さんのことをもっと慕うもんだろ?

 正直に言うと、俺は期待してたんだ。ダンタリオンを退けるには、とても俺たちの力だけでは足りない。だからもしかすると現状の戦力不足を補うために、千鳥さんが力を貸してくれるのではないかと。そのために今日、この壱識の親子は顔を合わせたのではないかと、俺は心のどこかで期待してたんだ。

 でも違った。この二人のあいだには、上司と部下が交わすような冷たい近況報告しかなかった。この二人のあいだには、親を慕い、子供を愛するような親子の会話は、微塵も存在していなかった。


「ちょっと待てよ、美影!」


 さすがに納得がいかなかった。俺は慌てて椅子から立ち上がり、距離が遠のく小さな背中を呼び止めた。ぴたり、と美影の足が止まる。


「先に帰る。夕貴も日が沈むまでに帰ってきて」


 美影は振り返ることなくそう言って、実の母親である千鳥さんには挨拶もせず、駅前の人ごみと喧騒のなかに消えていった。

 自然、その場には俺と千鳥さんが取り残された。出会ったばかりの女性と二人きり。本来なら気まずいとか気恥ずかしいとか、そうしたデリケートな感情が浮かぶはずだが、いまの俺の胸中にはやるせなさだけが去来していた。どうしてこの人は、もっと美影のことを心配してやらないんだ?


「……あなたは、母親なんでしょう?」


 拳を握り締めながら、言い知れない怒りを覚えながら、震える声でつぶやく。


「……美影は、あなたの大事な娘なんですよね?」


 激情を堪える俺とは対照的に、千鳥さんはしたたかだった。否。娘の話だというのに、彼女はあまりにもしたたか過ぎた。


「そうよ。あの子は私の娘。それがどうかしたの?」

「さっき遺言って言ってましたよね。あれはどういう意味なんですか?」

「そのままの意味よ。あの子が死んだときのことも考えているだけ」

「……また一から仕込むのが面倒っていうのは、どういう意味なんですか」

「そのままの意味よ。あの子が死んだら、次の子が必要になるでしょう?」

「あんたは美影のお母さんだろうがっ!」


 しまった、と思ったときには遅かった。

 いきなり大声を出した俺に周囲の視線が集まる。好奇の色を含んだ衆人環視。しかし、ただ黙ってにらみ合う俺と千鳥さんは、談笑の肴をのぞむ人々にとっては実につまらない観察観象だったらしい。しばらくすると観衆は、各々の時間に戻っていった。年若い男と、妙齢の美女。年の離れたカップルの痴話喧嘩とでも認識されているのかもしれない。

 千鳥さんは間を取るようにコーヒーカップに口をつけてから、


「残念だけど、私には萩原さんの仰りたいことがよく分からないわ。私があの子の母親だからどうしたというの?」

「母親なら……もっと子供のことを大事にするはずだ」

「同意ね。だから?」

「だからって……!」


 ふたたび怒鳴ってしまいそうになった。

 これは昔からのことだが、『母親』という存在がからむ問題がおきると、俺は心の制御が効かなくなってしまう。自分でもダメだと分かっているのに、どうしても直すことのできない、欠点。

 お母さんを大事にしない子供は大嫌いだし、子供を大事にしないお母さんも大嫌いだ。べつに親孝行しろとか、盲目的な愛を注げとか、そういう過剰な親愛を望んでるわけじゃない。ただ最低限、仲良くしてほしいだけだ。本当に、それだけなのだ。俺の主張はそんなに間違っているのか? そんなに難しいことなのか?

 なにが可笑しかったのか、千鳥さんは口元に手を当ててくすくすと笑った。


「……お母さんにそっくりね、あなた」


 続いて彼女の唇から漏れた言葉に、俺は数瞬のあいだ思考停止を余儀なくされた。


「その顔、その声、その考え方。本当にそっくり」

「か、母さんを知ってるんですかっ?」

「さあ、どうかしら」


 はぐらかすような口調とは裏腹に、千鳥さんは俺という人間のなかに母さんの――萩原小百合の面影を見ているようだった。

 なんというか、沸騰していた頭に冷水をぶっかけられた気分である。ここでいきなり俺の母さんの話題が出るとは思わなかった。俺は大きく深呼吸し、頭を冷静にしてから彼女の向かい側に腰掛けた。


