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旧『ハウリング』 改定前  作者: ハイたん
弐の章 【御影之石】
39/74

2-9 紆余曲折


 美影の部屋でしばらく落ち着いてから、食料の調達にでも行こうとコンビニに向かおうとしたときのことである。


 アパートの正面玄関には、俺たちと別れた直後のままの出で立ちで冴木さんが佇んでいた。ぼんやりと曇天を見上げていた彼は、階下に現れた俺を認めると意外そうな顔をした。


「うん? 萩原くんじゃないか。どうしたんだい。まさか美影ちゃんに部屋を追い出されたわけでもないだろうし」


 頼りなさそうな笑みを浮かべて、冴木さんは茶化すように言う。


「まあ美影ちゃんは色恋沙汰とは無縁の生活をしてるし、萩原くんみたいな年頃の男の子と接するのに慣れていないんだろう。そう気にすることはないよ」

「年頃の男と接するのに慣れてない、ですか。でもむしろ、あいつは男をあしらうのが上手いと思うんですけど」

「ハハハ、確かにそうかもしれないね。ただ美影ちゃんは男のあしらい方を知っている、というよりも、男をあしらうことしか知らないと言ったほうが正しいよ。いままで恋をしたことがないから、『あしらう』以外の選択肢が、あの子のなかにはないんだ。そう考えると、萩原くんは脈があるほうだと思うよ」

「うーん、絶対に脈だけはないような気がするんですけど。あと恋をする美影なんて想像できませんし」

「同意だね。僕も想像できない」


 互いに顔を見合わせて、俺たちは笑った。


「それにしても冴木さんって、美影のことに詳しいんですね」

「詳しいっていうほどでもないよ。ただ同じアパートに住んでいるわけだし、それだけ美影ちゃんと触れ合う機会も多いのさ。とは言え、満足にコミュニケーションを取れたことは数えるほどしかないけどね」


 あぁ、ちなみに僕の部屋は二号室だよ、と冴木さんは補足した。美影の部屋が一号室に当たるから、そのとなりに冴木さんが住んでいるということになる。いわゆる隣人というやつだ。

 俺が近場のコンビニまで食料を買出しに行く旨を伝えると、彼は合点がいったと大きく頷いた。


「ああ、そういえば美影ちゃんはいつも手軽な栄養食ばかり食べていたね。君みたいな若い男の子にはちょっと物足りないか」

「まあ……そんなところですね」


 正直なところ、俺はべつに栄養食でもよかったのだが、美影になにか美味しいものを食べさせてやりたかった。あんな味気ないもんばかり食べてるから成長の兆しが見えないのだ、あいつは。


「……ところで、一つ気になってたことがあるんですけど」


 のほほんと笑っている冴木さんを見ていると決意が鈍りかけたが、それでも俺にはどうしても聞いておきたいことがあった。


「うん? なんだい?」

「ちょっと聞きにくいんですけど……冴木さんには家族がいるんですよね?」


 あまり踏み込まないほうがいい、とは思ったが、質問してしまった以上、もう撤回はできない。冴木さんはきょとんとしてから、居心地が悪そうに苦笑した。


「そうか。萩原くんには昨日の夜、繁華街でばったり会ったときに、僕に家族がいるってことを教えちゃったんだっけ。いやあ、参ったね。あのときは一期一会の出会いだと思っていたから、口を滑らせても大丈夫だと思ってたんだけどなぁ」

「冴木さん。俺から質問しておいてこんなことを言うのもおかしいんですけど、べつに無理して事情を話す必要は……」

「でも気になるんだろう?」


 いまさら引き下がろうとする俺を、冴木さんは努めて明るい表情で引き止めた。

 確かに、気にならないと言えば嘘になる。昨夜、繁華街で会ったときの冴木さんはとても満ち足りた顔をしていた。娘のことを語るときの彼は、とても幸せそうだったのだ。

 恥を承知で告白するなら、俺は『父親』という存在に強い憧れを抱いている。もちろん母さんがいてくれたから寂しくはなかったけど、しかし俺を挟むようにして父さんと母さんが立っている光景を、ガキの頃は何度も夢に見たものだ。冴木さんに家族がいるのなら、なるべくそばにいてあげてほしいのだが。