「……すいません、取り乱してしまって」

「気にしていないわ」


 それはお世辞ではなく、千鳥さんは本当に気分を害していないようだった。

 心を落ち着けてもう一度、彼女と向き合ってみると――やっぱり美影とよく似ていることが分かる。

 美しい黒髪も、白磁の肌も、顔立ちも、雰囲気も、あまり感情を表に出さないところまで全部、似通っている。

 ただ美影と比べると千鳥さんのほうが身長は高いし、胸も大きい。母親である千鳥さんが平均的な女性のプロポーションに至っているという事実を踏まえれば、美影もいずれは女性らしい身体をゲットできるかもしれない。


「萩原さんには不思議に映るでしょうね。私と美影が」


 俺が切り口を探していると、向こうから話題を振ってきた。一瞬、オブラートに包むべきか迷ったが、ここは本音を話すことにした。


「……はい。はっきり言って不思議どころか、不快です。あなたたちの親子関係を見ていると悲しくなります」

「そう。でも信じてくださる? 私は美影を愛しているわ。ただ『親子』という関係以上に優先しなければならないものがあるだけ」

「…………」

「ところで萩原さんは、この石をご存知かしら?」


 何の脈絡もなく、千鳥さんは首にかかっていたペンダントを外した。そのペンダントは、見るからに手作り感の溢れる代物だった。いびつな形状をした”石”が、安っぽい銀色のチェーンによって繋がれている。


「あれ、これって……?」


 はじめは宝石の類かと思ったが、よく見ると違う。やや白みを帯びた色合いをしており、表面はツルツルしているのだ。俺はつい最近にも、この石を見たことがあるような――


「……これは、花崗岩……?」


 いつかの夜、菖蒲と一緒に見た理科の教科書に載っていた写真と、千鳥さんの持っているそれは酷似している。どうりで既視感があったわけだ。

 あれ?

 既視感?

 既視感……うーん、なんか引っかかるような気がする。

 まあいいか。


「博識ね。萩原さんもご存知のとおり、これは花崗岩と呼ばれる火山岩の一種。墓石に使われることでも有名ね。あの美しい墓石を見れば分かると思うけれど、この花崗岩は磨けば磨くほど光る石としても知られているわ」


 どうしていきなり花崗岩の話をするのか、俺には分からなかった。ただ一つだけ疑問なのは、千鳥さんの持っている花崗岩がいびつな形状をしていることだ。

 なんというか、元は円形だった石を半分に割ったような感じ。もう半分がどこかにあっても不思議じゃない気がする。


「これは私が幼い頃、祖母にもらったものなのよ」

「……それが」


 どうしたんですか、と続けようとした俺の言葉を、千鳥さんが遮る。


「この花崗岩の別名はね。御影石と言うの」

「御影、石……美影とおなじ名前、ですか?」

「そうよ。あの子の名前は、この石から取ったのだから」


 千鳥さんが幼い頃から大事にしてきた石。磨けば磨くほど光るという性質を備えた石。それとおなじ名前を与えたのだから、私は娘のことを愛している。そんな遠まわしのニュアンスが、この唐突な御影石の説明には込められているのだろうか?

 俺がぼんやりと思考しているうちに、千鳥さんは御影石のペンダントを首にかけ、チェーンに巻き込まれた長い黒髪をふわりと払った。


「あの子はいずれ家業を継がなくてはならない。一族のなかでも美影は、有力な次期後継者候補として挙げられているわ。まだ身体が成熟していないのにも関わらず、あれだけの能力を完成させているのは凄いことよ。私はあの子を産んでよかったと誇りに思う」

「だったら……もっと美影のことを大事にしてあげてください。子供にとってお母さんは特別なんです」

「でしょうね」

「知ってますか、あいつが家では味気ない栄養食ばかり食べてるって。ほとんど友達もいないみたいだし、学校ではいつも寝てるって言ってたし、勉強だって苦手らしいです。しかも笑えることに、好きな食べ物はポン酢で、しゃぶしゃぶをごまダレで食べてるやつが許せないそうです。本人は認めませんでしたが、甘いものも好きみたいです。あと美影は、自分なりの流行語を作るのが趣味なんですよ。いつも両手首につけてるブレスレットを誰かに取られると、なぜかあいつは不機嫌になるんです」

「そう。初めて知ったわ」


 どうでもよさそうに。大事な娘のプロフィールを。親なら誰でも知っていそうな当然の情報を。千鳥さんは、どうでもいい与太話を耳にするように、聞き入れた。俺は心の奥底から沸いてくる罵詈雑言を抑えるのに必死だった。


「……あなたは、本当に美影のことを愛してるのか?」

「ええ。母親だもの」


 母親。

 その嫌に無機質な響きが、壱識親子の間柄を物語っている風に思えた。いまにして思い返せば、美影はいつだって千鳥さんのことを『母親』と呼んでいた。そこには親愛の情など欠片も存在せず、ただ生物学的な関係を認めるための意味しかない。

 悲しかった。この世にはお母さんと会いたくても会えない子供がいるんだ。お母さんのことが大好きなのに離れ離れになってしまった女の子を、俺は知っているんだ。

 もちろん理想論なのは承知の上だ。この世には俺の知らない不条理がいくらでもある。子供を売る親。親を殺す子供。そんな想像したくもない現実が、いまも世界のどこかで行われているのは俺だって知ってる。

 でも世界中の親子の関係を円満にすることはできなくても、せめて俺の目の前にいる美影と千鳥さんには仲良くして欲しい、と。

 そう願ってしまう俺は、きっと馬鹿なんだろう。それは自覚している。ただその馬鹿さが嫌いになれない自分がいるのも確かだ。

 いまここに母さんがいたら、俺とおなじ行動を取っていると思う。親子が仲良くしないのなんて嘘だって、そう怒鳴って、泣き喚いているはずだ。

 とはいえ、俺にできることは少ない。根本的な話として、家族の問題には他人が立ち入る隙などないのだ。それでも、他人だからこそ出せるおせっかいも、あると思うんだ。


「ひとつだけ、お願いしてもいいですか?」

「それが実現可能な範囲内であれば」

「ありがとうございます。じゃあ……」


 しっかりと頭を下げて、お願いした。


「もっと美影のことに関心を持ってください。あいつを大事にしてあげてください。俺が望むのはそれだけです」


 千鳥さんは、不可解だと言わんばかりに目を細めた。


「……分からないわね。どうして萩原さんは美影のことをそこまで気にかけるの? まさか男女の関係というわけではないのでしょう?」

「い、いえ、俺と美影のあいだには何もないですけど……」


 思わずどもってしまった。


「ただ俺は、あいつのことが嫌いじゃないんです。だらしないところはあるし口も悪いけど、よく見れば可愛らしいところもある。だから……なんていうか、友達……いや、これは違うな……と、とにかく、俺は美影を放っておけないんです」


 無理やりまとめてみた。でも恋人でも友人でもないことは確かなのだから、俺と美影の関係を一言で言い表すことは難しいと思うんだ。一番近いところで戦友だと思うが、これもどこか違う気がするし。

 千鳥さんは珍しくきょとん、とした顔で俺をじっと見つめていた。まるで俺の背後にいる誰かを見つめるように。


「……そう、分かったわ」

「え?」

「いままでよりも少しだけ、あの子に関心を持ちましょう。それでいいかしら?」

「は、はいっ! どうか、よろしくお願いします!」


 思わず笑みがこぼれた。よく考えると、お母さんに娘のことを頼むのもおかしな話だが。でも通じたのだ。完全に、とは言えないかも知れないけど、確かに俺の想いは千鳥さんに通じたのだ。


「……本当に、お母さんにそっくりね」


 俺の笑顔を見て、千鳥さんは過去を懐かしむようにつぶやいた。


「ただ誤解を生まないために言っておくけれど、私は今回の件に関しては手を出さない。あの子に力を貸すつもりはないわ」

「……理由を、聞いてもいいですか?」


 娘に関心を持つと言った以上、てっきり助力してもらえるかと思っていたのだが、俺の考えが甘かったらしい。

 千鳥さんは、物憂げな顔で温くなったコーヒーの水面を見つめながら、吐露する。


「……人を探しているの。昔の知人を、ね」


 どうして知人を探すことが美影に力を貸さないことに繋がるのかは分からない。なにも事情を知らない俺には、千鳥さんの言動が破綻している風に思えた。

 でもこれ以上、追求することはできそうにない。

 だって千鳥さんの瞳が――いまにも泣きそうに揺れていたからだ。その儚げな横顔に追い討ちをかけることができるほど、俺は愚かではないし子供でもなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