「まあ、萩原くんを楽しませるようなエピソードがあるわけでもないんだけどね」


 物憂げな顔で曇った空を見上げながら、冴木さんは言った。


「実を言うとね。別居してるんだよ」

「別居、ですか?」

「そうそう、別居さ。僕にも妻と娘がいたんだけどね、いまは離れて生活してるんだよ。君もある程度は察してると思うけど、僕は残業手当が出ないと嘆いたことも、意地の悪い上司にいびられたこともない。そういう平凡なサラリーマンが抱える普遍的な悩みとは無縁なんだよ、僕は」


 この『住めば都』というアパートに入居する絶対条件は、裏の人間であること。つまり冴木さんは、うだつの上がらない社会人なんかじゃない。なんの仕事をしているのかまでは分からないが、彼が大手を振って歩けるような人種じゃないことだけは確実。

 ということは、もしかして冴木さんが家族の方と別居しているのは、それが原因なのではないだろうか?


「ははあ、萩原くんはどうにも頭の回転が早いみたいだね」


 なぜか楽しげに冴木さんが声を上げた。


「たぶん君が考えているとおりだよ。僕は妻と娘に愛想を尽かされたんだ。まあそれも当然かな。真っ当な職を持たない男なんて、妻と娘からすれば害悪以外のなんでもないだろうし」

「そんなことないですよ!」


 予想していたよりも、否定の声が大きくなってしまった。いきなり剣幕をあらわにした俺を見て、冴木さんが目を丸くしている。

 でも俺は悲しかったんだ。きっとこれは『父親』という存在に美しいイメージを持ってしまっている俺だからこそ言える綺麗事なのだろうけど、父親である冴木さんが、自分のことを『害悪』なんて称するのは我慢ならなかったのだ。

 ふと我に返ると、感情的になった自分が恥ずかしく思えてきた。


「……すいません、急に大きな声を出したりして」

「いや、いいさ。僕も自虐が過ぎたみたいだしね」

「そう言ってもらえると助かります。……でも俺は、自分の言葉が間違っているとは思いません。冴木さんの抱える事情は分かりませんが、お父さんがいなくなって嬉しいと感じるような家族はいないはずです」

「……そうだね。きっと萩原くんの言うとおりだ」


 冴木さんの声には真実、俺の言葉に納得してくれた響きが含まれている。俺みたいな部外者に出る幕などあろうはずもないが、冴木さんには家族の人と仲直りしてほしいな、と切に思う。この世には父親のいない子供だっているのだから。


「……萩原くんはいい子だね。優しくて、強くて、賢い。そういうところはお母さん譲りなのかな?」

「どうなんでしょう? よく母さんに似てるとは言われますけど」

「だろうね。そんな気がするよ。ところで再確認しておきたいんだが、”夕貴”という名前をつけたのは、お母さんなんだよね?」

「そうです。名前の由来とかは聞いてないんですけど、母さんは生まれてくる子供が男子でも女子でも、”夕貴”っていう名前をつけるつもりだったと聞いています」

「……ふうん、なるほどね」


 右手の指で無精ひげをさする彼は、なにか深い考え事をしているように見えた。


「えっと、そういえば冴木さんの下の名前をまだ聞いてないんですけど、この際だから教えてもらってもいいですか?」


 これは純粋な知的好奇心からの質問である。あっさりと答えてもらえるんだろうなぁ、と高をくくっていた俺は、しかし予想を裏切られることとなる。


「あー、非常に言いにくいんだが……萩原くん、実は”冴木”っていう名前は、僕の本名じゃないんだよ」

「へ? どういうことですか?」

「裏社会じゃあ本名を失くしてしまう人間が稀にいるぐらい、偽名を名乗るのは日常茶飯事だからね。僕がそのパターンに当てはまってもおかしくはないだろう?」


 いまいち『偽名を名乗るのが普通』という裏の常識に馴染めないのだが。


「これは余談だけど、僕の”冴木”っていう名前は、実は美影ちゃんが名づけてくれたものなんだよ」

「あいつが?」

「うん。このアパートで初めて会ったときにね。美影ちゃんはこう言ったんだ」

 

 ――冴えない顔。おまえなんか冴木でいい。


 と、初対面の成人男性に対して、美影は言ったらしい。まったく怖いもの知らずというか、なんというか。


「ちょうど僕も新しい偽名が必要な時期だったしね。どうせなら、こんなうだつの上がらないおっさんの考えた名前よりも、美影ちゃんのように可愛い女の子が考えてくれた名前のほうが幸があるかな、と思ったわけさ」

「なるほど。でも”冴えないから”っていうのが由来じゃ、微妙に幸先が悪いような気が……」

「いいんだよ、細かいことは気にしない気にしない。僕を含めて、このアパートに住む人間は、みんな美影ちゃんのファンだからね」

「ファン、ですか。でもあの渡辺っていう人は」


 言いかけて、二階から誰かが降りてくる気配を察知した俺は、続く言葉を飲み込んだ。噂をすれば、というやつだろう。アパートから出てきたのは、ニット帽を目深に被った男性だった。安物のジャージをまとった彼の目は充血していて、肌には張りがなく、唇はかさついている。


「やあ、渡辺くん。どこかに出かけるのかい?」


 目元を和らげて挨拶をする冴木さんを無視して、渡辺という名をした男性は、ぶつぶつと独り言を呟きながら俺たちの前を素通りしていった。

 さすがに様子がおかしいな、どうしたんだろう、と思った瞬間。


「へ、へへ」


 おぞましい含み笑いを漏らし、渡辺さんが俺を一瞥した。その目には生気どころか正気すらないように見えた。ここに警察がいれば、まず間違いなく彼は取り押さえられているだろう。そう思わせるだけの異常性が、いまの渡辺さんにはあった。

 下手をすればナイフでも振り回しそうな雰囲気だったのだが、彼は俺たちにはなにも言わず、黙ってアパートを後にした。


「……なにかあったんでしょうか?」

「さあ、どうだろうね。基本的に僕たちは『互いの事情に深入りしない』のが原則だから。仮に渡辺くんが殺し屋に狙われてるとしても、僕たちには手の出しようがない。うかつに手助けをしてはいけない。それが裏のルールってもんさ」

「…………」


 ちょっと冷たいが、きっと冴木さんの言葉に嘘はないのだろう。ここは俺の常識が通用しない世界。無秩序こそが秩序とまでは言わないけれど、表社会よりも”暴力”が幅を利かせているのが裏社会だ。興味本位で首を突っ込めば、それが身の破滅に繋がることだってあるかもしれない。


「…………潮時、か」


 そのとき、感情を伺わせない平坦な声で、冴木さんはよく分からないことを呟いた。


「え、なにか言いましたか?」

「おや、萩原くんは耳がいいね。聞こえちゃってたか。まあこっちの話だから、気にしないでくれ」


 そう言われてしまうと、俺にはどうしようもない。冴木さんが渡辺さんの事情に深入りしなかったように、俺は冴木さんの事情に深入りしないほうが自然なのだ。この裏社会では。


「萩原くん」


 なんの脈絡もなく、冴木さんは言う。


「君さえよければ、これからも美影ちゃんと仲良くしてあげてくれないか。あの子には恋人はもちろん、世間話を交わせるような友達すらいないからね。きっと萩原くんとの出会いが、美影ちゃんの心境に何らかの変化をもたらすだろう」

「……そうでしょうか? 美影のやつ、確実に俺のことを嫌ってると思いますけど。ついさっきも喧嘩しちゃいましたし」

「それはいいじゃないか。美影ちゃんは、僕たち『住めば都』の住人のことなんて眼中にないからね。嫌ってもらえたり、喧嘩してもらえたりするだけでも、僕にしてみれば信じられない話さ」

「そう言われても素直に喜べないんですけど……」

「ハハハ、まあ萩原くんの気持ちも分かるけどね」


 これから美影と友好な関係を築けるつもりがゼロの俺は、さも愉快げに笑う冴木さんがすこし恨めしく思えた。


「とにかく、だ。美影ちゃんと仲良くしてあげてくれよ、萩原くん」

「はぁ、最低限の努力はしてみます」


 渋々と頷く俺を、冴木さんが満足そうな目で見つめていた。

 それから俺は冴木さんに挨拶をして、近場にあるコンビニに向かった。美影の部屋を出たときよりも、空はいくらか曇っているような気がした。



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